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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
117/117

いざ、京都へ。その八(襲撃)

 1569年夏 京都 北条氏親


 朝廷工作が一段落したので、宇治に行こうと思い立った。宇治にはお絹殿の相模屋と舅殿の新陰流道場がある。お絹殿は日を置かず訪ねて来ているし、舅殿は護衛として近侍している。けれども彼らが普段どんな生活をしているのかが気になってしまったのだ。


 警戒はしていた心算であったが足りなかったようだ。ここは北条家の治める関東では無く、争いの絶えない畿内だという事を改めて認識させられる結果となってしまった。襲撃を受けたのは巨椋池の東側を南下し宇治を目指している道中であった。最初に異変を感じ取ったのはやはり舅殿であった。


「武蔵守様、芦の原から鳥の声が聞こえませぬ。嫌な予感が致します」


 舅殿の言葉が呼び水となったかのように、芦の原から二十頭を超える野犬の群れが襲い掛かってきた。護衛の数は二百名程であったが、隊列は長く伸びており不意を突かれて浮き足立っていた。すぐに反応したのは舅殿であった。


「犬は囮じゃ、惑わされるでない。文五郎、武蔵守様の側を離れるなよ」


 舅殿と疋田景兼が左右を固めて、新陰流の門弟達が方陣を敷いたその時、野犬の背後から三十名程の牢人者が抜刀して躍り出してきた。すぐさま疋田景兼が進み出て、先頭を走る牢人者を一刀の下に斬り伏せた。牢人衆は門弟達によって瞬く間に討取られていったが、牢人衆は奥の手を残していた。三人の牢人者が子供の頭程の壷に縄を付けて振り回し、次々に投擲してきたのである。


 火縄のついた壷は地面に落ちると中の油をぶちまけて燃え広がった。焙烙玉ならぬ火炎瓶であったのだ。小姓から弓を奪い取って、牢人者に狙いを定めて弓を弾いた。矢を受けた牢人者はもんどりうって倒れた拍子に、振り回していた壷が割れて火だるまとなっていた。


「お見事、武蔵守様の弓術も中々のものですな」


「咄嗟にやった事だが巧くいったようじゃな」


 舅殿程の武芸者に拙い弓術を褒められると気恥ずかしさの方が先に立つ。大将が弓を取る事態を引き起こした事は反省しなければならないからだ。舅殿は上半身裸であった、飛び散った油によって羽織が燃えてしまったのだ。


 舅殿に笑顔を向けたその時、ダダダーンという銃声が聞こえたのと同時に左足の脹脛に焼けるような痛みを覚えた。撃たれた痛みに目の前が真っ暗となり、そのまま意識を手放した。


 ◇◇


 意識を取り戻した時に最初に目に入ったのは泣き腫らしたお絹殿の顔であった。「痛っ」身を起こそうした刹那、左足に鋭い痛みが走った。


「武蔵守様、気が付いたのかい。良かった」


「お絹殿か、儂は撃たれたようじゃな。ここは相模屋なのか」


「ええ、そうですよ。武蔵守様が意識を失って運び込まれてきたんです。あたしは肝が潰れる思いがしましたよ。足の傷は痛みますか」


 お絹殿を安心させようと「大事ない」と答えたものの膝から下に焼けるような痛みがあった。撃たれた際に弾丸は足に残っていたらしい。舅殿は傷の様子を観ると、すぐさま弾痕に沿って一刀のもとに傷口を開き、銃弾を取り除いてくれたそうだ。


「傷口が開くといけないから横になっていてくださいな」


 お絹殿の言葉に頷いて再び目を閉じたのである。



 1569年夏 宇治 相模屋 風間小一郎


 武蔵守様が襲撃されて、相模屋に運び込まれてから五日が過ぎました。京都の近衛邸から北条家の方々が殺気立った様子で大勢駆けつけて来た事で一時は騒然となりました。私も松山の義父上や帯刀様に事情を説明して、伊勢様の軍勢が相模屋の周囲を護る事の了解を得たりと巻き込まれてしまいました。


「小一郎様、女将様から二階の部屋に来るようにとのことです」


 声を掛けてきたのは武蔵守様の小姓に取り立てられた石田佐吉でした。


「おう佐吉か。二階には北条家の方々が居られる。私が行っても大丈夫なのであろうか」


 二階の奥の間では武蔵守様が療養しているので、相模屋の者は近づかないように言われておりました。しかし、呼ばれているのであれば行かない訳にはいきません。階段を上がり、佐吉に案内されたお部屋には女将さんだけでなく武蔵守様も居られたのです。


