武田信玄と仏教
1568年秋 春日山城 座敷牢 武田義信
シュッシュッと一心不乱に筆を走らせる。大きく翼を広げ、飛び立とうする様を思い描きながらも筆を細やかに滑らせた。最後に目玉を入れて魂を込める。
「ふぅ。こんなものか」
「太郎殿、見事な鷹の絵じゃな」
唐突に声を掛けられて驚いた。儂の元に訪れる者など珍しいからだ。
「これは典厩の叔父上、気が付きませんでした。ずっと観ておられたのですか」
「先程来たばかりじゃ。それにしても大した集中力じゃな。絵を描く姿に見惚れてしまったぞ」
「お恥ずかしい限りです」
絵を描くようになったきっかけは父上への当て付けであったのかもしれない。写経をして己の行いを省みるようにと紙と筆を渡されたが、甲斐での僧兵の振る舞いを思い出し写経する気になれなかったのだ。
「太郎殿、儂が仲を取り持つ故、兄上に詫びを入れぬか」
「叔父上のお心遣い忝く存じます。されど、己の行いが間違っていたとは思っておりませぬ。仮に許されたとしても、再び父上の不興を買う事になりましょう」
「其方も頑固じゃな。何が不満なのじゃ」
「不満があった訳ではありません。父上のお考えが解らないのです」
「兄上は其方が追放した父上に似ていると言っておった。傍若無人の振る舞いが国人衆や寺社の信望を失う事になるとな」
「武田家に力を集めるというお祖父様の方針は間違いではなかったと存じます……。ここで論じてもせんなき事ですな」
祖父・信虎公時代の甲斐は国人衆同士が争い混沌としていた。僅か十四歳で家督を継いだ信虎公は実力で国人衆を斬り従えたのだ。国人衆に対抗する為に足軽大将を登用して強固な直属部隊を形成して、武田家による専制支配を確立しようとしていた。
しかし、急激な変革に付いて行けなくなった国人衆が父上を担ぎ出し、信虎公を駿河に追放したのである。甲斐は武田家を中心にした豪族の連合体となったのである。合戦の際に御旗楯無に誓うのは国人衆の意思統一を図る神事なのだ。
「父上もお祖父様の方針の正しさを認めているのではありませんか。信濃や越後を任されている者は甲斐の国衆ではなく、父上に抜擢された者達ばかりではありませんか。甲斐だけが取り残されている気がするのです」
甲斐の石高は二十五万石程しかない。信濃国五十五万石の半分も無かった。二倍以上の石高の信濃国を獲るのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。
父上は国人衆に影響力のある寺社を保護し、寺社の権威を背景に甲斐の国人衆を従わせたのだ。この成功体験が仏教に傾倒していくきっかけであったのかもしれない。自ら出家し、京五山、鎌倉五山を模した甲府五山を制定してそれぞれに多大な寄進をするほどであった。
武田家では戦で得た利益を国人衆に分配していたが、郡司として領地を任せたのは馬場・秋山・春日といった股肱の者達であった。信濃や越後では武田家による専制支配が確立していたのである。しかし、甲斐だけは事情が違った。寺社の権限が強く甲斐の国人衆も武田家の同盟者の立場を固持し、独自の政事を行なっているのだ。
「確かに甲斐の国衆には気儘な振る舞いも見られるが、寺社も国衆も武田家の為に尽くしておるではないか。闇雲に国衆を咎め立てては従う者が居なくなってしまうぞ」
「武田家は念願の海を手に入れました。硝石や塩といった今まで手に入らなかった物が交易によって取引されるようになっています。しかし、甲斐は越後から遠く恩恵を受けるのは難しいのです。結局、小田原や駿府との交易は必要です。寺社や国衆がその交易を牛耳り私腹を肥やすようではいつまで経っても甲斐は貧しいままなのです」
