第三話「平李家」
黒猫保護条令
第三話「平李家」
「久利人を取り逃がしただと!?」
平李久利人を罠にはめた張本人、大庭良久は怒りに震え、眩暈さえ覚えていた。
良久の前で土下座をしているのは加波山で久利人を襲った猟師の世話役。
彼は額を板の間にこすりつけて震えている。
痩せ男は立場のない世話役をきつく問い詰める。
「山歩きになれた50人だぞ!犬も30頭いたはずだな!どこに取り逃がす要素があった!!」
世話役の男は、必死に弁明をする。
「奴は目もくらむような高さの崖を飛び降りたのです。生きていると思う方がおかしい。」
「相手が阿羅漢手の達人でなければな!」
痩せ男に罵倒され、世話役は再び額を板の間にこすりつける。
:
少年Aこと久利人が、トレーラーの運転手が差し出した左手に、彼の左手を重ねる。久利人の親指の爪はのこぎりの歯の様に手入れされている。
:
「くそッ!」
良久は猟師どもが、久利人を舐めてかかったことが腹立たしい。
良久は、阿羅漢手の神髄を心得ぬ鹿追いどもに邪拳の少年を任せた自分が腹立たしい。
「それで…」世話役が恐る恐る顔を上げる。
「ああ!?」
苛立つ良久に小さく縮みながら、小声でうったえる。
「コレの方は…」
世話役の男は、胸の前で親指と人差し指をくっ付け円を作った。
成果もあげていないのに手間賃はよこせという図々しさに、痩せ男は細い腕を振り上げて、肘で男の側頭部を殴打した。
良久が女性の様に非力でなければ、これが鋼の肉体を持つ平李呂舵夢の肘ならば、世話役は痛みを感じる暇さえなく絶命していただろう。
幸い世話役には、鈍い痛みを感じる以上のダメージはない。
「あそこまでやって!手ぶらで若い衆の処には戻れやせん!」
「あそこまで?」良久には何のことか身に覚えがない。
「あ、いや…それはよろしいんでがす。」
いかぬと世話役は一瞬口を手で押さえた。
つい口が滑った。あの件は極秘。良久には秘密にしておかねば、世話役の命がない。
「後生です!成功報酬ではなかった筈です!」
良久は深くため息をついて、懐から札束を出した。
世話役の男の顔がパッと明るくなる。
良久は棒状に札束を丸めて、世話役のほほを殴打した。
それでも世話役の視線は札束に釘付け。
良久はもう一度札束で殴打。
世話役の男はその札束を持って帰らねば、仲間につるし上げられる。
屈辱に耐えて殴られている。
どうしても腹の虫がおさまらない良久は、繰り返し札束で世話役の男の頬を殴り続けた。
「くそうっ!!」
良久は棒状に丸めた札束を世話役の世話役の口の中にねじ込んだ。
世話役の男は白目をむいて札束を吐き出した。
飛び散った一万円札を、屈辱極まって涙しながら拾い集める。
良久はまんじりともせずにその無様な様子を眺めていたが、曇天の気持ちが晴れるわけもなく、舌打ちをしてその場を去った。
入り口に控えていた門派の少年に「あのクソを叩き出せ。」と耳打ちして。
道着を着た少年は、這いつくばって一万円札を拾い集めている世話役の男の横っ腹のあたりに立って、右足を大きく後ろに振り上げた。
道場に座して山のように動かぬ男は平李呂舵夢。
彼が座する床下に、またもや人の気配。
「努力子か、」
「はい。久利人はうちの誘いには乗らず、良久殿の追っ手を振り切りました。」
「ほう…」
初めはそのように無関心を装い悠然と構えていた父、呂舵夢。だが、表情筋が緩んでいくのをどうしても抑えられない。
「ぶわーっはっはっはっ!!!!」
遂に馬鹿笑いをぶちかましてしまった。
驚いたのは、道場で荒行に集中していた百人の子供たち。
筑波の座仏の異名を持つこの男。身動ぎ一つしたって珍しい。呂舵夢という男は頭に雷が落ちた程度では眉一つ動かさない。
それが馬鹿笑いをしている。
呂舵夢の静けさを良く知る子供たちだからこそ、彼の馬鹿笑いは極めて奇怪な光景に見えた。
呂舵夢の馬鹿笑いは延々と道場の堅い屋根板に反響をしている。
ついには激しく膝を叩き始めた。
「久利人よ!平李の血の恐ろしさを教えてやるがいい!」
良久は、道場の外でこの馬鹿笑いを聞いて、さも口惜し気に親指の爪を噛んだ。
実のところ良久は手っ取り早く呂舵夢に久利人の始末を任せようと考えていた。
だが、あそこまで言われてしまったら、話が変わって来る。
どちらに転んでも、平李の血筋の権威を高める結末しか先にはないからだ。
何よりもあの話の内容。
誰と話しているのかはわからないが…
自分の息子が良久の罠にはめられた事を知って居る。
呂舵夢に出しゃばらせたら、良久の陰謀を暴かれ、彼は窮地に立ち、いよいよ平李家の台頭を許してしまうかもしれない。
そもそも何故、自分の息子が罠にはめられたと良久を糾弾しないのか?その真意が知れない。平李家のやりようは得体が知れない。良久には平李家を量る度量はない。自分に量れない、コントロール出来ない者を頭にいただく手はない。
そう、良久がコントロールできる者だからこそ、頭にいただいてもいいのだ。
良久は自らに阿羅漢手の才能は一かけらも無く、努力などするだけ無駄であることを心得ている。
格闘技の一大流派阿羅漢手の頂点に立つ阿羅漢は、最強の使い手でなければならない。それは絶対に良久では無い。
すなわち彼は阿羅漢手の頂点には立てない。だが、阿羅漢を自在に操ることで、間接的に頂点に立つことはできる。
彼にとって阿羅漢は、わかりやすく手玉に取りやすい存在でなければいけない。
例えば、迦諾迦麺痔州人の様にだ。
麺痔州人は平李の血をこれ以上なく認めている。
