第二話「少年A」
黒猫保護条令
第二話「少年A」
うっそうとした山奥の暗闇。
とりわけ今日は雲が分厚く、星明りも無い。
そればかりか青みがかった月も不気味なばかりで、上下左右、前後すらなく、ひたすら闇が広がっている。
「はっ!はっ!」
黒猫を肩に乗せ、筑波山の峰沿いに先を急ぐ少年。
暗闇を走りなれているのは、忍びの者の血が由縁。
「熱ちぃ…」
少年はシャツのボタンを上から半分外し、半分だけシャツを脱いで、長そでをへそのあたりで結んだ。
汗が染みこんだインナー。これはスポーツ用で着ていた方が汗の乾きが早い。
上着を脱ぐ間、頭の上に退避していた黒猫が、少年の肩に戻ってくる。
少年、平李久利人は闇の中をオオカミの様に疾走していた。
走り出しは筋肉がギシギシと強張って過ごし難いが、体さえ温まってしまえばこっちのもの。水と食料さえあれば、一日中だって走っていられる。
「水と食料…それをどうするか。」
いやはや、それが問題であった。
渡り鳥のような持久力があっても、それを支える燃料がなければ肉体は動かない。
「兎に角。足は止められぬ。」
久利人は痩身の青年──大庭良久の予想を上回って、この闇を駆け抜けなければならない。
少年は良久の策略によって、格闘術阿羅漢手一門に追われる身となった。
少年は阿羅漢手の魂「独鈷杵」を奪い去った大悪党ということになっているのだ。
邪拳士とはいえ、少年も阿羅漢手の使い手。魂の独鈷杵を打ち捨てるわけにはいかない。
例え己が身が無実の罪で滅んでも、阿羅漢手の魂だけは筑波山の本堂に戻さなければいけない。
懲罰を覚悟で、阿羅漢手本堂に出頭するか?
阿羅漢手に誠実であるならそうすべきだ。
それでも逃げの一手を選んだのは、少年が愛する黒猫が故だ。
阿羅漢手において黒猫は不吉。本堂への出入りなど許されるわけがない。
今、180度向きを変えて来た道を戻れば、追手に捕らえられ、愛猫は黒猫保護条令推進部に引き渡される。
黒猫を保護すべく発令された「黒猫保護条令」の真意に疑問がある今、その正しきを見極めるまで、愛猫ビラリーを国に任すわけにはいかない。
山を下りれば人目に付く。
山中にとどまれば追手に追い付かれる。
走り続けるしかない。
唯一の幸いは彼が暗闇の中に居ること。暗闇だけが少年の味方。
だが青みがかった月がおどろおどろしく人払いをしてくれるのは、日が昇るまでの束の間。
日の出とともに暗闇の援護はなくなる。
暗闇に紛れて、できるだけ遠くへ。
故に少年は急いている。
「はっ!はっ!」
喉の渇きが次第に彼を苦しめる。
ビラリーにも明らかに疲労の色が見える。
彼女は御年16歳。人間で言えば80歳に相当する。
肩に乗っているだけとはいえ、夜を徹しての強行軍は老いた身にこたえる筈だ。
そろそろ休憩が必要か?
「水を、水を探さねば。」
「平李久利人が逃亡したぁ!?」
黒猫保護条令推進部調査室係長、牟尼美智雄は、好まぬ嫌われ仕事と膨大な書類作成にうんざりして帰り、やっと布団に倒れこんだところ。
泥の様に眠る力尽きた姿勢であったが、彼の古くてプラスチックの塗装が擦り切れた、役所貸与の紺色のスマートフォンが、彼を寝かせてはくれなかったのだ。
夢の世界は鯱も金色に反り返ったおらが城であり、その門をたたく無礼は目覚まし時計にだけ許されている。
それが、まだ動くからというだけで貸し出されている、おんぼろ旧式スマートフォンARROWS X LTE F-05Dの着信音に無礼を働かれた。
当時としては気合のハイスペックであったHD液晶画面に表示されたのは、鬼より怖い室長の名前。
出ざるを得ない。
しかしながら顔が見えないことをいいことに、牟尼は布団に寝ころび、半分夢の向こうに居ながら室長の話を聞く。
「独鈷杵…ですか?それが奪われたというなら窃盗犯。警察の管轄でしょう。」
『被害届が出ていないのだ。阿羅漢手一門はその権威にかけて、彼ら自身の手で問題を解決するつもりだ。』
