河越城の戦い
1545年冬
北条氏康は白備を伊豆の防衛に残し、小田原衆と黒備の合わせて六千の兵を率いて河越城の救援に向かう。この間、岩槻城の太田資顕が調略に応じたため、岩槻城に圧力を掛けていた青備の精鋭二千も合流し、八千の兵で武蔵狭山に陣を張った。
しかしながら戦力差は如何ともしがたく、古河公方を通じて城兵の助命と城の開城を申し入れた。これに対して連合軍は北条の申し出を却下し、北条氏康は降伏を申し出て詫状を出すに至る。北条の戦意が低いと判断した山内上杉勢は北条勢を挑発。北条氏康は軍勢を府中まで下げた。
西堂丸は江川英元に大量の酒を発注する。この二年の成果で酒の量産体制が整いつつある。
西堂丸の命を受けた二曲輪猪助は下肥回収に従事していた。この頃には難波田陣営にも壺を販売しており、危険料という名目で高額の手数料で回収していたのだ。
ところが手数料の支払いを難波田配下の太田犬之助がごねだした。猪助は「金が払えないのなら回収はやめじゃ。」と啖呵を切り、犬之助の目の前で下肥壺を叩き割った。怒った犬之助と猪助が大騒ぎしながら駆け比べをしている横を、福島綱房がゆうゆうと馬を進め河越城に入城したのだった。
勿論、これは綱房を城内に入れるための策であったが、猪助の騒ぎが大きく誰にも気付かれることはなかった。ついでに壺の回収も打ち切った。
1546年春
山内上杉憲政の陣へ戦勝の前祝として清田内蔵助から大量の酒が献上された。その夜、北条氏康は八千の兵を四隊に分け、多目元忠の黒備二千を待機させ、残りの三隊が馬に枚をふくませ、鎧兜を脱いだ軽装で敵陣に接近。時を同じくして敵陣へ突入した。
富永直政の青備二千は難波田憲重勢に討ち掛かり、難波田憲重とその息子三人と甥を討ち取る。大道寺周勝の小田原衆二千は梁田高助の陣に突入。梁田高助を討ち捨て、そのまま古河公方足利晴氏の陣へと駆け抜けた。
河越城から様子を観ていた北条綱成の黄備三千も打って出る。綱成は「勝った!勝った!」と大音声で駆け回り、上杉朝定を討ち取ったのであった。
北条氏康は馬廻衆二千を率い、山内上杉憲政の陣に突入する。上杉憲政は菅野信方、上原兵庫らの側近と酒を飲み過ぎており、混乱する自陣を立て直すことができず、本間近江守と井俣左近に辛うじて守られている状態であった。
北条氏康は馬廻衆を率い、遮二無二切り込んでいく。本間近江守も井俣左近も討ち取られ、茫然としている上杉憲政の眉間に一本の矢が突き刺さった。
「上杉憲政!討ち取ったり!」声を上げたのは鈴木大学助だった。
長野業正勢が上杉憲政勢の救援に向かうのを察知した多目元忠が法螺貝を吹かせ、全軍を退却させた。首脳陣が壊滅した連合軍は散り散りになって逃げ帰ったのである。
北条勢は河越城に入り、束の間の休息を取る。北条氏康は諸将を労い、すぐさま各地に兵を派遣した。
古河公方館を北条綱成が包囲し、主の居なくなった古河公方重臣梁田氏の関宿城と水海城を接収する。関宿城には大和晴統、水海城には山中盛定が入り、栗林城の野田弘朝が降伏したところで足利晴氏も降伏勧告を受け入れた。
難波田氏の松山城を垪和氏続に接収させ、北条氏康は山内上杉家の本拠地・平井城へ向かった。ところが平井城には上杉勢を纏めた長野業正が入り、上杉憲政の遺児・龍若丸を守っていた。長野業正が徹底抗戦の構えを見せていたので、北条氏康は一旦兵を退くことにしたのだった。
人物紹介
上杉朝定(1525-1546)扇谷上杉家の最後の当主。陣中で病死したとの伝承がある。
難波田憲重(?-1546)扇谷上杉家臣。松山城主。太田資正の舅。
足利晴氏(1508-1560)古河公方。正室は簗田高助の娘。継室は北条氏綱の娘。
簗田高助(1493-1550)古河公方家臣。関宿城主。足利晴氏の舅。
簗田晴助(1524-1594)高助の息。1560年上杉謙信に従い小田原を包囲。古河公方家の反北条派。
本間近江守、井俣左近。山内上杉家臣。北条氏に潜入し内情を伝えたとの伝承がある。
長野業正(1491-1561)山内上杉家臣。箕輪城主。上州の黄斑。娘婿軍団を統率する。