呂舵夢を本殿の師範代に向かえ、ゆくゆくは彼の娘である千枝子を呂舵夢の跡継ぎにしようと考えている。
師範代の世襲制があるわけでもないのに、平李家の権威は代々受け継がれてゆくわけだ。
良久にとって平李家は正に目の上のたんこぶ。
その平李家にあやをつけて、阿羅漢手の王道から裏街道に追いやる切り札が、麺痔州人を激怒させた邪拳使いの久利人だ。
今、黒猫がもたらした吉凶は良久に味方している。
「誰か、適当な刺客はいないものか、」
一人悩み、廊下を自室に向かう。
そんな痩せ男の袖を引く老人あり。
御大、迦諾迦麺痔州人だ。
情けない表情で良久にすがっている。
「久利人を逃がしたと聞いたぞ。独鈷杵は、独鈷杵は大丈夫なんだろうな?」
良久は暫くためらった後、懐から独鈷杵を取り出してヒヒ爺にチラ見せし、すぐに懐にしまった。
説明など必要はない。
つまり、久利人に持たせたのは偽物ということだ。
馬鹿単純に喜び、声に出して叫ぼうとする爺様を良久は制した。
「大師父は、今まで通り独鈷杵を案じて、心ここにあらずという風体で居てくださいませ。」
爺様は頷いているが、その笑顔を見るに、本当に分かっているのかと心配になる。
何故ならこれこそが…
「成程、それが被害届を出さず、警察を動かさないでいる理由か。」
ぎくりと背に冷たいものを背負ったのは、大庭良久。
一番聞かれたくない男に聞かれた。見られた。
良久は呂舵夢に向かって右手を突き出し、阿羅漢手の構えをとった。
それを鼻で笑う呂舵夢。
大庭良久が平李呂舵夢に勝てるものか。
現に、良久の右手は小刻みに震えている。
その、悪知恵ばかりよく回る表六玉を押しのけてヒヒ爺が呂舵夢の前に立った。
良久にすがっていた先ほどまでとはうって変わって、威厳と強烈な殺気を全身から放っている。
腰の座った阿羅漢手の構え。阿羅漢手の完成形とも形容できる完璧な構え。
老師曰く、
「朕が勝っても、うぬれが勝っても阿羅漢手のためにはならぬ。」
これに呂舵夢は点頭。
「然り。某と師父は阿羅漢手の異なる二面。」
ふと、呂舵夢が目を閉じて、廊下の歩いてきた方向に向かって耳をすませた。
「むぅ、」
老師も異変に気付き、廊下の表に続く方向へ向かって、鋭い視線を送った。
いくつもの悲鳴を伴って、ずかずかと無遠慮で荒々しい足音が近づいてくる。
「らぁー、ら…はて?なんという名だったか?まぁいい。独鈷杵の件で話がしたい!誰ぞ在る!?」
その男が通ってきた後ろには、阿羅漢手の若い衆が何人も倒れている。
若い衆と言っても、ここは総本山阿羅漢手本堂。猛者揃いだ。それが鼻歌交じりにねじ伏せられた。
男は呂舵夢たち三人を視界にとらえ、駆け寄ってくる。彼の直感が、三人に流派の中心を感じたのだ。
「はっ!はっ!はっ!お前達ならば話になりそうだな。そういう面構えだ。」
「フハハ!話を聞いてやろう。」
呂舵夢が楽しげに男を出迎える。
男の禿げ頭に呂舵夢の顔が歪みなく映り込んでいる。
阿羅漢手本堂に殴りこんできた男は禿、ハゲタカ正義であった。
「昨晩、独鈷杵を盗んだという噂の少年Aに会ってきた。だが少年Aはな、自分は罠にはめられたという。その真偽を知りたい。」
「真偽を知って何とする?」
「手前はちんけな賞金稼ぎだ。あんたらの問題に関わって、金になるのかを知りたい。しかしながら手前の名は正義。親がくれた名に恥じぬ正義の道を外れずにだ。」
呂舵夢は満足気にうなり、「久利人をだました男なら、ここに居る」と、良久の腕を掴んで禿の前に引きずり出した。
禿は「ひょっとして問題解決?無駄足かぁー。」と肩を落とす。
禿は呂舵夢が良久をひっ捕らえ、すでに正しい方向へ阿羅漢手一門の舵を切りなおしたのだと勘違いをした。
良久は呂舵夢の顔色をうかがう。禿が思った通りの問題解決になるかどうかは、呂舵夢次第だ。
この師範代が独鈷杵盗難の真相を公にすれば、陰謀の良久は失脚。阿羅漢手門派は事実上平李家のものになる。
「問題だと?」
師範代の言葉を、陰謀の痩せ男のみならず、門派頂点の老師も戦々恐々として聞く。
「我が平李家にとって、この程度の猪口才な策略、問題のうちに入らぬ。久利人は自力で切り抜けようぞ。」
「え?我が…って、ひょっとしてアンタ少年Aの親父さんかい?」
「如何にも。某が久利人の父である。」
禿はぽかんとしてしまった。
「息子が罠にはめられているのに、何とも思わないのか?」
「久利人は自分で切り抜けると申したぞ。」
「うっわ…えらい親父さんだな。」
良久の高笑い。呂舵夢の無駄に高すぎるプライドを嘲笑っている。
「やい、賞金稼ぎ。」
「督正義だ。褒められた職業の人間ではないが、名前で呼んで呉。」
「黙れ。貴様など、賞金稼ぎで十分だ。お前、金を出せば何でもやるのか?」
「犯罪ならやらねーぞ。でなきゃ少年Aが罪人かどうか、わざわざ確認にはこねーよ。えーと、ら、りゃー、りゅー、」
「何故”ら”からだんだん遠ざかる。良久だ。この身は大庭良久と申す。きっと覚えておけ。」
「そうか。何にせよ少年Aが無実ならここに金の匂いはない。帰るとするよ。」
「まぁ、待て。」
痩せ男はいやらしい表情を隠しもせずに、禿を呼び止めた。
「金は嫌いではないのだろう?賞金稼ぎ。」
「ああ。金が好きな卑しい身だ。だが、善悪の分別はある。親がくれた名にかけてな。」
そう、禿の名は正義、督正義と云う。
「この本堂に席を持つ若い衆を軽く捻るとはたいした腕っぷし。その腕を買おう。」
禿は首を横に振る。
「悪に手を貸す気はねーな。」
