いざ、京都へ。その六(その頃)
1569年夏 浜松城 井伊お虎
「解せぬ。なぜ、子が出来てしもうたのじゃ」
小田原養生訓に従い、子が出来難い時期を選んでの営みであったのだが、御子を授かりひどい悪阻の最中であります。更に子が出来易い時期を選んで励んでいる【おひよ】も懐妊し、城内は祝賀気運に包まれていたのです。
「お虎様、お手柄にございます。おひよ殿も子を授かったとなれば、井伊家も安泰でございますね」
瀬名様の祝いの言葉も曖昧に頷くしかなかったのです。妾は睦合いを楽しみたかっただけなのじゃ。しかし、正室も側室も子を授かってしまったので、旦那様に対して側女を薦める不届き者が殺到したのです。奥を預かる者として問答無用で断っていたのですが、段々面倒になってきたので瀬名殿に丸投げすることにしました。
「有象無象の縁談は妾がお断り致します。きっとお虎様が満足いただけるような、井伊様に相応しいお方をお探しいたします」
「瀬名様、新たに側室を迎えずとも、良いのではありませんか」
「そういう訳には参りませぬ。どこのものとも知らぬ女子に、お手が付いたら大変ではありませんか。側室をお薦めするべきです」
全部断るだけで良かったのですが、瀬名様には伝わらなかったようです。悪阻でぐったりしていた妾には、目を輝かせながら宣言する瀬名様を、止める気力はありませんでした。瀬名殿が選んだのは鵜殿長照様の妹【真鶴姫】でした。真鶴殿は鵜殿三姉妹と称される美人姉妹の長女なのだそうです。
元々、鵜殿長照様は三河国蒲郡の有力な国人衆で、今川家の一門でもあります。鵜殿三姉妹は鵜殿家の三河統治の鼎として、三河の国人衆との縁談もあったようです。しかし、松平家康の謀反により、所領を下ノ郷の分家に奪われてからは、駿府館に留め置かれていたようです。
転機が訪れたのは今川範康様が今川家に入り、旦那様が陣代に成ってからです。長照様が浜松衆の船大将に抜擢されて、お家を再興する事となりました。長照様も婚期の遅れた妹達の嫁ぎ先を、漸く探せるようになったのです。その噂を聞き付けた瀬名様は、長照様に面会し縁組の仲立ちを申し出ていたのです。
「お初に御目文字いたします。鵜殿長照の妹、真鶴にございます。井伊様にお仕え出来る事は、この上ない喜びにございます。何卒、宜しゅうご指導賜りたく存じまする」
真鶴殿は美人三姉妹という割には印象の薄い顔立ちでした。しかし、その胸元は思わず二度見してしまう大きさで、「くっ。化け物め」と思わずつぶやいてしまう程だったのです。妾もそれなりの大きさですが、格の違いを見せつけられてしまいました。
「真鶴殿ほどの御家柄なら側室でなく、正室としての申し出も多かったのではありませんか。まことに宜しいのでしょうか」
「はい、兄も井伊様には感謝しております。縁を結べるのであれば、願ってもない事だと申しておりました」
鵜殿家の居城であった上ノ郷城が松平家康に攻められた際、上ノ郷城から吉田城への撤退を指揮したのが旦那様でありました。旦那様は恐怖に怯える鵜殿家の者達を励まし、優しい笑顔で安心させたのだそうです。真鶴殿は「その時から秘かにお慕いしておりました」とポッと頬を染めて微笑んだのです。
「お家の立て直しに必死で婚期が遅れてしまい、もう二十一となります。むしろご迷惑ではないかと心配しております」
「なんの妾も三十となってからも、こうして子を授かったのじゃ。心配には及ばぬ、共に旦那様をお支えしてたもれ」
無性に脇息を放り投げたくなる衝動を抑えながら、歓迎の言葉を伝えたのです。
「ところで妹がまだ二人おるそうじゃな。もう嫁ぎ先は決まりましたのか」
「はい、瀬名様のお口利きで、千鶴も田鶴も良き御縁をいただきました」
