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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
104/117

海の道

 1569年正月 出羽の海 飛島 鮎川文吾


「文吾殿、凍えて死にそうじゃ。人肌が恋しゅうてかなわぬ。佐渡に戻りたいのう」


「喧しい。戻ってもお吟様に藤吉郎の務めは佐渡には無いと言われるだけじゃ」


「儂は御本城様より佐渡介を仰せつかった身であるぞ。佐渡を恙無く治めるのが儂の仕事ではないか」


「藤吉郎、儂に文句を言っても詮無き事じゃ。そもそも政を栗林義長に丸投げして、子作りしかしてなかったのはお主ではないか。お吟様も本間の後家も身籠ってしまったのじゃから用無しと言われても仕方あるまい」


 藤吉郎の愚痴は際限が無かったが、日頃の行いが悪いので擁護する訳にもいかない。江戸の御本城様より佐渡と蝦夷島を繋ぐ交易路を拡充する事を命じられているのだ。


「文吾殿、なぜ態々交易の拠点を築かねばならぬのじゃ。仲立ちをしておる南部家や安東家に任せれば良いではないか」


「藤吉郎が聞いておらぬのに儂が知っている訳がなかろう。間宮の水軍衆から何も聞いておらぬのか」


「お吟からは十三湊を再興しろとしか聞いておらぬ。詳しくは間宮殿が説明してくれるはずじゃ」


「なんとも頼りない話じゃな」



 交易は間宮水軍が主体となっていたが、佐渡衆も協力する事になったのである。



「風間殿、御加勢かたじけない」そう言って入って来たのは間宮水軍の船大将【間宮綱信】殿であった。綱信殿は間宮水軍の棟梁間宮康俊殿の御舎弟で蝦夷島交易船団の惣領である。


「間宮殿、これも主命でござる。遠慮は無用じゃ。この藤吉郎が来たからには難題も立ち所に片付けてみせましょう」


 先程までの愚痴が嘘のように、調子の良い口上である。無茶振りをされる身にもなって欲しいものだ。


「心強い事です。まずは状況から説明いたしましょう」



 十三湊は北条得宗家の庇護を受けた津軽安藤氏の管轄の下、蝦夷島との交易において重要な役割を果たしてきた。しかし、鎌倉幕府が滅亡すると窮地に立たされることになった。国司として北畠氏の入部や南部氏の台頭によって享徳の頃には津軽安藤氏の嫡流が断絶するまで地位は低下したのである。津軽安藤氏の本拠地十三湊は寂れた湊町となっていた。安藤氏の庶流も檜山安東家と湊安東家に別れて往時の勢いは無かったのである。


「佐渡衆には十三湊の再興をお願いしたいのです」


「承った。しかし、縁の無い我等が十三湊を治めては問題が出るのではないか」


「仰せの通りです。風間殿には近隣の国衆との調整にあたって頂きたい。津軽の豪族大浦氏が我等に誼を通じてきているのです」


挿絵(By みてみん)


 津軽地方には名族北畠氏が浪岡の地に御所を構えており、北畠具統(ともむね)の頃には大光寺信愛や大浦為則などと協力して津軽支配を確立していた。しかし、北畠具統が亡くなり、子の北畠具運(ともかず)が家督を継ぐと、北畠具統の弟であった河原北畠具信(もとのぶ)が反旗を翻して、北畠具運を謀殺してしまった。北畠具運の弟、北畠顕範(あきのり)は兄の遺児北畠顕村(あきむら)を後見して、浪岡北畠家を再興すると仇の河原北畠具信を討取ったのである。


 この河原御所の乱により、浪岡北畠氏は衰退する事になったが、この隙に津軽地方への影響力を強めたのが南部晴政である。南部晴政は弟の石川高信に津軽地方の統治を任せた。石川城に入った高信は大光寺氏を被官化し、大浦氏に対して一門格の久慈氏から養子を入れる事で津軽支配を強化していたのである。


「なるほど。その【大浦為信】なる人物が我等と誼を結び、津軽での地保(じほ)を固めたいというのでござるな」


(しか)り、間宮水軍としても後押ししたいところではございますが、安東水軍もまた難しい状況になっております。どれほど後援できるか難しく、佐渡衆のお力添えを願ったのです」



 問題は津軽地方だけではないようだ。出羽の海での航路にも課題があったのである。安東水軍と称される出羽の海賊衆は主筋の安東氏が檜山安東家と湊安東家に分裂していた為、纏まった大きな勢力とはなっていなかったのだ。しかし安東愛季(ちかすえ)が檜山安東家を継いだ頃から様子が変化してきたそうだ。


