いざ、京都へ。その二
1569年春 岸和田城 北条氏親
「氏尭叔父上、和泉国は如何でしょうか」
「まだ、半年ほどであるが気候も良く、住みやすそうな土地じゃ。関東とは勝手が違い戸惑いも多い、皆には苦労をかけておる」
この半年で所領安堵状の発給も終わり、漸く所領の概要が掴めて来たのだそうだ。和泉国の統治にあたり久留里衆と江戸衆からも異動を行っていた。まず上総久留里衆は氏尭叔父上の嫡男【北条氏忠】が旗頭に繰り上がり、次男【北条氏光】が和泉衆の旗頭となり分家を興した。
和泉北条家を支える家老衆には【山角定勝】【石巻康敬】【大藤親基】の三人が就いている。山角定勝と石巻康敬は江戸評定衆の山角康定、石巻康保の弟達だ。大藤親基は根来金石斎の一門である。
「氏光も励んでおるようじゃな」
「はい、伊勢様や明智殿からも助言をいただいております。それに相模屋の助力は心強いです」
氏光は相模屋の手代【石田正継】を士分に取り立てて、勘定方の責任者に任命して財務の安定を図った。和泉の所領を得たがまだ領国からの収入は得られておらず、江戸から資金や兵糧を送っているのが現状なのだ。
戦続きであった和泉の領民を慰撫する為に、昨年の年貢は免除したからだ。和泉では領主が替わる度に緊急の役銭を強制徴収するのが常態化しており、住民は歓喜したそうだ。
しかし、この処置には協力的な住民を得られた反面、国衆や【淡輪隆重】や【真鍋貞友】といった海賊衆に侮られる事になったようだ。
「風向きが変わったのは御本城様の上洛が決まってからなのです。東国から船団を率いて上洛するなど聞いたことがないと真鍋らは鼻で笑っていたのですよ。ところが出迎えから戻った直後の顔には侮る色は無くなっていたように感じます」
紀州まで護衛の為の船を出すように呼びかけたが『一応、仰せには従いますわ』というやる気の無い態度であったのだという。しかし、紀州沖まで出迎えてみれば大船四隻を含む三十艘ほどのジャンク船と熊野水軍の大船団が現れたという訳だ。和泉水軍衆との関係はこれからだが一つ壁を越える事はできたようだ。
小田原式の統治を行うには時期尚早という事で、逃散の激しかった三ヶ村に関東から人を入れて復興させると共に小田原式農法を始めている。特産になる産業は意外とすぐに見つかっていた。綿花栽培が行われており和泉木綿として振興する方針であるそうだ。
他にも紀州蜜柑と呼ばれる唐伝来の小蜜柑を産業として興していくそうだ。また【とんぼ玉】と呼ばれる硝子細工が行われている事を知った大藤親基は小田原から瑠璃硝子職人を呼びよせて技術を高めている。そして岸和田城の改修に大きな働きをした者達がいた。【泉州石工】と呼ばれる石工集団だ。
泉州石工は穴太衆のような石積みの技術者集団ではなく、石灯籠や石臼、石碑などの石彫を得意とする技能者集団であった。しかし、石の扱いに長けており城壁の改修はお手の物であったそうだ。和泉国は豊かになる可能性を大いに秘めていたのだ。
「特殊な技術は寺社が独占している事も多いのです。関東と比べて寺社の影響はかなり強く感じます。領内に社領も多く、泉州南部には九条家の荘園もあり迂闊な事ができないのです」
「寺社に対する扱いは慎重な方がよい。関東でも今の体制を作り上げるまで十年かかったのじゃ。まずは石清水八幡宮から八幡様を勧請し、少しずつ広げて行く程度で良しとするべきやもしれぬな。特に一向衆には気をつけるように」
「はい、八幡宮と根来衆とは協力関係にあります。一向門徒が自治を行っている村に住職を派遣してもらい徐々に手を入れるつもりです」
和泉国の寺社政策に協力しているのは【卜半斎了珍】という真言宗根来寺の僧侶である。了珍は門徒衆の自治集落であった貝塚に根来寺から招かれて地頭となり、元あった寺を再興して住職となった者である。根来寺や八幡宮から招聘した社職の者を介して寺社改革を模索しているところであった。
「時間がかかるので何も変わっていないように見えるやもしれぬ。されど一歩一歩確実に積み上げていく方が近道なのじゃ。関東であれば日光のように武力や権力に任せて一気に変革するのも一つの手ではある。しかし畿内では我らにそれほどの力は無い、反発は避けられぬ」