 武蔵守様は大怪我を負い運び込まれたと聞いておりました。しかし、目の前にいる武蔵守様は女将さんと楽しげに談笑していたのです。私は慌てて平伏してお言葉を待ったのです。


「おおっ小一郎であるか、息災のようじゃな。無礼講である面を上げて気楽にせよ」


 武蔵守様には江戸から上京する際に、一度だけお目通りしたことがありました。その時と同様、気さくに声を掛けられた事に驚かされます。


「皆には心配を掛けたようじゃな。この通り元気にしておる」


「何が元気なものですか。昨日も動こうとして傷口が開いたばかりじゃありませんか。傷口から悪い気が入ったんじゃないかと肝を冷やしましたよ」


 女将さんが顔を真っ赤にして怒っています。武蔵守様はまあまあと女将さんを宥めようとしましたが、女将さんの怒りは収まらないようでした。武蔵守様の怪我は命に係わるようなものではありませんが、それでも長期の療養が必要なようです。


「武蔵守様の突飛な行動は昔からの事ですけどね。お護りする者達の事も考えてくださいな」


 今回の襲撃は武蔵守様を護る風間衆の失態となりました。しかし、当初は武蔵守様が宇治に来る予定ではなかったようです。急な予定変更にも対応するのが護衛の役目ではありますが、女将さんは予定変更の理由にご立腹のようでした。


「公家衆の対応が面倒だからといって、金吾様(上杉輝憲)に丸投げして逃げただけじゃありませんか」


「お絹殿も酷い言いようじゃな。親王様を関東にお迎えするまでの協議は済ませておるぞ。本当に大変だったのだ。あとは蹴鞠と歌会の誘いばかりだから問題なかろう」


 大大名である武蔵守様が、女将さんに対して必死に言い訳している様子は奇妙な感じがしましたが、お二人の間には親愛の情が感じられて微笑ましく思えました。関東に親王様をお迎えする協議は難航したのだそうです。朝廷では前例のない事を行うのは困難なのです。


 親王様をお迎えする鎌倉宮の規模と格式を決める際に、武蔵守様は斎宮寮を模範にするべしとのお考えだったようです。斎宮寮はかつて伊勢神宮に奉仕していた皇女斎王の世話を職掌としており、鶴岡八幡宮と鎌倉五山を統括するには十分だと思われました。


 これに対して朝廷側の提案は鎮西の大宰府を範とし、【帥・弐・監・典】の四等官を配した鎮東の府を置きたいというものでした。この構想は誠仁親王様によるものであったようです。関東の政に関与するべきではないかという武蔵守様の問い掛けに着想を得たとのことでした。


 しかし、模範とすべき大宰府は南北朝の争いで荒廃し、大内義隆が太宰大弐に就きましたが大内氏の滅亡により、大宰府は実態を失っています。更に受け入れる北条家としても、幕府との調停や準備をする期間と資金が必要な大事業なのです。


「今回は時期尚早であると納得していただいた。されど、誠仁親王様の肝入りであるゆえ、話を蒸し返されるやもしれぬ。危うきに近寄らずという事だ」


「折角、お公家衆が北条家を頼りとしているのですから、恩を売っておいたらいいじゃありませんか」


「朝廷をお支えする余力が無い訳ではないが、関東を畿内よりも富ます事の方が大事なのだ。畿内の事は畿内の者に任せたい。それよりも折角、小一郎を呼んだのだから畿内の様子や織田信長の話が聞きたい」


 武蔵守様は織田信長様に関心を寄せられているようでした。織田様に対面したのは一度だけでしたが、その時の様子を聞きたがったのです。更に織田家の家臣衆の事まで詳しく説明する事になりました。武蔵守様は夢中になって私の話を聞いています。あまりの夢中さに女将さんが呆れた顔になった程です。


「ふう、武蔵守様の織田家に対する執着は異常ですよ。相模屋の持ってる情報より詳しいところもあるじゃありませんか。やはり今後の政は織田家を中心に動くとお考えですか」


「うむ、勢いのある所には人も金も集まるものじゃ。織田家は幕府の権威を背景に急速に拡大するであろうな。相模屋も織田家の動きに注視してくれ」


 そう言うと武蔵守様は織田家の動向予想を語り出しました。織田家の伊勢侵攻において、北畠具教(とものり)は本拠地の霧山城を一族の北畠政成に任せて、前線の要害大河内城に入り織田勢を迎え撃ちました。織田勢は大河内城を包囲したものの硬直状態に陥っていたのです。


