いざ、京都へ。その三(幕府)
1569年春 京都 伊勢邸宅 北条氏親
公方様への見参を五日後に控えて入洛する事となった。京都での宿所は伊勢宗家の屋敷である。伊勢貞良殿と共に明智光秀が出迎えてくれた。
「貞良殿、先ずは伊勢守の叙任おめでとうございます。また、宿所として厄介になります」
伊勢貞良殿は伊勢宗家が代々名乗った【伊勢守】に叙任し、位階を従四位下に進めていた。丹波国守護と幕府の政所執事となり公方様を支える立場となっていた。
「なんの、武蔵守殿の上洛を厄介に思う事などあり得ません。我が家同然にお寛ぎ下され」
「忝ない。家臣共々お世話になります。光秀も息災であったか」
「はい、丹波の統治も漸く見通しが立ったところです。また、奉公衆に取り立てていただきました。一層精進する所存です」
明智光秀は丹波国守護代として、伊勢守殿に替わり丹波国の統治を任されている。奉公衆とは幕府の武官官僚であり、公方様直属の軍事力である。
「武蔵守殿の助言をもらいたい事があるのだ」
伊勢守殿の相談は幕府体制の強化に関わる事であった。足利幕府には奉公衆という独自の軍事力はあったが規模は大きくなく、軍事力を地方の大名に依存しているのが現状であった。
「光秀も奉公衆に加えたが、まだまだ足りない。和泉殿を奉公衆に加えたいが如何であろうか」
「伊勢守殿の頼みとあっては否やはありませぬ。氏光、良いな」と同席していた北条氏光に同意をうながした。
氏光は「身命を賭してお仕えします。ご指導よろしくお願いいたします」と答え、奉公衆に加わることが決まった。相伴衆となっている北条氏尭と共に幕府を支える事になる。
「奉公衆の拡充は急務でありますが、財政の基盤が無ければ維持が難しいのではありませんか」
「そこは武蔵守殿のやり方を真似させてもらおうと思う」と伊勢守殿は楽しそうに笑った。
商業を支配下に収めて段銭を稼ぐというものだ。三好家の堺、織田家の津島と同様の事を幕府主体で行うというものだ。この提案には織田信長も大いに賛同し、織田信長と伊勢守殿が近付く切っ掛けにもなっていた。
「織田殿が堺と本願寺に対して矢銭を求めたのと同様に、幕府も大山崎の町衆に矢銭を求めたのだ」
「大山崎ですか。町衆の多くは岩清水八幡宮の神人と聞いています。都の裏鬼門を護る八幡宮が何か言い出すのではありませんか」
「油座の特権で繁栄した大山崎は斜陽にあります。馬借や廻船を扱う者達を代官に取り立てて大山崎を幕府直轄領とする算段です」
大山崎の油座は荏胡麻油の専売で発展したが、新たに開発された寺社の菜種油の勢いに押されて往時の勢いを無くしていた。しかし、淀川の水運に対しての影響力は健在であったのだ。
奇しくも北条家が荒川や利根川で行った手法である。江戸衆として河波衆と共に水運を担っていた【藤田行政】を幕府足軽衆に取り立てて代官とし、淀川の流通を幕府の影響下に置く考えだ。
岩清水八幡宮の神人は適性に応じて、幕府の政所や藤田行政の組下に加える、岩清水八幡宮への代替の神領は宇治の一部と少なかったが、【八幡踊り】が新たな財源となっており、八幡踊りを畿内に広める事で調整を図ったのだ。
「新たな産業を興したいのだが、座の影響力は侮り難いものがあるのだ」
「ならば、鉱山は如何でしょうか。生野の銀山は京からも近く幕府の直轄とするのに丁度よいのではありませんか」
「生野銀山は山名祐豊の領地じゃ、六角寄りの勢力とは言え、攻め取るには大義名分が必要となろう」
「尼子の一族が再興軍を催すとの噂を聞きました。山名が後押しし毛利と争うはずです。時機を見て毛利に肩入れし、山名討伐を大義名分にしては如何でしょう」
「なるほど、毛利家は将軍家に対する心証も悪くない。良き思案じゃな。光秀、但馬に人を入れて探らせよ。出来るな」
「はい、お任せ下さい。それにしても武蔵守様は悪党でございますな」
「ははは。褒め言葉と思って良いのじゃな。ところで北畠と織田の戦はどうされるのでしょう」
