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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
114/117

いざ、京都へ。その七(与六の冒険)

 1569年夏 樋口与六


 越後を離れてから六年になると喜平次様から聞いています。けれども、私は越後魚沼平の風景を覚えていません。当時三歳の幼子ですから無理もありません。雪の残る山道を、泣きながら歩いた記憶が僅かに残っているだけです。


 喜平次様の小姓として、志学院に来たのが二年前です。志学院は北条家の子弟が通う士官養成学校で、人質として集められた国人衆の子弟も大勢います。志学院では、譜代外様の区別無く次代を担う人材として学ぶ機会が与えられているのです。


「与六、学問は進んでいるか」と片倉小十郎殿から声を掛けられました。片倉殿は会津から来た新参の者ですが、才覚を認められて、忽ち北条氏政様の側近に取り立てられています。


「はい、西笑承兌様から四書の解釈は充分であるとお墨付きを頂きました。これから、五経を学ぶようにと言われています」


「なるほど、その歳で四書を修めるとは優秀であるな。御本城様の声が掛かるのも道理である」


「私に御本城様がお声が掛かったのですか。いったいどんな事でしょうか」


「此度、御本城様が上洛される事になった。その随行員に年嵩の者達を差し置き、与六も選ばれたのだ」


 上洛の随行員は御本城様の御指名であるそうです。志学院から、北条一門の毛利弁千代様、北条氏政様の側近・片倉小十郎殿、上洛を機に元服することになった小笠原長房殿、それに長尾喜平次様と私の五人が選ばれたのです。


 我等の御役目は随行する女房衆の護衛と申次衆の補佐をすることになりました。女房衆の取り纏め役は喜平次様の御母堂様です。また、志学院で幼年者の武芸指南を務める長野御前と香取御前も一緒です。本音を言えば、お二人が居れば護衛役は要らないのではないかと思います。


 他にも七人に侍女が付き従いますが、その内の一人は私の許嫁で宇佐美様の孫娘【お里殿】でした。お里殿は二つ年上で私にとっては、許嫁というより姉のような存在なのです。喜平次様や私が選ばれた理由は、仙洞院様やお里を安心させる為なのかもしれませんね。


 ◆◆


 私達の乗り込んだ屋久船は、御本城様の御座船でした。船大将の新納忠景様によると船団の中では最も大型の船で揺れも少ないのだそうです。


 航海の間、船団は様々な隊列を取りながら進んでいきます。これも訓練の一環なのだそうです。新納様の話しでは海上にも【地の利】があると言うのです。更に帆船の発達により櫂船時代の海戦術だけでは対応出来なくなってきているそうです。


「常に変わり続ける潮の流れや風の向きを感じられなければ、船頭は務まらないのさ。遠方からの矢合わせ、船での体当たり、接舷しての切り込みと様々な海戦術があるんだ」


「船は軍団を移動させる手段であると思っていました。海戦術も奥が深いのですね」


「もちろん軍の輸送を行う護送船団も大事な務めであるぞ。しかし船団にも色々あるのさ。沿岸沿いを伝って交易する交易船団、長い航海を行う外航船団、護衛や取締を行う海賊船団、南方では家船と呼ばれる船上で、一族郎党が生活する集団もいる」


「新納様が手強いと思う海賊衆はいるのでしょうか」


「ははは、儂等はどんな相手でも負けるつもりはないぞ。ただ、知らぬ海域では慎重になるかもしれないな。瀬戸内で村上衆と戦うのは避けたい。南蛮船なども船に大鉄砲を備えておる。矢合わせでは分が悪い相手となろう」


 新納様と話しこんでいると仙洞院様付の侍女に呼ばれました。どうやらお里殿の船酔いが大変なようです。暗い船室の中でぐったりおりました。


「船酔いがこれほど辛いとは思いませんでした。皆の迷惑になるくらいなら、いっその事、与六様の手で一思いに楽にして下され」


 横で聞いていた仙洞院様が呆れております。


「馬鹿な事を言うものではありませんよ。与六に甲板に連れていって貰いなさい。風に当てれば少しは気も晴れるでしょう」


 仙洞院様に促されてお里殿に手を貸しながら甲板に向かいます。甲板では長野御前と香取御前が楽しそうに手合せをしておりました。揺れが少ないとはいえ不安定な船上での立ち回りです。怪我でもしないか心配ですが、お二人は気にも留めていないようです。皆の邪魔にならぬよう、お里殿と船首に移動したのです。


