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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
115/117

不穏な動向

 1569年夏 駿府 北条氏康


 寿桂尼殿が他界してから一年が過ぎた。今川範康の後見として駿府に留まっているが、今川家における寿桂尼殿の存在の大きさを実感する日々だ。寿桂尼殿は京の公家衆にも顔が効き、武田晴信と三条の方の縁談を取り持った経緯が有る。女性ながらも今川家における他国との取次役でもあったのだ。


 寿桂尼殿を失ってから武田家との関係が希薄になっている。更に今川家中において武田信虎殿の発言力が強くなっている事で、甲斐武田家が警戒を強めているようだ。


「お爺様、一大事です」


 (おとな)いの使者も無く、慌てた様子で現れたのは今川彦五郎範康であった。付き従う供の者達も慌てた様子である。


「これこれ、お館様ともあろうお方が慌てていては家臣が動揺するではないか。周りの大人達もお館様と一緒になって慌てていてはならぬぞ」


 彦五郎はまだ幼いとはいえ今川家の当主である。周りがしっかりと支えなければ国人衆に侮られてしまいかねないのだ。側衆が窘められて俯いてしまったが、彦五郎は構わず言葉を続けた。


「お爺様の仰せはもっともですが、本当に大変なのです。甲斐国から今川長徳殿と武田に嫁いでいた叔母上が落ち延びて来たと報せが入ったのです」


「なんじゃと。お竹が落ち延びるなど一大事ではないか、詳しい様子は解っておらぬのか」


「詳細はお爺様と一緒に聞こうと思い、急いでこちらに参ったのです。常春、仔細を話してくれ」


 彦五郎に慌てるなと言いつつ、儂も慌てていたようだ。【米津(よねきつ)常春】という彦五郎の郎党が面を上げた。米津家は岡崎松平家の元家臣で、岡崎の伊賀八幡宮の勧請に尽力し、松平清康の時代には警固役として主君に近侍していた。


 しかし、その実態は【世良田衆】と称する松平清康の耳目を司る諜報集団であったそうだ。世良田衆の頭目であった米津常春は岡崎松平家の滅亡に伴い牢人となった。そして富士浅間神社の大宮司家の縁を頼り、諜報集団として今川家に仕官したのである。


「長徳様と竹姫様は富士浅間神社にて保護されております。まずはご安心下さいませ。事の経緯(いきさつ)には、穴山家と身延山(みのぶさん)久遠寺の法華宗徒の影響があります」


 竹姫達は武田義信の母である【三条の方】に従い、三条の方の次女【見性院】が嫁いだ穴山信君の下山城に身を寄せていた。しかし、武田義信の失脚や今川家に嫁いだ黄梅院殿の頓死を聞いて、三条の方は心労で倒れてしまった。近親の不幸が連続した見性院は、やり場のない悲しみを今川家と北条家に向けてしまい、今川長徳や竹姫を疎んじる事になったのだ。


 更に悪い事に、見性院を嗜めるべき立場の穴山信君が見性院に同調したのである。穴山家は甲斐と駿河の狭間の地として交易の要であった。しかし、商人達は関銭の高い穴山領の【河内路】を避けていた。本来であれば大きい河川を使える河内路が流通の要であるはずだが、連雀を担いで越える【左右口路】や【若彦路】に商人達が流れていたのだ。商人達の変化を穴山信君は東駿の国人衆の策謀だと疑っていた。


 また、河内路には法華衆の総本山久遠寺がある。久遠寺は穴山氏の庇護を受け、その寺前町は河内路の宿場として栄えていた。久遠寺は仏敵北条家の拡大に危機感を抱き、河内法華宗徒の法難であると宣言したのである。その為、今川家と北条家に縁の深い富士浅間神社と身延山久遠寺の間で小競り合いが頻発していた。


「竹姫様の侍女が毒を盛られたと証言しています。身の危険を感じた竹姫様は、山県昌景の助けを借りて下山城を抜け出したそうです」


「毒を盛られただと。穴山め、許せぬ」


 思わず手に力が籠る。


「短慮はなりませぬ。侍女の証言だけでは確かな事は解りませぬ。夏の暑い時期である事も考えれば、食べ物が傷んでいただけかもしれないのです」


「であるな」と彦五郎が落ち着いて返答した。(はらわた)が煮えくり返る思いだが落ち着かねばならない。


 毒を盛られた確証は無いが、穴山家中での悪感情が竹姫が逃げ出したくなるほどのものであったのは間違いないだろう。竹姫達は三日間も山中を彷徨い、なんとか本栖湖に辿り着いたそうだ。本栖湖から左右口路を南下する途中で富士浅間神社に保護されたのである。幼子を山県昌景が背負い、目の見えぬ今川長徳を連れての逃避行であった。