「では何もする事はありませんね。警察も。いわんや我々も。」
『弩鳴総理が阿羅漢手の最高段位をお持ちであることは知っているな。』
「ええ。ウィキペディアで読みました。」
『その上で、黒猫保護条令推進部の本部長の名を言ってみろ。』
答えは弩鳴洋札。つまり、黒猫保護条令推進部は日本国総理大臣直属の組織なのだ。
牟尼のため息。
「総理の公私混同では?」
『勘違いをするな。我々は我々の仕事をするだけだ。今回はたまたま本部長のつてで有益な情報を得た。』
「物は言いようだ。」
『平李久利人の担当を買って出たのはお前自身だ。責任を果たせ。』
「今日はもう退社の打刻をしました。明日でいいですか?」
『その打刻なら私が取消しておいた。』
「はい?」
『followを確認してみろ。お前は就業中だ。残業手当は出す。』
「…」
『安心しろ。たかが高校生一人の気の迷い、すぐにけりが付く。三六協定の範囲内でな。おっと、休日出勤分の振り替え休日は取れよ。残業代は出すが、休日出勤の金は出さぬぞ。』
「左様ですか。」
牟尼は諦めて、やっと温んで来た布団から起き上がった。
詐欺罪で逃亡中の男、鹿淵陸夫。43歳。
彼の様に雑種など安い猫の毛を黒く染めて、黒猫と偽って国に売りつけた不逞の輩は十人や二十人ではない。
その中でも彼が執拗に追われているのは、彼が二十匹もの三毛猫を黒毛に染め上げて黒猫と偽ったからだ。
よりにもよって二十匹とは面張牛皮。見せしめとしてつるし上げ、犯罪の拡散を抑止するのに適当な人物であると、本人にとっては迷惑な白羽の矢を立てられた。
ほとぼりが冷めるまで、一年ほどバンコクに国外逃亡をしてやるつもりだったが、彼の期待に反して国は本気の用だ。
彼を追う娘咲と云うベテラン刑事が切れ者で、彼は自分が刻一刻と追い詰められていると云う危機感に怯えている。
自分の手が後ろに回るのは時間の問題。
残念ながら、それは間違いない。
そんな時、彼はオンラインニュースの記事で、ある少年の存在を知った。
彼は黒猫の引き渡しを拒否して、筑波山に潜伏しているという。
「筑波山か。」
偶然にも、鹿淵の当面の目的地も筑波。
もうすぐつくば市街に到着する。
筑波山ならそう遠くはないという印象を受けた。
「名前を知りたいな。」
未成年のため、久利人の名前は伏せられている。
いわゆる少年Aだ。
鹿淵は少年が阿羅漢手本堂から独鈷杵を持ち逃げしたという記述に着目した。
阿羅漢手と言えば日本の国技、我が国における格闘技の一大門派。
その魂たる独鈷杵は、まつわる伝説とともに有名だ。
鹿淵は少年Aが、警察に追われていないことにもまた目を付けた。
そして”もし少年Aが重要参考人もしくは被疑者となり、警察の追及を受ける立場になったら?”と考えた。
その場合、警察にとってより優先されるべきは、鹿淵の逮捕ではなく少年Aの逮捕だ。
「どうにかして、少年Aの犯罪性を実証できないものか…どうにかして、阿羅漢手本堂に被害届を出させられないか…他に、少年Aを犯罪者に仕立てる方法はないか。」
世間の耳目が少年Aへと向けば、厄介な娘咲刑事も自分の担当から外れて、少年Aの担当に異動になるかもしれない。
その結果として、警察の中で自分を逮捕する意味なんて小さくなり、まるで壁の小さなシミの様に誰の注意も引かなくなっていただければそれ以上はない。
すなわち自分は逃げ切れる。
重苦しい包囲網を突っ切る、光の活路が見えた。
海外へ逃げる必要はない。実のところ指名手配がかかっていれば、空港でお縄になる危険性もあった。
だから、そのシナリオしかない。
少年Aを盾にするシナリオ。
「ううむ。」
鹿淵は左右の黒目を眉間に寄せ、拳を唇に押し付けて考える。
被害者が必要だ。少年Aによって被害を受けたものが。
本来それは、独鈷杵を盗まれた阿羅漢手本堂がそれに該当するはずなのだが、どうやら彼らは彼らの威厳にかけて、自らの手で事件を解決せんとしている。
他に被害を主張できる者はいないか?
