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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
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更なる不穏な動向

 1569年夏 下総国猿島(さしま)郡 菅谷政貞


 猿島台地を穿つように一筋の水路となる道が掘られていました。赤堀と名付けられたこの堀を通水させる事によって、利根川を分水させて香取海へと繋ぐ新川となるのです。この利根川東遷は水運の整備と武蔵国の治水を目的とした北条家の威信を掛けた事業でありました。治水奉行の荒木親治様が宰領となり、多くの国衆が動員されていたのです。小田家でも御屋形様である小田氏治様が自ら陣頭指揮を執り作事にあたっています。


「おーい。にぎり飯が届いておるぞ。たっぷり塩を効かせてあるゆえ、交替で休みを取るのじゃ」


 騒がしい中であっても良く響く御屋形様の大声が聞こえてきました。北条家では重労働である賦役や軍務の際には昼に屯食(とんじき)が振る舞われる事になっているのです。賦役は国人や領民の義務として無償で行われますが、この治水事業に関しては、北条家から糧食の支給や成果の高い者達への報償があるなど手厚い支援がありました。


「こらっ、次郎大夫。にぎり飯は一人一つと言っておろうが」


「御屋形様、殺生な、某は体が大きいので一つでは足りませぬ。見逃して下され」


「仕方のない奴じゃな。その代わり人の倍働くのだぞ」


 御屋形様は口では厳しい事をいいながらも、楽しそうに笑いながら許しています。御屋形様の周りには領民達も集まり、楽しそうな笑い声が聞こえていたのです。楽しそうな雰囲気に水を差すのは心苦しと思いながらも御屋形様の元へと急いだのです。


「おう、政貞ではないか。いつ江戸から戻ったのじゃ。彦太郎は息災であったか」


「先程こちらに着いたばかりです。若様は志学院にて良く学んでおられる様子でした。同世代の者達と共に学び得難き刺激を受けたようにございます」


 彦太郎様の様子を伝えると御屋形様はうれしそうな笑顔となったのです。志学院には北条一門や重臣の子弟だけでなく、国人衆の子弟も大勢学んでおります。小田家と共に関東八屋形と称された小山家や皆川家、千葉家の子弟らが必死に学んでいる姿を見て、彦太郎様も思うところがあったようです。


「そうか心細い思いをしていないか心配していたのじゃ。まずは一安心じゃな」


「はい、されど小太郎様はここには居られぬのでしょうか」


 小太郎様の不在を質すと御屋形様は苦しそうな表情となりました。御屋形様には二人の御子息がいます。庶長子で齢二十一の【小田小太郎友治】様とまだ幼い嫡子の【彦太郎】様です。小太郎様が産まれた際に、大喜びした御屋形様が「儂の嫡男じゃ」と言った事で、舅の芳賀貞利がその気になってしまいました。


 その後、正室との間に彦太郎様が誕生しましたが家中には小太郎様を推す勢力もあり、中途半端な状態が続いていたのです。北条家に従ってから程なくして、志学院の設立に合わせて小田家からも子弟を送り出す事になりました。


 御屋形様は当初小太郎様を送るつもりでしたが、北条家の意向で元服前の幼い彦太郎様が江戸へ行くこととなりました。しかし、御屋形様が小太郎様を江戸に送ろうとした事が、御屋形様の失言で家中に広まり、小太郎様の耳に入った事で御屋形様との関係が悪化していたのです。


「先月までは居ったのじゃが、体調が悪いと申して小田城に戻っておる。どうやら作事を厭うておるようで嘆かわしい事じゃ」


「申し上げ難いのですが、小太郎様に叛意があるのではないかと、江戸の評定衆から某に詰問がありました。得体の知れぬ透破者が小田城に出入りしているというのです」


 北条家から疑われていると聞いて御屋形様の顔から血の気が失われたように蒼白となりました。


「小太郎がそのような馬鹿な真似をする訳がない。信太(しだの)範勝も小太郎が心配だからと儂との仲を取り持つと申し出ておる。範勝からの報せを待っておったのじゃ」


「江戸の評定衆は信太衆も不信な動きがあると仰せでした。急いで小田城に参りましょう」


 渋る御屋形様を説得し小田城に向かう途中で、小太郎様が真壁勢を小田城に引き入れたとの報せが入りました。一先ず土浦城に入り小田城の様子を伺いながら対峙する事になったのです。小太郎様の使者として土浦城に現れたのは【真壁久幹(ひさもと)】でありました。


