最終話「黒猫」
黒猫保護条令
最終話「黒猫」
タクシーと電車で新大阪駅に到着した久利人。
決戦の地は大阪駅の先、中之島にある。
従ってここからさらにたった一駅先の大阪駅を目指すわけだが、狂気の惑星大阪に不安を抱くが故、決戦の地の直前で途中下車をした。
追手や、母のテロ行為で全身の至る所に打撲や擦過傷がある。
加えて愛猫ビラリーを失って、心に大穴が開いてしまった。
心身ともに大破したこの状態で、大阿羅漢手と渡り合えるのだろうか?勝てるのだろうか?
そうでなくても全身から関東の者のシュッとした雰囲気を漂わせている久利人。
この大阪星という暗黒空間そのものがアウェーであり、敵だ。
大阪星の恐怖。
駅を出た直後、まず大通りを見て愕然とした。
車が信号を守らない。信号は三色のライトを点灯させるファニーな道路の飾りとして、そこにあるだけなのだ。クリスマスツリーの豆電球と意味合いにして同格。
それだけならまだいいが。
車道を走る車たち。すさまじいテールトゥノーズでかっ飛ばして居る。
地球において、速度制限標識は表示されている速度を超えてはならないことを示すが、大阪星では、「それ以下の速度でちんたら走ったら殺す」を意味する。
バンパーとバンパーの間隔はわずか10cm。交差点は並列ドリフトで左折して行く。
わざわざスポーツランド生駒に行く必要なんてない。公道全体が一大レース場なのだ。
ブオアアアアアアアアアアアアアッッ!!
おっかなびっくり走る練馬ナンバーのフェラーリ488スパイダーを、なにわナンバーのダイハツムーヴがたたきぬいて行く。
恐ろしい。駅を出てたった一歩、まず目に入った道路の様子がマイナス100万点で恐ろしい。
ここは混沌渦巻く太陽系外惑星なのだ。
やはり大阪星人との接触は極力避けるべきだ。
少年Aは店員との会話を最小限に抑えられるであろうコンビニに入った。
「いらっしゃいませ!」
「だにっ!」
少年は聴きなれた、心安らぐ標準語に逆に怯んでしまった。
この亜空間トンネルで日本列島とつながった別惑星の無法地帯大阪において、コンビニは安全保障上の事由で配置された一時避難エリアだとでも言うのか?
コンビニの店内は、間違い無く標準的日本国だ。
少年はエナジードリンクが並んだ棚に手を伸ばした。
「おっといかぬ。」
伸ばした手の先にあったのは、サンガリアのミラクルエナジーV。
お気をつけなされよ。
大阪は至る所で罠を張って待ち構えているのだ。
少年はすっと手を右にずらして、RAIZIN DRYを手にした。これがクールな関東組の正しい選択だ。
さて会計。
「PASMOで支払います。」
「かしこまりました。」
少年はジーンと胸をうたれた。PASMOが通じる!たったそれだけの事で、心が和む。
関東の通行手形SuicaやPASMOを持つは関東組の証。それを偽りない笑顔で受け入れるコンビニ店内は大阪星にあって大阪星でない。
オアシス…いやさ天国。
天国で働く、コンビニの店員さんは天使。
RAIZINを一気飲みして頭の芯に喝が入ると腹が減ってきた。
体も働きに見合う報酬を要求してくるようだ。
腹が減っては戦が出来ぬとは、まさに今使うべき定型句。
どこで飯を食おうかと、取り敢えず道をぶらつく。
「ん?ここもそうか。」
あちこちの店に”魔法のレストラン”のステッカーが貼ってある。
これは何のおまじないであろうか。ひょっとすると、大阪星人以外お断りという呪いの呪符かもしれない。
ここは大阪星。暖簾をくぐった瞬間に黒魔術で千年の呪いをかけられてもおかしくはない。
君子危うきに近寄らず。入らない方が無難であろう。
それにしても大阪星人はよくしゃべる。
しゃべるのをやめたら死ぬのだろうか。そういう仕組みの人型生命体なのだろうか。
テレビは見るので関西弁は耳にしている筈なのだが、それでも理解できない単語がある。
道行く人が「マクド」、「セブイレ」、「ユニバ」と言うが、独特なイントネーションと相まって、全くを以って意味不明。
言語の違い。自分が他の惑星に居ることを痛感させられる。
暗黒空間に行くのに魔法も超化学も必要無い。
新幹線に乗りさえすればいい。
ご近所暗黒空間。それが大阪星。
ピーポー…パトカーのサイレンが聞こえた。そして、見ず知らずのおっさんに「迎えに来たんちゃうか。」と言われた。
これにはどう反応したらよろしいのだろうか。ある種のボケなのだろうか?それとも挨拶?はたまた、サイレンが聞こえたらそう言ってしまう癖のようなものなのだろうか?
まさか本当に目的地である大阪駅まで、パトカーがタクシー代わりに運んでくれるなんてことは、間違ってもなかろう。
謎が深い。少年は歩を進めた。
「モータープール?」看板の文字を読んで、そのまま口にしてしまっただけなのだが、そこはいかなる施設なるや?一見駐車場なのだが、カーシェア的な仕組みなのかもしれない。
それにしてもおばちゃんの衣類の猛獣率の高さには、何か呪術的な意味合いがあるのだろうか?
カースト制度に類したルールが働いており、ライオンやトラを身にまとっているおばちゃんは、豹柄のおばちゃんより格が上なのかもしれない。
尚且つ、おばちゃんの馴れ馴れしさときたら尋常ではない。
取り敢えずお好み焼きを食べることに決めたのだが、おばちゃんに店までの道順を尋ねると「自分、東京から来てん?」などと、本題をさておき、横道にそれた雑談に持ち込もうとする。これが手ごわい。
”自分”の運用もなれない。文脈からして話相手、つまり久利人であり二人称を示している筈なのだが、”自分”は関東組、特に久利人に至っては一人称なのだ。
”自分”と聞かれて、「いいえ。”自分”は茨木県から来ました。」と答える違和感。
久利人ほど関東臭が強いと、都心部在住のボンボンと思われるのも無理はない。
で、やっと道順を聞き出したわけだが…「これなダーっと行って、三つ目の信号ガーっと曲がるやん、右にドーンと見えるですぐ分かるわ。」…うん…無駄な擬音を省いてくれたらすんなり頭に入った。
なぜ、わざわざ手間をかけて、わかり辛い言い回しにするのか?