「与六様、風が気持ちいいです。気も楽になったようです」


「船室より揺れは大きいが大丈夫なのか」


「はい、船の動く様を見ていると揺れに身構える事ができます。少し楽しくなってきました」


「そうか、それは良かった」


 ようやくお里殿に笑顔が戻ってきました。お里殿が船から落ちないように、しっかりと支えて海を眺めていたのです。ふと視線を感じて振り向くと、新納様がにやにやしながらこちらを見ております。急に恥ずかしくなりましたが、お里殿の手を放す訳にもいきません。新納様に気が付かなかったふりをして、顔を背ける事しかできませんでした。


 ◆◆


 船団は二十五日を掛けて、和泉大津の湊に無事に到着しました。船を降りるとすぐに御本城様に面会をする者がありました。なんと剣豪として名高い上泉信綱様です。


 御本城様に上泉信綱様の娘である長野御前を呼んでくる様に申し付けられました。久々の親子対面です。私は急いで女房衆の元へ走りました。


「あらっ。父上様が来ているのですか。すぐに参りましょう。お里、お供を頼みます」


 長野御前は軽い足取りで御本城様のお部屋に向かいます。お里殿は遅れまいと小走りとなり、懸命に付いていきます。「失礼いたしまする」と長野御前が声を掛けて室内に入ると、人の気配が歪んだように感じられ、こちらを見ている白髪の老人から明確な殺意が放たれたのです。


「ひいっ」


 お里殿が崩れ落ちると同時に、長野御前が腰を落として身構えます。逃げ出したいと本能が訴えます。しかし、体が全く反応してくれないのです。「ふふっ」と長野御前から微かに笑い声が聞こえました。長野御前は息も詰まる程の殺気を気迫で押し返しているのです。


 私も覚悟を決めて丹田に力を入れます。集中すると周囲の音が消え去り、老人の殺意が長野御前に向けられている事が感じられました。私が感じた殺意はその余波に過ぎなかったのです。それでも気を抜くと意識が刈り取られてしまいそうです。


 永遠とも思われた威嚇の脅威は不意に終わりを告げました。老人が殺気を解いたのだと思われます。長野御前が居住まいを正し「父上、ご無沙汰しております」と挨拶する横で、私は全身の力が抜けて倒れそうになりました。はっとしてお里殿を見ると、歯の根が合わぬ程にがたがたと震えていたのです。


「お里殿、お気を確かに」


 すぐさまお里殿を支えて退出しました。


「えぐっ……ぐしっ……よりょきゅしゃま……あ、ああっ……怖かった」


 お里殿のお顔は涙でぐっしょり濡れており、髪も汗で乱れていましたが、ぎゅっと抱きしめて背中を擦っていると、徐々に落ち着きを取り戻したようです。


「仙洞院様の元に戻りましょう。歩けますか」


「ひっく……あい、少し落ち着きました」


 お里殿を立たせようとしましたが、腰が抜けて力が入らないのかまともに立てません。千鳥足でふらつくお里殿を支えながら、仙洞院様の元へ送っていったのです。その道すがら剣豪の気迫を思い返しておりました。戦場で遅れを取らぬように、あの威嚇を跳ね返せるよう鍛錬しなければと心に誓ったのです。


 ◆◆


 和泉北条家は公方様の上洛に貢献し、和泉国の守護となっております。その居城である岸和田城に逗留することになったのです。長い船旅と初夏の暑さに当てられて。仙洞院様はややお疲れの様子です。


「仙洞院様に茶を所望したいのです」と近くの小姓に伝えると、小姓は大振りの茶碗に七分程の量の()()()のお茶を差し出しました。仙洞院様は一息にお茶を飲み干して、御代わりを所望したのです。仙洞院様は三杯のお茶を所望し、小姓の名をお尋ねになりました。