「真壁の当主自らお出ましとは首を晒す事になるとは思わなかったのか。このように兵を興して北条家に介入されることになったら何とする」


 御屋形様は不機嫌な顔を隠そうともせずに真壁久幹に言い放ちました。真壁久幹は笑みを浮かべながら御屋形様の言葉を受け流していたのです。


「まあ、そういきり立つな。既に家督は氏幹に譲っておるので儂は気楽な隠居じゃ。儂等は小田家で家督争いが起こるのではないかと心配しておるのだ。佐竹義重殿が間に入ると仰せである。小田殿も良い歳であるのだから儂と同様に隠居してはどうじゃ」


「儂はまだ隠居するような歳ではないぞ」


 真壁久幹は小田家の家督が定まらぬのは当地の不安であると御屋形様を嗜めるように言うと、佐竹義重の提案を語りだした。小太郎様と彦太郎様のどちらかを選ぶのではなく、氏治様の目の届く内に小太郎様に家督を譲り時期を見て小太郎様から彦太郎様へと家督継承を行ってはどうかというものでした。


「仮に小太郎に家督を譲ったとして、小太郎が彦太郎へ家督を譲らぬと言ったら如何するのじゃ」


「その時こそ北条家の裁定を仰げば良いのだ。常陸国の安定こそが北条家の望むところであろう。佐竹義重殿は北条家を支える一翼として共に栄えたいとお考えである」


「調子の良い事を申すものじゃ。小田家を江戸家と同じように佐竹の傀儡とするつもりであろう」


 常陸府中の江戸家では先年、当主の江戸通政が身罷り、嫡子江戸重通が僅か九歳で家督を継ぐ事になりました。重通の烏帽子親となり後ろ盾となったのが佐竹義重です。義重は北条家に従属している立場を取りながら、武力を用いず政略で佐竹家の影響力を常陸国中に拡げていたのです。


 佐竹義重の動きは北条家や結城家に警戒される事となりましたが、義重は妹の南殿を正木氏時様の側室に送り込む事に成功し、正木氏時様の取り成しで常陸方面旗頭の地位を確立していったのです。


「傀儡とは酷い申し様じゃな。小太郎殿は小田の当主として申し分ない器量に思える。小田家の嫡子が定まらぬ事に関しては佐竹義重殿からも北条家へ上奏される事になろう。良くお考えになることじゃ」


 真壁久幹が去ると御屋形様は怒りを露わにして小田城を攻めると言い出しました。ここで内紛となっては間違いなく北条家が介入して来ます。御屋形様を必死になだめて、結城朝秀様へ事の次第を伝える文を書いていただいたのです。


 ◆◆


 1569年夏 江戸城 箱庭の間 北条氏政


 父上が上方で大怪我を負ったという報せに肝を冷やしました。詳しい報せはまだ届いておりませんが【命に別状はない】という鳩便が届き胸を撫で下ろしたのです。しかし、各地で国人衆達の不穏な動きが伝えられて、私は幻庵様と綱成大叔父と共に箱庭の間にて詰める事になったのです。


「老公様、小田家の家督はどう判断するのがよろしいでしょうか」


「結城と正木で意見が分かれておる。御本城様がお帰りになるまで保留とするしかあるまい」


 慎重な幻庵様に対して綱成大叔父は佐竹に翻弄されているようで面白くないようであった。


「佐竹の強かさは厄介じゃな。佐竹の所領が増えた訳でもないのに、(うつろ)を通して佐竹が影響力を高めて、侮り難い勢力となっておる」


「大叔父様は佐竹の策略だと思われますのか。討伐するべきでしょうか」


「そうしたいのは山々だが、北条家に従属する姿勢は崩しておらぬ。討伐するにしても大義名分が無ければ他の国衆の信を失うであろう」


「真壁が小田城に兵を入れたのは問題ではありませんか」


 幻庵様と大叔父様の見解は問題ではあるが北条家に対する反逆の意思が認められず、国衆の内輪の争いの域を出ないというものでした。ただ大叔父様は「佐竹がいつまで自重していられるか見物(みもの)じゃな」と不敵な笑顔を浮かべました。問題は小田家だけではありません。急を要する問題は白河結城家にも興っていたのです。


「白河結城重高が家臣の佐藤忠秀の手の者に弑された。小峰義親が結城家の家督を僭称し白河城を横領しておる」


 幻庵様の報告に大叔父様は「ほう。重高は小山兄弟に次兄であったか」と目つきを鋭くさせると幻庵様に話の続きを促しました。下野国を平定する過程で小山家の活躍が目覚ましく、小山家は下野国北部の旗頭として権勢を振るうに至りました。しかし、旧那須家の国衆はそれを面白く思っていなかったのです。


「小峰義親に大関高増、福原資孝、大田原綱清、千本資政らが与した。更に那須資胤の遺児が生きていたようだ。那須旧臣の佐久山義隆や伊王野資宗、芦野資泰が那須復興を掲げて蜂起しておる」


