三好勢の蜂起
1569年正月 宇治 風間秀長
「小一郎、伏見の城を見て参ったが作事は進んでおるのであろうか。本多弥八郎は順調じゃと申しておるが、物見矢倉が一つあるだけで進んでいるようには見えぬ。父上のお叱りを買わぬか心配なのじゃ」
「帯刀様、御心配には及びませぬ。既に八割方完成しており、直ぐにでも籠城出来るのです。上屋に手を付けておりませぬゆえ、城には見えぬかもしれませぬが縄張り通りの堅牢なお城となっておりますよ」
帯刀様は松山様の養子となった織田の若君です。ただ生母である直子様は信長様の夜伽を務めただけで、帯刀様がお産まれになった時には側室ではありませんでした。信長様の胤であるとの確証が無く、家中からの視線も他の御子息とは違った物だったそうです。その為か帯刀様は周囲の反応に敏感で控え目な性格のように見受けます。
それでもご生母の直子様によると槙島城に入ってからは随分と明るくなったのだそうです。織田家には年の近い嫡男奇妙丸様がおりましたので、かなり気を使っていたようです。それに慶千代が帯刀様に懐いたのが大きかったのかもしれません。御兄弟と仲良くする機会の無かった帯刀様は慶千代をとても可愛がっているのです。
「弥八郎もそう申しておった。堀も深く、石垣も十分な高さがある。壁はまだ無いがいざとなれば土嚢を積めば事足りるし、物見矢倉も簡易な物ならばすぐに立てられると申しておった」
「その通りです。野戦で陣地を作る事を想像すると解り易いかもしれませぬな。まずは守れる状態にすることが肝要なのです。作事の最中に攻められる事も念頭に置いて計画しなければならないのですよ」
帯刀様に築城の薀蓄を話していると段蔵さんが火急の面会を申し出てきました。段蔵さんの持ってきた報せは三好勢が蜂起したというものだったのです。
「相模屋の遣いで参りました。小一郎殿、三好勢八千が京に向かっております。公方様のいる本国寺を狙っているのではないかと思われます」
三好勢蜂起には堺と大山崎の商人が協力しているようです。石山本願寺も連携しているのではないかと思われました。こちらに気付かれる事なく、尼崎湊に上陸し淀川沿いに進軍、既に枚方あたりまで駒を進めているのです。
「小一郎、拙いぞ。直政伯父上も松山の義父上も岐阜に年始挨拶に行っておる。とても防げる状態ではないぞ」
「帯刀様、落ち着いて下され。八千程の軍勢であれば十分に時間稼ぎができます。ただし、塙様がおられませぬゆえ、伏見で作事にあたっている者達をまとめる者が必要です。仕官して日が浅い者達が多いのです。指揮系統が乱れてしまってはすぐに離散してしまうでしょう」
「儂はどうすれば良いのじゃ。村井殿に助力を請うのが良いのであろうか」
「もちろん村井様にもお知らせせねばなりませぬが、まずは帯刀様が伏見に赴き、塙家の留守居の者達と共に足軽衆を束ねる事が先決です。帯刀様ならば織田家の旗頭として指示する事も出来ると思います」
「儂に出来るであろうか。それに勝手な振る舞いをして父上に目を付けられるやもしれぬ」
「あくまで塙様の指示であると言って足軽衆や留守居の者達を束ねるのです。離散してしまっては元も子もないのです。それに織田家が三好勢を伏見で迎え撃つとの方向性さえ示せば、百戦錬磨の者達の事です。本多正信殿も居りますし、勝手に迎え撃つ準備を始めるでしょう。今、伏見に足りないのは皆をまとめる旗頭なのです」
「解った。小一郎も共に来てくれるか」
「私は商人として松山家をお支え致します。加藤教明殿に松山勢を任せて帯刀様を追いかけて頂くように伝えましょう。相模屋にて兵糧と弾薬の手配を済ませたら私もすぐに伏見に参ります」
「解った。先に行って弥八郎と相談しよう。待っているぞ」
帯刀様を送り出すとすぐに戦準備となりました。まず岐阜に居る義父上に三好勢の蜂起を報せねばなりません。手紙を段蔵さんに託したのです。加藤教明殿は三好勢の襲来を聞くと伊奈家忠殿に槙島城の留守を任せてすぐに伏見の援軍に向かいました。相模屋に戻ると女将さんが待ち構えておりました。