即時に「分かりました。ありがとうございました。」と、そう返答可能な標準的な説明をお願いしたい。
これは本当に強く訴えておきたいのだが、道順の説明は必要な単語だけを用いて行っていただきたいのです。さすれば説明する方も手間がなく、説明される方も擬音に気が散ることなく助かるのである。まさにウィン+ウィンの構造をなす。
さて人類は日本そばの上にフレンチフライをトッピングするだろうか?嫌、しない。断じてしない。
道順の説明に擬音を投入するということは、まさにそういうことなのだ。
少年は、今一度道順を聞きなおした。
教わってたどり着いたお好み焼き屋はめちゃめちゃ混んでいた。
相席した男が「ちゃうねん」と話し出すので、何が違うのか聞き耳を立てたところなかなかためになることを言う。教養がある上に道徳的にもまっすぐで博識な御仁だと感じ入ったところ、「知らんけど。」と話し終わりよった。
たいそうなご高説の締めくくりが”知らんけど”…何だったのだ、それまでの語りはなんだったのだ…全てが台無しになった。痛々しい。
その様に飯を不味くする一幕はあったが、お好み焼きの味は確かであり、その点は素直に褒め称えたい。
腹も膨れたし、異空間大阪の大体もつかめた。
「いよし!!」
覚悟は決まった。大阪駅に向かうため、新大阪駅に戻る。
JR京都線15番ホームの列に並んでいると、横からいきなり小柄な影に抱きつかれた。
殺気を全く感じなかったので、刺客ではない筈だ。
「千枝子か」
「兄ぃーに!」
「悪いが手加減して抱きついてくれるか。全身傷だらけなんだ。」
「あっ、」
はっと驚いて、力いっぱい抱き着いていた腕を放す。
千枝子は小柄な女の子だが、そのパワーはゴリラ。無傷でもハグは命がけとなる。
「新幹線で大阪駅まで直行したと思っていた。」
久利人は三人が大阪に出立したと、万梨阿からのメールで知っていた。
「今回ばかりは女狐の占いに乗ってやったの。一歩手前の新大阪で会えるって。」
見れば、妹、恋人、幼馴染が勢揃い。
久利人は乗車待ち行列の後ろに回り四人で並び直した。
「まさか師父が影武者だったとはな。」
「千枝子さんから見て天牢華蓋。麺痔州人から見て華蓋孛師。そして、弩鳴洋札から見て犬遇青竜。あちらの方が上手だったわね。」
「フン!なんだかんだ言って、奴らは弩鳴塔に籠城しての守り一辺倒。攻撃は最大の防御なりってね。この四人で偉そうにそそり立った弩鳴塔をへし折るわよ!」
千枝子の鼻息は荒い。
「久利人。」
幼馴染が久利人の横にすり寄ってきた。
「や、やぁ…ケイ子。君も来てくれたんだね。」
彼女は何やら大ぶりなかばんを背負っていて物々しいが、あえてそこには触れず、少年は感謝の意を示す。
「やだ。幼馴染で水臭いわ。私たちは産まれた時から、ず─────────────────────────────────っと…、ず─────────────────────────っと、一緒だったじゃない。」
「…」
相変わらず、グイグイ来るな。
「ず──────────────────────────────っと、一緒だったわよね。」
「…」
よく言えば”腰が強い”というか。
「ず──────────────────────────────っと、」
「うん、そうだね。ずっと一緒だったよ。」
新大阪駅からわずか四分。大阪駅に到着。
弩鳴塔がある中之島まで1km足らず。
桜橋口から出て、タクシー乗り場へと向かった。
屋根の上の社名表示灯に「国際」と書いてある、トヨタ車のタクシーに乗ることになった。
久利人が助手席で、女子三人が後部座席という配置。
「中之島の弩鳴塔までお願いします。」
シフトレバーに送った運転手の手がピクリと止まる。
「中之島?」
「ええ。」
「ほんまに、中之島に行くんけ?」
「そうです。」
運転手は中之島の状況を適切に表現できる言葉を見出せず、「そやかて、なんちゅうか、えらいこっちゃで。」と、目を剥きだした表情でイメージ的に伝えようとした。
「やはり、そうなっていますか。」
運転手は考える。
この少年。
”えらいこっちゃで”の一言で意味が通じた。
尚且つ、中之島の状況を、平然と受け入れて居る。
運転手の脳内を電流のように走る直感。
「ひょっとして自分、噂の少年Aけ?」
「恥かしながら。」
時の人「少年A」を前に、運転手は単純に興奮して気をはく。
「さよか。なら、おっちゃんも気合入れにゃああかんな。」
これに慌てたのは少年A。これ以上一般人を巻き込みたくはない。
「いえ。自分たちの問題ですので、運転手さんは…」
「どあほう!!泥船に乗ったつもりで、おっちゃんに任せとき!!」
運転手は”泥船”のくだりに対する突っ込みのリアクションをとるため待機するが、関東組からの突っ込みは一切ない。
そう、関東では突っ込むのが優しさではない。聞かなかったことにしてスルーするのが優しさなのだ。
そんな、地球と大阪星の惑星間ディスコミュニケーションを乗せて、タクシーは走る。
無論、大阪星の交通ルールに従い、制限速度標識に表示されている最低速度を十分に上回る速度を維持し、交差点では信号機では無くその場のノリを守っている。
運転手さんは模範的なタクシードライバーなのだ。
浄正橋交差点を四輪ドリフトでなにわ筋へ左折すると、まもなく見えてくる中之島。
「まぁ、分かっていたけれどね。」前方に見えた光景に対する、千枝子の感想だ。
中ノ橋通りに沿って、びっしりとT-90MS戦車が並び、その125mm滑空砲は全て玉江橋を向いている。
その玉江橋を、久利人たちはこれから渡ろうというのだ。
ハンドルを握る運転手の手に脂汗。
前進をためらって、タクシーは停止。
ロシア製の兵装ということは忍者。忍者の相手は忍者。ならば自分が行くべきかと、久利人がドアに手をかける。
千枝子のため息。
「ケイ子さんと泥棒猫の出番のようね。」
「だから、私は戦えないと…」
「お黙りなさい、人間破壊マシン!」
ケイ子はクスクスとほほ笑んでいる。
意を決してタクシーを進めようとした運転手を、千枝子が止めた。
ケイ子と万梨阿が車を降りる。
その際、ケイ子は久利人の瞼に人差し指を乗せ、「見ちゃ、嫌よ。」と、悲しげな顔をした。
背負ってきたバッグから中身を取り出す。
それは大ぶりな蝦夷刀。
大ぶりも、大ぶり。刀身の幅ははがきの長手ほどもあり、厚みだって指二本分以上ある。
こんなものを、華奢な女子高生が振り回せるのだろうか。
千枝子が万梨阿の袖を引く。
「いいわね泥棒猫。あなたの役目は歩兵からケイ子さんを守ることよ。」
占い師は冷めた表情のままため息をつく。
「あまり期待しない方がいいわよ。私は単なる占い師。」
「そして、殺人的に技が切れる女子レスラーよ。」
ケイ子はすでに玉江橋へと歩き始めている。
これに万梨阿が追いつくと、ケイ子はスイッチが切り替わったように全力疾走。万梨阿もこの速度に合わせる。
「そんな重い鉄塊を持って、よく走れるわね。」
「うふふ。ちょっとしたコツがあるのよ。」
コツだけでケイ子自身の体重より重そうな鉄塊を片手で振り回せるなら世話はない。
飛来する機関銃の弾丸を、ケイ子は蝦夷刀で受け流した。
125mm滑空砲ですら、ケイ子はその砲弾を真っ二つに切り裂いた。
「ぬああああああああっっ!!!!」
バーサーカーと化したケイ子は、T-90MSの一輌に取りつき、戦車の装甲を切り裂いていった。搭乗員の忍者ごと。
強い!
