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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
112/117

いざ、京都へ。その五(南蛮)

誤字訂正ありがとうございます。かなり読みやすくなりました。

 1569年初夏 京都 ロレンソ了斎


「イルマン・ロレンソは武蔵守の事をどのように感じましたか」


 北条武蔵守様と面会を終えてから教会堂に戻るまでの間、フロイス様はずっと考え込んでおりました。


「お声を聴く限りでは穏やかなお方とお見受けします。ただ武蔵守様のお話しは、私には難しく解らないことばかりでありました」


 坂東の大大名である北条武蔵守様が上洛している事を知り、フロイス様は清原枝賢様の伝手を頼りに面会を申し入れたのです。坂東には耶蘇教の教えは広まっておりませんが、フロイス様は織田信長様との面会で手応えを感じておりました。更に北条家が坂東において寺社と争っているとの噂も聞こえておりましたので、必ずや布教の許しが頂けると確信していたのです。


 武蔵守様は献上品を見て大層お喜びになりました。まずは地球儀に興味を惹かれたようです。フロイス様が大地が丸い事を説明するとすんなりと理解された様子でした。「南蛮の国々は細かく描かれているが、新大陸や東洋は想像で埋めているところも多いのであろうな」と感想を述べらたのです。


 見る事の出来ない私にはよく分かりませぬが、地球儀には正確な部分とそうでないところが有るようです。フロイス様の動揺が感じられました。更に武蔵守様は地球儀を傾けて飾る様に指示されました。フロイス様が何故にと問うと「夏と冬で日の長さが違う訳を教える為じゃ」と仰せになったのです。


 武蔵守様は天文学にも造詣が深い事が窺い知れました。フロイス様との問答の中で暦の違いについても意見を交わしていたのです。


「南蛮の暦では二十四節気と毎年の日付が一致するそうじゃな。暦の制定は陰陽寮の管轄故、公言を憚れるが中々に面白い」


「はい、農作物の収穫に関わる事を日付で識ることができます。武蔵守様は暦を変える事をお考えでしょうか」


「いや、時期尚早であろうな」


「何故でございましょう」


 武蔵守様は二つの理由から耶蘇教の暦を採用しないと申されました。一つは暦を普及させる費用が莫大になるというものです。


「民は月齢を見て、今日が何日であるかを知る事ができる。月齢に沿わぬ暦を普及させるのは困難じゃ」


 そう前置きした上で、グーテンベルクの技術が日ノ本に伝われば民に周知する事も叶うかもしれないと申されました。もう一つの理由は二月(フェブラリオ)を二十八日としている事に合理性が無く、南蛮の宗教に由来する点を指摘し、朝廷の陰陽師には受け入れられぬと仰せになりました。


 献上品のお披露目の間だけでも、武蔵守様の学識は驚くほどのものでありました。ところが耶蘇教の教義を伝える段になると、武蔵守様はあまり関心を示されなかったのです。


「五常五倫を損なうものでなければ、どの様な宗派であれ受け入れよう」と仰せになったのです。フロイス様は意気込んで「ならば耶蘇教の布教をお認め下さいますか」と申し入れました。


「もちろん構わぬ。しかし、耶蘇教側にその覚悟があるのか」と問い質したのです。


「如何なる困難があろうとも、正しい教えを広めることが我等の使命でございます」とフロイス様が答えると武蔵守様は更に問い質しました。


「では、間違った教えとは何であろうか」


 この問い掛けに対して、フロイス様は仏僧の堕落を訴えたのです。しかし、武蔵守様は同意しませんでした。


「間違っておるのは、教義を曲げて私利私欲を貪る破戒の者共であって、教義そのものには問題がないように思う」


 私は武蔵守様の言葉に衝撃をうけたのです。これは初めて耶蘇教の教義に触れた時と同質のものでした。武蔵守様のお考えは、耶蘇教を説いたキリスト、回教の教えを説いたムハンマド、仏教の教えを説いたシャカ、これらは全て、人が人として正しく生きる為の教えであり、等しく価値があるものだと仰せになりました。


 そして、間違っているのは教えを私欲の為に誘導した権力者である。その呪縛からは如何なる宗教も逃れられず、どの宗教にも宗派闘争と、異教徒の尊厳を踏み躙る殺戮の過去があるのだと申されたのです。


「耶蘇教もそうなのでしょうか」と私は思わず尋ねてしまいました。武蔵守様は「どうであろうな」と答えを流して、再度、フロイス様に問い掛けました。


「今の耶蘇教に回教徒や仏教徒を隣人と見做す事は叶うのか。隣人を愛せよとはデウスの教えでもあるはずじゃ。その覚悟があれば、いつでも関東に下るがよい。伊豆の下田に南蛮寺を建立して布教を認めよう」