「悪だと?悪と言うなら、少年Aこと平李久利人こそ、阿羅漢手にとっての悪!」
「手前には、少年Aは悪い奴には見えなかった。」
「ではこう聞こう。貴様、生まれたての悪魔の子を見たらどうする?その子はまだ、何の悪事もしていなかろう。だが、放っておいたら、いずれどうなる?」
「話が飛躍しすぎだ。」
禿は呆れてため息をつく。
「控えめに言っているくらいだ。」
”なぜわからない?”良久はため息をついた。そして「50万出そう」と呟いた。
「賞金稼ぎ、お前の腕は確かだ。ただ、久利人と何のしがらみもなく阿羅漢手の試合をしてくれるだけでいい。そしてもし勝利したら、更に50万出そう。その50万で鹿野苑の盟約を買う。」
禿は、子供一人に100万円ポンと出そうという、その申し出に驚いた。
「50万円だけいただいて、わざと負けるという手はありだな。」
禿が鼻で笑う。だが、良久は首をすくめている。
「安心しろ。それは無い。一度久利人と指を重ねればわかるはずだ。奴が悪魔の子だとな。貴様は親がくれた名に懸けて、久利人を倒そうとするだろう。」
良久はそう言って5分ほどその場を外して、また戻ってきた。
その間に禿は、少年Aの父親である呂舵夢に「お前の息子が言われ放題だぞ」などと、少年Aを弁明する言葉を引き出すべく尽力したが、筑波の座仏は押し黙って語らず。
禿は良久から50万円が入った封筒と何かの鍵を受け取ってしまった。
流されるまま、禿は良久の依頼を請けてしまったのだ。
禿が仕事を請け負ってしまってから、呂舵夢は口を開いた。
「久利人の命格は父である某にも計れぬ。見る者によっては悪魔にも見えよう。お前が久利人に勝ったなら、某もお前に別途100万褒美をやろう。本気で望め。」
禿は、人の親の言うことではない、狂っていると呂舵夢の考え方に戦慄した。
だがこの時だ。禿が久利人との対決を決意したのは。
今ならまだ、話を反故にして依頼を断れた。
だが禿は少年Aを守る為に、少年Aと戦うことに決めた。
自分ならば、安全な方法で少年Aに勝ち、事態を丸く収められる。
もし自分が断ったら、痩せ男は、どこかの殺人狂を自分の代わりに雇うかもしれない。
少年Aの命の危険を、そのような非道を、見逃すわけにはゆかない。
そう、自分が少年Aを倒すのが最善手なのだ。
禿はため息を一つついた。
「ところでこの鍵は何だ?」
「車の鍵だ。」
「車ぁ?」
「この本堂の裏の駐車場に止めてある一番派手な車だ。それを使って久利人を追え。」
禿は、ポルシェかなフェラーリかな?ひょっとするとブガッティかなと、考えを巡らせながら駐車場に向かった。
「派手な車って、これかよ!!」
派手なはず。
AeroMobil4.0
空を飛べる自動車だ。
鹿淵陸夫はつくば市街の雑居ビルが一室、阿羅漢手財団事務所に向かった。
押しが強い見てくれで、威厳に溢れている本堂とはえらい違い。それはひっそりと街の片隅にあった。
階段を昇って事務所の前まで行き、だが本当にここかと怪しんで、一階に戻って集合郵便受けで確認。
再び団体名を表すものが一切ない二階のドアの前に戻ってきた。
気の利いた受付があるわけでもない、単なる鉄扉である。
インターフォンのボタンを押す。
「はい。阿羅漢手財団で御座います。」
澄んだ女性の声が聞こえて来た。
「昨日Twitterで多少やり取りをさせていただいた、アカウント名”酸っぱい御汁粉”こと鹿淵と申します。」
しばし間があり「お待ちしておりました。」と返事が返ってきた。
ドアが開くとえらい美人が登場し、勢い心拍数が上がる。
「あの、こ、この度は私なんぞの話に…」
美人の顔や胸元をガン見してしまった視線を慌ててそらして、かしこまる。
「身分証明書を見せていただけますか?」
美人は手を差し出した。
「え?ああ、はい。有ります。有ります。」
わたわたとポケットを探る。
ブラウザでTwitterのアカウント画面を表示したガラケー、マイナンバーカード、そして運転免許証と健康保険被保険者証まで、一式提示した。
事務的に対応をしているだけのつもりの女性は、鹿淵の必死さにやや面食らったが、笑顔でガラケーとマイナンバーカードを手にした。
必要項目を確認しながら鹿淵に問う。
「失礼を承知でTwitterのツイートを読ませていただきました。阿羅漢手についての書き込みはゼロではありませんが、それほど熱心な印象は受けませんでした。何故、今回はこれほど熱心なのですか?」
自分が詐欺罪で追われている身だなんて、言えるわけがない。
その追及をかわす為に、独鈷杵の盗難を利用しようとしているだなんて。
女性の手から帰って来たガラケーとマイナンバーカードを受け取りながら答える。
「確かに私は、熱心な信者と言う訳ではありませんが、人並み以上に阿羅漢手を愛する者の一人です。独鈷杵の盗難は阿羅漢手信者達の間で大きな問題になっております。」
「ええ。存じ上げております。掲示板の書き込みは読ませていただきました。」
「実は私もあの掲示板に熱心に書き込んでいた一人でして…」
これは嘘だ。
掲示板への書き込みは匿名。誰が書き込んだのかなんてわからない。つまり、ばれない嘘だ。
「…志を同じくする仲間と議論を重ねるうちに、いてもたってもいられなくなったのです。掲示板に書き込みをしても、事態は改善しない。現実の世界で働かなければいけないと。」
「まぁ、まぁ。あなたは有言実行を絵にかいたような方ですのね。」
