忠貞の帰還
1544年春 小田原早雲寺 西堂丸
薩摩から忠貞達が帰還したとの知らせが届いた。見慣れぬ三本柱に角型の帆の船に乗って帰ってきたようで、大騒ぎになったそうだ。父上に報告した後、早雲寺に来るそうだ。この春から早雲寺で学ぶこととなっていたのだ。
「西堂丸様、ただいま戻りましてございます。」
「長旅ご苦労であった。皆、達者であったか?明船を観た者達が大騒ぎであったと聞いているぞ。」
「お蔭様で皆元気に帰ってまりました。お騒がせいたしましたが、上々の出来であると御本城様よりお褒めの言葉を頂きました。」
忠貞達は薩摩からジャンク船と呼ばれる明船で帰ってきたのだ。船頭は沈南山という海賊衆で、造船技師と操船に長けた水夫達50名も同行している。父上は大変喜び沈南山を召し抱え、沼津を拠点として水軍を整えるようお命じになったそうだ。
「御本城様はジャンク船を屋久船と呼ぶようにと申されました。屋久船は扱いが和船と違うため、水軍として整えるには訓練が必要になります。当面は交易中心で運用することになりました。羅針盤を備え遠洋航海に向いた船です。安宅船と比べると些か強度は劣りますが、操作性に優れ大きな船を作ることも可能なのです。」
「沈南山とは如何なる人物じゃ?名前からすると明の国の者なのか?」
「いえいえ、南山は私の幼馴染なのです。元は島津家の水軍衆である新納家に連なる者です。私が明に留学した際、共に渡明した学僧でしたが、海賊衆に身を投じたのです。御本城様に申し上げてお許しを頂き、今は新納忠光と名を改めました。」
鉄砲鍛冶の技術も無事に取得できたようだ。山本兄弟は既に5丁の鉄砲を作成し、父上に献上したそうだ。父上は大藤景長の試し撃ちを見分した後、景長に鉄砲隊の運用と山本兄弟に鉄砲作成を命じたそうだ。火薬の製造がまだ試験段階であるので、こちらも実用にはまだ時間がかかるかもしれない。
「西堂丸様、私が留守の間、何か変わったことはございませんでしたか?」
今度はこちらが忠貞に報告する番だ。
「農政は上手くいっているぞ。取れ高にはそれほど影響しなかったが、作業しやすいと皆喜んでおった。今年の試みにも皆協力的じゃ。今年は田植え前から大忙しじゃ。塩水を使い、粒の大きな籾を選別したし、苗の育成も下肥を使った田起こしも順調だそうじゃ。爺は毎日のように田に出かけておるそうじゃ。」
今年は収穫量に期待できる試みが多く、皆も遣り甲斐を感じていると大道寺盛昌から報告が来ている。
冬仕込みの酒造りはまだ成果が出ていない。酒造りの大樽はできたのだが、予想以上の大きさに杜氏の江川英元が驚き、躊躇してしまったのだ。まずは濁り酒で試してみることになり、灰汁で濁りを取れないか研究している最中なのだ。
真田幸綱との手紙も続いている。頻度は10日に一度程に減ったが、他愛も無い話もできるくらいに打ち解けてきている。ただ、真田氏の本家筋である根津氏の娘が武田晴信の側室となり、根津氏が武田家に帰属したそうだ。幸綱も根津氏と頻繁に連絡を取っているようで、油断できない状態になっている。
北条家での祝い事もあった。鶴岡八幡宮の再建である。本殿は4年前に竣工していたが、この度全ての再建が終わり、ようやく元の姿を取り戻したのであった。
父上は大変喜び、祝いの儀式を催した。近隣の大名にも手紙を送り、古河公方足利氏や千葉氏が参列したそうだ。使者を遣わした家も多かったが、扇谷上杉氏と山内上杉氏からは家臣の家から手紙が来た程度で、両上杉氏は沈黙をしており、緊迫度は上がってきているのかもしれない。
人物紹介
沈南山(?)楊哥に拠点を持つ嘉靖大倭寇期の海賊。
新納氏(*)島津日新斎の母(常盤)の実家。水軍を率いる将を散見する。