「それほどなのですか、小山は大丈夫なのでしょうか」


 私の問い掛けに大叔父様も思案顔となっております。


「些か厳しかろう。小田家の備えも考えると結城衆を出すのは避けたい。東上野衆の由良殿と河越衆の成田殿に与力させるべきやもしれぬな。幻庵様、宇都宮勢の動きは如何でしょう」


「宇都宮は大人しくしているようじゃ。先の日光二荒山の変にも、僧兵に北条方となるように働きかけておった」


 宇都宮家の当主であった宇都宮広綱は武家としての野心を棄て、宇都宮二荒山神社の神職となっていました。私の初陣となった日光二荒山神社の蜂起にも同調せずに北条方として働いていたそうです。


「江戸から兵を出さなくても宜しいのでしょうか」


「出したいところではあるが、武田の動きが気になっておる。長岡の氏元から警戒すべしとの文が届いたのじゃ」


 毛利氏元は綱成大叔父の子で越後方面の旗頭である。揚北衆が武田家と頻繁に文のやり取りがあるようだと長岡から報告があったそうだ。幻庵様も武田の怪しい動きを掴んでいた。幻庵様の娘は柏崎武田豊信に嫁いており、武田家から武田豊信に対して従属せよと恫喝ともとれる内容の文が届いたというのである。


「武田豊信は武田家の一門ではあるが分家にあらずと抗議しているようじゃ。評定衆も武田透破衆の動きを怪しんでおる。下手すると武田と手切れとなるかもしれぬな」


「ふん、武田は坊主共に唆されたようじゃな。武田への備えを怠らず。揚北衆、那須衆に対応しなければならぬ。佐竹が馬脚を現す事も考えねばならぬな」


「お二人はどうしてそう落ち着いていられるのでしょうか。父上も居られぬ時に大事ではありませぬか」


 私の焦りをなだめるように幻庵様が優しく答えてくださいました。かつて北条家は何度も敵に包囲網を敷かれたことがあったそうです。それらの時に比べれば今回の包囲網は支城の方面軍で対処できる規模であり、唯一の懸念は武田家の動向だけだというのです。


「万一、武田の襲来となれば綱成が軍を率いて相対します。身共が若様の傍らにあって江戸から総指揮を執りますゆえ、御本城様が帰国するまでの時は十分に稼ぐ事ができましょう。御安心下され」


 父上は北条家の周囲全てが敵になった場合をも想定して、幻庵様と綱成大叔父上に留守を託していたのです。私がもっとしっかりしていればと悔しく思いましたが、ようやく落ち着いて対処できる気がしたのです。


 ◆◆


 1569年夏 越後国蒲原郡木場城 山吉孫次郎豊守


 某は樋口兼豊殿旗下の越後衆として務めを果たして参りました。某が北条幻庵様に呼ばれたのは十日程前の事でした。そして幻庵様の口から思いがけない言葉を聞いたのです。


「揚北衆が信濃川分水の賦役を怠っており、不穏な動きがある。三条衆も同調する噂があるが、其の方は何か知っておらぬか」


 我が山吉家は長尾輝虎様の出身母体である三条長尾家の家宰を務める家柄でした。上田長尾家における樋口家と同様の立ち位置であったのです。山吉家の現当主は兄の山吉孫四郎景久で、三条衆のまとめ役として蒲原郡木場城に居を構えております。同席していた樋口兼豊殿からも「共に喜平次様を支える者として、三条衆も馬鹿な事を考えないように釘を刺して欲しい」と頼まれたのです。


 越後長尾家の滅亡に伴い、三条長尾家も消滅してしまいました。三条衆は長尾輝虎様の指示で加茂御所をお守りしていたせいで、春日山城落城の際に輝虎様の元には居られなかったのです。某は三条長尾家の復興を長尾景勝様に託すことにしました。三条衆の中には上田衆の景勝様に従う事を善しとしない者もいますが、三条長尾家の血を最も濃く受け継いでいるも長尾喜平次景勝様なのです。


 三条衆が揚北衆に与して弓引くとなれば、仙洞院様が悲しまれる事になるでしょう。越後長尾家の再興に向けて、歯を食いしばっている景勝様の為にも三条衆の動向を確かめねばならなかったのです。私は昼夜問わず馬を走らせて木場城に向かいました。某が木場城に着いた時には三条衆の主な面々が兄上を取り囲むように並び、某に対して敵意の籠った眼差しを向けていたのです。