 安東愛季は弟の茂季(しげすえ)を湊安東家に送り込み両安東家を統一した。更に比内郡の浅利家の家督争いに介入し、浅利則祐に反旗を翻した弟の浅利勝頼を支援して浅利家への影響力を確かな物としたのである。これにより安東氏は南部氏と並ぶ戦国大名となったのである。そして、安東愛季は海賊衆の統制を強化し、外海交易にも乗り出したのである。この動きに間宮水軍も少なからず影響を受ける事になったのだ。


「例え安東水軍との海戦を制したとしても、陸の上は安東氏の所領となっておりますゆえ、地の利がありませぬ」


「なんとも面倒な事じゃ。佐渡衆が津軽に入っても手助けはできぬという事ではないか。まずは安東氏をどうにかするのが先ではないのか」


「安東氏の交易統制には近隣の国衆も反発しております。乗っ取られた湊安東家の家老格であった豊島重村殿が戸沢氏や小野寺氏の後押しを受けて安東家に対して反旗を翻したのです。間宮水軍は商人として豊島氏に武器弾薬の支援を行っているのです。陸が落ち着かねば安東氏も海賊衆の統制もまま成らぬでしょう」


「水軍のことは間宮衆に任せるしかないようじゃな、あい解った。十三湊の再興はこの藤吉郎にお任せあれ」


 藤吉郎はやるべき事が決まると動きが早い。先ほどまでの怠惰な様子から一転して、十三湊再興の道筋を付けるべきか様々な質問を間宮綱信殿にぶつけていた。どんな細かい情報でも役に立つかもしれないのだ。ふと蝦夷島との交易にどれほどの価値があるのか疑問が湧いてきた。


「間宮殿、ひとつ疑問があるのだがよろしいか」


「はい、何でしょうか」


「蝦夷島との交易にはどれほどの利があるのじゃろうか。栄えている町があるという話も聞こえては来ぬ。珍しい品も多いとは思うが危険を冒すほどのものなのだろうか」


「蝦夷島には和人とは習慣の違う人々が生活しております。それだけでも珍しい物がございます。毛皮や海産物は高値で取引されているのですよ。その中でも貴重なのは明国の品物が手に入るのです」


「なんと、明国は鎮西から更に海を渡った西方の地にあるのではないのか。このような東北の地から明国との交易ができるというのか」


「鮎川殿が驚かれるのも尤もです。蝦夷島の北方には樺太の地がございます。樺太の奥地サハリャン川周辺には勇猛な騎馬民族である【韃靼人】が住んでおります。韃靼人は明国と争ったり、時には和を結び交易も行っているのです。蝦夷の者たちはその韃靼人を通じて明国と交易を行っているのです」


「なるほど、合点がいった。坂東からも遠く北の外れの僻地と思っておったが、明国に繋がる道となると夢のある話であるな」


「ははは。鮎川殿は気が早い。まだ十三湊の再興もなっておりませぬ。先の事は兎も角、まずは大浦為信殿と誼を結ぶところから始めましょう」


 ◆◆


「大浦家家臣、沼田祐光と申します。以後、お見知りおき下さい」


「おおっ良くぞ参られた。沼田殿と言えば幕臣の細川藤孝様の御由緒衆と聞いております。尊き御方をお迎えできて光栄な事じゃ」


 藤吉郎の情報収集能力には舌を巻く思いだ。風間衆を総動員して大浦家の使者【沼田祐光】に関する情報を集めさせたのである。沼田家は若狭武田家の家臣でありながら幕臣にも取り立てられた名家である。元は上野国沼田氏の一族であったようだ。兄の沼田光長は先の公方・足利義輝と運命を共にし御所巻で討死している。更に妹は幕臣細川藤孝様の正室となっており、祐光殿は大浦家において幕府との申次を務めていた。


 しかし、本貫地である若狭国熊川城は弟の沼田統兼が継いでいるようだ。祐光殿は若狭武田家の家督争いの際に立場を無くしてしまったらしい。祐光殿は交易を通じて若狭武田家と縁のあった津軽堀越武田家に身を寄せる事になったそうだ。堀越武田家に大浦家から養子が入り大浦一門衆になると祐光殿は頭角を現し、陪臣の立場から三顧の礼を持って迎えられて、大浦為信の懐刀と呼ばれるまでになっていたのだ。


「風間殿はこれほどまでに某を買って下さっているとは思いもよりませんでした。今後ともご昵懇に願いたい」藤吉郎の歓待ぶりに沼田祐光はかなり気を良くしているようだ。


「もちろんじゃ。沼田殿の見識の広さには驚かされ申した。十三湊を再興するにあたり、大浦家との連携は必須となりましょう。沼田殿のお力添えをお願い致します」藤吉郎も手を組む仲間として沼田殿を認めているようだ。普段より割増で嬉しそうにしている。