「常春、報せご苦労である。儂はすぐに浅間神社に向かうとしよう」


 大変な思いをした竹姫に一刻も早く会いたいと思ったのだが、彦五郎に止められた。


「お爺様、お待ち下さい。武田家に不穏な動きがあるのです。如何にするか重臣と話し合っておりましたが、お爺様の考えもお伺いしたいのです」


「なんじゃと、まだあるのか」


 彦五郎の話しでは信濃の方でも不穏な動きがあるというのだ。彦五郎の後を受けて、米津常春から状況報告があった。岩村遠山景任が遠山一族に陣触れを出しているというのだ。軍勢は奥三河から設楽ヶ原へ向かうという噂があり、東三河の鈴木重時や遠州国人であった近藤為用、菅沼忠久らが同調する動きが有るというのだ。


「世良田衆は優秀であるな。裏で糸を引いているのは武田か織田であろう。もしかすると秘かに織田と武田で密約があるのやもしれぬ」


「お褒めの言葉ありがたく存じます。武田の使者が年始の挨拶に岐阜に訪れていたようです。武田家臣の秋山虎繁が遠山家を(けしか)けて様子を見ているのかもしれませぬ」


「織田は北畠、武田は畠山と敵を抱えておきながら、今川家にちょっかいを出すとは困ったものじゃ。戦続きでは民百姓も浮かばれまい」


 関東では北条家の支配体制が確立し、大きな戦が無くなっている。新田開発や河川工事ばかりで腕が鈍ったと、文句を言う武辺者も居るが江戸の町を中心として繁栄しているのだ。その繁栄を駿河や遠江に拡げようとしている矢先であり、出鼻を挫かれたと感じるのだ。


「お爺様、武田家と能登畠山家の争いはもう大勢が決まりつつあるようです。七尾城は落城し落ち武者狩りが行われているようです」


「なんじゃと、今日は何度も驚かされている気がするぞ」


 駿河で安穏としている内に情報不足に陥っていたようだ。武田家は本願寺と手を結び、加賀・越中の一向衆を動員して大軍勢で能登に攻め入ったというのである。能登守護畠山家では何度も家督争いが起こり、国人衆も力を持っていた。有力な国人衆として遊佐氏・長氏・温井氏・三宅氏・八代氏・飯川氏・神保氏などがあった。


 十年前の【畠山義綱】と【畠山晴俊】の家督争いでは、畠山義綱は【飯川光誠】や【遊佐続光】【長続連】【八代俊盛】の支援を受けて、畠山晴俊方の温井氏・三宅氏・神保氏を倒した。守護となった畠山義綱は守護集権を図ったが国人衆の反発を招き、二年前に押込められてしまった。畠山義綱は腹心の飯川光誠と共に正室の実家である六角家を頼り近江に逃れていた。


 新たに守護となったのは【畠山義慶】である。まだ幼い義慶は国人衆の傀儡であり、遊佐続光・長続連・八代俊盛による合議制が採られていた。武田家は畠山晴俊の娘を武田信繁の次男に娶わせて【畠山信豊】と名乗らせて能登侵攻の大義名分とした。【温井景隆】と【三宅長盛】は武田家に与して能登国人の切り崩しを行ったのである。


 武田勢が七尾城を囲んでいる最中、神保長職旗下の寺島職定が越中門徒を指揮し、加賀門徒の杉浦玄任・窪田経忠・宇津呂慶西・大倉主水らが組中と呼ばれる加賀門徒集団を率いて、能登国中を乱取りしてまわったのである。そのため、七尾城の士気は著しく低下した。


 畠山家の重臣八代俊盛が武田方に寝返り、七尾城の落城は決定的となった。遊佐続光、長続連と長綱連は城を枕に討死し、畠山義慶は【遊佐盛光】と【長連龍】に護られて何処かに落ちて行ったそうだ。北陸の情勢が決したとなると武田家の矛先が何処に向かうのか考えなければならない。