「それが困りものなのだ。隠居の北畠具教が北畠具房の上洛を認めず戦となった。公方様も朝廷に仲裁を頼んだところじゃ」
「伊勢の大乱は東国勢には辛いものがあります。遠洋を航海できる船はまだ少なく、荷が止まるのを心配しています」
「承知した。我等も伝手を探し早期の調停に努めよう。ところで朝廷への弁明は大事ないのか。二条晴良様などは承久の戦を引き合いに出すほどだそうだ」
鎌倉の時代、関東を掌握し朝廷の権威を地に落としたのが北条得宗家である。承久の戦では朝敵となりながらも上皇に刃を向けたのだ。その後継を自認する北条家が源頼朝公を顕彰し、寺社に干渉した事を問題視した。その北条一門の勢力が畿内に及んだ事で和泉北条家が寺社を撃ち壊すのではと流言飛語が広がり、公家衆や畿内の寺社が疑心暗鬼となっていたのだ。
「北条家が成敗しているのは、統制を無くした行人共だけではありませんか。馬鹿馬鹿しい話ですが、誰かが煽っているのやもしれませぬな」
「うむ、耶蘇教の布教で寺社の目は逸れたとはいえ、公家衆の中には警戒している者もいるようだ」
「北条の名に過剰な反感があるのでしょうか。ならば、和泉北条の名を伊勢に戻しては如何でしょうか」
「なるほど、名案じゃな。伊勢宗家としても歓迎するぞ」
事態の急展開に氏光は目を白黒させながら「承りました」と答えた。まだ、実感がないようだ。氏尭叔父上には儂から説明した方が良さそうだな。
◆◆
足利義周様との謁見には鎌倉公方・足利義氏様と関東管領・上杉輝憲殿、それに北条氏光を伴っての見参となった。足利義周様は二十代前半と思われる凛々しい若者であった。伊勢貞良殿の話によると若さゆえの真っ直ぐな心と家臣の言葉に耳を傾ける柔軟性を持った懐の広いお方であるそうだ。
公方様の脇には、幕府方として伊勢貞良殿、三淵藤英殿、細川藤孝殿が並んでいる。そして、少し離れたところに座している仏頂面の老人が松永久秀殿であった。足利義氏様、上杉輝憲殿、そして北条氏親の順で、足利義周様の将軍就任の祝辞を述べたのである。
「関東の政はどうなっておるのだ。北条が全てを取り仕切り、関東公方も関東管領もただの飾りだと言う者がおる。しかし、そなた等の様子を見るとお互いに隔意があるようには見えなんだのだ」
公方様の言葉に幕臣達が一瞬緊張の色を見せたが、公方様は純粋に疑問に思っている雰囲気であった。足利義氏様がにこやかに対応する。
「関東公方たる私からご説明いたしましょう。確かに北条家が関東にて最も力を有しております。しかし、将軍家をないがしろにしている訳ではございません。足利の忠臣として関東を統治しているのです。それにこの三人は幼き頃から共に学んだ朋輩でもあるのです」
十一代将軍足利義澄様の『関東に平穏をもたらすべし』との命令に忠実に従っているというのが、北条家の大義名分である。その姿勢は初代早雲公から四代に亘っても続いており、足利幕府の秩序を壊すのではなく、あるべき姿に戻していると喧伝しているのだ。
関東の大名には鎌倉の時代よりも以前から続く名族も多く、新興の北条家に素直に頭を下げられない者達もいるのだ。由良氏・成田氏・足利長尾氏・牛久(白井)長尾氏・佐野氏・土岐氏などは名目上、鎌倉公方に従い北条氏に協力している立場なのだ。
北条家としても協力的な国人衆に対しては高圧的な対応を避けて、千葉氏や太田氏のように【次世代を北条家の譜代化する】ことで時間をかけて取り込んでいる。関東管領上杉家は国人衆と北条家の間の諸問題を調整する役目を担っているのだ。
「関東の秩序を乱しているのは、朝廷の統制から離れた寺社と関東管領の意向を無視している国人衆の者達です。これらの者達にも同情すべき事情はあります。戦乱の世であったがゆえに自衛の手段が必要だったのです。しかし、その自衛の為の武力が暴走しているのです。暴走した武力は正さねばなりませぬ」
「噂とはあてにならぬものだな。武衛から直接話が聞けた事は得難き経験である。武衛を範として将軍としての務めを果たそうと思う」