「織田様は北畠家を討伐するまで戦うのでしょうか」という私の問いかけに武蔵守様は難しい顔をされました。


「大軍勢で一気に揉み潰す心算であったのだろうが、北畠家の抵抗に目論見通りに進んでおらぬ。こうなると大軍勢が負担となる。いずれ講和となろう。伊勢守殿から聞いたのだが、公方様も朝廷に仲介を頼んだそうだ」


「では此度の戦は失敗なのでしょうか」

 

「いや、伊勢北部が織田家とものとなれば、戦果としては十分だ」


 織田家の喫緊の課題は京と岐阜や尾張を結ぶ地域の安定であり、それには六角氏の排除が必須なのだそうです。六角氏を支えていた六宿老のうち、三雲成持を除く五人は既に織田方の軍門に下っています。目賀田忠朝と平井定武は浅井家に属し、蒲生賢秀、後藤高治、進藤賢盛の三人は織田家に臣従しています。


「伊勢侵攻もその一環であるように思う。伊勢北部が織田家の領国となれば、甲賀に逃れた六角氏には逃げ場が無い。袋に詰められた小豆のようなものだ。六角氏の討伐が成れば、織田家は畿内で頭一つ抜けた存在となろう」


 武蔵守様の口振りには織田家の拡大に危機感を抱いているような雰囲気がありました。女将さんもそれに気が付いたようです。


「武蔵守様は織田家の矛先が三河に向かうと考えているのかい」


「いや、三河は係争の地ではあるが、織田信長の目は畿内に向いておる。それに幕府の重鎮として伊勢守殿が居られるゆえ、仲立ちを頼む事も出来よう」


「それなら、何が気になってるんだい」


「幕府と織田家の関係が今後どうなるかが読めぬ」


 上洛に協力した織田家が掌を返すとは思えませんでした。それでも諸勢力の均衡を保とうとする幕府と急拡大する織田家の利害が一致しなくなる事を、武蔵守様は懸念しているのです。私から織田信長様の為人を聞き出そうとした意図もそこにはあったようです。


「織田様と公方様が仲違いするとお考えなのでしょうか」


「幕府権威の根幹は諸大名や公家衆・寺社からの訴訟を解決する強制力にある。幕府の裁定を不服とした者達が織田を頼り、幕府の裁定を覆そうとするのだよ」


 先の公方様は政所執事であった伊勢貞孝様を排して将軍親政を推し進めました。訴訟に際しては幕臣にも忖度しない公正な伊勢貞孝様の態度が幕臣に疎まれていたのです。しかし、いざ親政となると経験不足による訴訟の処理遅延や幕臣に有利な理不尽な裁決となった事例もあり、返って幕府の権威低下を招いたのです。


「伊勢守殿も危惧しているゆえ、公正な裁定とその強制力となる奉公衆の充実に腐心している。相模屋にも伊勢守殿をお支えして欲しい」


「言われるまでもありませんよ。相模屋にとって伊勢様は一番のお得意先ですからね」


 武蔵守様の心配を払拭するかのように女将さんが請け負いました。


「心配事ばかりでは老けてしまいますよ。そうだ小一郎、見所のある牢人者は見つかったのかい。良い武者がいたら武蔵守様にも召し抱えて頂けるかもしれないよ」


 畿内では戦が絶えず、武家の興亡は常にあります。その度に多くの牢人者が出るのです。これまでも多くの牢人達を相模屋で雇い入れて佐渡に送ったり、松山様や松永様にも推薦していたのです。特に織田家の上洛では六角家の旧臣が大量の牢人となっていました。武蔵守様も興味を惹かれた様子です。


「織田家の上洛に最後まで抵抗した主な国衆は、元守護代の馬淵建綱、箕作城主の建部秀清、瀬田城主の山岡景隆、肥田城主の高野瀬秀隆、鯰江党の鯰江定秀といったところです。中には山岡家のように当主の交替を条件に許された家もあります」


「近江は京に近いゆえ、国衆と言えども幕府や朝廷と繋がりを持つ家が多い。役に立ちそうな者はあったか」


「はい、箕作城で討死した建部秀清の次男で【建部与八郎】、鯰江党の【鯰江吉成】、山岡景隆の家臣であった【山内伊右衛門・次郎右衛門】兄弟といった者達が仕官先を求めております」


 私の挙げた者達の中に、武蔵守様の琴線に触れた名があったようです。


「小一郎、山内と申す者は尾張者ではないのか、岩倉織田の家老の縁者であろう。しかし、岩倉織田の旧臣は信長の軍門に降ったと聞いていたぞ」


 武蔵守様の知る通り、岩倉織田家は伊勢守家を称し尾張上四郡の守護代であった家です。その家臣であった稲田家(蜂須賀党)、前野家、堀尾家は信長様に仕えたようですが、山内家は織田に降るのを良しとせず牢人となって近江山岡家に仕えていたのです。