 フロイス様は押し黙ってしまいましたが、辛うじて声を絞り出したのです。


「武蔵守様は耶蘇教の教えが間違っているとお考えなのでしょうか」


 フロイス様の強張った様子に対して、武蔵守様は諭すように申されました。


「いや、正しい教えの一つであると思う。されど些か狭量であるとは感じる。回教徒にも言える事だが残念な事であるな」


 そしてフロイス様に対して一人で決めるには及ばない。コスメ・デ・トルレスと相談せよと仰せになったのです。トルレス様は日ノ本の文化や風習に理解があり、日本人や日本文化を尊重する事が耶蘇教の布教に必要だと説いたお方です。宣教師の中で武蔵守様の考えに最も近い方なのかもしれません。


「武蔵守様はトルレス様をご存知なのでしょうか」


「噂では勇敢で優れた海賊衆であり、相手の心を思い遣る聖人であると聞く、一度話をしてみたいものだ」


 武蔵守様はトルレス様が、新大陸からモルッカ諸島への航海を成功させた実績を賞賛した上で「日ノ本まで北上していたなら、西風を捕まえて新大陸まで戻れたであろうな」と仰せになりました。


 教会堂に戻ってからもフロイス様は一人で考え込んでおりました。結局、フロイス様が武蔵守様に対してどの様な印象を抱いたのかを教えてくれることはありませんでした。



 1569年 七月 フィリピン セブ島サンペドロ要塞 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ


 大藩王国の使者と名乗る東洋人が現れた。ジョージ・タイラーノという若者とアン・カザマソンという若い女性であった。男はワイン色の燕尾服を羽織り、女は本国の宮廷でもめったにお目に掛かれないような上質の絹製ドレスを纏っていた。


「フィリピン総督の【ミゲル・ロペス・デ・レガスピ】殿で間違いないな。貴国の軍勢が藩王国の勢力下であるパナイ島に攻め入って来たので撃退した。二隻の船は拿捕し百二十名を捕虜としている。損害賠償と身代金を支払うのであれば、船舶と捕虜の返還をする用意があるが如何であろう」


 使者の報せに目の前が真っ暗になった。私財を全て投入した遠征事業が頓挫した瞬間であったのだ。それは虚報ではなかった、なぜなら二人の使者は捕虜として我が孫【フアン・デ・サルセド】を伴っていたからである。フアンの顔はこれ以上無い程に蒼白であった。きっと儂の顔も同じようなものであろう。



 この時代、ポルトガルとイスパニアは大航海時代を迎え、植民地の獲得に躍起になっていた。教皇の定めた子午線を境に東側をポルトガル国王、西側をイスパニア国王が領有する事になったのだ。


 この条約によりイスパニアは新大陸の大半を得たが、アフリカからインド、アジアへ至る航路はポルトガルのものとなった。ポルトガルはモルッカ諸島の香辛料貿易の利権を独占することになったのである。一方、イスパニアは香辛料を求めて、新大陸からモルッカ諸島への進出を目指した。しかし、モルッカ諸島から新大陸へ帰る航路の開拓が難航していたのである。


 イスパニア国王フェリペ二世はメキシコの副王に対してモルッカ諸島への遠征を命じた。副王ベラスコは遠征隊の司令官に私を推薦したのである。私は高齢を理由に再三辞退したが、イスパニア国王直々の密命を断る事はできなかった。


 レガスピ遠征隊は【アンドレス・デ・ウルダネタ】神父を副官として、兵士と水夫の総勢三八〇名が四隻のキャラック船に分乗し、一五六四年十一月にナビダッド港を出港したのである。途中一隻が逸れてしまったが、残りの三隻と三百名にて太平洋を横断し、ビサヤ諸島の一つサマール島に上陸を果たした。


 しかし、サマール島のワライ族とは友好関係を結ぶことが出来なかった。その為、たちまち食糧不足に陥ってしまったが、ボホール島のセブノア族と友好関係を結ぶに至り、セブ島に拠点を築けたことで危機を脱したのだ。更にウルダネタ神父が北太平洋の西風を捕まえて帰還航路の開拓に成功し、メキシコから二百名の援軍が届いたことでようやく軌道に乗ってきたのだ。


