正月の風景(女子会)
1569年正月 会津黒川城 蘆名徳
「彦姫様、御懐妊おめでとう存じます」
「ようやく授かりました。これも全ては喜多のお蔭じゃ。そなたが居らねば、疾の昔に諦めていたところじゃ」
「いいえ、それほどの事はしておりませぬ。姫様の御尽力の賜物でございます」
彦姫がようやく盛興の子を授かりました。しかし、その道のりは一言では言い尽くせぬ程の苦労があったようです。彦姫も盛興も閨事では受け身で、二人揃って陸に上がった魚のように身動きできず、お互いに相手に主導権を委ねようとしていたというのです。
その話しを聞いた時は「情けない」と呆れ果ててしまいました。盛興は仕方なく彦姫の気を満ちさせようと頑張ったようですが、途中で面倒になり腹を立てて寝てしまったというのです。
彦姫は流石に拙いと感じたようで、喜多に相談して盛興を奮い立たせる手管を必死に学んでおりました。ただ、彦姫も元来の気質が受け身であるため途中で面倒に感じることもあったようです。
彦姫の努力の甲斐があり、懐妊の希望がみえて来た頃、二人の間は仲良くなるどころかすきま風が吹くようになりました。「どうして溝が生まれるのですか」妾には全く意味が解りませんでした。問い質すと彦姫は涙ながらに盛興に対する不満を語りだしたのです。
「盛興様は奔放に己の快楽を求めるばかりで、妾への労わりが感じられないのです。子種を受け入れて、盛興様に甘えようとすると【一人で眠りたいから下がれ】と無体な事を仰せになるのですよ」
「……盛興よ、お前もか」
盛氏様も同様に閨事に受け身で独り寝を好んだのです。これが蘆名家のやり方なのかもしれないと諦めてしまったのですが、改めて思うに子を残して家を繋ぐという大事を軽く考えている気もします。喜多のもたらした小田原養生訓には考えさせられる教訓が記されておりました。
【穢れや秘め事として目を背けてはならない】男女がお互いの違いを正しく理解し尊重しなければ、子を生せず国は滅びるであろう。
【快楽だけに身を委ねてはならない】母体を危険に晒し、家中不和の元ともなり、子を間引かねばならぬ事態をも引き起こすであろう。
「せっかく授かった御子が男子である事を切に望んでおります。妾はもう一度と言われても無理じゃ。喜多、必ず男子を授かる術はないのか」
「姫様、流石にそれは無理でございます。こればかりは八幡様の思し召しなのです」
彦姫は大きくなり始めたお腹をさすりながら必死の形相で尋ねております。
「噂では男子が授かる祈祷があると聞く。御利益がある祈祷師を知らぬか」
「一応、八幡様に男子をとの祈祷の依頼は御座いますが、祈祷を受けても男子が生まれるとは限りませぬ。十人に五人ほどは男子となりますが……」
「なんと、それならば妾も祈祷してたもれ」
いやいや、喜多が口を噤んだ理由を良く考えなされ。十人中、五人は女子だと言っているではありませんか。まあ、それで彦姫が納得するなら呼んでも構いませんが、喜多の苦りきった顔を眺めて吹き出しそうになりました。助け舟を出すつもりで話しを変える事にいたしましょう。
「喜多、盛邦の様子はどうじゃ。新妻と仲良くやっておるのか」
「あっはい。お方様のお蔭で無事に輿入れも終わりましてございます。奥の差配を任せられそうなので、私も胸をなでおろしたところなのです」
盛邦の嫁探しはとても楽しい務めでありました。真っ先に手を挙げたのが河原田盛次でした。娘を是非にと頼まれたのです。同時に山内氏勝からも姪をとの申し出があったのです。
河原田家も山内家も奥会津を領する国人衆です。蘆名家中では青苧栽培の振興は盛興の手柄となっていますが、奥会津では足を運んで国人衆を説得して回った盛邦の評価が高いのです。
両家からの打診をよくよく聞いてみると。河原田盛次の娘も山内氏勝の姪も【琴姫】という同一人物であったのです。氏勝の妹が盛次の奥方という事を失念しておりました。
琴姫は奥会津に新たな産業を生み出した盛邦に惚れ込んでいたようです。縁談もあったようですが全て断って機会を待っていたのだそうです。
「河原田家や山内家とはうまくいっておりますか」
「はい、盛邦様は舅殿に風呂を振る舞ったのですよ。これくらいしか報いる事が出来ぬと仰せになり、盛邦様が自ら湯を沸かしたのです」
「なんと、それは面白いですね。舅の盛次殿もさぞ驚いた事でしょう。会津に来たばかりの頃に妾の為に湯殿を作ってくれたのを思い出しますね」
1569年正月 遠州浜松城 お虎
旦那様は今川家の陣代として遠州勢の惣領となり、浜松城主となりました。妾も浜松城の奥を預かることになったのです。しかし、浜松城は一家一門で城を治めるのとは事情が違い、旗頭の元に寄騎同心や足軽衆が集まった寄合所帯なのです。奥の差配も城主の私室という感じでは無く、籠城中かと思われる程の慌ただしさでありました。