「兄上、これは如何なる事でしょう。孫五郎も何故ここに居る。そなたの務めは信濃川の治水における、山吉家の賦役の宰領ではないか」


 私は居並ぶ面々に対して、問い質したのです。特に弟の孫五郎景長が賦役を放棄している事が江戸でも問題になっていたからです。


「孫五郎は儂が呼んだのだ。孫次郎の方こそ呼ばれもしないのに江戸を離れているではないか。上田衆に媚び諂うなど、三条衆としての誇りはどうした」


「春日山城の落城と共に三条長尾家は滅びました。兄上も三条家の再興を喜平次様に託すと仰せだったではありませんか。いったい何があったのです」


「孫次郎は輝虎様が生きておられる事を知っていたのか」


 兄上は某に鋭い視線を向けたまま、静かに問い質しました。


「……はい。仙洞院様から伺いました。京の直江殿から仙洞院様に文が届いたそうです。されど輝虎様の御心を惑わせてはならぬと仙洞院様から口止めされておりました」


 某の答えに場の空気が緊張を孕むものとなりました。兄上は静かに回りの者達を制して「そうか」とつぶやいたのです。


「河田長親が諏訪におる公方様の使いとして参っておった。諏訪の公方様は輝虎様の再起を望んでいる。金津の爺様が輝虎様にお帰りいただくと言って上方に向かった。輝虎様が御戻り下さるかは正直解らぬが、もし、御戻りになれれたなら揚北衆と共に我等は立つ所存だ」


 金津義旧(よしもと)の妻が上杉輝虎様の乳母を務めた事から、金津義旧は三条衆の中でも輝虎様から格別の扱いを受けていた。きっと連れ戻せると考えているようだ。しかし、兄上は仏門に帰依した輝虎様が還俗するかどうか確信が持てず悩んでいるようであった。


「兄上、軒猿衆の口車に乗ってはなりませぬ。輝虎様の為人(ひととなり)を知る者として還俗されるとは思えぬのです。諏訪の公方様も加茂御所を御護りしていた我等を見棄てて、我らの知らぬ間に春日山城に逃げたような御方です。信頼できる御方ではありませぬ」


「信頼できぬのは北条も同じだ。それに喜平次様はどうした。喜平次様が上田だけでなく、三条の再興も望むのであれば我等の前にも姿を見せるのが筋ではないか」


「喜平次様は来なかったのではありませぬ。北条様の上洛に伴い、仙洞院様と共に上洛しているゆえ来られなかったのです。決して三条衆を蔑ろにしている訳ではないのです」


 仙洞院様の意向や某に対する景勝様の心遣いから三条衆を尊重している事を伝えました。兄上達は蔑ろにされていない事を知ると少し態度を軟化させたのです。更に北条家家中において景勝様が一目置かれる存在になっていることや、その切っ掛けとなった遠江設楽ヶ原での活躍が輝虎様を髣髴させること。年若い景勝様が奮闘している様子を伝えたのです。


「喜平次様に見所が有るというのは良く解った。喜平次様が長尾家を再興し孫次郎が支えたいと申すのであれば一門衆総出でお支えするのもやぶさかではない。ただし、輝虎様が立つとなれば話しは別だ」


「勿論です。輝虎様が立つのであれば某も馳せ参じましょう。しかし、虚報に惑わされての暴発は決してせぬと約束して下され。三条衆は長尾家の家宰であって、報償次第で従属先を決めようとする他の国衆とは立場が違うのです。お忘れ無きよう願います」


 上田長尾家の再興の為に尽力している樋口家と同様に、三条長尾家が飛躍する為に力を尽くすのが家宰山吉家としての役割なのです。喜平次様に三条長尾家も再興させる意思がある以上、某は喜平次様をお支えしたいのです。兄上も輝虎様の復帰には懐疑的だったようで、揚北衆が蜂起しても三条衆は加わらないと約束して下さいました。


 三条衆の蜂起は止められましたが、軒猿衆の調略は揚北衆全体に浸透しているようです。武辺者の多い揚北衆は治水の作事ばかりで報償を得られない事や、大熊朝秀に監督される事を苦々しく感じていて、不満は解消できない水準にまで高まっているようです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 史実では一貫して反北条を通した佐竹義重なので、本作でも中途半端に北条家と姻戚関係を結んで内部撹乱をする様な小細工はせず、反北条レジスタンスを支援したりするなど、真っ向勝負を挑む様な反北条の…
[一言] 佐竹が妹を側室に送りこんだということは、北条政権転覆ではなく、政権内で勢力拡大を図ろうとしている? 江戸氏は北条に佐竹が服属した際に、同様に傘下に入って佐竹とは同格の寄騎大名的立場だと思って…
[良い点] やっぱり謙信は春日山城内に抜け道(隠し通路)を掘っていて、そこから脱出したのでしょうかね? 景勝が上田長尾家だけでなく、父の仇である三条(府中)長尾家の再興の意図を持っているというのであれ…
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