 しかし、イスパニアのモルッカ諸島進出を阻もうと、テルナテ(インドネシア)に駐留していたポルトガル艦隊がセブ島の港を封鎖してしまったのだ。半年にも渡る睨み合いはポルトガル艦隊内で疫病が発生した事で終息した、港の封鎖は解かれ、一旦は窮地を脱したのだ。しかし、ムスリム圏であるブルネイ王の命令により、スールー諸島のモロ族がセブ島の友好部族であるセブノア族を襲撃したのである。


 生き残ったセブノア族と共にイロンゴ族の征服と食糧の確保を目指し、パナイ島に根拠地を移すことになったのだ。その先遣隊が大藩王国の軍勢の手にかかり全滅してしまったというのだ。


「大藩王国とは何処にあるのだ。そんな国は聞いた事もないぞ」


「新しい国であるからな。知らぬのも仕方あるまい」


 大藩王国は東蕃と呼ばれる島を領した倭寇が立ち上げた国であるようだ。藩王と呼ばれる多くの軍閥領主が集まり、陳家藩の陳東大藩王を首班とした連合国であるという。大藩王国は既にルソン島のリンガエン湾に拠点を築いており、イロカノ族を従えているとジョージ・タイラーノは語った。


「そなたの孫は身代金無しで返してやろう。報告する者が居らねば判断も下せぬであろうからな。孫からパナイ島での戦の様子を聞くがいい。返事は明後日まで待ってやる故、じっくりと考える事だ」


 使者の二人は明後日まで砦に留まるようだ。一室を宛がってからフアンの報告を受けた。


挿絵(By みてみん)


 イスパニアが新大陸を少数の兵力で制圧できたのは、現地住民の協力があったからである。パナイ島の制圧も同じ手法と取るはずであった。戦闘は船からの艦砲射撃とコンキスタドールによる銃撃で住民兵士は驚愕して敗走するのが常であった。そこに友好的なセブノア族を嗾けてイロンゴ族を略奪させるのだ。こうして住民の居なくなった集落に要塞と居留地を築き、友好的な部族を貴族化して被征服部族を統治するのである。


 艦砲砲撃を知ってか知らずかイロンゴ族は岸から離れた小高い丘の上に布陣していた。仕方なく数門の大砲を船から降ろし戦闘態勢を整えたそうだ。こちらはコンキスタドール百名、セブノア兵二百である。敵方は五百程であったが、弓と槍だけの住民兵に負けるとは思っていなかった。砲撃を加えると敵方は算を乱して森の中に逃げ出したのだ。


 セブノア兵が森の中に追撃に出た途端に異変が起こった。イロンゴ兵が逃げた両脇から倭人の鉄砲部隊が現れてセブノア兵に対して十字砲火を浴びせかけたのである。三度に渡る一斉射撃により、セブノア兵は文字通り全滅してしまったというのだ。


「戦いは陸の上だけではありませんでした。時を同じくして海上でも戦いが始まっていたのです」とフアンは述懐した。パナイ征服に動員されたのは陸上部隊三百の他にも、二隻のキャラックの操船の為、水夫八十人がいた。陸上の戦いに気を取られて、二隻は倭寇の襲撃に気付くのが遅れてしまったのだ。


 サン・フアン号に対しては林鳳の船団が乗っ取りをかけ、サン・ジェロニモ号に対しては阮文孝が切り込んだのである。船上の戦いは凄惨を極め、半数のイスパニア人水夫が戦死する事態となったのだ。船と住民兵を失ったコンキスタドールは降伏するしかなかったのである。


「フェリペ兄さんが、メキシコから戻れば挽回できるのではありませんか」孫の一人【フェリペ・デ・サルセド】はサン・ペドロ号にて二度目の回帰航路の途上にあるはずだ。香辛料をメキシコに届けて、増援を連れて戻ってくる手筈であった。


「サン・ペドロ号が戻るまで半年以上かかる。我らに残された船はサン・パブロ号の一隻だけだ。それに、この要塞には二百名ほどのイスパニア人しか残っていない。敗戦が伝わればセブノア族も我等を見限るだろう、とてもじゃないが戦える状態ではない。もちろん賠償金も身代金も払える訳がないのだ」


 フアンを労い、休むようにと退出を促した。一人になるとこれまで生きてきた七十年間の出来事が思い出された。若き頃、弁護士を志しバレンシアで公職を得た事、メキシコに移住し妻を得て九人の子供たちにも恵まれた。副王の引立てによりメキシコ市長を務め、メキシコ銀を扱う造幣局でも責任のある立場であった。妻を亡くして二十年、子供達も自立し私自身は思い残す事もなかったが、遠征隊が失敗した事は悔やまれてならなかった。