瀬名様の旦那様である関口親弘様は策士でございます。鵜殿三姉妹のお相手を、新たに召し抱えた足軽衆から選ぶのが良いと瀬名様に助言なされたそうです。当初、瀬名様は血筋のはっきりしない者達との縁談に難色を示しておりました。しかし、鵜殿家を通じて井伊家の御由緒とする事で足軽衆の結束を固められると考え直し、鵜殿長照殿の意向も確認したそうです。
鵜殿長照様も下ノ郷の分家に見限られ、上ノ郷城を失った経緯が有ります。妹達を名家に嫁がせて庇護を得るよりも、与力となり得る者達との誼を選択したそうです。関口親弘様の推薦で甲斐衆の【藤堂高則】と三河衆の【本多忠勝】が、千鶴殿と田鶴殿を娶る事が決まったそうです。
甲斐衆は武田信虎様の縁故の者達で、武田信友様が備大将を務めております。藤堂高則の父・藤堂虎高を副将に据えて、楠浦虎常、漆戸虎光、日向昌時、飯田直政、成瀬正一、板垣正信、板垣正虎等が物頭として廻りを固めているのです。関口親弘様の与力である三河衆は、瀬名様の息・竹千代君を慕って集まった岡崎の者達です。その中でも本多忠勝は最も武勇に優れた武将であり、竹千代君以外には仕えないと公言する忠臣でもあったのです。
「本多忠勝ですか。確か竹千代君を攫おうとした不届き者ではありませんでしたか」
「そうなんです。今でも松平家の再興を秘かに狙っているようで、妾は気乗りしなかったのですが、井伊様も鵜殿様も良き武者であると大変気に入っているようなのです。殿方のお考えは解りませぬな」
「お方様、瀬名様、我が兄の長照も本多様の一本気な所が気に入ったようでございます。妹の田鶴も薙刀を好むお転婆者ですので、良き相性なのやもしれませぬ」
鵜殿三姉妹の話が一段落したところで、瀬名様がにやにやしながら衝撃の発言をしたのです。
「お虎様、直虎様がとある女子に懸想をしていると竹千代達から聞きました。お耳に入っておりますでしょうか」
「なんじゃと、松千代に惚れた女子がおるのか。どのような娘なのじゃ」
松千代が元服し【井伊直虎】という名乗りを頂きました。井伊家の嫡男として旦那様の元で領主の務めを学んでいるところなのです。まだまだ子供の癖に、生意気にも色気付いたというのです。
「甲斐衆の飯田直政の娘、須和だそうです。猫殿の侍女をしておりますが、聡明で機転が利き、武芸も嗜む活発な娘ですよ」
「おおっ。須和ならば妾も知っておるぞ」
人の名前を覚える事が苦手な妾にも印象に残っている娘です。弓術が得意で肩幅が広く、男子の様な肉付きをしています。更に馬術も巧みで腰回りが引き締まっており、後姿が女装した小姓のようだと思っていたのです。松千代はあまり容姿には拘らない性質なのかもしれません。
「あら。お虎様もお目にも留まっていたのですね。器量良しで、気配りの出来る娘ですから、当然のことかもしれませぬな」
瀬名様のどこか的外れな噂話を聞いていると、偶然にも猫殿が須和を連れてやってきたではありませんか。ただ、猫殿の様子がおかしいのです。憔悴した表情から何か悪い事があったのかもしれません。猫殿は崩れる様に座ると涙を湛えて訃報を告げたのです。
「御方様、瀬名様、駿府が大変な事になっています。黄梅院様が急な病でお亡くなりになったのです」
よよよと泣く猫殿を須和が横からしっかりと支えております。黄梅院様は先の太守今川氏真様の御正室で、武田晴信の娘です。今川家と武田家を結ぶ絆の証でありました。悲しい事ではありますが妾とは縁が薄く、あまり関係無いというのが実感なのです。しかし、瀬名様は慌てているご様子です。
「猫殿、それは真でしょうか。黄梅院様はまだ二十六歳の若さですよ。何かの間違いではないのですか」
「舅の信虎様からお伺いしたので、間違いありませぬ。今川家と武田家の仲を取り持っていた黄梅院様が亡くなったとなれば、摩擦は避けられませぬ」