いや、少年Aの騒動を重要な事件として成り立たせるには、やはり独鈷杵の盗難事件でなければならぬ。
最初の自分の直感通り、阿羅漢手本堂に被害届を出させなければ。
情報が足りない。
鹿淵は今一度ウィキペディアの関連記事を読んだ。
その独鈷杵の項目。
”重要文化財である。”と明記してあった。
彼はそこに光明を見て、文化財保護法を調べる。
第二款第三十三条に盗難にあった場合の記載がある。
『文部科学省令の定める事項を記載した書面をもつて、その事実を知った日から十日以内に文化庁長官に届け出なければならない。』
また、独鈷杵の管理団体は阿羅漢手財団で、法律上は迦諾迦麺痔州人の所有では無いことも分かった。
つまり阿羅漢手財団を動かせれば刑事事件にできる。
阿羅漢手財団の所在地をホームページで確認する。
「つくば市街か、」
まさに今到着せんとしている場所ではないか。
運命は自分に味方をしている。
財団のホームページを見ると、財団公式のTwitterアカウントが公開されている。
「ようし。詐欺師の腕の見せ所だな。」
鹿淵は140文字に己の命運をかけた。
コンビニのレジでバーコードが印字された公共料金振込票を差し出す、よれよれのシャツの青年。
貧乏学生こと平習遠は我執怨憎の逆恨み、憤懣やるかたない気持ちで強制引き取り費用の9万円を支払った。
実はレジに来たのは二回目。
初めはクレジットカードで分割習いにするつもりだったのだが、現金しか取り扱えないと断られ、泣く泣くカードローンで9万円を工面してきたのだ。
後で4万5千円は帰ってくるとは言え、貧乏な身の上に9万円は重く、差し出す手が震える。
財布に残っているのは千円札が一枚と小銭が少々。
どうしようもなく、怒りがこみ上げてくる。
コンビニを出て帰り道。やはりなんとも悔しくて、うーんと唸る。
ひと泡吹かせてやりたいのはやまやまだが、国家組織を相手に大立ち回りをしようだなんて、おのが身には過ぎた考え。思い付いたそばから、諦めかけていた。
ポケットから、ガラスがバリバリにひび割れたY!mobile 507SHスマートフォンを取り出して、イライラとタップする。
そして、お気に入りの検索サイト「https://search.yahoo.co.jp」のウェブ検索の急上昇ワードに”少年A”を見つけた。
「何だぁ、こりゃあ?」
早速タップする。
実のところ何でもよかった。彼の悔しさを紛らわせてくれる、話題性があって面白可笑しく野次ってやれるネタであれば。
誰かさんのまとめサイトによれば、少年Aはかの有名な独鈷杵を盗み、黒猫とともに逃亡中だという。
少年Aを追うは阿羅漢手門派と、自分に9万円の請求書を突き付けて行った、憎き黒猫保護条令推進部調査室。
「わはははははは!」
気が付いたら、大声をあげて笑っていた。
国技と言われる格闘技の一大門派と、国家権力、この双方を向こうに回して一人の少年が大立ち回りを繰り広げている。
なんと痛快なことか!
読めば少年Aは、邪拳の者と実力に合わぬ不当な扱いを受けてきたとある。
判官贔屓という訳ではないが、その一説を読んだだけでも応援したくなる。
”やってしまえ!”
”ぶっこわせ!!”
少年Aを全力で支援してやりたいが、なにしろ金もなければ人脈もない。阿羅漢手の心得だって皆無に等しい。
何もない、何も出来ない我が身で、成せる事など一つもない。
自身で自分を見返せば情けなく、他者視点で自分を見れば非力さが哀れ。
それほどとるに足らない自分という存在。
それでも彼は何かをしたかった。
ガラスがバリバリにひび割れた、自分のスマートフォンを、じっと見やる。
素人小説の投稿サイトを検索し、登録した。
「主人公の…少年Aの名前は何としてやろうか?ううむ。そうだ、総理の名前が弩鳴だからヒラリ…平李久利人!これで行こう!」
彼は「黒猫保護条令」と云うタイトルで小説を書き始めた。
インターネットで検索した情報や、SNSで盛んに飛び交う勝手な意見を集め、彼の妄想で膨らませた荒唐無稽なストーリー。
もうお気づきだろうか?