 物思いに耽っていると扉を叩く音で現実に引き戻された。入室を許可すると使者のアン・カザマソンが入って来たのである。


「レガスピ提督、お困りのようですね。如何するか心は決まりましたか」


「ふん、どうにもならないな。我が遠征隊は失敗に終わったようだ。せめて同朋には人道的な配慮を願いたいものだ」


「あら、侮って貰っては困るわ。異民族の虐殺に躊躇が無いのはむしろ貴方がたではなくて。我が主は異民族や異なる宗教であろうと、有能で忠実であれば受け入れる度量があるのよ。異文化を理解しようとしない貴方達の方が野蛮なのではありませんか」


「偉そうな物言いだな。しかし容易に殲滅させる力がありながら、態々使者を送り交渉を持ちかける真意が解らない。そなたの王は何を考えているのだ」


「さあ、何をお考えなのでしょうね。主はイスパニアとポルトガルが世界を二分して支配する事を快く思ってはいないわ。その地に住まう者を蔑ろにする不遜な考えであるとね。けれども、提督の行いには敬意を示されていたわ」


 アン殿の主は大藩王国の同盟国であり、四百万人が一年間消費する量の農地を領し、その首都は四十万人が住まう大都市であるという。その軍事力は二十万人にも及び、所有する火縄銃は二万丁を数え、ポルトガルとイスパニアが共に攻め入ろうとも容易く撃退できるとのことであった。しかし、交易に関しては理解を示しており、我等の行いを勇敢な水兵であると称賛しているというのだ。


「提督が我が主に従うのであれば、身代金を肩代わりし、交易事業に資金を提供しましょう」


「儂が断ったらどうするつもりだ」


「ふふっ。簡単な事よ。捕虜を奴隷として、鹵獲した船を使い自ら交易を行うだけよ。何も変わらないわ。奴隷達が自分たちの身代金を稼ぐことができたなら、解放する事も約束しましょう」


「儂は異教徒に従う事はできない。部下には申し訳ないが諦めて貰うしかない」


「本当に面倒なのね。無理に臣下になれとは言わないわ。ただ出資者に対する敬意は払えるかしら。もちろん身代金は後から回収する。私の権限で譲歩できるのはここまでよ」


「少し考える時間を貰えないだろうか、儂には異教徒を理解できるのか解らないのだ」


「難しく考えすぎなのよ。異教徒であろうと民族が違おうと、人である事に変りはないわ」


 そう言うとアン殿はスルリとドレスの紐を解いたのだ。ドレスが床に落ち、若々しい肢体が露わになった。


「なんの心算だ。儂は見ての通りの老人だ。妻が亡くなりもう二十年になる。そなたを抱く事はできない」


「試してみなければ何も解らないわ。異教徒も異民族も同じよ」


 そう言うとアン殿は私を押し倒したのだ。抱く事は無理だと思っていたが、アン殿の手管は驚くべきものであった。ベッドの上の彼女はまさにコンキスタドールであった。文字通り私は五十も歳の離れた彼女に征服されたのである。

~人物紹介~

ルイス・フロイス(1532-1597)1563年長崎に上陸。1565年上京。1569年信長と謁見。

ロレンソ了斎(1526-1592)1563年修道士となる。1569年朝山日乗と議論。

コスメ・デ・トーレス(1510-1570)1549年ザビエル・フェルナンデスと共に鹿児島上陸。「適応主義」を提唱。1546年ビリャロボス遠征隊の一員としてメキシコからモルッカ諸島に横断。


ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(1502-1572)初代フィリピン総督エル・アデランタード

アンドレス・デ・ウルダネータ(1498-1568)ウルダネータの航路を開拓

フェリペ・デ・サルセード()ミゲルの孫。回帰航路要員

フアン・デ・サルセード(?-1576)ミゲルの孫

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― 新着の感想 ―
[一言] コスメ・デ・トーレスの適応主義な宣教師というと、日本初の西洋式総合病院を建てたルイス・デ・アルメイダが有力候補ですかね。 将来ヴァリニャーノや、教え子のマテオ・リッチらが来るなら、西洋式病院…
[一言] 何が凄いってまだ日本統一とか全然な頃なのに既に外国とやりあってるのが他と一風違って凄いですな!
[良い点] もし北条家の領土にキリスト教が入り込めるとしたら、トルレス(トーレス)の一派の方が布教活動をさせやすいのかも知れませんね。 フロイスは明智光秀を悪魔呼びするなど、キリスト教布教に協力的で…
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