これほど強い女の子を守る必要があるのか?万梨阿は首をかしげる。
六車の血の少女は狂ったように暴れまわり、次々に戦車を無力化してゆく。
左手からAN-94アサルトライフルを携帯した歩兵二名がアプローチしてきた。
「泥棒猫!!出番よ!!」
遠くから千枝子が叫ぶ。
万梨阿は手前の一名を水面蹴りで転倒させた後、後方の一名を、立ち上がりながらのローリングソバットで顎を蹴り上げた。
成程。敵戦線を混乱させるためには、六車の少女は戦車撃退に専念させねばならない。
戦車に混乱を立て直す隙を与えぬよう、攻撃の手を緩めるわけにはゆかない。
群がってくる歩兵は、ケイ子以外の誰かが相手をする必要がある。
「ようは蠅蚊退治のキンチョール。」
ため息をつきつつも、万梨阿は冷めた表情のまま群がる歩兵を手際よく退治して行く。
「運転手さん!今!」
千枝子の掛け声。
運転手は、たった二人で完全武装した忍者たちを手玉に取る女の子の姿が信じられない。
言葉が出ない。
千枝子の掛け声にも、目を丸く見開いたまま、言葉にならない声でうなる。それが自分でももどかしい様に何度も頷いて、やっとアクセルペダルを踏み込んだ。
いよいよ玉江橋を突っ切るタクシー。
二人とのすれ違い際、少年は六車の少女に「すまない。」と頭を下げた。
「だから…見ないでぇ、」
少女の眼尻に涙がにじむ。
少年には可愛く着飾った姿を見て欲しかった。
狂った戦士の姿ではなく。
流れ弾がタクシーのヘッドライトやサイドミラーを吹き飛ばす。
そして、左後輪も。
「カー!邪魔くさい!!」
タイヤを一つ失った。
運転手は反時計回りに回転しようとする車体を、右一杯に修正舵を当ててまっすぐに走らせる。
「運転手さん。いけますか?」
「かめへん。かめへん。気にせんでええわー。」
右折ポイントが迫ってきた、しかしハンドルはこれ以上右には切れない。
「本当に、いけますか?」
「うたてい奴っちゃのー。」
運転手は一瞬ハンドルを戻してアクセルを踏み込んだ。
右90度回頭=左270度回頭。
運転手はその場でくるりと左に回ることで、右旋回を成立させた。
「やるじゃない!」千枝子がパンと手をたたいた。
万梨阿はおのが背後にただならぬ殺気を感じて振り返り、頭上から飛来する刃を無我夢中で白刃取り。
「これは…」
ケイ子が手にしているものと全く同じ蝦夷刀。
「くっ、」
万梨阿が蝦夷刀を手にした男の馬力に押され始める。
これを見た忍者は、MP-443自動拳銃に持ち替えて万梨阿を取り囲む。
「万梨阿さん。撤収よ。」
ケイ子が蝦夷刀で忍者共を薙ぎ払い、蝦夷刀を持つ男の右腕を切断した。
「あぁ、重かった。」
万梨阿も大した肝っ玉で、白刃取りしていた蝦夷刀を、切り落とされた男の右腕事横に打ち捨てた。
「私たちの役目は終わり。川に飛び込むわよ。」
右腕を失った男が、左手で蝦夷刀を拾い、二人に襲い掛かる。
「そうね。あなたも六車の人間ですものね。」
ケイ子は男を脳天から真っ二つにしてしまった。
「ケイ子さん。本当に強いわね。」
「私、これでも金百匁なのよ。てへっ、」
ケイ子は照れくさそうに舌を出した。
「金百匁?それは…」
「ならば私は金百二十匁よ!」
突如聞こえてきた、二人を圧倒する声は新手!
ケイ子や男が持っていたものより、更に大きな蝦夷刀を手にした女。
強者のたたずまい。
「万梨阿さんは先に逃げて。」ケイ子が万梨阿を守るように立つ。
「それはできないわね。」万梨阿はケイ子の横に並んで立った。
「!!?」
「その意味は解らないけれど、あなたよりあの女の方が二十匁上なのでしょう?」
「そうよ。滅多にも格付けされない六車の最高位。私の倍の値段で売り買いされるわ。」
「ならば差分の二十匁。私が何とかしましょう。」
さてタクシー。
被弾し先ほどから黒煙を上げていたエンジンが、ガランと乾いた音を立てる。
「エンジン、死によった!」
惰性で走るタクシー。速度は落ち続け、ついには止まってしまった。
千枝子は忍者が追い付いてこないか気にして後ろを見る。
久利人も後方を…
ズドン!
ボンネットに何か…いや、誰かが落ちてきた。
「はっ!はっ!はっ!少年!遅かったじゃないか。重役出勤か?」
禿だ!