「畏れ多きお言葉にございます。公方様には伊勢殿を始めとした幕臣方、上洛をお支えした織田殿や松永殿がおられます。よく相談すると良いかと存じます」
「うむ、そなたらの忠心を嬉しく思うぞ」と公方様は終始ご機嫌な様子での会談となった。関東の政は関東公方が執り行い、足利義氏の嫡男【梅千代王丸】が元服の暁には足利義周様の養子となり、次代の関東公方となる事が決められた。更に関八州の守護任命権が与えられたのである。
関東管領上杉家には【屋形号】【五七桐紋】【裏書御免】【塗輿御免】【白傘袋・毛氈鞍覆】という五つの免許を賜り、幕府にとって特別な大名であると公認されたのだ。北条家には明国以外の他国との直接交易許可が与えられた。既成事実として交易は行われていたが、幕府によって公式に認められたのである。
関東公方と関東管領に対する厚遇と比べると北条家を牽制する意図も垣間見えたが、実利を得る事に成功し、無事に会談を終えることとなったのである。
◆◆
会談の翌日、松永久秀殿から面会の申し出を受けるとの文が届いた。松永久秀は会談の最中も会話に加わる事無く、仏頂面で話を聞いていただけであった。そのため改めて面会の申し出をしたのだ。松永邸を訪れると庭の東屋に案内された。東屋の前には柳生宗厳が待ち構えていた。
「柳生殿、ここは茶室であろうか、ならば大小を預けよう」と言って刀を預けると、柳生宗厳は驚いたような表情で刀を受け取った。
「武蔵守様から刀を預けると言っていただけるとは思っておりませんでした。忝く存じます。我が主は茶室の中にて待っております。お入りください」
茶室は四畳半の狭い部屋だ。茶釜がシュンシュンと音を立てており、床の間には【一花開天下春】と書かれた掛け軸があり、一輪の梅を差した花入れと香炉が置かれていた。松永殿は瞑目して座しており、隣に座っていた中年の男が「茶頭を務めます【山岡宗無】と申します」と声を掛けてきた。
「掛け軸の書は弾正殿が書かれたのでしょうか。見事なものです」
「はい、我が主の手となります。武蔵守様は茶道の心得がお有りでしたか」
「いえ、関東の無骨者ゆえ上方の作法には慣れませぬ。ところでこの茶釜は平蜘蛛の茶釜ではありませんか」
そう問い掛けると松永久秀はピクリと薄めに目を開いた。山岡宗無は「お目が高い」とにっこり微笑むと茶釜の由来を話してくれた。久秀はまだ一言も喋っていないが平蜘蛛まで持ち出しているのだ。もてなす気持ちは有るように感じられた。お茶を喫し終わると松永久秀が語りかけてきた。
「如何でしたかな」その表情は硬いままであったが、口調はゆったりした軟らかいものであった。
「はい、美味しゅうござる。ゆったりとした気分となり申した」と素直に感想を述べる。
「関東の雄たる武蔵守殿が某如きに面会を望むとは如何なる理由でありましょう」
「弾正殿に興味があるのは勿論ですが、三好長慶公のお話をお伺いしたいと思った次第です」
「某など取るに足らぬ者じゃ。大殿様の噂など巷に溢れているではありませんか。堺公方を見限った変節漢、嫡子の死に気が触れて弟を殺し、長幼の序を乱して家督を指名し家を割った男だとな。語る事などござらぬ」
「そうは思えませぬ。何より弾正殿が今でも長慶公の意思を継いでいるように思われます」
「ふん、御為ごかしを申されるな。長慶公の御気持ちなど誰にも解らぬ」
「それならば長慶公に対する印象をお話ししましょう。聞いていただけますか」
久秀は「うむ」と頷くと静かに目を閉じた。
三好長慶は父を自害に追い込んだ【木沢長政】の仲介で、父の仇である【細川晴元】に仕えた。仇敵の配下となりながらも力を蓄え、細川氏綱を擁して細川晴元から離反したのだ。その後、足利義輝・細川晴元を近江に追放し天下人となったのである。しかし、三好長慶は幕府を滅ぼすことをしなかった。足利義輝と和を結び幕閣となったのだ。
