1章-1話
僕にとって物語とは旅の切符だった。
そして、その物語を綴じた本という触媒は、さながら一つの世界だ。
数えきれない無数の世界が、少し手を伸ばせば届く距離にあるというその事実に、幼い頃から夢中だった。
そこにはいつも願いがあった。
遠き高き頂に住む、空を翔ける赤き龍の物語。
古の言葉をもちいて、超常なる現象を操りし魔法の物語。
叶わぬ恋に恋い焦がれし、儚き姫の物語。
絶大なる悪意に挑まんとする、気高き勇者の物語。
見果てぬ夢を追い、その希望を、その野望を、一片の疑いもなく進み行く様は、現実を知る僕にはとうてい叶わない在り方だ。
いや、だからこそ、現実を知れば知るほどにのめり込んでい行ったのかも知れない。
その世界も、その魔法も、その気持ちも、本を読んでいる時だけは感じることができた。
そのひと時だけはどんな夢物語も、自分の存在が触れることが許される世界だったのだ。
本を知ってから8年。
16になった今でも未だに僕という物語は、本と共にページを重ねている。
憧れはいつしか諦めになり、夢は本の片手間で燻る慰めになったころ、僕は1冊の本に出会った。
人は自分の人生や価値観を変えた本を読んだ時、大仰にして本と出会ったと表現する。
それは敬意であり、本に対しての賞賛だ。
しかしなるほど、これほど僕とその本を言い得ている言葉は無いのだと後に振り返ることになる。
あれは高校に入ってからしばらく経った秋の頃、いつもより少し不運で、買うはずだった本が買えなかったあの日。
確かに僕は出会ったのだ。
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9月中頃の晴れた日だった。
けたたましく鳴り出した目覚まし時計を探し、僕の腕は布団から力なく這い出ると、そちらに向かって手をのばした。
安眠などさせぬといわんばかりの騒音は、定位置になんど手を探らせても元凶を捕らえることができないでいる。
終いには布団から頭も這い出させて、音の発生源を探す。
ベッドの横に置かれたランプスタンド、本来であればそのランプの下に陣取っているはずの時計は姿がなく、1メートル近く離れた机の上でその存在感を遺憾なく発揮しているようだ。
原因はわかっている。僕だ。
つい先日、枕もとの横に設置されていた目覚まし時計を条件反射のもと叩きつけると、二度寝という朝の最大の敵に誘惑されることになり、そのまま敵の手に落ちることとなってしまった。
それ以来時計の位置は、決して布団に入ったままでは届かない場所へ移動させている。
こうなってしまうと布団からどれだけ手を伸ばしても届くことはなく、ため息と気合をどうじに吐き出しながら、心地よいまどろみののこる布団から離れることにした。
未だ覚醒仕切っていない意識で、ゆったりとした足取りで机に向かう。
金属製で丸みを帯びた少し古い形で、小学生の時から使っているものだから10年くらいになるのだろうか。
もとは藍色がかった塗装がしてある金属製の表面は、ほとんどが剥げ落ちていて年季を感じさせる佇まいだ。もっとも、その塗装が剥げた原因の最大の理由は、僕と時計の長きにわたる戦いの歴史故だろう。
いや、むしろ二度寝、寝過ごしという巨悪から未だなお守り続けているこいつは、宿敵ではなくもはや戦友といっても差し支えない。
正確さ故に大半の人が当たり前に使っている電子時計やスマホに切り替えないのは、金属のベルをハンマーでたたき散らすその圧倒的音量以外に、そうした愛着があるせいなのかもしれなかった。
家を出ると木枯らし吹きすさぶ秋の晴天で、黄色や赤に染まりかけた木々が冬の到来が間近であることを告げていた。
まだ時刻は7時前。
ここから通う高校は徒歩で20分ほどの距離にあるため、着くのは7時半前になるだろう。
運動部でもないのに朝礼が始まる8時半より早く行く理由には訳があり、ここ最近の平日は毎朝この時間に登校していた。
特別な事というほどでもない。
特別という言葉の意味が珍しい事と捉えるのであれば、その行為は年ごろの男子高校生としてはごく普通な動機だろう。
校門をすり抜け、校舎までの道を歩く。
右手のほうには校庭があり、陸上部のメンバーがグラウンドの隅を周回し、サッカー部が真ん中の方で走り込みを行っていた。
さらにその奥の方、ネットで囲われた野球場では声をあげながら打ち出されるボールにしがみ付こうとする部員たちの姿が見えた。
夏の甲子園も終わり、3年生の大半が大学受験という差し迫った問題に移行していくなか、運動部の主役は2年生へと引き継がれ、それでも日々は続いていく。
その続いていく日々の中で、彼らはどのような気持ちと向かいあっていくのだろう。
今まで当たり前のように居た人が居なくなり、当たり前であった日常が変化していく。
怖くないのだろうか?