「もちろん承知しております。寺社だけでなく、幕府や公家衆との係わりも学んで行かなければならぬと改めて感じております。御本城様が畿内に居られる間はお教えを賜りたく存じます」
畿内に居るうちは氏光と常に同行する事になる。可能な限り考え方や畿内の情報、八幡様の教えを伝えるつもりだ。氏光の言葉に頼もしさを覚え胸をなでおろしたのである。
◆◆
夕餉を済ませた刻限を見計らったように、訪いを告げてきたのは風間道雲とお絹殿であった。道雲の挨拶の後、すぐに無礼講じゃと告げる。
「武蔵守様も立派になったもんだねぇ。棟梁としての風格が備わってきたんじゃありませんか」
「そう言うお絹殿は変わりませんな。まるで物の怪のようじゃ」
「あら、物の怪ですか、あたしは弁天様の化身だと思っていたんですがね。オホホ」
お絹殿との気軽なやり取りに、同席した氏光は驚いているようであった。氏光も早雲寺で学んではいたが、お絹殿が上京してからの入門であった。
「お絹殿は大人しい控え目なお方と思っておりました。御本城様とのやりとりを拝見して、お吟殿の母御であることがようやく納得できました」
「あら、仕方ないじゃありませんか。安房守様(氏尭)も和泉様(氏光)も【無礼講】と言って下さらなければ、気軽にお話なんて出来やしませんよ」
「これは迂闊でした。以後気を付けましょう」
「武蔵守様のように誰彼構わずに【無礼講じゃ】と言うと警護の者が大変になりまする。和泉様には武蔵守様の真似は程々にしてくださいな」
「おい、おい、それではまるで儂が警護の者達に迷惑を掛けているようではないか」
「あら、自覚はございませんか。武蔵守様の無茶に猪助や藤吉郎が振り回されている記憶しかございませんよ」
軽口が一段落したところで、お絹殿は京の情勢について報告してくれた。概ね風間衆や伊勢貞運からの報告の再確認であったが、新たな情報として本願寺に武田義信殿が居る事と諏訪の足利義秋が織田家に接触している事が伝えられた。
「関東での寺社対策に関しては京ではどのような噂となっておるのじゃ」
「それどころじゃないんですよ。一時は北条家は仏敵だという者もいたのですがね。耶蘇教の布教が再び許されてしまって大騒ぎになってるんですよ」
「まさか伊勢貞良殿がまた公方様と宣教師の仲立ちをされたのか」
「いいえ、耶蘇教に入信した高山友照様達が宣教師と織田信長様の仲立ちをしたのです」
宣教師は伊勢貞良殿の後押しを必要としてはいなかった。織田信長が二条城の作事の検分をしている時を見計らい宣教師【ルイス・フロイス】は織田信長との面会を果たした。これには高山友照や結城忠正、それに公家の清原枝賢の協力があったようだ。
織田信長は宣教師との対談で何らかの有効性を見出したのかもしれない。織田信長の口利きによって宣教師達は公方様から畿内での布教を許されたというのだ。
「耶蘇教の布教許可は北条家にとって僥倖であったな。布教を許可した織田信長には感謝しなければならぬかもしれぬな。織田家の動きは如何なっておる」
「伊勢へ攻め込んでいます。とんでもない大軍って話なんですよ」
北畠家は有力な南朝勢力として、吉野と伊勢神宮を繋ぐ街道を掌握していた。本拠地の多芸は詰城の霧山城と一体化した大城郭であり、多気御所と称されて伊勢国司たる北畠家に相応しい城であった。
南北朝の融和がなった後も【伊勢国司】として、土岐・一色といった幕府から派遣された【伊勢守護】と雲出川を挟んで争ったのである。幕府の影響力が失われると、幕府方の有力な国人領主であった長野氏や関氏らに対して圧力をかけていた。
ところが織田家が伊勢を侵食すると伊勢北部の国人は織田家の傘下に入り、北畠家の圧力に対抗したのである。織田家と北畠家の間も険悪となりつつあったが、此度の足利義周の上洛では、北畠具教は松永久秀を通して協力していた。更に伊勢貞良殿の後押しもあり伊勢守護として幕府にも認められたばかりであったのだ。
「北畠具教は公方様の上洛要請を断ったんですよ。公家大名としての矜持が、公方様に頭を下げることを許せなかったんでしょうね」