賞金稼ぎの督正義。人呼んで、ハゲタカ正義!
「その節はどうも。」
厄介な奴が現れたと、少年はため息をつく。
「さぁ、出てこい。ここから先は地獄の一丁目、お前を倒すことで、お前を守る!」
「運転手さんは川に飛び込んで逃げてください。」
覚悟を決めた久利人が車を降りたその時。
「チェスト───ッッ!!」
千枝子の飛び蹴りが炸裂!
禿は腕をクロスさせて防御したが、その小柄な体から想像しうる馬力をはるかに超える蹴りの重さに、ボンネットから弾き飛ばされた。
「兄様!この男の相手は私がするから、先に!」
久利人は頷いて、弩鳴塔へと走ってゆく。
「あ!コラ!待てっ!」
久利人を追おうとした禿の右手を千枝子が捕まえる。
「お前、少年の妹か?」
「そうよ。」
「自分が何をしたのかわかっているのか?少年を死なせるつもりか?」
「兄様は死なないわ。戦い、勝利し、生きた伝説となって帰ってくる!」
運転手は川を目指してひたすら逃げる。
しかし、忍者たちが追い付いてきたのが見えた。
このままでは千枝子が危ない。
駐車場に古めの車を探す。
18年落ちのランドローバー ディスカバリー。
これがいい。何しろ頑丈だ。
運転手は、懐から工具を取り出して。サイドウィンドウの隙間に差し込み、ドアを開けた。
そしてエンジンをかけると、四輪を掻き毟って忍者の軍勢に向かって突撃していった。
弩鳴塔に向かって走る久利人。
ふっと、意識が途切れて足がもつれ、転倒してしまう。
幾度も死にかけた逃亡の旅。全身に及ぶダメージが、いよいよ深刻な状態になってきた。
地面に突っ伏したまま動けない。
もうだめか。
ここで終わりなのか。
少年Aは愛猫ビラリーの姿を思い浮かべた。
「ビ…」
少年の指が、アスファルトに爪を立てた。
「ビラリーのけじめはつけてもらうぞ。」
立ち上がった少年は、気合を入れるため、自分の頬を思い切り殴った。
唇の端から血がしたたり落ちる。
再び、弩鳴塔へと走り出す。
その前に立ちはだかったのは、百名の阿羅漢手闘士。
「体力が限界の相手に、百人組手か。」
容赦がない。
「ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブッダッサ!!」
最初の一人が襲いかかってきた。
いよいよ、阿羅漢手の戦いが始まるのだ。
ぐわっと突き出される右手!
少年も右手を突き出す!
お互いの右手は人差し指から小指まで、がっちりと組み合った!
ぴんと天を向く親指!
そして、親指同士の激しい競り合いが始まる!
これは指相撲!
最終回の土壇場!今こそ明かそう!!
阿羅漢手とは、指相撲の一大流派なのだ!!
ベテラン刑事の娘咲亨。
今は公安と行動を共にしており、ヘリコプターの中。
ヘリコプターは御堂筋大江橋上空で待機中。
娘咲はカップヌードルサマーヌードルを食していた。
「今ですね。」
公安の者が無線で確認をし、ヘリコプターのパイロットに「玉江橋だ」と告げた。
玉江橋に急行するヘリコプター。
何やら言いたそうにしている娘咲に公安の職員は説明を始めた。
「六車の者がやってくれたようです。玉江橋の防衛線が崩壊し、アプローチ可能です。別な忍者部隊が迫っているという情報も入っていますので、今しかありません。」
「はぁ、」
非日常にもほどがある。
まるっきり戦争ではないか。
安全がただであるはずのこの日本に、どうやってこれほどの異国の兵器を持ち込めたのか。
狭い国土のどこに隠しておけたのか。
娘咲の色を失った顔を、公安の者がのぞき込む。
「娘咲さん。」
「はい。」
「もう、後戻りはできませんよ。」
「ええ。解っとります。」
一羽のカラスが悪い予言を告げる様にヘリコプターを睨み、横をかすめて行った。
公安のヘリコプターが玉江橋を通過した後、6機のMi―28ハヴォックが飛来。
先頭の機体のスタブウィングの上には、努力子が身を低くかがめて座している。
「年寄どもの横やりで、ハヴォックの手配が遅れてしまった。久利人はまだ生きているだろうか。」
努力子が忍刀を掲げて、攻撃の合図。
6機のハヴォックは、対戦車ミサイルを以って、容赦なくT-90MSを殲滅する。
「戦闘機が来る前に殲滅し撤収せよ!」
努力子の檄が飛ぶ。
ケイ子と万梨阿を見つけた努力子が、ヘリコプターから飛び降りた。
二人は百二十匁の女に滅多打ちにされ、息も絶え絶えで地面に長く伸びている。
「ケイ子を圧倒するとは、お前、百二十匁だな。」
努力子は左手にクナイを握り、右手に忍刀を構えた。
「如何にも!」
ケイ子と万梨阿を叩きのめした超大型蝦夷刀が、努力子に振り下ろされた。
ガキン!!
努力子は小さなクナイの切っ先で、超大型蝦夷刀を事も無げに受け止めた。左手一本でだ。
明らかに格が違う。
「相手が悪かったな百二十匁。」
百二十匁の女は、即時に顔色を失う。
「世界は…広いな…」
彼女は、努力子という怪物を前に、死を覚悟した。
努力子が忍刀を振りかざした、その時。
「奥様…」
よろけながらケイ子が立ち上がる。
「…奥様は久利人の所へ、」
「お前はもう戦えぬ。」
努力子は、虚を突いて攻撃してきた百二十匁の超大型蝦夷刀を薙ぎ払いながら、百匁の少女を見やる。
ケイ子が手にしている蝦夷刀は刃が半分失われている。
「この刀と同じ…敗北した六車は価値が半分に下がります。そうなれば私は平李家の家紋に合わず放逐されるでしょう。戦って勝ちます。」
「死ぬぞ。」
努力子は上から横から襲い来る超大型蝦夷刀を小さなクナイで簡単に受け止めながら問う。
「死んだ方がましです。」
”久利人との縁が切れるくらいならば”…その恋心が努力子に伝わる。
「分かった。」
努力子は超大型蝦夷刀と競り合っていたクナイを外し、後方宙返りでその場を離れた。
そして息子を思う少女を残して弩鳴塔へ走る。
努力子という最強のくノ一は、敵忍者を投げクナイで次々に仕留めながら弩鳴塔へ走る。
ケイ子。
彼女は百二十匁の前で、長さが半分になった蝦夷刀を構える。
百二十匁は自信満々でずかずかと近寄ってくる。
翻って百匁の少女はすり足で斜め後ろに後退する。
「なんだ、逃げ腰ではないか。鬼人と恐れられる六車がみっともない。」
小走りからの跳躍で、一気に距離を詰める百二十匁。
ケイ子も蝦夷刀を前に構えて防御の姿勢をとりつつ、後方に跳躍する。
ズバン!!