この小説の作者にして語り部は、この俺、平習遠なのだ。
スキンヘッドの青年、徳正義は安アパートに戻ってくるなり、ナイロンオックス製のベージュのトートバッグを部屋の隅に放り投げ、床にへたり込んだ。
ジーンズの尻側の底が半分敗れたポケットからiPhoneを取り出し、銀行口座の預金残高を確認する。
「はっ!はっ!はっ!」
思わず顔がほころび、一滴も残っていなかったはずの力が僅かに回復する。
彼の部屋の戸境壁にはビックカメラでA3用紙に印刷してきた日本地図が、ニンジャピンでとめてある。
右上のニンジャピンにはタコ糸が結び付けられていて、糸の先には短くちびた赤青鉛筆がぶら下がっている。
「…」
禿は鉛筆を手に取り、すでに青色で丸が書いてある長野県に赤色でチェックを入れた。
「いよいよ関東か。」
彼は神奈川県に青色で丸を入れようとして、ふと手が止まった。
彼は野良黒猫を捕まえて金に換える賞金稼ぎだ。
彼は元々、就職浪人をして着ぐるみのバイトをしていた。
野良黒猫を狙った賞金稼ぎは、大学時代の友人に誘われて始めた。
着ぐるみで鍛えた基礎体力と忍耐力が彼の武器となり、あっという間に頭角を現し、「ハゲタカ正義」と名が知れ渡る存在となった。
黒猫の買取金は非課税なので、交通費とビジネスホテルの宿代を引いた差額は丸々儲けになる。
こんなおいしい仕事は無い。
彼は着ぐるみのバイトを止め、黒猫ハンター一本に絞った。
無論一生の仕事にするつもりはないが、いずれどこかの会社に採用され、正社員になるまでの腰掛には最適なバイトに思えた。
その彼が、埼玉、東京、神奈川、千葉の一都三県の県境を赤鉛筆でなぞった。
「ここは飛ばしだな。」
その四つの地域は強者の黒猫ハンターがひしめき合って居る。
野良黒猫なんかとっくに狩りつくされているさ。
禿は、そう判断したのだ。
「ならば、次はここだ。」
禿は茨木県に青い丸をくれた。
iPhoneをタップして、茨城県の猫スポットをチェックする。
すると、同じキーワードで少年Aの記事が引っ掛かる。
「少年Aぇ?」
禿はこれに興味を持った。
警察が動いていない、大型の盗難事件。
阿羅漢手門派は独力での解決を試みているようだ。
もし、第三者…例えばハゲタカ正義が少年Aから独鈷杵を取り返したとしたら、大阿羅漢手はどうするだろうか?
国技と称えらえた阿羅漢手の高名。
なればこそ、彼らはその面目を保つために、相応の謝礼を用意するだろう。
それはおそらく、独鈷杵の価値に見合った、独鈷杵の価値を改めて世に知らしめる金額の筈だ。
大金が手に入る予感。
「はっ!はっ!はっ!悪い話じゃぁない。」
禿はiPhoneでじゃらんアプリを起動し、筑波周辺のビジネスホテル、ホテルニューたかはし竹園店の予約を取った。
夜もとっぷりと更けたが、筑波行きの終電にはまだ余裕がある。
禿はトートバッグを肩にかけて出立した。
狙うは久利人の首。
「…!?」
久利人は首筋に悪寒を覚えて手でさすった。
彼の黒猫が、生まれ出でてからずっと同じ時間を過ごして来た少年を案じて頬を舐める。
黒猫ビラリーと久利人は同じ16歳。
「案ずるな。」
少年は愛猫の首筋を撫でた。
峰伝いに足尾山に向かう。
何故、この様なことになってしまったのか?
少年は、父親が阿羅漢手の師範代、母親が現役のくノ一、妹が阿羅漢手の天才で、住み込みの家政婦が訳あり家系の幼馴染、そして付き合っている彼女が奇門遁甲に精通している、ただそれだけの、どこにでも居る普通の”邪拳使いと呼ばれた”男子高校生の筈だ。
彼は、自分ごとき平平凡凡の特徴なしの人生の序章に、この様な数奇な運命が待っているなんて、夢にも思わなかった。
ほんの数時間前まで、平穏の浴槽に頭のてっぺん迄浸かっていたんだ。
それはありふれた凡人共用の、月並みという名前の大浴場で、巌のごときガンとした平凡にさざ波が立つ気配だってなかった筈だ。
平穏をくれ。
ふかふかの布団をくれ。
今は何よりも…
「水をくれ、」
筑波山、阿羅漢手本堂。
良久は講堂に門下生を集め、羅後裸像頭上に黒猫が現れてから、久利人の逃亡まで、本当と噓をまじえながら説明した。
勢い久利人の悪名は高まり、少年に追手を放つ良久の行動は正当化される。
皆が良久に騙され踊らされる中、ただ一人微動だにせず、道場に座して居るのはやはりこの男、平李呂舵夢。少年Aこと久利人の父である。
その豪傑の尻が乗る床を下からたたく音。
「努力子か…」
平李努力子。久利人の母である。
彼女はくノ一。床下を通って、人知れず夫のもとに現れたのだ。
「久利人の一件、先ずはうちが預かります。あなたは手出し無用に願います。」
「努力子。久利人は罠にはめられたぞ。」
「罠ははめられた方が悪うございます。我が子ながら情けないこと。」
「うむ。」
「でも、うちは母親ですので、我が子に甘くてもよろしいのです。」
「あい分かった。この一件、忍びの手に預けよう。」
そして、何の返事も無しに、床下の気配は消え去った。
「努力子。二つ目の顔を持たされた哀れな女。母の心は工作員の面に勝てるのだろうか。」
久利人は脱水し、消耗した体を引きずって加波山に向かっていた。
いよいよ日が昇り、景色は東の地平線から白んでくる。
水平に飛んでくる太陽光が、サーチライトの様に久利人の姿をあらわにする。
強力な味方であった暗闇の援護は、もはや期待できない。
木の葉の隙間から神々しい朝日が大地に届き、天へと続く光の道を成す。
嗚呼、この道を登りゆけば天国にたどり着けるや。
日射の熱が起こす一陣の風に、少年は焙られる。
風は追手の気配を匂わせて少年を急かす。
愛猫を撫でて、逃走に及んだ初心を思い起こす。
「ビラリーを守るんだ。」
急がねば。
加波山に向かう途中、二基の風車が見えてきた。
丸山の風力発電所だ。
作業着を着た一人の女性が計測機器を覗き込んでいる。
「…」
久利人は10mの距離を保ち、その女性と関わらぬよう若干迂回しつつ先を急…
ずしゃああっ!!