「勘定方を拝命した石田正継の子で、石田佐吉と申します」


「佐吉の持て成し、心地よく頂きました。ありがとう」


 仙洞院様は三杯のお茶で佐吉を気に入ったようです。佐吉が下がった後、お里殿は仙洞院様に佐吉に目を掛けた訳を尋ねていました。私も不思議に思い聞き耳を立てたのです。


「佐吉の心配りは見事でしたよ。三杯のお茶には妾に対する気遣いが感じられました」


 一杯目は大振りの茶碗にぬるめのお茶が注がれていたそうです。喉の渇き潤すために飲みやすくしたあったのです。二杯目は熱めのお茶が半分程注がれていました。まだ渇きは満たされていませんでしたが、一息に飲み干せる熱さではなく、心を鎮めながら飲むには丁度良い熱さだったそうです。三杯目は小振りの茶碗に熱いお茶が注がれていました。喉の渇きは満たされており、香りを楽しみながら喫するようにとの心遣いを感じたそうです。


 お里殿がしきりに感心している姿を観て、ちょっと嫌な気分になりました。私が佐吉の事を気にしだしたのは、その時からなのかもしれません。


 岸和田城に付いてから休む間もなく、お勤めが始まりました。小笠原長房殿と片倉小十郎殿は伊勢貞運様や小笠原康広様、板部岡江雪斎様に従い一足先に入洛したのです。幕府や朝廷との事前折衝を行うそうです。


 毛利弁千代殿と喜平次様は御本城様付の小姓に加わり、身の回りの世話を仰せつかいました。私も喜平次様と一緒ですが、石田佐吉も小姓に加えられたのです。佐吉の様子を知る良い機会になるかもしれません。御本城様が喜平次様に声を掛けました。


「景勝、近衛家には越後長尾家の旧臣が仕えておるそうじゃ。仙洞院も同行させる故、既に伝えてある。隔意がある者がいるやもしれぬ。そなたも覚えておくのじゃ」


 喜平次様が無言で頷いたの見て、御本城様は優しく微笑んだのです。近衛家に仕えている越後衆は神余親綱と直江実綱だそうです。彼らは越後長尾家の京都雑掌として、朝廷幕府との折衝や交易の監督を行っていたそうです。私はお里殿にも伝えておかねばと思いました。


 ◆◆


 京から片倉小十郎殿が戻りました。伊勢邸での受入準備が整ったようです。始めて見た京の都は噂に聞いていた程ではないと思いました。豪華絢爛な寺社は数多く見かけましたが、江戸の町の方が賑わっている印象です。


 伊勢邸では伊勢貞良様の嫡男・伊勢虎福丸様に引き合わせられました。虎福丸様の小姓には明智光秀様の庶長子である明智光重殿がいます。光重殿も志学院で学んでいたので、喜平次様や小笠原長房殿とは旧知の仲のようです。明智光重殿が皆を紹介して下さいました。


 伊勢熊次郎様は虎福丸様の弟で、伊勢貞運様の養子となる事が決まっているそうです。更に幕臣石谷頼辰の嫡男・石谷加兵衛殿、蜷川親長の嫡男・蜷川新右衛門殿が伊勢虎福丸様の小姓となっているのです。虎福丸様は織田家の姫と婚約が決まったばかりで、皆で祝いの言葉を申し上げたのです。


「祝辞に礼を申す。織田家は公方様の上洛に多大なる貢献をした故、幕府内での発言力は強い。しかし、父上は幕府が力を持たねば世は収まらぬと申しておった。伊勢家が幕府と北条家や織田家の架け橋となれるように務める所存だ」


「虎福丸様は織田信長と面会したことはございますか」と毛利弁千代殿が尋ねた。上洛を果たした織田信長の事を皆、知りたいのである。


「残念ながら、儂はまだ目通りする機会が得られていないのだ。光重は父上の供として面会したのではなかったか」


「はい、伊勢貞良様の供として二度、お目見えしました。一度は岐阜の城への年始の挨拶でしたが、織田信長様は三好勢の蜂起を知り、僅かな供だけで京へ向かい城を飛び出したのです」


 光重はその時の混乱ぶりに驚いたそうです。織田家中の者達は主の出陣を聞いて、慌てて追いかけたそうです。織田信長の突飛な行動は今回が初めてではありません。今川家と争った桶狭間の戦でも、最初に出陣したのは織田信長と側近の五騎だけであったそうです。


 桶狭間の際は今川方に出陣を気取られないないようにする為と、意見の纏まっていなかった家臣達を強引に纏める為だったようです。また、正月の出陣は陣触れをしてからでは遅いとの判断であったようです。