蝦夷刀を持つ、ケイ子の右腕が切り落とされた。
「先の男と、同じ殺し方だ。」
百二十匁が超大型蝦夷刀を振りかぶる。
ケイ子を頭から真っ二つにするつもりだ。
ドスウウウゥゥゥゥッッ!!!!
百二十匁の顔がにやける。
「そうだ、それでこそ六車!」
「六車に撤退は無い。腕をもがれようが、心臓を失おうが、命ある限り戦う。」
百二十匁の胸を、蝦夷刀が貫いて居る。
それは、先にケイ子が倒した六車の男が持っていた蝦夷刀。
蝦夷刀を投げてよこしたのは江出琉万梨阿。プロレスの技を使う、奇門遁甲の占い師。
ケイ子は、万梨阿が蝦夷刀を取りに向かったのを見て、投げて届く場所まで移動していたのだ。
そして、自らの右腕をおとりに百二十匁の隙を作り、左手で蝦夷刀を受け取って、百二十匁の胸を刺し貫いた。
「強い。お前が百匁とは信じられぬ。」
ケイ子は首をすくめて笑顔を作る。女の子らしい笑顔を。
「だって、女の子が百二十匁なんて、可愛くないでしょう?」
「ふざけた事を…だが、お前が最強の…」
百二十匁は絶命した。
ケイ子もその場にばたりと倒れる。
「六車さん。」
万梨阿が、ケイ子の右腕を拾い、腕がある左側から彼女を担ぎ上げた。
「病院に急ぎましょう。切り口が奇麗だから、まだ腕はつながるわ。」
「そうね。お料理を作るときに、利き腕はあった方がいいかも。」
強がりの作り笑い。右腕はとっくに諦めている。
彼女はたとえ右手を失っても、久利人と一緒にいたかったのだ。
万梨阿は自分にそこまでの覚悟はあるかと自問する。
万梨阿はT2Mobile Flameを取り出して、救急車の手配をした。
細長い少女は幼馴染の思いに当てられ、冷めた表情のままではいられない。
ケイ子を背負い、必死の形相で走る。ケイ子の右腕を元通りにするために。
獲物を刈るチーターの様に、弩鳴塔へ向かって疾駆する努力子。
遠くに、一台の乗用車が忍者部隊の追撃をせき止めているのが見えた。
「ハヴォックを一機回して。」
努力子は胸の谷間から取り出した無線機で、戦闘ヘリを手配する。
間を置かずハヴォックは飛来して、味方であるランドローバー ディスカバリーごと一帯を火の海にしてしまった。
努力子はハヴォックに向かって腕を振り上げサムアップ、「弩鳴塔前を五分守り、その後速やかに撤退せよ。」と指示をした。
そしてくノ一の女は、火の海に迷わず突っ込み、恐るべき疾さで業火の中を突きって反対側へと駆け抜けていく。
その火の海。瓦礫の下から誰かが出てきた。
「ほんま、びっくりしたわー。」
タクシーの運転手だ。
彼は、衣服にまとわりつく火の粉を払いながら走って行き、ぴょんと川に飛び込んだ。
努力子。
弩鳴塔へ向かい更に走ると剥げた青年と闘っている娘千枝子を見つける。その横を通り過ぎようとしたその時。
千枝子の投げクナイが努力子を襲う。瞬間的に加速してこれをかわす母努力子。
「兄ぃにの邪魔はしないで!」
「にぃに?」千枝子が発した赤ちゃん言葉に、首をかしげる禿。
”赤ちゃん言葉”に食いつかれると、流石の高飛車千枝子もきまりが悪い。
ブラコンの千枝子ちゃんは気を引き締めて話さないと、「兄様」が「兄ぃに」になってしまうのだ。
家族をはじめ、ケイ子や万梨阿はその辺スルーしてくれるのだが。
禿はがっつりと食らいついてきた。
「とっ!兎に角、お母様!兄様は一人で勝利を収め戻って来ます。伝説の邪魔はしないで!」
その意見に首を横に振る努力子。
「久利人の敵のうち一人だけ、たった一人だけ、うちが相手をすべき厄介者が居る。逆に、うちはその男の相手で手一杯。流石のうちも、勝てる見込みは何パーセントもない。」
千枝子は”厄介者”と聞いてはっとする。そうか、あの男も敵になり得る。失念していた。
あの男の相手となると、確かに母に頼らざるを得ない。
「解ってくれたようね。」
娘は黙って頷く。
母は決意の光を目に宿し、走り去って行った。
「厄介者?その男?お前の母ちゃんは、何でズバリ名前を言わなかった?この期に及んで何を隠す?」
「あんたには関係ないからよ。」
千枝子は禿に向かってクナイを突き出した。
禿はクナイを人差し指で、ぴんと弾く。
「お前ら兄妹はなにせつれない。」
ズダムッッ!!