その女性は久利人との10mを一瞬で詰め寄ってきた。
その歩法、只者ではない。
ザンッッ!!
刀のような物の先端を久利人の眉間に突き付けてきた。
心地よい筈の早朝のまどろみが1ミリ秒で凍り付く緊迫。
刺客か?戦うしかないのか?
いや…刀のようなものは測量用のアルミスタッフであった。
う~ん??
女性の顔を確認し、あらかたを察し、ため息をついて立ち去ろうとする少年A。
「すいませ~ん。メーター上がりをうつして居るのですが、相番が来なくって。手伝っていただけますか?」
女性の笑顔。
「こんな所で、何をしているのですか?」
女性は久利人にスタッフを持たせ、”GL+100”とマジックで書かれた土間コンクリートの上に立たされた。
「はーい。そこでスタッフを立ててー。」
久利人が言われた通りにすると、女性はセオドライトを覗き込んだ。
彼女は人差し指を立てて、「ちょい右―」などと言いながら、指を右に振る。
これはスタッフの傾きを正して、垂直にする作業だ。
「何をしているのか、教えてもらえますか?」
「ええと、かるぅーく起こしてぇー。ちょーい、ちょーい。」
手招きするようなジェスチャー。
「…」
なんだかんだ言って、言われた通りにスタッフの傾きを調整する久利人。
「はい、そこ!オッケー。」
「オッケーじゃねーしっ!!!!」
久利人はアルミスタッフを土間コンに叩きつけた。
「何をするの!?スタッフにゆがみが生じたらどうするの?」
「あなたこそ何をしているのですか母さん。家族への不信感で、息子の精神にゆがみが生じたらどうするのですか?」
作業着を着た女性…平李努力子はケラケラと笑って居る。
「おやおや、言うようになったこと。母さんは嬉しいですよ。」
「…」息子はしかめっ面にて無言。
「しかし…」
母の表情が一変して鋭く尖る。
「…つまらぬ策略に足をすくわれ逃亡の身とは、平李家の嫡男としては不出来。」
「くっ、」
息子は返す言葉が無い。
「忍びの者は、そのお役目上身内の弱点を放置できぬが慣習。なればこそ脆弱性は即刻排除するものである。」
実母の宣言を聞き、久利人は愛猫ビラリーを守るように手で覆った。
少年は、阿羅漢手において不吉とされる黒猫が、平李家の脆弱性であると、母が考えているのだと勘違いをしたのだ。
「我が子よ。愚かにも程がある。母が意味する脆弱性とは久利人!お前だ!」
「…」
少年は愛猫を肩から降ろし、右手を前に差し出して、阿羅漢手の構えをとった。
母親が自分を排除しようとしているならば、肉親の返り血を浴びても己が立ち位置を死守するのみ!
勇ましい我が子の構えを見て、しかし母は呆れて天を仰ぐ。
「我が子よ。ああ、我が子よ。お前の愚かさに、母は目を覆うばかりだ。お前を打ち倒して、何の解決になろうや?」
その謎かけに何一つ思い当たらず、少年は思わず隙だらけに構えをとく。
「平李家の問題を解決する策とはこれよっ!!」
努力子は胸の谷間に手を突っ込んで、何かを引きずり出した。
「な!なんだってーーっっ!!」
久利人は母の両手からだらんと垂れ、ぶら下がって居るそれに度肝を抜かれた。
色は一言で言うならシルバーグレーが適当だろうか。
きわめて滑らかな手触り。
脱力感満点の愛らしい表情。
躾を良く覚えて、とってもお利口。
「母さん。それはコツメカワウソじゃあないかっ!!」
「如何にもっ!!これは天下に名を馳せた小動物!コツメカワウソッ!控えおろうっ!!」
「ぐおおおおっ!って、いや、控える気は全くないが、さすがの可愛らしさ!ぐおおおっ!!」
「久利人よお前にも見えるか?この小さな体全身から発する”きゅるるぷにん波”がっ!」
「きゅるるぷにん波!?」
「きゅるるぷにん波――っっ!!」
母は、コツメカワウソを息子の顔に押し付けた。
「ぐわーっ!可愛いぃっ!なすがまの姿勢と、感触が可愛いっ!!」
コツメカワウソの魅力になすすべもなくやっつけられる久利人。
「可愛かろう!コツメカワウソは、可愛かろうがっ!」
「ぬうううっ!!おのれえっ!卑劣なりっ!」
思わず自分の方からほっぺでコツメカワウソのお腹にすりすりしてしまう。
「ぬおおおおっ!!」
抗えぬ!それはかわいさの暴力!頬をお腹にスリスリしてしまうのだっ!