「武田が三家の同盟を破棄する可能性も考えねばならぬやもしれぬな」


「やはり、お爺様もそう思われますか。国人衆に調略の手が回っている事も考えねばなりません。重臣達は国人衆から人質を集めてはどうかと言ってますが、気が進まないのです」


 彦五郎の懸念はこれまでの今川家の行いにあった。国人衆を呼び出して粛清したり、人質を処刑する事も度々あったのである。彦五郎は国人衆と信頼関係を築きたいと考えているようであった。


「彦五郎、甘えた事を申してはならぬ。国人衆に人を出させなければ侮られる事になろう。しかし、ただの人質というのは面白くないな。そなたの父の様に家督を継げない子弟を集めて旗本にするのだ」


 北条家では今でこそ当主教育の名目で子弟を集めているが、最初から国人衆が子弟を差し出した訳ではなかった。集めた子弟を旗本にするのは常套手段ではあるが、国人衆が離反した際に処刑するのではなく。離反した国人の領主を挿げ替える為の人質であったのだ。


 武蔵守の初期の軍勢は寄せ集めと揶揄される様な備えであった。しかし、その中から風間秀吉、真田俊綱、山上氏秀といった備大将が育っている。討死した狩野泰光や福島綱房に対しても一門衆を取り立てて手厚く保護した事で国人衆との信頼関係が生まれたのだ。


「解りました。幼子や女子衆を人質にするのではなく、部屋住みや分家の者達による新たな備えを作ってみます」


「ふふふ、新たな備えは儂が鍛えてやろう。武芸だけではなく、領地経営や補給の事まで叩き込んでやるぞ」


「はい、楽しみにしています」


 彦五郎の心配が一つは解決したのだが、根本的な問題は何も解決していない。武田家が如何なる動きを見せるか注視しなければならないようだ。まずはお竹に会って様子を確かめねばなるまい。


~人物紹介~

米津常春(1524-1612)徳川十六神将の数えられる事績不明の武将。作中では隠密。

近藤為用(1517-1588)井伊谷三人衆。家康からの偏諱を賜り近藤康用と称するか。

鈴木重時(1528-1569)井伊谷三人衆。西三河酒呑鈴木家の分家。奥山朝利の娘婿。

菅沼忠久(?-1582)鈴木重時の娘婿。


◆能登武将

◇守護集権派

畠山義綱(1535?-1594)畠山義続の子。温井総貞を謀殺したが家中の反感を買い父と共に追放される。

飯川光誠(?)畠山義綱の側近。能登を追放された畠山義綱に従い近江に逃れた。

◇国人分権派

畠山義慶(1554-1574)畠山義綱の子。国人衆に擁立された傀儡君主。

遊佐続光(?-1581)長続連、八代俊盛らと畠山義慶を擁立して畠山義続、畠山義綱を追放した。

長続連(1515-1577)遊佐続光、八代俊盛らと畠山義慶を擁立して畠山義続、畠山義綱を追放した。

八代俊盛(?-1569)畠山義慶の擁立面子であるが、温井景隆が復権すると失脚した。

遊佐盛光(?-1581)遊佐続光の子。作中では義慶と共に落ち延びる

長綱連(1539-1577)長続連の嫡男。作中では父と共に討死。

長連龍(1546-1619)長続連の三男。作中では義慶と共に落ち延びる。史実では子孫が加賀前田家家老

◇親武田勢力

畠山晴俊(?-1558)一向衆と結び畠山義綱に反抗したが討取られた。

温井景隆(1532-1582)畠山義綱に粛清された温井総貞の孫。

三宅長盛(?-1582)温井景隆の弟。三宅総広の跡職。

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― 新着の感想 ―
[一言] 美濃遠山氏は決して一枚岩では無いので、明知遠山氏(遠山景行・景玄など)や飯羽間遠山氏(遠山友勝・友忠)辺りは付け込む余地があるかも知れません。 また史実ではこの頃に、偽姉小路家こと三木氏と…
[良い点] 能登畠山氏家臣の中には、上杉謙信に激しく抵抗した者も多いですから、武田信繁・畠山信豊(史実では武田信豊のまま、武田家滅亡時、小諸城にて下曽根覚雲軒という武将に裏切られ殺される)親子に対して…
[一言] 穴山は国境の領地を保有していながら、もろに夫婦で隣国要人への危害をこれ見よがしに行ってる印象が強いですけど、もう少し取り繕ったりはしないのというぐらい堂々としてますね。 勝算あっての行動なの…
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