奥向きの差配は妾には無理じゃと諦めたところ、浜松衆の備大将・関口親弘殿の妻となっていた瀬名様が手助けを申し出てくれたのです。捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものです。妾は全てを瀬名様にお任せすることにしました。
瀬名様は従妹でもあり、もう一人の備大将・武田信友殿の妻となっていた【猫殿】と二人で奥を仕切っております。妾はようやく安息の日々を手に入れることができたのです。二人を労うためにお茶会を催すことが妾の唯一のお勤めとなったのです。瀬名様はお茶会をとても楽しみにしているようです。
「お虎様、明日のお茶会には吉田衆小笠原氏興様の奥方【篠様】もお呼びしております。楽しみですね」
「瀬名殿は仲の良いお方が多いのですね。篠様のご実家はどちらのお家でしょうか」
「篠様は三浦義株様のご息女ですよ」
瀬名様は凄いです。呆れてしまいます。今川家に関する全ての家系譜を知っているのではないかと思えるほど詳しいのです。他にやることが無くてよっぽど暇だったのかもしれませんね。
◆◆
「おひよ、皆にお茶を入れ終わったら下がりなさい」
「はい、お方様」
おひよは正式に旦那様の側室となりました。旦那様はまだ若く多くの御子を生さねばなりません。嫡男の直虎がおりますので妾は務めを果たしましたが、旦那様の御子を産んでくれる側室がいると助かるのです。おひよに打診したところ涙を流して喜んでおりました。そして妾は小田原養生訓で学んだ子が出来難い時期に旦那様の相手をする事にしたのです。
「この菓子はういろうと言って小田原の銘菓ですのよ。御義母様よりお土産に頂いたものです」
篠様は口当たりが涼やかで美味しいと喜んでおります。篠様は背の高い黒髪の美しい姫で、少し垂れた目とつんと上向いたお鼻が特徴的なお方です。猫殿は童顔の小柄な姫ですが、目元が猫のように少し吊り上った可愛らしいお方です。主催は妾ですが話し下手なので、ほぼ聴き役です。瀬名様が会話を進めるのが常でありました。
「お虎様、浜松城にも見知らぬ顔が増えましたね。名前を覚えるのが大変ですよ。篠様、吉田城も大変ではありませぬか」
「はい、瀬名様。氏興様の元に信濃牢人が足軽として仕官してまりました。怪しげな身形の者が高貴な血筋のお方であったりと驚いております」
「浜松でも多くの牢人者が仕官を求めて集まっておりますよ。やはり三河者が多いですね」
三河牢人の多くは織田に乗っ取られた岡崎松平家の者達です。家康殿の忘れ形見である竹千代殿に仕えたいと出奔してきた者達もいるようですが一悶着あったようです。
「家康殿の小姓であった者達が竹千代を松平家の跡取りとしてお家再興を願って来ていたのですよ。妾や子等を見捨てておいて都合の良い事ばかり言うものです」
「なんと厚かましい申し出ですね。今川一門、関口家の竹千代君に国衆再興の旗頭を望むなど頭がおかしいのではありませんか」
瀬名殿と篠殿が憤慨してぷりぷりと怒っているお顔が面白いです。関口親弘様は関口家の婿であるからと関口家の嫡男として竹千代君を立てているのです。ところが松平家康殿の遺児は竹千代君しか居りません。家康殿と人質生活を共にした天野康景・平岩親吉・榊原忠政の三人は今の岡崎松平家を見限り、早々に竹千代君の元に伺候していたのです。
「天野達は家康殿の御子を護りたいという気持ちだけなのでまだ許せますが、本多忠勝と植村家存は竹千代を攫おうとまでしていたのですよ。成瀬正義の報せを受けた平岩親吉が本多と植村を叱りつけたそうです」
「瀬名様、篠様、成瀬殿とは武田の与力となった三河者の事でしょうか」
瀬名殿と篠殿の話しを聞いていた猫殿がこてんと首をかしげて尋ねました。
「武田信友様の与力となったのは成瀬正一という者ですよ。正義はその兄です。成瀬家は古くからの岡崎松平家家臣で、織田のせいで岡崎に居場所が無くなったようですね。ところで、信友様は新たに召し抱えた藤堂虎高殿を副将にしたそうですね。どのようなお方でしょうか」
「藤堂様は無人斎様の下で足軽大将を務めていたお方だそうです。近江の所領を失い無人斎様の招聘に応じて下さったのですよ。御子息が二人いるのですが身体も大きく良き武者となりそうです」
三河衆の事情にも精通している上に足軽衆まで知ろうとするなんて、瀬名様は本当に暇を持て余しているのでしょうね。足軽衆の話しなどどうでも良いからもっと楽しい話しをしたいなとぼんやり考えていると、篠様が瀬名様の顔を覗き込んで口を開きました。