「年始の挨拶に来ていた我等は置いてけぼりを食らいました。ただ、松山重治様は事前に三好方の蜂起を知っていたご様子です。松山様の案内で無事に京に戻る事ができました」


 畿内の様子を聞かせて頂いた後は、我らが江戸や関東の様子を伝えたのです。


 ◆◆


 公方様と御本城様の会談が終わると慌ただしさが増してきました。献上品などは事前に纏めてあったので順調に行きましたが、返礼の品の受取や会談後の詰めの折衝があったのです。私は石田佐吉と共に板部岡江雪斎様を手伝う事となりました。江雪斎様の書く膨大な量の手紙や資料をまとめたり、墨を磨って準備をしなければならなかったのです。


「与六殿は武家の割に算術も手習いも上手ですな。意外でしたぞ」


「いや、悔しいが佐吉殿には及ばぬ。これでも些か自信はあったのだ」


「某は元は商家に居りましたので、算術も手習いも得意なのです」


「なるほど、北条家では自らが理財を学ぶか、理財を司る者を召し抱えねば、いくら手柄を立てようとも城持ちには成れぬのです。佐吉であれば引く手あまたとなるしょう」


「嬉しいお言葉です。ただ、番頭さんからは、まだ不足だと言われているのです」


「なんと、これ程でも商家では通用しないのか」


「いえ、そうではありません。融通が利かないと言われました。折角綺麗に纏めた数字を弄くられるのは嫌ではありませんか」


「そうじゃな。確かに実態と帳面の乖離があると私も気持ち悪い。勿論、乖離の原因を突き止めるのも大事だが、実態を受け止めて現状を把握する事が大切だとも教わったのだ」


「なるほど、番頭さんも同じような事を仰せでした。某は相手の意を汲むのが不得手のようなのです」


「いや、そんなことはあるまい。仙洞院様はそなたの献じた三杯の茶をいたく褒めておったぞ」


「あのお茶は番頭さんの指南によるものです。某は猿真似をしたに過ぎません。本音は面倒だなと感じているのです」


 これまで、佐吉の優秀さに圧倒されて苦い思いをしていましたが、佐吉なりに悩みがあるという本音を聞けて、少し身近に感じる事ができた。ふと佐吉の言う番頭さんが気になりました。


「佐吉殿、その番頭さんとは何処の何方なのでしょうか」


「相模屋の風間小一郎様です。某の師とも言えるお方です」


「風間と言えば北条家中でも、名家として知られる一門ではありませんか。その縁者なのでしょうか」


「小一郎様は風間佐渡介様の御舎弟ですよ」


「なんと」


 風間佐渡介様は、一介の百姓から佐渡領主にまで立身出世した生ける伝説です。その御舎弟が相模屋で番頭をしているとは知りませんでした。きっと何かしらの支援があったのではないか。喜平次様による長尾家再興を目指す我等にとって、参考になるのかもしれないと感じられたのです。


「佐吉殿、商家の事をもっと教えて頂けませぬか」


「ええ、構いませんよ。私にも武家の習いを指南していただけたら嬉しいです」


 最初は嫌な感じだと思っていた佐吉ですが、意外に気の合う友となれるかもしれません。


 伊勢館での生活にも慣れて来た頃、新たに三人の小姓が加わる事になりました。山岡孫次郎と柳生久斎、徳斎の兄弟です。柳生兄弟は中々の剣の使い手でした。二人がかりでしたが長野御前から一本をもぎ取ったのです。その後、怒った長野御前に動けなくまるまでしごかれていました。途中で仙洞院様が通りかからなければ、もっと酷い事になっていたかもしれません。


 山岡孫次郎は住吉屋という造酒屋に居たそうです。早速、商家の様子を聞こうと話しかけましたが、まだ手習い算術を一通り学んだだけで商売の事は解らないのだそうです。ただ、茶の湯の手解きを受けていたようで、幼いながらも茶を立てる事が出来るのだそうです。


 折角なので孫次郎の立てたお茶を皆で喫する事になりました。初めて呑んだお茶の印象は苦味の強い変な味というものです。実際、茶を立てた孫次郎も自分で呑むのは苦手だと告白しました。ところが、孫次郎のお茶を仙洞院様が甚く気に入ったのです。こうして新たな三人の小姓は皆に認められたのです。