「太郎殿はそのように考えておったとはな。甲斐が貧しいのは元から土地が痩せているからだと思っておった。国の有り方をそこまで考えておったとは知らなかった。しかし、寺社を否定しては兄上を説得することも難しいだろう。惜しい事じゃ」
「悔返しをされた私が言うのも烏滸がましいですが、新しく当主となる者には同じ轍を踏まぬよう願うばかりです」
「新しい当主と言うが、容易ではないのじゃ。次郎殿も四郎殿も他家を継いだからと言って当主となることに難色を示しておる。太郎殿への遠慮もあるのであろう。兄上は五郎を立てるつもりのようじゃ」
「五郎をですか。まだ十一歳の子供ではありませんか。国衆の傀儡にされるのが落ちですぞ」
「穴山や小山田が五郎を推しておる。兄上も乗り気なのじゃ。五郎の母は油川家に繋がる武田家の一門衆であるからな。穴山の勧めで、三条の方様も五郎を嫡子とする事を認めたのじゃ。太郎殿の身の安全を条件にな」
「なっ。母上には心配をお掛けし申し訳ないと思っております。私は押込められた時に覚悟を決めましたゆえ、自刃せよと言われても構いませんが、父上は私をどうするつもりなのでしょう」
「太郎殿が北条家との懸け橋であったゆえ、兄上は北条家との同盟を気にしておった。五郎の嫁に北条武蔵守殿の一の姫をと申し出たのじゃが、一の姫もまだ七歳と幼いゆえ三年は待って欲しいと言われたそうじゃ。実は太郎殿の処遇は儂に一任されておる」
「北条家との同盟のお陰で私は生かされているのですな。叔父上は私をどうなさるおつもりですか」
「兄上との仲を取り持つつもりであったが、それが叶わぬのであれば其方を甲斐に置いておく訳にはいかぬ。武田家の人質として本願寺に送ろうと思う」
「なんと、悔返しをされ、廃嫡された仏教嫌いの私に人質が務まるとは思えませぬがよろしいのですか」
「本願寺との同盟を強化せねばならぬのじゃ」
武田家はこの夏に越中の制圧を成し遂げたのだそうだ。神保長職を服属させて、椎名康胤を討ち果たしたのだ。それには越中一向宗の協力があったというのだ。更に加賀一向宗と共に能登畠山氏を攻めるのだと言う。畠山氏は度重なる内紛で当主畠山義綱が追放されるなど、家中がまとまっていなかった。
「やっと海を得て国を富ます道筋があると言うのに、更に戦乱を求めるのですか。大義名分が無いではありませんか」
「畠山嫡流の畠山晴俊殿のご息女が武田家を頼って来ておったのじゃ。信豊の妻となっておるが、兄上は信豊に畠山を名乗らせて、温井景隆の手引きで能登に攻め入り晴俊殿の意思を継ぐおつもりじゃ」
「畠山嫡流などと呆れて言葉もありませんが、信豊が旗頭となれば、叔父上も気掛かりでしょう。人質も座敷牢も大差ありませぬ。加賀に参りましょう」
「すまぬな。ただ、行き先は加賀ではなくて大坂なのじゃ」
「構いませぬぞ、諦めた命ですから叔父上の好きに使って下され。ただ竹姫達の事だけはくれぐれも頼みます。それだけが心残りなのです」
なんの因果か生き延びる事になってしまった。竹姫と離縁することになるが道連れにする訳にもいかないだろう。最後にせめて一目だけでも会いたかった……。
〜人物紹介〜
畠山義綱(?-1594)能登畠山九代当主。1555年重臣の温井総貞を誅殺し重臣の反乱を鎮めて大名専制支配を確立させた。1566年重臣の下剋上に遭い追放。畠山義慶が傀儡の十代当主となる。
畠山晴俊(?-?)能登畠山庶流。1555年一向宗と連携し、温井総貞や三宅総弘と共に畠山義綱に反抗したが鎮圧された。
温井景隆(?-1582)温井総貞の孫。1566年畠山義綱とその父・義続が遊佐続光・長続連らに追放されると帰参し重臣に列せられた。
神保長職(1514-1572)越中国人。椎名氏と抗争し神保家の最大版図を築いた。
神保長住(1539-1583)神保長住の嫡男。親武田。一向衆との同盟を推進した。
椎名康胤(?-1576)越中国人。長尾氏に従い神保氏と抗争。