母がにやりと勝ち誇る。
「さて我が子よ。黒猫からコツメカワウソに鞍替えする気持ちになったかな?」
「あ、それはない。」
しゅたっと瞬間的に素に戻る久利人。
「なにっ!!」
期待せぬ息子のつれない即答。母の怒りで、森の木々が震える。
「だってコツメカワウソって、確か60万円から100万円するでしょう?自分のビラリーの20倍超えているではないですか。そんな値のはるコンパニオンアニマル、気軽に付き合えませんよ。」
「ぐはあっ!!」
何たる盲点。
金なんか余り放題の平李家の長男が、よもやその様な庶民的な根性で、コツメカワウソのペット力の高さを否定してくるとは思わなんだ。確かに努力子はコツメカワウソを76万円也で入手した。
母は衝撃に吐血して、前方に倒れこんだ。
息子は特に母を助け支えようとはせず、身を交わして母が倒れるまま放っておいた。
「嗚呼、久利人の黒猫好きさえ矯正すれば、平李家の問題は解決され、小賢しいハナクソ野郎につけ入る隙など与えぬですむのに。」
母の嘆きは息子に届かず、久利人はいとおし気に老いた黒猫を愛でている。
「うぬれ久利人!さすがは我が血筋、一筋縄では行かぬ。出直してまいるっ!!」
くノ一は山肌をピューマの様に駆け下る。
「もう!来ンなーーーーーーーっ!!」
久利人は拳を振り上げて母を見送った。
「ちいっ。朝から声を張り上げさせよって、余計にのどが渇いてしまった。」
つくば市街。
ストレートの黒髪。
狭い肩幅にひょろ長い背丈。
腕や足も細い。
如何にも運動が苦手そうな女子高生。
久利人の恋人、万梨阿が、愛しい人に迫る危機を察して首にぶら下げているタブレットPCを手にした。
Excelワークブックを開く。
そこには奇門遁甲の英知が集積されている。
「天甲盤、地盤は戊の禿山孤木。寂しく立つ木は久利人を表す。災いを示す禿山、それは…」
万梨阿はT2Mobile Flameスマートフォンを手にした。
「久利人。禿に気をつけて。下手に逆らえば凶よ。」テンションの低いぼそぼそしゃべり。
丸山の風力発電所。
「禿…だと…」
万梨阿からの一報に戦慄する久利人。
その時。
ずしゃあああッッッ!!
茂みから人影が一つ天高く飛び出し、久利人を飛び越えて反対側に着地した。
久利人はその卓越した動体視力を以って、かろうじてその人影を目で追う。
「はっ!はっ!はっ!お前が少年Aだな。」
毛根一つないスキンヘッド。
究極の若禿。
朝日を反射する地肌。
督正義。人呼んでハゲタカ正義。
禿は挨拶も無しに右手を差し出して、用件のみを言う。
「独鈷杵を渡してもらおうか。」
「独鈷杵を手にして何とするつもりか?」
「筑波山の阿羅漢手本堂に返す。手前は諸金稼ぎだ。」
「それは本当か?」
「黙って渡せ。悪あがきは痛い思いをするだけだぞ。手前は強い。」
久利人は懐から独鈷杵を取り出して差し出した。
「持って行ってくれ。」
これに驚いたのはつるっぱげの賞金稼ぎ。
「え?黙って渡せとは言ったが…危険を冒して盗んだのであろうが。簡単に差し出す気が知れぬ。」
少年Aは首を振る。
「自分は罠にはめられたのです。悪辣なるは大庭良久という男。そなたが無事に魂の独鈷杵をあるべき所に返してくれるならば、迷わず託しましょう。」
賞金稼ぎは手を出しかけて、今一度引っ込める。
「うーむ。それにしたって、初見の男に簡単に差し出すものであろうか。この話に裏のあるやなしや。」
「自分の彼女が禿に逆らえば凶と占った。自分はあなたではなく、彼女を信じている。だから信じて渡すの一択なのです。」
「何ッ!」
禿の目の色が変わる。
「貴様、彼女持ちか?」
「恥かしながら、年頃が故相応に過ごしてござ候。」
禿の目が血走り、血の涙したたる。
「相応!では!ないわああああああああっ!!!!」
突然噴火した禿げ頭に、目を見開いて驚く少年A。
「手前の彼女いない歴舐めんな!それは余りにも長く、むしろこよみの方の暦の字を用いて歴史的に体系化せんと云う勢いなるぞ。即ち”彼女居ない暦”と称する。頭が高いわっ!」
禿が何を言っているのかはさっぱりだが、万梨阿の占いによれば、禿に逆らわぬがよろしだ。久利人は黙って頭を下げた。
「ううむ、返す刀で抗弁に転じるかと思いきや、存外大人しいやつ。この様な小童が大それた盗みをしでかすものだろうか?」
けふ。
久利人は喉が渇くあまり、わずかにのどを鳴らしてしまった。
禿にじろりと視線で舐められた。腰を折った降伏の姿勢の下で腹黒くほくそ笑んでいると疑われたか?