織田信長は【木造具政】を通して、再三上洛を促したようだ。木造具政は北畠具教の弟ではあるが、木造家は応仁の乱では北畠宗家と争った家でもある。雲出川周辺を領し、国司と守護の争いでは常に戦乱に晒されていたのだ。その木造具政が織田方に通じた事が契機となり、織田信長の大攻勢となったのである。
「そうであったか。上洛の最中に織田信長と対面することもあろうと期待していたが難しそうじゃな」
「あらっ。武蔵守様は戦が長引くとお考えなんですか」
「さあ、どうであろうか。この一戦で北畠が滅びるとは考えておらぬ。落とし所を見つけて講和となるであろうな」
「あらあら、また予言染みたお言葉ですこと。それでは戦の様子を調べさせる事にいたしましょう」
「頼む。織田家の動きには十分気を配って欲しい。ところで商いの調子は如何じゃ。なんでも呉服の商いを始めたと聞いたぞ。造り酒屋のはずが今ではもう何を扱っているのかこちらでは解らぬな」
相模屋の扱う商品は多岐に亘っていた。関東の特産品は勿論だが最も大きな取引は【お米】である。関東では長い間、大きな戦乱も無く安定して作物が実っていた。更に都市人口の増加で銭が足りず年貢は物納となった事が重なり、江戸の町には大量のお米が関東中から集まっていた。それを畿内で捌いているのが相模屋なのだ。
「呉服屋はたまたまですよ。【茶屋】さんが困っていたから助けるしかないじゃありませんか。伊勢様にもお力添えを頂いたのですよ」
京の呉服商【茶屋】の当主【中島明延】は信濃小笠原氏の庶流であった。明延の父【中島宗延】は昨年の三好勢の蜂起に加わり、小笠原長時の旗下として討死していた。明延は兵糧調達を請け負ったのだが、三好家に対する手形が焦げ付いてしまい、呉服職人への支払が滞るまでになってしまったのだ。更に三好方として幕府より詮議を受けた。
「お絹殿、茶屋の者達は如何したのじゃ」
「今ではうちの手代として励んでおりますよ。特に息子の【中島清延】はすぐにでも番頭に上げたいくらい優秀なのです。抜けた石田正継の穴がきっちり埋まり安堵しました」
「腑に落ちぬな。茶屋といえば前公方様にも贔屓にされた大店ではなかったか。お絹殿が何かやっておるのではないか」
「武蔵守様、人聞きの悪い事を言わないでくださいな。戦の前に茶屋さんが酒造りを始めたいって言うから、少し多いなと思いながらもお米を融通しただけですよ」
お絹殿がとぼけた顔をしてとんでもない事を言い出す。お絹殿の話を聞いて驚きの声を上げたのは氏光であった。
「まさか相模屋は三好方にも兵糧を融通していたというのですか」
「和泉様、あたし等も驚いたんですよ。まさか茶屋さんがそんなことをするなんて解らないじゃありませんか」
「というのが建前じゃな」と儂が言うと、お絹殿はぺろりと舌を出して、つまみ食いが見つかった小娘のように笑ったのだ。
「流石はお絹殿じゃ。抜け目がないのう。氏光、お絹殿は河越の戦でも、敵方に大量の酒を卸して大儲けをしたのじゃ。大方、茶屋の人足に風間衆を紛れ込ませて【いつでも三好方の兵糧を焼き払えるようにしていた】のであろう」
「あら、あの時、敵方にお酒を売り込めって言ったのは武蔵守様ではありませんか。それに焼き払うなんて勿体ないことしやしませんよ。きっちり小一郎達が乱取りしてますよ」
おほほと笑うお絹殿を驚愕の眼差しで見つめる氏光に「この程度で驚いていては当主は務まらぬぞ」と叱咤激励し、氏光を支え鍛え上げるようにとお絹殿に頼んだのである。
~人物紹介~
山角定勝(1529-1603)史実では父定吉と長兄定利は国府台合戦に討死。黒備
石巻康敬(1534-1613)名胡桃城奪取の弁明のため上洛。後に徳川家臣となった。
大藤親基(架空)根来金石斎の後継。諱は氏親と金石斎から
高山友照(?-1595)ダリオ。
結城忠正(?)アンリケ。幕府奉公衆。伊勢貞孝と三好長慶の申次を務める。
清原枝賢(1520-1590)宮内卿・明経博士。吉田兼見の従弟。清原氏は明経道(儒学の研究)を家学とした家です。
ルイス・フロイス(1532-1597)三位一体を信望。三人組の必殺技ではありません
北畠具教(1528-1580)八代目伊勢国司。母は細川高国娘。六角定頼の娘婿。
北畠具房(1547-1580)九代目伊勢国司。ぽっちゃり。