 ◆◆


 いよいよ近衛様の御屋敷へ向かう日程が決まりました。新九郎様からの密命を漸く果たせるのです。小十郎殿が皆を集めて姫様を見定める為の【陣立】が話し合われたのです。


「明日の篤姫様の見定めであるが、僅かな時しかない。御本城様にご挨拶された後は、女房衆の交流となっておる。しかし、儂と長房は御本城様に従い、公家衆の対応に臨席する事になってしまった」


 片倉小十郎殿と小笠原長房殿が苦しげに明日の予定を告げたのです。毛利弁千代殿も苦悶の表情で答えます。


「私も氏光様に一門衆として共にあるべしと言われております。ここは喜平次殿と与六に任せるしかありませぬ」


 喜平次様と私は仙洞院様の護衛として、女房衆の交流にも付き従う事になっています。素の篤姫様を見られる唯一の立ち位置なのです。


「……うむ」


 喜平次様が眉間に皺を寄せて言葉少なに頷きました。しかし、小十郎殿から駄目出しが入ります。


「不味いぞ。喜平次殿は記憶力も良く胆力もある。しかし、姫の良さを新九郎様にお伝えできるのか」


 小十郎殿の問い掛けに喜平次様は眉間の皺を深くして「……すまぬ」と答えたのです。そして四人の視線が私を捉えたのです。小十郎殿が重々しく口を開きました。


「与六、もうそなたしか残っておらぬ。頼めるか」


「重い御役目を任せられるのは光栄な事です。しかし、新九郎様が望まれるような女子衆の魅力が今一解りませぬ」


 私の言葉に落胆の溜息が漏れます。小十郎殿が私に気遣い声を掛けました。


「仕方あるまい。与六はまだ幼く養生訓の教えにも興味を覚えるには早い。女子衆と語らうより野山を翔る事に興味がある年頃だ」


 長房殿が無念そうに口を挟みます。


「与六は許嫁が居るゆえ、焦りも無いのであろう。湯を使う女房衆を覗き見た事もあるまい」


 小十郎殿がふと思い出したように私に問い掛けます。


「此度の上洛の最中、与六は許嫁殿とずっと一緒ではなかったか。船上でも岸和田の城でも与六が許嫁殿と抱き合っている姿を見た者がおるぞ」


「なんと」

「なんじゃと」

「……。」


 小十郎殿の尋問に他の三人が反応します。


「いえ、抱き合っていたのではありませぬ。船上では船酔いの介抱をし、岸和田城では上泉様の殺気に当てられたお里殿をお支えしていたのです」


 私が真っ赤な顔で言い訳をすると長房殿が意気込んで尋ねました。


「許嫁殿を掻き抱いて与六は何も感じなかったのか」


「解りませぬ。必死に励ましておりました。早く元気な姿に戻って欲しいと思ったのです」


 私が答えると四人から溜め息が漏れました。皆、残念な者を見る顔をしていたのです。軍議は振出に戻りました。援軍を頼むという提案も佐吉や孫次郎殿では心許無く、機密を洩らす訳にもいきません。知恵者の小十郎殿を持ってしても、戦力不足を補う事ができなかったのです。


「是非もなし。覚なる上は氏光様に事情を話し、某が仙洞院様の護衛となれるようお願いしてみよう」


「弁千代殿、宜しいのか。一門衆の務めと言われているのであろう。本来であれば新九郎様の小姓である某の役目なのだ」


「小十郎殿の上洛してからの働きは儂も見ておる。御本城様が手放すとは思えぬ。氏光様には主命でござると談判するつもりだ」


「忝い。この恩は決して忘れぬ。氏光様への談判は皆で参ろう」


 軍議を終えて、皆で打ち揃って氏光様の部屋と向かいました。氏光様は急な面会にも快く応じて下さり。我らの要望に対して笑いながら二つ返事で許可して下さったのです。


 ◆◆


「近衛家養女となりました【篤子】でございます。武蔵守様とお会いできました事、とても嬉しゅうござりまする」


 近衛邸にて御本城様と篤姫様の対面が行われました。しかし、我等の位置からは篤姫様の横顔しか見えません。美人というより可愛らしいという感じで、幼いという印象しか解りません。対面が終わると篤姫様は近衛家の侍女を引き連れて下がっていきました。