鹿淵は照れくさそうに手を振りながら否定する。詐欺師といえど、嘘ばっかり並べて褒められるのは、やはり良心にチクリとくるものがある。
「それ程格好をつけたり、気負うつもりは御座いません。いい年をしてお恥ずかしい話ですが、只々、やらずにはいられない気持ちになってしまったのです。」
「あら。気がつけばずいぶんと長く立ち話をしてしまったようです。どうぞ、中にお入りください。」
女性は鹿淵を事務種の中へ招き入れた。
応接間に通され、お茶を出された。
彼を出迎えた女性が彼に名刺を差し出す。
”阿羅漢手財団 専務取締役 花園ジェニファー”
そう書いてある。
驚いたのは鹿淵。
「ええっ!専務でいらしたのですか!?お若いからてっきり…」新人の事務の娘だと思っていた…とは言えなかった。
「ウフフ。親の七光りで管理職に胡坐をかいているだけの、何にも専務ですよ。」
大きな組織では無いとはいえ、取締役に失礼は出来ない。長年サラリーマンをやってきた心と身体に染み付いた習性と云う物が在る。
鹿淵は「頂戴いたします。」とかしこまって名刺を受け取りなおした。
専務に席を勧められるのを待って、専務より後に座る。この辺りもサラリーマンの習性だ。
「早速、昨日Twitterでやり取りをした続きですが、」
詐欺師から切り出す。話の流れをコントロールするために。
「そうですね。ちょっとTwitterで大っぴらには公言しにくい内容なのです。」
「つまり独鈷杵が重要文化財で、それが盗難にあったにもかかわらず、文化庁長官に速やかに届け出ができないという件ですね。文部科学省からの指導はないのですか?」
「そちらの方は、怒鳴洋札が抑えて居るようなのです。」
鹿淵は、暫し無言で策略をめぐらせる。
「成程、事態は呑み込めました。極めて胡散臭い。」
「大庭良久」ジェニファーが唐突に一人の男の名を口走った。
「はい?」
「その男が来てからです。本殿が何やらこそこそと、胡散臭くなり始めたのは。私はあの男に、いい印象がありません。」
鹿淵は眉をひそめた。話は妙な方向に進んでいる。彼は警察の耳目を少年Aに集中させ、自分への追及の手を薄くしたいだけなのだ。
あの蛇のようにしつこい娘咲というベテラン刑事。出来ればあいつを自分の担当から外したい。
それだけであって、阿羅漢手内部のごたごたに巻き込まれるつもりはない。
大庭良久?知った事ではない。
これは少々、気を使って立ち回る必要がありそうだ。
「ちょっと考えてみましょう。」
鹿淵は両腕を組んで、目を瞑った。
「散弾銃を持った猟師が山狩りをしたぁ!?」
黒猫保護条例推進部調査室係長、牟尼美智雄。
彼は久利人の黒猫ビラリーを強制引き取りするため、部下を連れて一路筑波山に向かった。
その後、久利人の行方を追うため、加波山を抜けて石岡市から笠間市に移動。
その道中で部下に聞き込みをさせていたのだが、部下の一人がとんでもない噂を持って帰ってきた。
「散弾銃を人影に向かって発砲している現場を、一本杉峠から配管工の男性が見ていたようです。何しろ遠目で、見た本人も半信半疑だそうですが、銃声は確かに聞いています。その男性に設備を任せている旅館で、ちょっとした噂になっていますね。」
「明治17年の事件といい、加波山は血に飢えている。」牟尼はため息をついた。
「どうしますか?」
その質問に意図せず、牟尼は苛立った顔を部下に見せてしまう。
またか。また面倒ごとか。しかも、とりわけ厄介な案件か。
自らの星の巡りの悪さを嘆く、情けないイライラ顔だ。
そんなものを部下に見せてはいけない。
見ろ。部下は怯えているではないか。可哀想に。
自分は係長として、現場でシャキッとせねばならぬ。
使命感から強引に和らいだ牟尼の顔は、部下に自らの不行き届きを謝罪していた。
「俺たちの手には余るが、きっと警察の腰は重い。我々が先んじて少年Aを保護するしかなかろう。」
「係長ならそうおっしゃると思っていました。」
部下の顔に笑顔が戻る。
部下は上司の良心が嬉しい。
牟尼の擦り切れた役所貸与のスマートフォンに着信。聞き込みに行っている別の部下からだ。
『久利人君の足取りつかめました。トレーラーに乗って、笠間西インターから北関東自動車道に入ったようです。』
「ならば行先は大洗。船で北海道に行くつもりだな。」
黒猫に関わって逃げる者を何人も見て来た。
嫌でも感は養われる。
「北海道の黒猫の引き取りが始まるのは一か月半先ですからね。時間が稼げるって訳だ。」
『ちょっと車まで戻るのがかったるい場所まで来てしまったので、私は電車で直接大洗に向かいましょうか?』
「そうしてくれ。久利人君が船に乗ったという裏を取るんだ。他の者は私と空港で待機。裏が取れ次第空路で北海道入り。久利人君を待ち伏せする。」
部下が運転席に滑り込み、白いハイエースは走り出した。
久利人の妹、平李千枝子は、筑波にある平李家邸宅に学校から帰ってきた。
兄、久利人は逃亡の身。噂の少年Aだ。
父、呂舵夢は筑波山阿羅漢手本堂の道場に座したっきり、滅多に帰ってこない。
母、努力子は兄を追って暗躍して居る。
玄関をくぐって中に入っても、出迎える肉親は居ない。
そうでなくても、門構えばかり立派なこの家に、温かい家庭は無い。
リビングのテーブルにベージュ色のメモ用紙が置かれている。
そこに書かれた可愛らしい文字。
”冷蔵庫におやつのケーキがあります”
千枝子は冷蔵庫からケーキが乗った皿とジンジャーエールを一瓶持って、二階の自室に向かった。
学習机に一人座って、ケーキを一口食べる。