「小一郎、伏見に籠城するんだってね。北条氏堯様と明智光秀様、それに柳生様には報せを走らせたよ。兵糧も弾薬も準備できている。大至急の取引だからたっぷり稼いでくるんだよ」
「ありがとうございます。務めを果たして参ります」
兵糧と弾薬を伏見城に運び込むと続々と援軍が集まっている様子でした。帯刀様は塙直政様の与力となっていた島清興殿と井戸良弘殿、中村高続殿を掌握し、仮設の物見櫓を立てて土嚢を積み上げ防衛体制を整えさせていたのです。帯刀様の報せにより村井貞勝様も入城し、伏見城には三千もの軍勢が集まったのです。村井様は私を見つけると声を掛けて下さいました。
「相模屋、その方らの機転に助けられた。儂も今井宗久からも報せを受けたが、足軽衆が浮足立ってしまい京の守りどころではなくなってしまったのだ。塙勢が伏見に居て助かったぞ」
「いえ、我等は帯刀様の命に従って兵糧弾薬を準備しただけでございます」
「ふっ。謙遜も過ぎれば美徳とは言えぬぞ。そなたの慧眼は帯刀様から聞いておる。戦はまだ始まってもおらぬが、此度の戦での勲功第一は相模屋だと儂は思うぞ」
「村井様の御言葉は嬉しゅうございますが、恐れ多い仰せにございます。実際に兵を纏め、戦の準備をしたのは塙家の御歴々にございます。我等は商人の務めを果たしたのみにございます」
「そうか。まあ良い。これから軍議なのだが相模屋も付いて参れ」
兵糧弾薬の管理を理由に軍議への参加をお断りしたのですが、見ているだけでよいと断ることはできませんでした。増田仁右衛門さんに弾薬を収納する塹壕掘りを任せて、村井様に付いて行ったのです。陣幕の中には主立った者が集められ、初対面の方々も多いようで順に紹介されました。
島田秀満様は村井様と共に京で政務を取っている織田家の吏僚です。村井様と嫡男貞成様、島田様の三人が村井勢の代表のようです。塙勢は松山帯刀様と本多正信殿、侍大将として加藤教明殿、島清興殿、井戸良弘殿、中村高続殿が顔を揃えております。村井様から状況の説明が行われました。
「三好勢は斎藤龍興、小笠原長時を先鋒に大山崎に入っておる。芥川山城の和田惟政殿が池田勝正殿、伊丹親興殿と連携して三好勢本隊を牽制しておるとのことじゃ。公方様は本国寺に居られるが万一の時は伏見に移っていただく事になっておる」
三好勢の入洛は間近であるようでしたが、公方様の居られる本国寺には織田方の蜂屋頼隆様が入っており十分な兵力となっています。伏見城と連携することで孤立する心配もないようです。また細川藤孝様が明智様率いる丹波勢と合流したとの報せも入っておりました。大和・河内・和泉の諸侯が合流したなら十分な軍勢となるでしょう。
「各々方、一時の辛抱である。岐阜からもすぐに援軍があろう。公方様をお護り致す。良いな」
「「「応っ」」」
三好勢は入洛すると公方様の御座所となっていた本能寺を制圧しました。更に船岡山城と将軍山に攻めかかり落城させたのです。本国寺に移っていた公方様に圧力をかけようと清水寺に陣を構えました。兵数に劣る幕府勢は本国寺と伏見城に依って、掎角の勢を取って対抗したのです。
三好勢の小笠原信定は本国寺と伏見城の分断を図ろうと伏見街道の封鎖の為に中入りしました。しかし、事前に察知した松山勢の奇襲により中入りは失敗、小笠原信定は島清興殿によって討ち取られたのです。挟撃される事を嫌った三好勢は東寺に陣を下げたのです。
この間に細川藤孝様と明智様率いる丹波勢が船岡山城を奪回、松永久通様率いる大和勢が伏見城に駆け付けた事で戦況は逆転したのです。不利を悟った三好勢は大山崎に向けて退却を始めました。村井貞勝様は三好勢の追撃を指示。摂津勢と丹波勢がこれに呼応した事で三好勢は総崩れとなったのです。
「小一郎。本国寺に父上が到着したそうだ。京の軍勢のみで三好を退けた事に喜んでいるそうじゃ。村井殿が本国寺に向かっておる」
「なんと。信長様はもう岐阜から到着されたのですか」