 仙洞院様も「それでは」と御本城様に挨拶して、篤姫様達に続きます。護衛役の我等も一礼して仙洞院様の後に続こうとしました。


「弁千代、どこへ行く。そなたも残れ。公家衆の話しが聞ける貴重な機会じゃ」


 弁千代殿は無常にも御本城様に呼び止められてしまったのです。弁千代様は「くっ。後は頼む」と囁いて戦線離脱してしまいました。結局、仙洞院様に従ったのはお里殿含む三人の侍女と喜平次様、それに私だけになったのです。我等は篤姫様がお召し替えをする間、篤姫様の老女と話す事になったのです。


「山吉局、息災であったか。再び会えて嬉しく思います」


「仙洞院様の無事な御姿を見られるとは思っておりませんでした」


 山吉局と呼ばれた老女は目に涙を浮かべながら笑顔を見せたのです。


「直江殿もお元気ですか」


「はい。元気にしております。仙洞院様は北条家に捕らわれたと聞いておりました。何故、ここに居られるのでしょうか」


「話せば長くなります。今は喜平次が長尾の家を再興し、鯉と鮎の嫁ぎ先が決まれば、思い残す事はありません。その為に妾は北条家に仕えることにしたのです」


「そうでしたか。主人も近衛家に誘われた際はかなり悩んでおりました。仙洞院様も色々あったのでしょうね」


「ええ」


 仙洞院様と山吉局は言葉少なにお互い見つめ合っておりました。越後長尾家は北条家と武田家に滅ぼされました。越後長尾家に連なる者達には並々ならぬ苦労があったのです。しんみりなりそうな雰囲気を変えるように山吉局が喜平次様に目を向けます。


「もしかして、そちらの御方は喜平次様でしょうか」


「そうですよ。喜平次、御挨拶なさい」


「……。」喜平次様が目礼すると山吉局は嬉しそうな表情となりました。


「大きくなりましたね。御実城様の面影があります。喜平次様なら立派に長尾の家を再興して下さることでしょう」


 山吉局に笑顔が戻り、更に私の方を向きました。


「もしかして、こちらは樋口殿の御子息ではありませんか」


「ふふふ、やはり解りましたか」


「それは解りますとも。お藤殿に目元が似ております」


「母を御存知なのですか」


 山吉局の夫・直江道監と私の母・お藤は兄妹であるそうです。喜平次様の父・長尾政景様が北条方に降った際には、身を引き裂かれる程の思いであったそうです。仙洞院様と山吉局は昔語りが尽きないようでした。暫らくするとお里殿と歳の換わらぬ侍女が入って来ました。


「皆様、篤姫様の準備が整いましてございます」


「お船、ありがとう。では仙洞院様、案内致します」


 山吉局に案内され部屋を移ることになり、ふとお船と呼ばれた近衛家の侍女が気になりました。お船は喜平次様を刺すように睨み付けていたのです。私にはその眼差しが無礼に感じられたのです。


「お船殿と申されたな。喜平次様に何かございましたか」


「いえ、何もございません」


 お船殿は言葉では何もないと言いながらも、今度は厳しい眼差しを私に向けたのです。気味悪く思いながらも篤姫様のお部屋へ向かいました。女房衆の交流が始まると喜平次様と私は隣の部屋にて控えることになったのです。目の前には篤姫様の護衛役も同席しています。


「篤姫様の護衛役、畠山盛淳と申します。篤姫様が関東下向の際は某も同行いたします故、よしなに願います」


「……長尾喜平次にござる」


「樋口与六にございます。こちらこそ宜しく願います」


 畠山殿は気さくな方のようです。喜平次様が口下手なので、自然と私が相手をすることになりました。畠山殿は江戸の様子や北条家と新九郎様のことを質問してきたのです。打ち解けて来たところで畠山殿から見た篤姫様の印象を聞いてみました。


「篤姫様は好奇心の塊の様な姫様です。まだ九つ故、幼いところはございますが、知識を得ようとする姿勢は頼もしくもあります」


「姫様はどの様なものを好まれるのでしょうか」


「活発で薙刀の稽古は楽しいと仰せでした。読み物もお好きで源氏物語の講義には目を輝かせております。唄もお上手で三線(さんしん)の練習も欠かした事はありません」


 三線とは琉球の楽器で、琵琶のような弦を張った楽器なのだそうです。新九郎様にお伝えしたら喜んでもらえるかもしれません。



「上田衆は裏切り者ではありません。見捨てられた故、必死に足掻いただけです」


「北条の先兵となったではありませんか、何を言っているのです」


 隣の部屋からお船という侍女とお里殿が言い争う声が聞こえてきました。喜平次様も事態の変化に気付き、私に目を向けて頷くと(ふすま)を開けて「何事じゃ」と低い声で睨みを効かせたのです。