「大浦家有事の際には佐渡衆一千騎、一万の兵を連れて参りましょう」


「なんとも剛毅な事にございますな。されど佐渡は五万石程の石高であったと存じます。一万もの兵が集まりましょうか」


「ふふふ、佐渡一千騎にはからくりがござる。なんと佐渡島から金山が出たのじゃ。食い詰めた農民や一攫千金を狙った荒くれ者の牢人衆が挙って集まっておる。兵糧不足は否めぬが関東から大量の米が送られておるのじゃ」


「なんとも羨ましい事ですな」


「更に信濃川の瀬替えによって、広大な越後平の湿原を全て水田に変える計画じゃ。そうなれば兵糧の心配は一切なくなるのじゃ」


 実際、佐渡には越中や能登の戦乱を避けて多くの領民が流入している。また、越中の椎名氏、能登の畠山氏の家臣団といった所領を失った牢人衆も集まり仕官を求めていた。信濃川の瀬替えも大詰めを迎えており、長岡の地では寒冷地に適した稲作の研究も進められているのだ。


「なるほど、北条家の勢いの源が内政にある事が良く解り申した」


「なんの、なんの、佐渡の繁栄など武蔵国江戸の町の繁栄に比べたら微々たるものでござるよ。江戸の町は京の町を凌ぐ四十万の民を抱える巨大な都となってござる。更に小田原式農法によって武蔵の石高は二倍にもなりました。武蔵守様の政は当代一でござる」


「江戸の噂は遠く津軽までも届いておりました。風間殿と知遇を得た事は僥倖に存ずる。武蔵守様ほどかは解りかねますが我が主、大浦為信も津軽一の名将と自負しております」


 大浦為信は知勇兼備の名将との噂であった。南部氏・安東氏・北畠氏といった大名に囲まれながらも虎視眈々と領土拡大の機会を伺っているようだ。浪岡北畠家に滅ぼされた河原北畠家の嫡流北畠利顕を匿い、大光寺家に所領を奪われた乳井建清を召し抱えていた。津軽支配の大義名分となる者達である。


「津軽には南部一門の支配も及んでおります。されど南部家の旗頭石川高信の家中には某の盟友がもぐり込んでおります。時が来たら我等と共に立ってくれるでしょう」


「それは武田家旧臣の板垣将兼(まさかね)殿のことでござるか」


「なんと。風間殿は怖ろしいな。まさか将兼の同心が露見しておるのか」


「御心配召さるな。沼田殿が武田家旧臣であるなら誰と昵懇であったかと想像しただけでござる。実際に誰がどれほどの不満を持っておるかはこれから調べようと思っておったところじゃ」


 藤吉郎は愛嬌のある表情でスルリと相手の懐に入り込み、時には恐喝じみた凄味のある表情も見せる。そして相手のことを思い遣った上で()()の両面から巧みに取り込むのである。人誑しの藤吉郎の根回しをする力は、きっと津軽の平定には役に立つであろう。儂は十三湊の縄張りと糧食の確保に注力しようと思ったのである。










~人物紹介~

北畠具統(1509-1555)浪岡北畠氏中興の祖

北畠具運(1532-1562)具統の嫡男。叔父の河原北畠具信の謀反により死亡

北畠顕範(?-1578)具統の次男。兄の子北畠顕村を支えて河原北畠具信を討つ

北畠顕村(1555-1604)具運の嫡男。現当主

北畠具信(?-1562)具統の弟。河原御所。浪岡北畠に反旗。後に討伐される。

北畠利顕(?-1579)具信の孫。大浦為信の保護下にある。


安東愛季(1539-1587)通称安東太郎。檜山安東家中興の祖。

安東茂季(1540-1579)愛季の弟。湊安東家の家督を継承し兄に従う。

豊島重村(1536-?)湊安東旧臣。安東氏と抗争

浅利勝頼(?-1582)安東氏の与力。津軽氏・南部氏・安東氏の狭間の勢力


大浦為信(1550-1607)後の津軽為信

沼田祐光(1533-1612)為信の軍師と伝わる



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― 新着の感想 ―
[一言] 為信は奥州では珍しい下克上の人物なので、秀吉とも馬が合うかも 秀吉公に恩に感じていた逸話もそうですが、あの宇喜多直家手懐ける秀吉ならでは、とも云えますね。 一方で、辺境である奥州では血統は…
[気になる点] 長野御前や千葉御前の子供達に分家を起こさせるのであれば、他家への養子はもちろんありだと思いますが、鎌倉北条氏の分家の家名を再興してみるというのはどうでしょうか? 例えば衰退している金…
[良い点] 久々の投稿楽しく読ませて頂きました。 秀吉に遂に子供が出来、史実の秀吉が知ったらさぞ羨ましがることでしょう。作中の風魔一族は女系の為、女子の誕生が望ましいですが、どうなるのか楽しみです。 …
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