織田信長様は報せを受けると、新年の祝いもそっちのけで、僅かな供廻りだけを連れて岐阜を飛び出したのだそうです。なんとも果断なお方です。伊勢貞良様も松山の義父上も松永様も慌てて戻ってきているのかもしれません。
「儂は此度の戦で首級を上げることが叶わなかった。伏見城に籠っていたらいつの間にか戦が終わっておった。不甲斐無いと父上に叱られるのではなかろうか」
「帯刀様は十分に務めを果たしております。胸を張って下さい。村井様も帯刀様のお働きを見ておられます。心配ございません。それに戦が終わったら残りの兵糧弾薬を帳面に記載せねばなりませぬ。手柄を立てた者達には褒美を下さねばなりませぬし、怪我をした者も大勢おります。やるべき事は戦が終わってからも色々とあるのです。少しづつ覚えて下され」
「解った。小一郎、次にやるべき事を教えてくれ」
◆◆
供出した兵糧弾薬の数量をまとめて村井様に報告しました。村井様からよくまとめられていて解り易いとのお褒めの言葉を頂き、市中価格より高い金額の手形を切って頂いたのです。宇治に戻ると義父上が丁度、岐阜から帰ってきたところでした。
「義父上、お帰りなさいませ。近江では雪が積もったと聞いております。難儀したのではありませんか」
「おう、大変であったぞ。しかし小一郎の手紙で儂は面目を施す事ができた。三好蜂起の報せは儂が一番乗りだったのじゃ」
段蔵さんにもお礼をしなければなりませんね。義父上の報せを受け取った織田信長様は直ぐには動けなかったようです。松山家は臣従して日が浅いので信用が足りないのです。しかし、一日遅れで村井様からの報せが届くと信長様の動きは果断であったそうです。
「小一郎の報せで宇治に戻る準備をしていたのじゃ。織田殿が城を出たと聞いて慌てて追いかけたのだが、あっという間に置き去りにされてしもうた。あれに付いて行けるのは気狂いだけじゃ。新年の祝いの席から一転して雪中行軍じゃから織田殿に従う者は大変だと思ったものじゃ」
「岐阜でゆっくりする事もできなかったのですか。織田様の城下町の賑わいなどを知りたかったのですが仕方ありませんね」
「城下町は見られなかったが各地から多くの者が年始挨拶に来ておったぞ。知らぬ者が多いゆえ、松永弾正や伊勢貞良様とずっと一緒であったがな。珍しいところでは甲斐の武田家からも使者が来ておったぞ。信濃諏訪に公方様の兄上が居られるそうじゃ。河田長親と名乗っておったな足利義秋様の側近だと申しておったぞ」
河田長親と言えば軒猿衆の頭目です。どんな意図があって岐阜を訪れたのか確かめねばならないと感じました。後で御隠居様にお報せしなければなりませんね。
「内々の話しであるが、相模屋は伊勢様の御用商人でもあるから知っておった方がよいだろう。織田殿の御息女が伊勢貞良様の嫡男に嫁ぐ事になりそうじゃ。なんでも奥方同士が姉妹の合婿なのだそうじゃ。急な出陣となったゆえ正式な話しではなかったが双方とも乗り気のようであったぞ」
貞良様と信長様の奥方は斎藤道三様の御息女です。良き縁となる事を願わずにはいられません。そういえば斎藤利三様も斎藤道三様の婿だったのではないでしょうか。義父上の土産話に相槌を打ちながら、今頃どうしているのだろうと懐かしく思い出したのです。
~人物紹介~
島清興(1543-1600)島左近。いかにコストカットして雇えるかが話題となる人
井戸良弘(1533-1612)筒井家臣。大和の表裏比興の者はこの人かもしれません。生き方が苛烈です。
中村高続(?)鑓中村。元松山重治軍団
村井貞勝(1520?-1582)天下所司代
島田秀満(?-1575?)村井さんのバディ
蜂屋頼隆(1534-1589)地味ですが1581年の天覧御馬揃で二番入城の旗頭。地味ですが織田家畿内衆の中核の一人です。ちなみに御馬揃一番入場は【丹羽長秀】三番入場は【明智光秀】四番入場は【村井貞成】です。
一色龍興(1547-1573)織田家では斎藤呼びです。
小笠原長時(1514-1583)元信濃守護
小笠原信定(1521-1569)長時の弟。本圀寺の変で討死。