汗を飛び散らせて、久利人は地面に突っ伏した。
少年の後ろには百人の阿羅漢手闘士が倒れている。
少年は、百人組手に勝利したのだ。
「あ、ああ、」
しかしその代償は大きい。
もはや震えるばかりで力の入らない両手を見る。
邪拳の象徴であった、のこぎり状の親指の爪はとげが削れて普通の丸い爪になっている。
掌を床について立ち上がろうとすると、
「痛ゥッ!」
とたんに手に痛みが走る。
思わず手を引っ込め、再び床に突っ伏す。
少年は、肘を使って上体を起こして立ち上がり弩鳴塔に侵入。
息を荒げながらエレベーターに向かって足を引きずった。
少年の両サイドから誰かが近づいてきたのだが、朦朧とした意識の中気付けていない。
幕賀丈とロジャー・キイスが近づいてきたことに気付いていない。
二人とも、今の久利人に勝負を挑むのがフェアでないことは、重々承知している。
それでも阿羅漢手の道に情けは無用。
いかなる条件下においても、勝者がすべてを得る。
それが強者を作り出す唯一絶対の方法。
決してスポーツではない、実践主義の非情なる格闘技。
それが指相撲阿羅漢手なのだ。
丈が久利人の右手を取り、ロジャーが左手をとる。
ロジャーは本来サウスポー。
フェリーの上での戦いで、彼は久利人を子供と軽んじて右手で戦っていたのだ。
少年の手に力はない。傷にまみれ、赤く腫れた手は触れることさえ痛々しい。
丈とロジャーは心を鬼にして、少年の手を握りしめた。
「ぐあああああっっ!」
久利人の顔が苦痛にゆがむ。
「「ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブッダッサ!!」」
強制的にその戦いは始まった。
本来、段位に相当な差がない限り行われることはない、諸手阿羅漢手という形式で。
丈とロジャーと言う強者に諸手阿羅漢手を命じた麺痔州人の容赦のなさ。
百人組手でぼろ雑巾の様になった少年の両手を同時に攻めるとわ。
少年の勝ち目は絶対ゼロ。
ぷらんと力なく垂れる少年の親指が野太く力みなぎる漢の指に押しつぶされかける。
そのとき、
”ニャー…”
猫の鳴き声が聞こえた。
可憐で幼気な子猫の声だ。
どこから迷い込んできたのか、高い位置にある窓の額縁に子猫が居て、三人を見下ろしている。
しかもただの子猫ではない。黒猫だ。
大阪の黒猫は、もう黒猫保護条令推進部に、すべからく引き取られていったはず。
それが、ここに一匹残っていた。
「ビラリー…」
少年が呟いた。怪しい笑みを浮かべて呟いた。
愛猫の。ビラリーの魂を心の近くに感じた。
少年の目に灯る紅い光。
丈とロジャーの背筋におぞけが走る。
少年は綴る。
「ナモー…タッサ…バガワトー…アラハトー…サンマー…サンブッダッサ…」
少年の指に力が戻り、その親指は雄々しく屹立した。
「試合の格は”羅漢”でよろしいな?」
二人は、ただならぬ少年の雰囲気に気おされつつ首肯する。
「はあっ!!」
少年は両腕を引いて二人を手繰り寄せ、二人の鼻っ面に跳び膝蹴りを食らわせた。
「イヤ───ッッ!!!!」
金的を狙って蹴りを繰り出す千枝子。
苛烈に攻める彼女とは対照的に、禿は冷めて居て防戦一方。
「妹。お前はなんとも思わないのか?」
「死ねっ!」
千枝子は禿の眼球を狙って、クナイを突き出す。
「そうだ、その発想だ。今回の騒動では死人も出ている。お前らはどいつもこいつも…心が痛まないのか?」
「痛むわ!」
千枝子の表情が涙に震える。
「私だってもううんざりなのよ!でも、その悪習も今日限り。阿羅漢手は兄様という良い手に握られる。今日流される血が!最後の血よ!!」
少女の本心を聞いた。切ねぇ。それが、禿の隙となった。
千枝子のクナイが禿の腹に深く突き刺さる。その状態から更に、クナイを右に捻った。
「ぐはあっ!」
禿は吐血して苦しむ。
その隙に、千枝子は禿の親指を抑え込んだ。
「12さ…」
禿の親指が横に外された。
この禿、腹をえぐられているのに、どこにこの様な力が…少女は少女らしい表情で怯えた。
少女の表情を見て、禿は優しく微笑む。
「無理をするな、妹。話は分かった。手前に任せておけ。」
禿は千枝子に延髄切りを食らわせ、足首で少女の首を捕らえたまま地面にねじ伏せた。
禿の腹部から飛び散った鮮血が、千枝子の顔に点々と飛び散る。
少女の右腕をひねりながら力任せに伸ばし、小さな親指を抑え込む。
「一二三っ!」
少女の右手を放して、禿はゆらりと立ち上がる。
「手前の勝ちだな。」
「……、」
千枝子は呆然として、自分が負けたことが信じられないといった様子。
世界は広い。
名もなき真の強者が、日常に紛れて牙を隠しているのだ。
「さて妹。なんちゃらの特約ってーのがあったな。」
「鹿野苑の盟約だ…くっ、殺せ。」
「命なんか要らぬ。お前のその赤い帯をよこせ。」
鹿野苑の盟約は絶対。
言われた通り、上着をまとめていた帯をほどき、禿に手渡した。
「フンッ!!ぬおおおおおおっ!」
禿が気合を入れると、腹筋の圧力で腹に刺さったクナイが押し出され、傷口がぴったりと塞がった。
「フー!フー!」
腹筋の力を緩めぬように気合を練りつつ、血にまみれた腹部に赤い帯をきつく巻いて行く。
ガッチリと堅結び。
「よし、これでちょっとの間は持つだろう。」
「あ、あんた…」
少女の瞳は禿の身を案じている。
「はっ!はっ!はっ!お前の”にぃに”の事は手前に任せておけ。」
「もうっ!」
赤ちゃん言葉をからかわれ、照れながらぽかぽかと甘殴りをして抗議する。
禿も、弩鳴塔へ向かって走る。
「つ、強ぇえ…」
丈とロジャーは、久利人の蹴り技の応酬に屈し、膝をついて天を仰いでいた。
久利人は一滴の力も残っていない親指を気迫で動かし、二人の親指を抑え込んだ。
「123(いちにさん)」
口早に呟いて、すぐさま両手を放した。
勝った。
丈とロジャーには勝った。
だが、麺痔州人には…
ヒヒ爺の策略には…
”負けた”
もう何かに触れると手に激痛が走って、意識を持っていかれそうになるのだ。
全身の生傷も少年の心をへし折りに来る。
じっと床を眺める。
きっと倒れてしまえば楽になれる。
後は野となれ山となれ。
ここまで頑張ったんだ、十分ではないか。
全ては徒労と、笑いたい奴には笑わせておけばいい。
