正月の風景(江戸城)
1569年正月 江戸城 北条松
「己巳年の北条家の運勢は吉と出ました。ありがたきことにござりまする」
鶴岡八幡神社を信奉する北条家では大晦日から神事が執り行われます。昨年までは小田原城で行われておりましたが、氏康公が隠居されて江戸城が北条家の御本城となり、今年からは江戸城で行われることになったのです。武蔵守様も【御本城様】と呼ばれるようになっております。
神事は近衛家から嫁いで来た近衛御前(西ノ丸殿)が巫女となり舞と詔を奉納し、神々より歳賜を授かります。その結果を受けて正月に儀式が行われたのです。華やかな正月の風情とは裏腹に、裏方は大変な有様なのです。殿方達に悟られぬよう、優雅な微笑みを浮かべながら指示を飛ばすのです。
「西ノ丸殿、神事でお疲れでしょう。御本城様への年始の御挨拶までには時間があります。今の内に少し休んでおきなされ、御挨拶は皆で打ち揃って参りますゆえ支度する時間も必要でしょう」
「北の方様、おおきにありがとう。そやけど、せんぐり仕事があるのではあらしゃりませんか。妾もいけず言われんようきばりますから、遠慮のう仕事を振って下さいませ」
西ノ丸殿は高貴な血筋の方とは思えぬほど、好奇心旺盛で活発な姫君です。なんでも姉妹の中で兄君である前久様に一番似ているのだそうです。姫というのは失礼かもしれませんね。というのも嫁いで半年で懐妊し昨年末には第一子の姫を授かり母となっておりました。
「産褥を出てから日が浅いのですから無理をしてはいけません。人は足りておりますから心配いりませんよ。そうだ、姫達の様子を見て下され。仙桃院だけですから大変なはずです」
「あい。承りまする」
建前では同格の正室という立場ですが、近衛前久様から言い含められているのか、妾を立てて一歩下がった振る舞いをしておられます。活発なだけでなく気遣いもできる賢い姫なのでしょう。御本城様(武蔵守様)は御家騒動にならないようにと子供達の行く末を条文にして定めております。
北条家の家督は正室である松姫(北の方)の子とする。元服した西堂丸・東堂丸と南堂丸が該当します。幸千代(長野御前)の子・勝千代と船姫(千葉御前)の子・国千代は分家を興すこと。そして桂姫(西ノ丸殿)に男子が生まれたならば武家ではなく神職とすると定められました。御本城様は棟梁として子供達の立場を明確にした上で、父親としては分け隔てなく接しているのです。
「お方様、本当にこれで良かったのでしょうか」
声を掛けてきたのは神事の手伝いをしていた【香沼姫】です。香沼姫はこれまで北条家の巫女として神事を司っておりました。穢れなき乙女である事を求められていたのです。
嫁ぐ事を禁じられた従妹の事を哀れんだ御本城様は、神事の在り方を見直すとして巫女の要件を変更したのです。宮司達の猛反対が有りましたが「我が子を成した近衛の姫が穢れていると申すのか」という言葉で封じ込めたのです。
「香沼姫の心配ももっともですが、八幡様の化身と言われる御本城様がお決めになったのです。我等は御本城様を信ずるのみです」
「左様でございますね。私も御本城様の言葉を信じる事にいたします」
御本城様の香沼姫に対する思い遣りは真の気持ちですが、北条家の棟梁として一門の姫たる香沼姫には他家との絆を繋ぐ役目も期待してるようです。御本城様の六人の妹姫達は武田家、千葉家、小山家、関東管領上杉家、鎌倉公方足利家に嫁いでおります。末の妹姫も髪上げが済んだら越後毛利家に嫁ぐ事になるでしょう。
ただ、香沼姫は巫女の役目から解放してくれた御本城様を慕ってる様です。女として恋心を成就させてやりたい気持ちはありますが、奥向きを預かる者として言い含める必要があるかもしれませんね。
神事の片付けを香沼姫に任せて千葉御前の見舞いに向かいます。千葉御前は大きくなったお腹を撫でながら幼い子らの相手をしておりました。妾の娘【華姫】は千葉御前の娘【雪姫】と貝合わせをして遊んでおります。【国千代】は掴まり立ちが出来るようになって、褒められるのが嬉しいのか得意気にしております。西ノ丸殿の娘【織姫】はスヤスヤと眠っているようです。
「お方様、お越しでしたか。お手伝いも出来ず申し訳ありませぬ」
「よいのです。立派な子を産むためですから、今は大事を取らねばなりませぬ。幼子の様子を観てくれる者も必要ですから助かっていますよ」
「お方様のお心遣いありがとう存じます。織姫様の乳母がよう乳を飲んでいると喜んでおりましたよ。織姫様も漸く寝付いたとこなのです。お可愛らしいこと。乳母には昼夜問わずの務めゆえ、少し休ませております」