喪失感を覚えないのだろうか?
それともすでに乗り越えているのだろうか。
変化とは、無くなるということだ。
とある物体Aが何かの物質、または条件をそろえて、物体Bになるという事。そしてほとんどの場合で、物体Bは物体Aに戻ることはできなくなる。
戻ることができないのなら、変化前と変化後の物質は完全に別物と言っても良いだろう。
つまり、物体Aは物体Bを生み出して、無くなったのだ。
彼らは先輩が居た部活動から、先輩が居なくなるという条件をもって、部活動の主役というポジションに変化した。主役の名にふさわしい試練と重責が降りかかり、それなりに楽しみ、それなりに苦労して、日々を過ごしていくのだろう。
だがそれでも、彼らがこの高校生活で先輩が居る部活動をすることは、もう、無いのだ。
もちろん、面倒見の良い先輩なら遊びに来ることもあるだろう。
一緒に汗水流して練習に参加するかもしれない。
もしかすればOBとして訪れる事もあるだろう。
でも、それが変化前の日常とは別物であるということは、変化した本人が一番分かっているのだ。
分かって、しまうのだ。
振り切るように行程から視線を外す。
進んだ先の校舎に入り、階段を百二十段上った通路の奥。その先に第一音楽室があり、朝礼前と放課後は僕たちの部活の場として使用許可をもらっている。
第一と書かれている通り、この学校には第二音楽室があり、吹奏楽部などはその第二音楽室を使用している。別に音楽室が二つ無ければならない程、音楽に精通した生徒が多いというわけではもちろんない。風格ある年季の入った校舎は風通しがよく、第一音楽室の作りでは到底音を吸収しきれないため、しっかりと防音対策をされた第二音楽室が増設されたのだ。
吹奏楽部を初め、学校中の授業でも第二音楽室を使用する。
だから、今では第一音楽室を使用するのはせいぜい僕たちの部活くらいだ。
扉の前に立ち、呼吸を整える。
階段を百二十段上った後だからと言っても、荒い息で扉を開けるのは躊躇われた。
ここから先が、僕の日常なのだ。
大したこともなく、凄いこともなく、平凡極まりない退屈な日常。
朝起きて、着替えて、歯を磨く事と何も変わらない延長線。
そのか細い線のその先が、ここに続いている。
あと、半年。
どんなに長くても、半年。
僕はこの日常から、何を失って、どんな生き方をするのだろうか。
未だ覚悟は決まらないけれど、それならせめてこの半年は平和な日常を享受しようと心に決める。
変わる事を怯えるよりも、変わった時にする後悔を一つでも減らすことに尽力する。
そんな大事な日常のはじまり――
「おはようございま――っ!?」
扉を軽くたたいてドアを開ける。
その突如、まるでひび割れたレコードを無理やり再生させたかのような、ノイズと擦過音が混じるラッパのような音が大音響で響き渡る。
カバンを取り落とし、耳をふさいでも緩和せず、耳の中でなるようなその凶悪なまでの音の暴力に、目の前が暗くなり、意識が遠のいていくのを感じる。
耳が痛い。
頭が痛い。
目が痛い。
喉が、鼻が、腕が、足が、肺が、胃が、腸が。
何もかもが、痛くてたまらない。
――大事だった日常が、音を立てて破れていく。
膝をつき、横に倒れ、蹲る。
――大事だった日常から、大切な何かが抜け落ちていく。
体が震え、汗が吹き出し、涙が止まらなくなる。
――大事だった日常に、異常という名の頁が書き足されていく。
パラパラとページがめくられていく音が聞こえる。
乱雑に記された意味不明な悪意が、足元から日常を塗りつぶしていく。
誰のものかもしれない激情が、悲痛な叫びをあげながら纏わりつく。
怖い。
怖くてたまらない。
何か異質なものに変化していく自分が。
変化したことで失う過去の自分が。
自分が自分ではなくなっていく感覚が。
塗りつぶされていく想いが。
落ちていく意識のその向こう側で、何も見えないはずの闇の中で、ふと声が聞こえた。
「ねえ、私を読んでくれるんでしょ?」
凛々しい声だ。
それは、覚悟を知っている。
悲しい声だ。
それは、さみしさを知っている。
震える声だ。
それは、叶わないことを知っている。
優しい声だ。
それは。。。それは、ただ、たったひとつの、何かを願っている。
見えないはずの闇の中で、緋色の髪をした女の子が何かを探して泣いている。そんな幻想を垣間見た気がした。。。
本日が初投稿となるため、なろうのシステムがよく分かっておりません。
そのため、サブタイトルとか、章タイトルとかのまとめ方がよくわからないので、近日中に修正します。
タイトルも、修正できたかな。。。