一階のリビングで、兄と向かい合って一緒にケーキを食べる光景が頭に描き出された。
お互いに何か話すわけでもない。
目を合わせる事さえしない。
只、兄が正面に座って居て、何時もの仏頂面でケーキを口に運び、おねだりをしてきた黒猫にケーキを一口わけている。
「兄ぃに…」
彼女は悲しむ訳でもなく、無表情に呟いた。
ケーキを食べ終えた彼女は、学生服から道着に着替えた。
空になったお皿と瓶を持って階段を下りてゆく。
「きゃー!きゃー!きゃー!」
けたたましい声と共に、一人の女の子が玄関から平李邸に入って来た。
IKEAのFRAKTAキャリーバッグMを肩から下げている。
久利人と同じ学校の制服。
どこにでも居そうな、眼鏡をかけた十人並みの普通の女の子。
彼女は、道着姿の千枝子に気付いた。
屈託の無い笑顔。
「あ、ちえちゃん。これからお稽古?」
「ええ(肯定)、」かすれ気味の声で無感情に答える。
「ケーキ、食べてくれたのね。美味しかった?」
「ええ(肯定)。」
「良かった。じゃあお皿かして、片付けておくから。」
千枝子は無言でお皿と瓶を渡す。
「六車さん。」
そう呼ばれて、眼鏡っ娘は表面だけぷんすかした体裁を作り、人差し指を振って抗議。
「”むつしゃ”。もー、”つ”を抜かないで。戦う方の”武者”と同じ読みになってしまうじゃない。あんまり間違えるなら下の名前で呼んで。」
「ケイ子さん。」
「なあに?」
「急いでいたのでは?」かすれ気味の声で、無感情に話す。
眼鏡っ娘はある意味我に返り、目を丸くして全身を凍り付かせる。
「お米――っ!!炊飯器のタイマー入れ忘れたのっ!!」
千枝子は地下に設置されているトレーニングルームへと、さらに階段を下りて行った。
その頃、この小説の作者にして全能の神である俺様平習遠は、終末の鐘を鳴らしに来た異世界の魔族アイゼンハーケンの四天王が一人、ウンズィットリッヒェロートを左手の小指の先で鼻くその様に丸めて、鉢特摩地獄に弾き飛ばしてやった。
俺様強ぇえー。
詐欺罪で逃亡中の男、鹿淵を追うは娘咲亨。
この道で酸いも甘いもかみ分けた筋金入りのベテラン刑事だ。
今は、はりけんラーメンで鶏そば塩を食しながら考え事をしている。
あの詐欺師が阿羅漢手財団と接触したことで、したたかに雲隠れして居た鹿淵の足取りは割れた。
いつでもお縄にできるといっても過言ではない。
悩ましいのは阿羅漢手本堂の動きだ。
先ほど町で仕入れた山狩りのうわさが本当なら、殺人未遂だ。常軌を逸している。
被害届などが出ていない以上に、警察がかかわれない原因として、上からのイヤラシイ圧力を感じる。
弩鳴総理がこう命じている姿が思い浮かぶのだ。
「Let it be. ──── 阿羅漢手には手を出すな」
鹿淵は狡猾な男だ。
何の勝算も無しに、危険を冒してまで、身を晒して阿羅漢手財団に無償で奉仕活動をするだなんて、考え難い。
鹿淵を、今しばらく泳がしておくというのは、一つの選択肢だ。
きっと奴ならば、警察が正しく機能する様立ち回ってくれる。
鹿淵の逮捕は、少年A問題の解決後で良い。
「旨いラーメンは脳細胞の三大栄養素だな。」
娘咲が最後の一滴まで飲み干してそう言うと、隣で麺をすすっていたおやじがぷっと噴き出して「残り二つは何だ」と聞いてきた。
「課長の無茶ぶりと、かかぁの小言だ。」
「脳細胞には逆効果だろう?」
「おかげで顔のしわが増えたが、脳みそのしわも増えた。」
「なーるほど。」
陽気なオヤジはゲラゲラと笑い続けた。
大洗。
港に止めたトレーラーの運転席から、如何にも頑丈そうな体躯の男が転がり落ちてきた。
左手を抑え、苦痛に顔を歪めて居る。
「クソが!!正に邪拳!」
助手席から久利人がゆっくりと、余裕の表情で降りてきた。
屈強な男──トレーラーの運転手は、うずくまった状態から恨めし気に久利人を見上げる。
「鹿野苑の盟約に従い、確かに連れて来てやったぞ。」
久利人は右肩の黒猫を撫でながら、全くの無関心を以って応える。
「ああ、」
「貴様、」
「…」
壮絶なるかな阿羅漢手の戦い。勝者と敗者の差は天と地。敗者にも五部の慈悲があるスポーツ格闘技ではない。勝者がすべてを得る実践の格闘技。
果たして阿羅漢手とはいかなる格闘技か。
「貴様。小細工なしでも十分強かろうに、何故、邪拳を使う?」
久利人は運転手にわずかな視線すら送らず「確実に勝つ為だ。」と、答えた。
「勝利への執着と渇望。その理由を聞かせろ。」
久利人のVAIO Phone Bizに着信。万梨阿からだ。
『久利人。今、水辺に居るわね。』
「流石だな。お前の占いで見えぬものは無い。」
『方角が悪いわ。天壬盤に地が己。すなわち反吟泥漿。争いが起き、あなたの災いとなるわ。』
邪拳の少年は、ふっと目を落として自らの運命を噛みしめる。
「おそらく、どの道を進んでも凶相に変わりない。自分は決心を変えずに海路を行くよ。」
『相変わらずの不器用。故の邪拳。』
二人は申し合わせたように、同時に電話を切った。
「幕賀丈。」
久利人の去り際に、左手を少年に潰された運転手が名を名乗る。
「俺の名だ、覚えておくがいい。」
「そうだな、もし長生きできたなら、ガキに聞かせる昔話に覚えておいてやる。」
出航まで時間がない。
フェリーターミナルに飛び込むと、身長2m余りあるモヒカン+辮髪の世紀末的筋肉蛮族が一人、ゴゴゴゴ音を背負って立っていた。
その見た目のインパクト、威圧感に、久利人は命の危険を感じ、後ずさりを余儀なくされた。
こっ!こいつが!万梨阿が占った争いの相手かっ!