千葉御前のおっとりとした大らかな気質には癒されます。御本城様も政務で気疲れした日は千葉御前の元に通うことが多いようです。それに対して幸千代殿の元にはあまり通っておりません。志学院で剣の指導に熱中していて、御本城様も笑ってお許しになっているのです。【月姫】と【勝千代】の二人の子を生しているので養福院も渋々認めている状態です。その養福院の叱責する声が響いて参りました。
「南堂丸様、勝千代様、折角お着替えしたというのに庭で相撲を取っては台無しではありませんか。御本城様へのお目通りまで時がないのですよ」
様子を見に行くと南堂丸と勝千代が正座をさせられて怒られているようです。しっかりと叱れる養福院には助けられております。しかし、子供たちと一緒に何故か幸千代殿も正座させられているのです。
「長野御前も止めるならまだしも、行司を買って出るなど何をお考えなのです。御本城様に申し上げて志学院への出入りを禁じて頂きますからね。神妙なお顔をしても私は騙されませんよ」
「……ここは養福院に任せましょう」
そっと部屋を通り過ぎて、次は【月姫】の部屋へ向かいます。御本城様は当初、長尾景勝殿に月姫を娶らせて一門に加える意向でありましたが、武田家から打診があり甲斐に送る事になりそうです。まだ幼いので当面は婚約ということになるでしょう。
「月姫様お似合いですよ。もう立派な姫君ですね」
仙桃院殿が月姫を褒める声が聞こえてきました。幸千代殿に似てお転婆な姫ですが、仙桃院殿の娘である【鮎姫】と【鯉姫】に影響されて、だいぶ女の子らしくなってきたようです。部屋に入ると緋色着物を纏った月姫が鮎姫や鯉姫に囲まれてはにかんでおりました。
「お方様、準備が整ったところでございます。月姫様のお可愛らしいこと。西ノ丸様はご自身の準備にとお部屋へ戻られたところでございます」
「流石は仙桃院殿です。お転婆な月姫が見違えましたよ。ただ、南堂丸と勝千代が手間取っているようです。加勢してもらってもよいですか」
「あらあら、それは大変ですね。早速参ります。鯉は私と一緒にいらっしゃい。鮎は月姫様と一緒に西ノ丸様のお着替えを手伝うのですよ」
「「「はい」」」
仙桃院殿達は御本城の変更に伴い、小田原から江戸に来たばかりですが、奥向きの差配も達者で心強い限りです。二人の娘達も適齢期が近いので良き相手を探さなければなりません。大変ですが楽しい務めではあります。元服した氏政殿のお相手探しも楽しみです。御本城様から候補を相談された時は驚きましたが、家中の者が納得するならと意見だけは出しております。思いを巡らせていると「新九郎様の準備が整いました」と三浦局が呼びに来ましたので様子を見に参りましょう。
「母上、私の縁談が決まったというのは本当でしょうか。爺に尋ねても教えてくれぬのじゃ」
「さあ、どうでしょうね。お父上様からお話があるとは思いますが、妾の口からはまだ何も申せませんよ」
ちらりと新九郎殿の側に控える島津忠貞殿に目を向けます。忠貞殿は新九郎殿の筆頭傅役で爺と呼ばれているのです。忠貞殿は御本城様の傅役も務めた側近ですが二代続けて傅役として仕えるのは珍しいかもしれません。新九郎殿を支える傅役には農政に詳しい【上田則定】、武芸の【諏訪部定勝】、交易に詳しい【江川英吉】、宗教政策の【随風】が任命されています。
忠貞殿の様子からは縁談がまとまったようにも感じられます。御本城様は一門衆には近衛様の養女という触れ込みで納得してもらえると仰せでした。しばらくは他言無用という事になっており、本当に縁談が纏まるのか心配ではありました。妾も口にすることはできませぬがきっと相手も驚いた事でしょうね。
「新九郎殿、もしお相手が決まったなら文を書くのですよ。母もお父上様からの文を心待ちにしていたものです。相手を不安にさせないようにするのですよ。それが器量というものです」
「はい、心得ております。では、やはり縁談が決まったのですね」
「母は一般的な心構えを申しただけです。これ以上は何も申す事はありませんよ」
危うく勇み足をする処でした。あぶない。あぶない。
~人物設定(架空人物を多数含みます)~
北条新九郎氏政(1557-?)西堂丸。母は今川義元娘
今川彦五郎範康(1560-?)東堂丸。母は今川義元娘
北条南堂丸(1563-?)母は今川義元娘
北条華姫(1566-?)母は今川義元娘
北条月姫(1561-?)母は長野業正養女
北条勝千代(1564-?)母は長野業正養女
北条雪姫(1565-?)母は千葉氏
北条国千代(1567-?)母は千葉氏
北条織姫(1568-?)母は近衛前久妹