黄梅院様は武田家と今川家の間に立って、信友様が家を興す事を後押して下さったそうです。武田晴信は武田信虎が今川家中で発言力を強めて甲斐を覗う事を警戒していました。また、今川家の者達も心の底では、武田家旧臣の勢力拡大を恐れているのです。
「舅様が両家の火種となりはせぬかと怖ろしゅうございます」
「しかし、今川家には今川家の事情があります。桶狭間と設楽ヶ原の戦いで多くの者達を失いました。それを補う為にも、武田信友様や信虎様のお力は必要ではありませんか」
瀬名殿と猫殿が難しい話を始めました。二人の話ぶりだと大問題のようですが、妾は全く興味がありません。ただ、須和を見極める良い機会だと思えたのです。
「須和、そなたは如何に思っておるのだ。遠慮は要らぬ、思うところを話しなされ」
突然、妾に名指しされて驚いたようでした。須和はすぐに落ち着きを取戻し、大きな目を見開いて妾に向き直ったのです。
「黄梅院様のご逝去はとても悲しく、母様を亡くした鞠姫様を御労しく思います。それに黄梅院様は、武田晴信様に疎まれて甲斐を離れた私達の身を案じ、後ろ盾となって下さいました。後ろ盾を失った私達がどうなるかとても不安です」
ちっ。妾はその様な事を聞きたかったのではありません。松千代をどう思っているかが聞きたいのです。要領を得ない残念な娘ですね。しかし、須和が不安を抱えているとは、松千代にとって好機でありませんか。
「松千代、いえ直虎は何か言っておりませなんだか」
「はい、直虎様は武田信堯様や藤堂高虎様を励ましておられました。ただ、私は直虎様の不興を買ってしまったようで、お声を掛けてはもらえませんでした」
なんという事でしょう。須和の話しでは松千代は須和に冷たく接しているというのです。まだまだ子供ですね。気を惹くための方向が間違っているようです。松千代への説教は後にするとして、ここは母が力添えしなければなりませぬな。
「武田旧臣とか今川譜代とかどうでもいいのです。浜松衆として一家も同然ではありませんか。須和に優しく接するように直虎にも言い聞かせましょう。須和には直虎付の侍女を命じます。いいですね」
妾の命令にいち早く反応したのは猫殿でした。
「御方様、浜松衆は一家同然と言われて目が覚めました。妾は武田家と今川家の架け橋として信友様に嫁ぎましたが、両家を分けて考えていたのは妾かもしれませぬ。御方様の懐の深さに感激いたしました」
「御方様の思いを知り安堵いたしました。疎まれているかもしれませぬが、浜松衆の一員として、直虎様の侍女を精一杯努めまする」
猫殿と須和が一家同然との言葉に興奮しているようです。そんなことは同じ城に住んでいるのですから、当たり前ではありませんか。まあ、須和が松千代の侍女を引き受けくれたので、これから面白くなりそうです。
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1569年夏 石山本願寺 武田義信
「武田のおいちゃん。また、鳥の絵かいな。好きやなぁ」
「おう、茶々麿か。今から目を入れるから少し待っておれ」
石山本願寺に送られてから半年が経った。初日に顕如殿と面会して以来、武田家を廃嫡された儂の相手をする者は皆無であった。ただ、顕如殿の嫡男【茶々麿】だけは、儂の絵を気に入ったようで度々顔を出してくれた。
「おいちゃん。織田は悪い奴なんか。おとんがえらい怒っとったわ」
「そうか、儂はこの通りしがない絵師ゆえ何も聞いておらぬ。織田が何か悪いことをしたのか教えてくれるか」
「うん、おとんが言うにはな。織田はお寺さんから銭をせびる守銭奴なんやと」
「ほう、お寺さんは織田に銭を取られるような事をしたのかな」