「ごめんな、ビラリー。」
ついに少年は、膝を折った。
視界がかすんだ、その時 ──
「はっ!はっ!はっ!」
禿だ、禿がやって来て、久利人の腕を自分の肩に回し、真っすぐに立たせた。
「手前が知っている少年Aは、もっとしぶといぞ。」
「しかし、自分はもう…」
「少年が無理なら、手前が戦ってやる。お前を倒す予定だったが、妹さんと闘って気が変わった。阿羅漢手、ぶっ倒すぞ!」
禿の腹から血が滲んでいる。
「あなた、怪我が、」
「ああ、腹をえぐられてな、手前の持ち時間もあまりない。急ぐぞ!」
セキュリティーゲートを飛び越え、エレベーター室のガラス戸を殴り割り、エレベーターに乗り込む。
目指すは58階。弩鳴洋札の首を所望。
しかし、エレベーターは36階で強制停止。
ドアが開く。
そこに立っていた男は、平李呂舵夢。久利人の父である。
「そうか。父さんも、敵と言えば敵だった。」
少年は、呂舵夢の存在を失念していたことを悔み、唇を噛んだ。
全身の負傷がなくても、父に勝つのは分の悪いギャンブルだ。
「顔を上げろ少年。手前が何とかする。」
禿が指をバキボキと鳴らす。
「いいえ。その男の相手は、うちよ!」
36階の窓を叩き割って、努力子が真横にすっとんで来た。
呂舵夢の前に着地し、低く豹の様に構えると、エレベーターの操作盤に向かってクナイを投げた。
クナイが刺さると操作盤は火花を発し、再びドアが閉まってエレベーターは上昇を再開する。
母は息子を逃がしたのだ。
いや…工作員が手ごまに先を急がせたのかもしれない。
「久利人が勝ち進めば、必ずあなたが出てくると思っていた。」
夫のため息。
「例え師父が平李家の目の上のたんこぶでも、家族四人は幸せだ。これ以上望むものではない。」
「変化を恐れる臆病者め!」
努力子が振り回した忍刀を呂舵夢は親指一本で受け止めて、押し砕いた。
そして、夫は妻を抱きしめた。
「金堂に黒猫を放って、この混乱を誘発したのはお前だ。努力子。」
「嘘だ!」妻はクナイを握りしめて叫ぶ。
「お前の中には、我が家の太陽たる優しき母と、悪名高い忍に洗脳された工作員の二人が存在している。」
「嘘だ!嘘だ!阿羅漢手が久利人を反逆者とみなし、苛烈な追手を送ったのだ!」
「違う!違うのだ。お前の流派は久利人に対し、頭領に迎えるに値するか試練を課した。それを察知した甲賀と伊賀が、お前の流派をつぶすため久利人抹殺に動き出した。これを…麺痔州人が利用した。」
「うっ!くうっ!」
突き付けられた真実に苦しむ。
成程、呂舵夢の説明の通りなら、すべてのつじつまは合う。
確かに、彼女は断片的に自らの記憶がないことを自覚している。
しかし、もしそうならば努力子の流派は悪。
それを認めようとすると、頭が割れそうになるほどの頭痛に襲われるのだ。
「無理はするな。先だってもお前は某が伝えんとした真実に耐えられなかった。お前の流派も平李家も、古狸は例外なく腹黒い。だから、お前は某が守る。」
努力子は、母の自我と工作員の仮面との葛藤の末、気絶をしてしまった。
そして、呂舵夢から聞いた真実の全てを忘却してしまうのだ。
「だめ…だったか。哀れな女。某は、お前が愛おしい。」
ヘリコプターで、弩鳴塔の屋上に着陸した公安と娘咲。
階段ですぐ下の58階まで下りる。
階段室からフロア内に入る鉄扉はC4で爆破した。
だだっ広い1フロア丸ごとぶち抜いた、豪華な洋札のためだけのオフィス。
迦諾迦麺痔州人と弩鳴洋札がソファーに座っている。
「迦諾迦麺痔州人。鹿淵陸男失踪事件の重要参考人として、署までご同行願います。」
これを麺痔州人が笑い飛ばす。
「公安の飼い犬めが、偉そうに。朕を誰と心得る。頭が高いわ!」
公安は三人居たのだが、三人とも麺痔州人にみぞおちを親指で突き通され、意識を失い床に長く伸びてしまった。
それは一瞬の出来事であった。
麺痔州人は娘咲を見やる。
「お前は公安ではないな。匂いが違う。」
「くっ、」
娘咲は、拳銃を取り出すべきかと、懐に手を伸ばした。
そのとき、
「オッサン!止めておけ!」
久利人を担いで禿が到着。
「銃を出したらきっと、その爺に殺されるぜ。」
久利人が苦し気にうめく。
「あなたは師父の相手をお願いできますか。弩鳴総理は自分が倒します。」
「いけるのか?なんなら二人とも手前が倒すぞ。」
「それこそ無茶ですよ。あなたは師父を倒し、早く病院に行って、その腹を縫ってきてください。」
「はっ!はっ!はっ!あなたなんて呼ぶな。兄貴だ。お前は手前を兄貴と呼べ。少年!」
「兄貴?嫌ですよ。」
「はっ!はっ!はっ!嫌でもそう呼ばせるぞ!」
禿は驚異的な跳躍で麺痔州人に近接した。
腹黒爺は阿羅漢手の構えを取り、右手を差し出す。
鍛え上げられたその右手を、禿はまんじりともせずに眺める。
爺は指相撲で決着をつける気満々で、「ナモー タッサ バガワトー…」と唱え始める。
だが禿は────、
「知るか────っ!」
禿は爺の頬をグーでぶん殴った。
「ぼほぉおおおっっ!!」
「こっちゃあ腹ぁえぐられてんだ!ちんたら指相撲なんぞやってられっか!!マッハで地獄に送ってやる!!」
禿は横倒れになった麺痔州人の足元に唾を吐いた。
「おのれ下郎!!」
顔を真っ赤にして怒った麺痔州人は、部屋に飾ってあった日本刀を抜いた。
さて久利人。
無論彼の両手は限界を幾度も超え、ポンコツと相成った。
洋札が相手とあっては、いかに邪拳使いと言えど誤魔化しが効かない。
少年は、左足で右足のつま先を踏んづけながら、右足の靴と靴下を脱いだ。
「まっ!まさか!!!!」
麺痔州人が、驚きと怒りで目を丸くする。
「この悪童め!それは外道中の外道!洋札!受ける必要はないぞ!!」
洋札は道着姿で既に素足。
「ふっ、ふっ、」と、楽し気に微笑んでいる。
少年は、脱いだ靴と靴下を、横へ蹴っぽった。
「邪拳の鬼っ子め!貴様は破門じゃあああっっ!!!!」
麺痔州人の声は裏返る。
洋札は少年の右足をニヤニヤと眺める。
「良いではないですか。邪拳士の最後の戦いにふさわしい。」
洋札は右足を突き出した。
「久利人。試合の格は”阿羅漢”だっ!」
阿羅漢──それは阿羅漢にだけ許された、殺人をも許す、最上位にして最悪の格付!!