久利人は疑われる前にと、自分が脱水状態にあることを告げた。
「成程、水か。今直ちに提供できる水分…それは手前の唾液ということになるがいかがする?」
だにっ!!
久利人の背筋に稲妻走る。
奴は、禿は、唾液をすすれと言っているのかっ!?
それは何の荒行か?唇を重ねた瞬間、心臓まひで絶命してもおかしくはない。
禿め、禿め。一口の水分と引き換えに命を差し出せと言うのか?
いや。占いは禿に逆らうべからず。一回だけならあるいわ心臓が持ちこたえてくれるやもしれぬ。
挑戦する価値はゼロでは無い。
うーむ。悩ましい。16年の人生で、これ程、しかも命を懸けて悩んだことはあろうか?
「少年。」
禿は久利人の肩をがっしと鷲掴みにして正面を向かせた。
近い!
禿の顔が近い!
瞬き出来ぬ。
目をつむった瞬間、それを了承のあかしとみなされて唇を奪われてしまう。
唾液を流し込まれてしまうっ!
この禿。今までこの手口で何人か地獄送りにしてきたのだろうか?
禿の口が開く。
来るか!?死神の口づけが来るのか!?戦慄を伴って身構える。
「そこのけもの道を下ったところに短い沢があったぞ。」
「沢…」
「うむ。苔むした岩の間を可憐に流れておった。お主の胃が強靭ならば、支障なく飲めるだろうぜ。」
禿はくるりと向きを変えて立ち去る。
「お前が盗賊か、被害者か、真偽を確かめてまいる。せいぜい首を洗って待っているがよい。」
「…」
「相手の名前は、オーメン…オッペン…」
「そのような名の日本人が居てたまるか!大庭だ。大庭良久。」
「おお、そうであった。オーバーラップ。」
「おーっと!これはジャストなオーバーラップでディフェンスを交わして、パスが通ったぞぉー!残すはキーパーただ一人!侍ジャパンチャーーンス!!って、サッカーか!!」
「はっ!はっ!はっ!お主。なかなかに拾って来るのう。」
「…」ついやってしまったと、顔を赤らめる久利人。
「花魁発奮。」
「無理やりすぎだろその変換。もう十分だ。帰れ、禿。」
「OUYA!LOVE!」
「せめて原形をとどめろ!大庭良久という元の文言が、完全に大脳から抜け落ちているからこそ、出てくる空耳だよな!禿!死ね!灰燼に帰せ!」
「はっ!はっ!はっ!しからば!」
禿は豪快な笑い声を残して去っていった。
どっと疲れが襲ってきた。
うーむ。酷い空耳につい禿に逆らってしまった。悪いことが起きねばいいが。
禿が言った通り、けもの道を下るとすぐに2メートル程のわずかな水の流れがあった。
岩と岩の隙間から水がにじみ出ていて岩盤を伝い、小さな水たまりを作って地中に戻る。
水流に沿って苔が生えており、石清水に含まれる成分は未知数。
成分によっては下痢を誘発する危険がある。
「ええい。禿の唾液よりはマシだ。」
久利人はひんやりと冷たい清水を両手ですくって飲んだ。
冷たい。
美味い。
脳天にキンと突き上げる快感。
胃にたどり着く前に、身体が水を吸収してしまう感覚に、本当に限界の脱水状態だったのだと震えあがる。
彼はアスリートが故、脱水状態と低血糖状態の恐ろしさを身にしみて解って居るのだ。
愛猫ビラリーも、少年の横に並んで盛んに水を舐めている。
ひと心地ついて、黒猫の背を撫でる。
ふと…何故自分が黒猫好きとして、そして邪拳使いとしてこの世に生を受けたのか、その理由を考えた。
判っている。理由なんてない。
自分は可能性の一つでしかない。
種は自分のような突然変異の個体を作り出して、繁栄と淘汰を繰り返してきた。
「自分は、明らかに淘汰される個体だがな。」
少年は愛猫に向かって、自虐的につぶやいた。
黒猫はかいがいしくも、主を慰める様に手を舐める。
けもの道を戻ってくると、風車の裏に荒縄を見つけた。
縄はいろいろなことに使える。
「断りなく拝借する件、どうかお許しを。」そう呟いて、荒縄の束を肩に担いだ。