すっげ!全然勝てる気がしない!
いや!?しかし、制服はフェリー会社のもの。
「お急ぎですか?」
見た目の威圧感も半端ないが、野太い声もかなり相手をひるませる。
「あ、ああ。次の苫小牧行きに乗りたいのだ。」
「ほう…」
妙な間が開き、緊張感に生唾を呑み込む。
絶対何人か殺ってそうなたたずまい。そして、筋肉のてかり具合。
「…こちらへ。」
自動チェックイン機に案内された。
2mの高さから怒れるグリズリーのような眼球で見下ろされる。
「予約番号を教えてください。」
「よ、予約はしていない。」
「なにっっ!」
モヒカンを形成する針金のように堅い髪がとがり立つ。
殺気をはらんだ緊張感を漂わせつつ、モヒカンは懐に手を差し入れた。
返り血がこびりついた斧か鉈を取り出すに違いない。
久利人は反射的に戦闘態勢をとっていた。先手必勝。得物が見えた瞬間にジャンプしてモヒカンの頭をつぶす。
スッ、
懐から取り出されたのはタブレットPC。
10インチ前後の大きさがあるはずなのだが、モヒカンのごつい手がでかすぎて、スマートフォンに見える。
「苫小牧まで、往復ですか?片道ですか?」
「片道だ。」
久利人は戦闘態勢を崩していない。
「会員の方ですか?」
この質問に答えるにあたって、久利人は一瞬躊躇した。何故なら、会員以外をモヒカンが敵とみなすかもしれないからだ。理由はないが、そう思えてならない。
久利人はモヒカンの頭を潰すシミュレーションを脳内で幾度か行い、正直に答えた。
「いや、一般だ。」
「ほ~う。」
吹き飛ばされそうなほど迫りくる威圧感。
やはり敵とみなすのか?
ただでさえでかいモヒカンの身体が2倍にも3倍にも見える。
彼の潜在的な戦闘力が、モヒカンの身体を実際よりも大きく見せているのだ。
「お支払いはクレジットカードですか?それとも…」
「現金だっ!!」
久利人は無駄に気を吐いて返答した。このモヒカン辮髪を前にしては、なんとも警戒心が引っ込まない。気迫で負けたらその瞬間に殺られると思った。
「エコノミールーム、カジュアルルール、デラックスルームに空きがございます。」
丁寧口調なのに、何たるプレッシャー。これ以上退いてしまわぬ様、退げた蹴り足に力を込める。
何としてもフェリーに乗り、北海道へ行くのだ。
「い、一番安い部屋だ!」
じろり。
辮髪が揺れ、モヒカンの視線が久利人の眉間からそれる。
ど、どこを見ているのだ!?
「フーッ!!」
右肩の黒猫ビラリーが全身の毛を逆立てて目を吊り上げ、モヒカンを威嚇している。
黒猫だ、今、モヒカンは黒猫を凝視しているのだ。
体のどのパーツを切り取ってみても只者では無いこのモヒカン。黒猫を気にするとは、やはり阿羅漢手の手の者か?
「猫もご一緒ですか?」
「なにっ!??」
「ペットは別料金をいただいております。」
「いくらだ。」
「に…」
モヒカンの重々しい声色に戦慄を禁じ得ない。少年は目を見張って唇の動きを追い、構えた右手を突き出して威嚇する。
その分厚い唇から発せられる言葉とは…
「二千円。」
少年は、フーッと音を立ててため込んだ緊張感を吐き出す。
「判った。払う。」オプション料金の確認だけで、これ程やっつけられるとわ。魂がすり減ってしょうがない。大洗のフェリー、恐るべし!