「織田家に対して含む物がある者達なので、何方に紹介するか迷っているのです。佐渡風間家にて雇い入れたかったのですが、都落ちとなる事に難色を示しているのです」


「なるほどな、佐渡は配流の地であったゆえ躊躇するのも仕方あるまい。それに藤吉郎の出自の事もある。有能な与力を付けてやりたいとは思っておったが、進んで志願する者もおらぬ」


「はい、兄者からも見所がある者ならばいくらでも雇い入れると文に書いてございました。金山の開発や交易路の開拓と猫の手も借りたい程なのだそうです」


 兄者も能登や越中から流れて来た牢人衆を掻き集めているようですが、関東では信濃川と利根川の治水事業と並行して新田開発も行われております。人足を指揮できる者達は喉から手が出る程に欲しい、貴重な存在なのです。


「藤吉郎や風間衆には苦労を掛けているようだな。その者達は儂が直臣として取り立てよう、その上で藤吉郎の与力とするのはどうだ」


「よろしいのですか。それならば首肯する者もあるかとは思いますが」


 武蔵守様は兄者を大事な家臣であると仰せでした。牢人者達と直に面接するとまで言って下さったのですが、女将さんから軽々しい行いはするなと叱られておりました。それでも直臣とするのだからと風間衆と同席の上で面談する事を女将さんに納得させてしまいました。


「小一郎、織田家の拡大によって更に牢人者は増えるであろう。織田の支配領域が広がれば、北条家が四代に亘り構築したような体制を僅かな時間で成し遂げようとすることになる。そうなれば織田の家中においても軋轢がでよう。僅かな綻びも見逃してはならぬぞ」


 武蔵守様の仰せの通りかもしれません。織田家では激しい出世争いがあるのです。滝川一益様が北伊勢の旗頭を任されるという噂で、塙直政様も更に奮起していると帯刀様から聞いております。武蔵守様は八幡様のお告げだと申されて、気に掛かっている者達の名を教えて下さいました。予言染みた印象でしたが、女将さんは神妙な顔になり、必ず調べますと請け負ったのです。

~お詫び&活動報告~

久々の投稿となりました、申し訳ありません。副業で始めた安全衛生関係の講習講師に思いの外需要がありまして……『働き方改革?なにそれ美味しいの?』という状態でした。それに一度筆を置くと中々書き進めない感じですね。何とか続けて行きたいとは思っております。


~人物紹介~

山内一豊(1545-1605)伊右衛門。岩倉織田家家老山内盛豊の子。弟に康豊。後の土佐藩主。

毛利勝信(1548頃-1611)鯰江・森・毛利。吉成。黄幌衆。文禄の役では四番隊旗頭。

建部寿徳(1536-1607)与八郎。物流を司る吏僚。小浜郡代や尼崎城代を歴任。


~織田家と甲賀衆についての考察~

織田家には甲賀に由来を持つと思われる武将が多くいます。岩室・佐治・池田・多喜・服部などです。特に織田信秀の側室には岩室殿や養徳院(池田氏)の名が見えます。織田家と甲賀衆の関わりは1479年の【鈎の陣】まで遡るのかもしれません。


鈎の陣は将軍家と六角家の争いです。信長の祖先?とされる織田敏定は斯波氏に従い将軍方として鈎の陣に参戦しています。この戦で六角方として活躍した甲賀衆が甲賀二十一家です。前述の岩室氏などは二十一家に含まれています。また、この戦の際に斯波氏(織田氏)と朝倉氏の因縁も見る事ができます。


織田弾正忠家は朝廷に対して多くの献金をしていますが、その際の流通路として甲賀衆とも交流があったのかもしれませんね。岩室重休・佐治信方・池田恒興・滝川一益・中村一氏・服部小平太らは初期信長の腹心とも言える存在です。六角氏と結びつきの強い甲賀衆ですが、織田氏にも深い関わりがあったのかもしれません。







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― 新着の感想 ―
[一言] 桶狭間の戦いに六角からの援軍があったという説を聴きました。
[良い点] 久しぶりの更新ありがとうございます。 作者様はご健勝そうですし、主人公も大事には至らなそうなので安心しました(笑)。 [気になる点] 山岡家は、この頃は山岡景隆は松永久秀の元に亡命してい…
[良い点] 久方ぶりの投稿でとても嬉しかったです。 今回の襲撃事件の経緯は反乱を起こしたまたは不穏な動きをしている勢力にとっても一喜一憂する事態でしょうが、現代と違い情報の伝達が遅い上に正確に欠ける時…
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