「望むところっ!!」
「「ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブッダッサ!!」」
洋札の右足の指と、久利人の右足の指が、がっちりと組み合わさる。
阿羅漢手の裏道にある格闘技、阿羅漢足!!
足を使った指相撲である!!
これを見た麺痔州人は激昂する。
「朕の目に!汚らしいものを見せる出ないっっ!!」
「うっせーよ!じじぃっ!!!!」
ぼこおあああっっ!!!!
禿は全体重を乗せた拳で、爺を殴り飛ばした。
勢いよく吹き飛んだ爺はガラスにぶつかり、ガラスを破って、外に飛び出し、58階の高さから落下していった。
禿の拳はしゅうしゅうと煙を立ち昇らせている。
「ようし、勝ったぁ。」
禿は血の気を失った顔で倒れてしまう。
久利人が娘咲に視線をくれる。
「その人を病院へ運んでください!放っておくと死にます!」
娘咲は目の前で起こっている荒事にあっけにとられ、きょとんとしている。
「早く!!」
「あ、ああっ!」
娘咲は禿を背負った。
そして、「総理。私はすべてを見た。アンタ、ただではすみませんよ。」──そう言い残してエレベーターへ向かった。
「解っている。」
向かい合う久利人と洋札。
「ふっ、いよいよ二人っきりだな。お互いにこれ以上失うものはない。」
洋札の拳の連撃が少年を襲う。
少年は肘でかろうじて受け流す。
「なぜ黒猫を根絶やしにしようとたくらむのです。」
「私は、黒猫のせいで妻を失った。」
少年は洋札が妻を失った悲しみを、自分がビラリーを失った悲しみに重ねる。
「悪い質問をしたようです。これ以上は聞きません。」
洋札は爺が落とした刀を拾い振り下ろす。
少年は卓上にあった万年筆を口にくわえて、日本刀の切っ先をはじき流す。
「しぶとい奴め!」
「あなただって、相当にしつこい。」
ふと、少年の上半身に不自然に隙ができた。
どうぞ刀で突いてくださいと言わんばかりに。
刀を構えながら、洋札は気が付いた。
独鈷杵だ。懐、胸のあたりに独鈷杵があって、それで刀を受け止めるつもりなのだ。
そのような子供だましに引っかかるものか。
切っ先を少年のへその下に合わせて、刃をつきこむ。
そこなら、無防備な筈だ。
ガキイッ!!
日本刀の鋭い切っ先は、何か固いものにあたり、刀は少年の身体を貫くことができない。
「自分の黒猫の骨壺です。さらしで腹に巻いていたのです。」
少年は肘で押して、懐から独鈷杵を取り出した。
「ぬああああっ!!」
涙しながら痛みに抗い、独鈷杵を両手で握って洋札の太ももに突き立てた。
「ぬがあっ!!!!」
洋札の右足の力が抜けた一瞬。
「123(いちにさん)。」
足の親指を抑え込み素早く数え切って、少年が勝負を決めた。
「またもや黒猫に凶運を運ばれたか。」
洋札のため息。
「自分にとっては最良の招き猫です。」
「現時点を以って、阿羅漢手の頂点阿羅漢はお前だ。平李久利人。」
久利人は肘で独鈷杵を挟み、洋札に差し出す。
「阿羅漢の座は動きません。あなたのままです。」
「邪拳の使い手よ。阿羅漢手の掟は天地がひっくり返っても曲がらぬ。最強の者が阿羅漢。その責務からは逃れられぬぞ。」
「自分は勝利する前に師父に破門を言い渡されました。資格がありません。」
「おのれ久利人!いうに事欠いてっ!!」
「自分は黒猫と心安らかに暮らしたい。それだけです。」
少年は腕で、腹の位置にある骨壺を撫で、涙した。
洋札は、少年の心の内を悟った。
それは純粋で切なく、ガラスのようにもろい願い。
「日本では無理だな。私がいる限り。」
「では海外で。」
洋札は久利人の目をじっと見る。
「その覚悟が本物ならば、新しい国籍と名前を用意してやる。我が息子、芭良を頼れ。」
「承知。」
洋札は、独鈷杵を受け取った。
現代の新たなる伝説が刻み込まれた、新生独鈷杵を。次世代の阿羅漢手の魂を。
精魂尽き果てて、足を引きずりながら去っていく少年Aの背中。
「今一度言う。お前は阿羅漢手最強の男。その責務からは逃れられぬ。」
少年は、無言のまま足を引きずってゆく。
「身内に別れの挨拶をしなくても良いのか。」
「無用。」
少年はエレベーターで2階まで下りて、非常階段から1階へと向かう。
エントランスに向かえば、きっと千枝子と鉢合わせてしまう。
「ニャー、」
先ほどの子猫が、黒猫が、少年のすぐ前、非常階段の手摺の上に立っている。
カチャン。
洋札の一撃で亀裂が入っていたのだろうか。
腹に固定していたビラリーの骨壺が割れ、服の裂け目から遺灰がこぼれだした。
爽やかなつむじ風が起こり、遺灰を運ぶ。
遺灰は子猫の周りを一周して、天高くへ登って行った。
それを見送る少年のまなざし。
そして───
少年と子猫は忽然と姿を消した。
※第3話で登場した、モヒカン辮髪です。
物語の余韻キャンセラーとして。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
このあと主人公たちはどうなってしまうのか?
久利人とビラリーはどのようにして出会ったのか?
久利人の悪夢の原因は?
弩鳴洋札の妻丹亞の死と黒猫の関係は?
数々の謎と伏線を残して、「黒猫保護条令」全9話終了!!
良いのです。今回の場合重要なのは話のスピード感や、ギャグのキレ。
物語の背景としてきっちりと設定さえしてあれば、いちいち説明する必要はないのです。
設定も無しに書いたらだちかんでしょうなぁ。
本作品で語りたいメッセージは一切ありません。
「足で指相撲をしたらばかばかしいに違いない」
その思い付きから始まり、ひたすらギャグを考え続けました。