タブレットPCを手に、くるりと向きを変えるモヒカン。
歩き出したので、視界を覆わんばかりの筋肉の壁のごとき背中についてゆく。
窓口に案内され、金を払い、乗船券を入手した。
「良い旅を。」
と、”地獄に落ちろ”と脅すときと同じ声色で言われても反応に困る。
フェリーの行き先は北海道で間違いないよね?地獄だったらやだよ。
全くモヒカンの言葉は生々しい血の匂いがする。
やや間を開けて、その血の匂いをやり過ごした後、少年は「世話になった。」と一礼して波止場へと向かった。
出航は間もなく。急がねば。
「ヒャッハー!!」
右手から手足が細長い、蜘蛛のような男が躍り込んできた。
フェリーに向かって走る久利人の背を追うように飛びかかる。
フェリーへと急くあまり、気付くのが遅れた久利人は、首筋を針のようなものでひっかかれてしまった。
「ケケケーッ!!」
すぐさま逃げに転じた蜘蛛男の脚を払う。
やられた。毒だ。毒を打ち込まれた。この男を逃がしてはならない。
「くっ!」
早くも毒が回ってきた。目がかすむ。
捕まえようとしても、長い足を生かした横っ飛びで軽妙に交わされてしまう。
久利人は毒が回るにつれ、急激に動きが鈍くなってゆく。
そして遂に地面に突っ伏してしまった。
「うひゃ!うひゃ!うひゃ!」
少年の上に覆いかぶさるようにのぞき込む蜘蛛男。
「…っ!!」
瀕死の少年は最後の力を振り絞り、前触れなく立ち上がって、蜘蛛男の顎に頭突きを食らわせた。
「ッッッ!!!!」
涙目になって痛がる蜘蛛男。
ひょっとして、毒の量が足らなかったのか?久利人の不屈の魂にそのような疑いすら持って、新しい毒針の指輪を人差し指にはめた。
少年は、放っておけば時を待たずに絶命して居たろうに。
蜘蛛男はさっさと逃げてしまえばよかったのに。
久利人の粘りが、勝利の天使を呼んだ。
モヒカンの天使を。
ぐわし!!
蜘蛛男の頭を鷲掴みにした巨大な手は先程のモヒカン辮髪!!
「わが社のお客様に迷惑な。」
蜘蛛男は頭蓋骨を圧迫される痛みに奇声を発し、毒針をモヒカンの筋肉テカる腕に突き立てた。
パキン!!
毒針は容易く折れてしまう。
「俺の皮膚を貫通するには、少なくとも削岩機が必要。ぬぅん!」
蜘蛛男の頭蓋骨からバキバキとやばすぎる音がし、口元から血が滴り、手足がプランと力を失ってピクリとも動かなくなった。
久利人がふらふらと近付いてきて、蜘蛛男の懐を探る。
そして、解毒剤が入った注射器を抜き取り、服の上から己の心臓に突き立てた。
「ぐはっ!げふぉおっ!」
地べたにもろ手をついて咳き込む久利人。
少年に、野太く腹に響く声が語りかける。
「お客様。大事ありませんか?」
その声が聞こえてさえ居なかったのかもしれない。
少年Aはよろめきながら今一度立ち上がり、フェリーに向かって亡霊のように歩いてゆく。
ボーッ!!
無慈悲にも定刻通りに出向するフェリー。
「クッ…」
久利人の顔が下がる。その時。
じゃりん!
モヒカンが何か小さい金属を投げ。邪拳の少年は半ば本能で後ろ手にそれを受け取った。
見れば何かのキー。
「小さなモーターボートですが、お客様なら追いつくやもしれません。」
地獄の窯が煮えたぎるようなモヒカンの声に、やや正気が戻ってくる。
「このキーホルダー、可愛いですね。」
クリーム色の四つ葉のクローバー、陶磁器。
モヒカンは仁王のような表情のまま、頬を染めた。
颯爽とモーターボートに乗り込んだ久利人は、エンジン全開でフェリーを追う。
エンジンは悲鳴を上げ、もうもうと煙が立ち上る。
「後、5分だけ持てばいい。」
死ぬ直前のエンジンは出力の120%を発揮し、フェリーを追い抜いた。
フェリーの前方100mで180度回頭し、フェリーに向かって突っ込む。
ドドドッ!!
追ってきた大波を使って、モーターボートをジャンプさせる。
「くっ!高さが足りない。」
久利人は黒猫ビラリーを肩に乗せ、ボートの舳先に行きジャンプ!
右手の中指一本が、かろうじてフェリーの端部に引っかかる。
海水に濡れていてこらえようがない。滑って海に落ちてしまいそうだ。
ズガァーーーーーンッ!!!!
モーターボートがフェリーに激突し爆発大炎上。
「ぬああああっ!!」
久利人はその爆風に煽られて、フェリーの甲板に放りあげられた。
「きゃああっ!」
空から降ってきた少年に、乗客は悲鳴を上げて逃げ惑った。
久利人は受け身を取りたかったのだが、まだ毒が効いている。
無防備なまま落下し、甲板に打ち付けられた。
「…ッッ!!」
フェリーのクルー二人が駆け付けた。
久利人は血染めの乗船券を見せる。
クルーは両側から久利人の肩を担ぎ、速やかに部屋に案内した。
早速満身創痍の久利人を寝かせる。
「今、医者を呼んできます。」
「いや、医者はいい。」
「しかし、」
「それよりもコーヒーを呉れ。」
「コーヒー…ですか?」
「ああ。コーヒーだ。」
「かしこまりました。あと猫を渡していただけますか。個別のケージでお預かりいたします。いつでも様子を見に行けますので。」
久利人は黙ってビラリーを預けた。
深夜。
久利人はやっとまともに体が動かせるようになって風呂に入り、その帰りにゲームセンターに寄った。
ずっと死んだように眠っていたので、どれだけ夜が更けようが、一向に眠くならない。
そこで、当たり障りのない方法で時間をつぶそうと考えた。
ゲームコーナーへ行き、ちょっと古い対戦格闘技ゲームを選んだ。
しばしゲームに興じて居ると、向かい側の筐体に誰かが座り、久利人に挑戦をしてきた。
「面白い。」
プログラムされたロジック相手では決まった手順で倒せるが故、飽き始めていた処だ。
ところがこれがなんとも。
「なにぃっ!!」
強い!