「知らんけど、お寺さんに喧嘩売るとか、罰当たりやってみんな言うてるわ」
「お寺さんに喧嘩を売るとは罰当たりか。ならば儂も罰が当たったのかもしれぬな」
「おとんは武田は仏さんの味方やって言うてたで、おいちゃんは武田なのに悪い奴なのか。訳解らんわ」
「ははは、儂は民の味方になりたかったのだが、仏さんには嫌われてしまったようじゃ」
子供は無邪気で良いものだ。茶々麿は思いつくままに話しをすると、興味の惹かれるままに部屋を飛び出していった。お園も大きくなったと竹姫からの手紙にあった。再び会える見込みが無いのは心苦しい。竹姫は北条家からの人質であるが故に、離縁となっても国許に戻れていない。辛い立場に立たせてしまっているのだ。
「甲斐から金子が届きました。姫様からの文もございます」
そう言って入って来たのは【望月六郎】であった。六郎は甲斐からの同行を唯一許された、身の回りの世話を兼ねた護衛役である。六郎から受け取った文に目を通すと、そこには竹姫の手で書かれた美しい文字が並んでいた。しかし、内容はとても切ないものであった。
「六郎、お竹からの文には、母上が心労で倒れたとある。何か聞いておらぬか」
「実は、今川家に嫁いだ黄梅院様が急な病にてお亡くなりなったそうです。三条の方様は力を落とされたそうです」
「なんと、梅はまだ二十六だぞ。まさか暗殺されたのか」
「いえ、黄梅院様は龍王丸様と今川氏真様を立て続けに亡くしてから、体調を崩されており、風邪を拗らせたそうです。最後は娘の鞠姫様に看取られ、婿の今川範康様に鞠姫様を託して、眠るようにお亡くなりになったそうです」
「そうか、母上には儂も迷惑を掛けている。元気である、心配無用と文を書こう」
「それが宜しいと存じます。ただ、見性院様が黄梅院様の死を北条家の陰謀だと言っているそうです。気掛かりな事です」
「見性院、雪の事か。雪は情の深い女子であったからな。梅の死を受け入れられぬのも無理からぬ事じゃ。しかし、北条家の陰謀と言ってしまっては何かと面倒な事になりそうじゃな」
「はい、五郎様も見性院様に同調し、今川家と北条家に対して不信感を洩らされているそうです」
「何だと、五郎は武田の棟梁ではないか。父上の耳に入れば問題となろう」
「いえ、大殿様は既に承知のようです」
望月六郎には真田幸隆からの報せも届いていた。真田の調べでは、不信を煽っているのは穴山信君であるという。穴山は今川家が塩の荷止めをしていると疑っていたそうだ。しかし、荷止めの事実は無く、商人は関銭の高い穴山領を避けていただけであった。越後を得た事で信濃への塩の道が変っていたのだ。
しかし、父上は穴山の不信を放置しているという。父上自身が北条と今川に不信を抱いているのである。一つは関東から追われて来た仏僧の影響であるそうだ。更に能登畠山氏の残党が北条領に逃れた事と、今川家においてお爺様の武田信虎が立場を得た事を不快に思っているのだ。
「お竹は大丈夫であろうか」
廃嫡された身とはいえ甲斐には親しい者達が残されている。お竹の身を案じているとドタドタドタと足音を立てて茶々麿が戻って来た。
「おいちゃん。北条って奴も、仏さんに喧嘩を売る悪い奴やねんて。おとんが懲らしめたるって言ってはったわ」
茶々麿の無邪気な言葉に言い知れぬ不安を感じたのであった。
~人物紹介~
鵜殿長照(1531?-1562)母は今川義元の妹とも言われていた。
鵜殿真鶴(1548-1606)名前は架空。史実の西郡局
鵜殿千鶴(1549?-?)名前は架空。史実で深溝松平伊忠の室
鵜殿田鶴(1550?-1568)史実では飯尾連龍の室。椿姫
飯田須和(1555-1637)雲光院。後に従一位を授かる女傑
茶々麿(1558-1614)教如。顕如の子。