「長慶公は真に太平の世を望んでいたのではないかと思います。武家の争いを制しただけでは足りないと考えたのではないでしょうか」
三好長慶は将軍家との争いの中で九条家の後押しを受けていた。将軍家を推す近衛家に対抗するために必要な事であったが、その九条家が本願寺顕如を門跡に列したのである。三好長慶にとっては本願寺もまた父の仇のひとつであったのだ。丁度、将軍家を懐柔し、一方の仇である細川晴元を排斥したばかりであった。
「長慶公は武家の争いを収めただけでは足りないと考えたのではないでしょうか。弾正殿が興福寺を押さえた事で、公家衆と寺社の得体の知れない脅威を知っていたのだと思われます」
幕府の中で確固たる地位を確立し、寺社の横暴に対する力を蓄えようとしていた矢先、次代を託すべき嫡男三好義興が病を得て身罷った。三好長慶の悲しみはどれ程であったのだろう。
「義継殿を後継に指名したのも、公家衆に物申す事ができると考えてのことと思われます。ただ、一門衆の理解は得られなかったでしょう」
三好長慶の腹心であった次弟【三好実休】は既に討死しており、四弟【十河一存】と五弟【野口冬長】も亡くなっていた。唯一残っていた三弟【安宅冬康】は三好家の有様を真に憂いていたのだと思う。三好長慶の威光によって三好家が成り立っている事を安宅冬康は切実に感じていたのではないだろうか。
「安宅殿は長慶公亡き後の三好家の行く末を思い、幕府と距離を置き本国にて地力を蓄えるべきだと訴えたのではありませんか。ただ、長慶公には受け入れ難いものだったのではないかと推察します」
「ふん、まるで見てきたかのような申しようじゃな。何故そのように思うたのか聞かせて欲しい」
「それは北条家も関東にて古河公方や関東管領家、それに寺社との争いを続けてきたからでしょう。畿内ほど複雑ではありませぬが、それなりに柵はござる。幸いな事に北条家はこれまで四代の長い時を掛ける事が叶いました。一代でそれを成し遂げようとした長慶公には敬意を払わざるを得ません」
「大殿様には時間が足りなかったと申すか。そういう見方もあると心に留めておこう」
「某の勝手な想像にしか過ぎませぬが、長慶公の思いを偲びたいと存じます」
松永久秀は微かに頭を下げたようであった。そして正面に向き直り質問してきた。
「大殿様は本願寺を降す術が見つからぬと仰せであった。武蔵守殿なら如何なる手段をもって本願寺に当たるであろうか」
「本願寺の権威を落とす方策はすぐには思い浮かびませぬ。ただ、戦となるのであれば厳しい戦いとなるでしょう。まずは大和川の瀬替えでも行いましょうか」
その言葉だけで松永久秀はハッとして攻略の内容を理解したようだ。石山本願寺は淀川と大和川の豊富な水量に護られた要塞である。その水量を減じる事から手を付けなければ攻略の足掛かりさえ掴めない城なのだ。
「ふん、気の長い事じゃな。ただ北条家らしい面白い案ではあるようだな」
松永久秀の少し柔らかな表情を見られた所で暇乞いを告げ散会となったのである。翌日、茶頭を務めた山岡宗無が三人の少年を連れて訪ねてきた。
「我が主、松永弾正はこの三人を武蔵守様の小姓に加えて頂きたいと申して居ります。受け入れて頂けますでしょうか」
一人は山岡宗無の養子で【山岡孫次郎】あとの二人は柳生宗厳の子で【久斎】【徳斎】という兄弟であった。受け入れる事を伝えると、山岡宗無は松永久秀からの言付けを伝えてきたのだ。
「もし孫次郎が一角の者となりそうであれば、三好の名を与えて頂きたいのです。取るに足らぬ者であれば商家でも僧侶でも構いませぬので、心安らかに過ごせるようにして頂きたいと申しております」
松永久秀が託したのはどうやら三好家の縁者であるようだった。おそらく長慶公か三好義興の血を引くものであろうと思われた。
「承りました。弾正殿にお伝え下され。きっと三好の名に恥ずかしくない者に育て上げてみせましょう」そう告げると山岡宗無は「お頼み申し上げます」と言って深く頭を下げたのである。