あっという間に十連敗。
忍者キャラを使うこの対戦相手、プロゲーマーと決めて差し支えないレベル。
久利人は筐体の向こう側の、相手の顔を覗き込んだ。
そして溜息。
「母さん…」
対戦相手からの返答は無く、ただ執拗に11戦目の対戦を要求してくる。
「母さん。その忍者装束で出歩かない方がいいですよ。」
忍者とは古来より、世を忍ぶのに全く適さない、一目で忍者と判別可能な服装を身にまとって居る。
久利人の母努力子は、現代にたった三家だけ残った戦術忍者の家系。
彼女の家系は故有って名を失った。誉ある甲賀や伊賀とは違う。
その苗字は今や破棄され、名乗るのがはばかられるのだ。
それでも彼女にとって、忍者の家に生まれたことは誇りだ。
だから、忍者装束も誇りだ。
彼女の破綻したへそ出し忍者装束は誇りなのだ。
「久利人。よくぞ母と見破った。」
「いや。そんなまんまな姿で、誰と見間違えろと言うのですか。」
「お前が小学生のころ、よく一緒に遊んだゲーム。うちが選んだキャラと戦闘パターンに母の面影を見たか?」
「全くそんなことはなかった。普通に対戦相手を目で見た。つか、自分がよく遊んでいたのは別なゲーム。母さん、知ってますよね?」
「ほう、つまり察しはついていたが、念を押して目視確認をしたと。感心なこと。」
久利人のため息。母は相変わらずそう思いこんだら人の言うことを聞かない。
「さーて、ビラリーの様子でも見て、寝るとするか。」
相手にすることを嫌い、速やかに立ち去ろうとする久利人の魂に、母の言葉が突き刺さる。
「負けたまま逃げる気?」
言葉が突き刺さった魂の場所はプライド。久利人の顔が引き攣る。
そして少年はドスンと椅子に尻を落っことし、ジョイスティックを握り締めてガチャガチャと動かした。
「母さん。自分、本気出しますんで、泣かんでくださいよ。」
「愚か者――っ!!」
「ぐは、ぐはぁーッ!」
久利人はいきなり、母の強烈な往復びんたをくらった。
「な!なんだよ!」
努力子は胸の谷間に手を差し入れて何かを取り出し、久利人の鼻先に突き付けた。
「控えおろうっ!!」
大きく潤んだ瞳。
頭部から走るシマリスの様な三本線。
ぴんと立った耳。
このかわいい生き物は、フクロモモンガ!!
「あんたがコツメカワウソは高いって言うから、この子にしてみたの。どうよ。どうよ。」
久利人の顔にフクロモモンガを押し付ける。
「うおおおおっ!可愛いっ!可愛すぎるっ!」
可愛い小動物に体が勝手に反応をしてしまう。
「きゅるるぷにん波―――っ!!」
「飛膜がっ!この飛膜がっ!」
独特の弾力を持つ飛膜に思わず頬をスリスリしてしまう。
「さぁ、どうしたの久利人。抗ってごらんなさい。」
「むーりーだーっ!!」
容赦のない可愛さに、ほっぺたスリスリを止められない。
「ならば今日をもってあなたは黒猫卒業ね。めくるめくフクロモモンガとの生活が待っているわ。」
黒猫が天秤にかかって、久利人はしゅたんと冷静さを取り戻した。
「いや、それは無い。」
この切り返しに、動揺する母、努力子。
「納得できないわ!理由を教えなさい!50文字以内でっ!!」
久利人はふっと視線を落として足元を見つめた。
「母さん。人は跳べないんだよ。フクロモモンガと横に並んで、飛んでやることは出来ないんだ。」
母の表情がパッと明るくなる。
「ああ。そんな事ならば母さんが丁度いい科学忍法を…」
「科学に頼って!真の愛がっ!得られるか――っ!!」
正直、努力子は得られると思った。
しかし、我が子だからこそ、ブチ切れた久利人に何を言っても無駄なことを理解していた。
「ちっ!出直しよ!」
努力子はフクロモモンガを胸の谷間にしまい、甲板に出る。
「また来るわ!」
「二度と来るなっつってんべ!!」
「科学忍法!なんちゃら!かんちゃら!」
バタバタバタ!!
上空にヘリコプターが待機しており、努力子は降ろされたタラップを上り、そのまま飛び去ってしまった。
「忍術の名前くらい、考えておけ―――っ!」
久利人は一声ディスったあと、愛猫ビラリーが収まっているケージに、その様子を見に行った。
格子越しに猫を愛でる少年。
これに声を掛けたのは、頭髪を四角くカットした白人男性。
「君が噂の少年Aだね。」
久利人の表情にぴしりと緊張が走る。
「俺の名はロジャー・キイス。察しの通り、阿羅漢手の門派だ。」
役柄上、妹の千枝子は強くなければならず、はじめは兄の久利人とより背が高い設定でした。
しかし、今回は構成上の都合を曲げてでも、我が”妹三原則”にのっとったキャラにしました。
❤❤ 妹三原則 ❤❤
1.妹は頭を撫でるのに適した背の高さでなくてはならない。
2.学生時代の妹とはツインテールであり、逆もまた真である。
3.妹の性別は”妹”であり、女でも男でもない。従って、妹によこしまな気持ちを抱くのは邪道である。
忍者装束の説明のため努力子のイラストも出したいのですが、やはりヒロイン3人が先になります。
7話かな…努力子のイラストは。7話で努力子は一波乱あるので。
平習遠の「俺様強ぇえー」は、この小説が、この小説の登場人物の創作物であると印象付ける演出で、物語が佳境に入ったあたりで無くします。