 お里殿とお船殿が顔を真っ赤にして睨み合っておりました。二人に挟まれるように篤姫様が真剣な顔をして言い争いを聞いていたのです。篤姫様は我等に向き直ると静かに嗜めました。


「お見苦しいところを見せてしまいました。されど、これは奥向きのお話しです。殿方はお控え下さい。今はお互いの立場を話していたのです。相手の事を知らねば理解し合う事もできませんからね」


 篤姫様の堂々とした態度に驚かされました。お里殿とお船殿のわだかまりの原因を探ろうとしていたようです。山吉局は戸惑いの表情でしたが、仙洞院様は楽しそうな笑顔を浮かべております。ここは女房衆に任せるべきなのかもしれません。


「……ご無礼を……」


 喜平次様は襖を閉めて、引き下がりました。言い争うような雰囲気でしたが、仙洞院様と山吉局の声が微かに聞こえ、少しの間、静かになりました。暫らくすると女房衆の笑い声が聞こえてきたのです。


「どうやら和解できたようですね」と畠山殿が安堵の表情を浮かべました。


「はい、肝を冷やしました。篤姫様の振る舞いには驚かされました」


「ええ、島津家自慢の姫様ですよ」


 新九郎様への良い土産話ができたのです。これで私も御役目が果たせたのではないでしょうか。


 ◆◆


 御本城様と公家衆の会談から、息つく暇も無い程の忙しさです。勧修寺晴豊様が視察の為、関東下向する事になり、その宰領を板部岡江雪斎様が行います。私も佐吉と共に江雪斎様に付き従い、打合せに同席したりしました。慌ただしい中にも遣り甲斐を感じる充実した日々を過ごしていたのです。


 しかし、良い事ばかりではありませんでした。御本城様が宇治の相模屋に視察に向かったところ事件が起こったのです。



【御本城様が刺客に襲われて、重傷を負われた】



 伊勢邸に第一報が入ったところで騒然となりました。事態が解らずまんじりとしていると次々に報せが入ってきたのです。


「上泉信綱様、銃弾を受けて負傷」

「御本城様は背中に火傷を受けて意識不明」

「御本城様は相模屋に運ばれて無事である」

「襲ってきたのは多賀谷氏の残党であった」

「刺客は杉谷善住坊という火縄銃使いであった」

「野犬を嗾けた三戸興義を捕えた」

「臭う水という燃える水が使われた」


 情報が錯綜する中、私達は毛利弁千代様を中心に集まって状況を見極めたのです。襲撃を企てたのは多賀谷氏と難波田氏の旧臣達であったようだ。襲撃者達は火縄銃で狙撃し、野犬を嗾けて撹乱させた後、斬り込みを行った。止めには燃える水の入った壺を投げ付けて火を付けたようだ。御本城様は運悪く、燃える水を被り大火傷を負ったのである。


 お里殿は私達を見付けると駆け寄ってきました。


「長野御前が相模屋に行きたいと申しております。手配しては頂けませぬか」


「あい解った」


 弁千代様がお里殿に返事をすると、私達は女房衆を宇治に送り届けるための準備を始めたのです。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 小十郎、与六、佐吉とそれぞれ史実で有力大名を支えた人材が揃ってる場面って主人公からしたらニヤニヤですよねw [気になる点] 主人公は史実知識と情報収集で畿内が暗殺の危…
[一言] クリフハンガーでヤバいですね。 果たして剣聖が鍛えた護衛と、和泉北条や伊勢、上方商人らの情報網に察知されずに、本願寺のバックアップが有ったとして成功する物だろうかという懸念はありますので、影…
[良い点] 明智光秀に庶長子? 本作では、煕子以外に女が?? 杉谷善住坊の登場、史実より早い(笑)。 [気になる点] ラストで衝撃の展開! 敵を欺く為、虚偽の情報を流している事も密かに期待してい…
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