「家中のお話しはこれくらいにして本題に入りましょう。小田原養生訓の事をもっと教えて下さいませ」
瀬名様がニヤリと妖艶な笑顔となりました。
瀬名様は松平家康の妻から今川氏真様の側室となり、島津親弘様を関口家の婿として迎えた事で三度の婚姻をしております。閨事に関しては子を成す務めとして【黙って子種を授かればいいのでしょう】と割り切った考えを持っていたそうです。
しかし、小田原養生訓を学んだ親弘様に諭され、導かれた事によって、幸せを感じる事ができるようになったのです。瀬名様からその喜びを聞かされた時に、妾がいかに恵まれていたのか驚いたものです。瀬名様は家中の奥方達にもこの喜びを共有してもらいたいと考えて、小田原養生訓を取り寄せて写本を配っているのです。
「篠様、氏興様にも変化はございましたか」
「はい、養生訓を読んで頂きましたところ、房中での会話が増えました。旦那様が妾を思いやってくれているのが実感できたのでございます」
「それは重畳、殿方には女子の気持ちが満たされたか否かを理解するのは難しいのだそうです。閨事も人それぞれ好みが違いますから猶更でしょうね」
「閨事を食事に例えた話しが面白うございました。ただ量だけ食べれば良いというものではありませぬな。殿方にはそれが解らぬのです」
篠様も小田原養生訓をかなり読み込んでいるようです。篠様の御言葉に瀬名様も食い気味に答えます。
「一流の包丁のように思いやりを持って食事を作ることと閨事に対する心構えは同様でなければならない。【相手の好みを知り、己の技量を知らば、百戦すれど危うからず】の所ですね」
「瀬名様の仰せの通りです。妾も感銘を受けました。あと【資質】に頼るなかれ、【技能】を磨くべしとの言葉には刮目させられたと氏興様も仰せでした」
「殿方は資質で優劣が決まると勘違いしているところはございますね。経験や教育で得られた技量が重要であって、いくらでも磨く事ができる技能なのだという認識が足りませぬな」
瀬名様と篠様が二人で盛り上がっている中、猫殿がこてんと首を傾げて尋ねました。
「お虎様はどれほどの刻限、直元様と睦合っておられるのでしょうか。養生訓を読んでから色々試しているのですが他の御方どうなのでしょう」
「そうですね。一刻(二時間)ほどでしょうか」
嘘です。直元様は少なくとも二刻は離して下さいません。戦の後などは下手をすると夜が白みかける刻限まで睦合ったこともございます。恥ずかしいですが直元様は妾が求めれば求めるだけ応えて下さるのです。
「なんと、それほどなのですか、妾は半刻もすると息も絶え絶えになりまする。旦那様に手加減していただいているのですがもっと睦合いたいという気持ちもあって申し訳ないのです」
瀬名様は猫殿をいつくしむように声を掛けました。
「猫殿は肉置きが少ないのでもっと食べなされ。食が細ければ子を成す務めにも差し障りましょう。そして馬術などで身体を鍛えるのも良いのです。乗馬をすると丹田が鍛えられるのです。一緒に励みましょう」
「はい、瀬名様、励みまする」
瀬名様も猫殿も真摯に取り組んでいるのですね。ただ、冬の寒空の下、遠乗りに妾を巻き込むのは勘弁してもらいたいのです。
無理でしょうね。はあ。
~人物照会~
河原田盛次(?-1591)室は山内舜通の娘。史実では秀吉の奥州仕置にて所領を失う。
山内氏勝(1540-1608)山内舜通の嫡男。河原田盛次と共に伊達政宗と抗争。奥州仕置にて没落。
琴姫(1548-?)名前は架空。盛次の娘。史実では家臣に嫁いでいます。
天野康景(1537-1613)人質時代(織田・今川)の家康に小姓として随行した。
平岩親吉(1542-1611)人質時代(織田・今川)の家康に小姓として随行した。
榊原忠政(1541-1601)人質時代(織田・今川)の家康に小姓として随行した。榊原康政の従兄。
成瀬正義(?-1572)父の成瀬正頼は松平広忠を擁立した五奉行の一人。古参譜代。
成瀬正一(1538-1620)成瀬正頼の次男。諸角虎定の与力として川中島の戦いに参戦した。
本多忠勝(1548-1601)平八郎系。本多氏には作左系・弥八郎系・彦次郎系などがあります。
植村家存(1541-1577)古参譜代。本多忠勝の従兄。信康自刃により失脚。
家康の人質随行衆として【石川数正】の名前が上がります。石川氏は安城譜代であるとか、蓮如に随行した三河一向衆の惣領であるとか言われておりますが、三河守護一色家の被官であったようです。数正の祖父・石川清兼の時世に松平清康に従うことになりましたが、元は松平家より格上の国人衆なのかもしれません。