峰伝いに進むと、いよいよ加波山をのぞむ。
「…っ!…っ!」
後ろから何かが聞こえてくる。
黒猫は、毛を逆立てて警戒して居る。
「ワンっ!!ワンっ!!」
犬だ。犬が追って来ている。
木の幹の陰から、吠え声のする方を覗く。
「!!!!」
少年は息をのみ、大急ぎで顔を引っ込めて、幹の裏に完全に隠れた。
なんてぇ数だ。見えているだけで、大型犬が二十頭はいるではないか。
加えて散弾銃を手にした狩人の姿が見える。
「自分の生死は問わない。そういう事ですか?良久さん!」
そう吐き捨てて枝を揺らす程木の幹を殴りつけるも、その怒りは良久に伝わることなく空しい。
良久の予想を上回る急ぎっぷりで、追手を振り切っていた筈だが、母と禿の相手をしている間に追いつかれてしまったようだ。
いや、ひょっとしてこれが禿に逆らった結末って事か?
だとしても、禿のあのセンスのかけらもない空耳ギャグを拾って突っ込み倒すのは厳しかった。
そう、許し難く冴えないギャグだったのだ。それを接待的にだ、優れたボケと同格に扱って鋭く突っ込みを入れるなんて、空々しく人の道に外れる真似は、少年には出来なかったのだ。
出来なかったのだ!!
「出来なかったのだ…」
心の葛藤。苦悶の表情。
「いかぬ。」
早くこの場を離れ、逃げなければ。
追い足は確実に犬の方が速い。
これ以上近付かれたら、犬どもに匂いで感づかれて、奴らは一直線にやってくる。
地面に匂いの痕跡を残さず、尚且つ高速で移動する手段…これしかない!
久利人は正に猫のような軽やかさで木に登った。
太い枝を選んで立ち、荒縄の先端に独鈷杵をくくりつけた。
ヒュン!ヒュン!
独鈷杵を振り回す。
ヒョウッ!
独鈷杵を投じる。
くるくるくるっ!キンッ!
10mほど離れた別の木の枝に荒縄は巻き付いた。
意を決して木の枝を蹴り、久利人は空中に身を投げ出した。
みるみる地面が迫ってくる。
地面に足を持っていかれぬよう、腹筋に力を込めてV字型に足を上に逃がす。
振り子の最下端では尻が地面をかすめた。
最下端を猛スピードで過ぎ去って放りあがった上死点。
久利人は縄を持つ手をひねって、枝に巻き付いた独鈷杵を外し、次の枝めがけて荒縄を振って投げた。
くるくるくるっ!キンッ!
次の枝に縄が巻き付く。
「そおおぃっ!!」
気合を入れて反動をつけて、落下する速度を増す。
黒猫ビラリーは少年の肩に爪を立てて、必死にしがみついている。
上死点でまた次の枝を見つけて、縄を振って独鈷杵を投じる。
この某蜘蛛男のような派手な逃げ方は、犬どもに追いつかれない速度を保証してくれたが、同時に追手の狩人に目立った。
匂いの痕跡はかき消せたのだが、目視でめっちゃ目立った。
「いたぞー!!」
背後の遠くで銃声がよどみなく聞こえる。
ゾッとした。こっちは人間だっていうのに、本当に撃ってきやがった。
久利人が地面すれすれを最大速度でかすめて行く、荒縄が縦にまっすぐに伸びきった、狩人達から縄が最も長く見える時。
斬ッ!!!!
荒縄を散弾で撃ち切られた。
久利人は山肌を転がりながら、目は独鈷杵の行方を追う。
手元に残った荒縄の束は捨てるには惜しい長さだったので、ズボンの背中側に挟んだ。
独鈷杵は木の枝から転げ落ちて、崖に放り出された。
久利人は強引に体制を立て直し、全力疾走。
魂の独鈷杵を追って、目も眩むような高さの崖を飛んだ。
犬どもが群がって来て、崖の縁からがけ下に向かって吠える。
狩人の一人が崖下を覗く。トンビが目線の下を飛んでいる。そんな高さを落下していく少年の姿を確認。
胸の前で十字を切って、犬を引き下山を始めた。
空中の久利人は、独鈷杵の数メートル上を落下中。
初めは独鈷杵の真上に位置していたが、下方の木々の様子が鮮明に見えてくるや、少し独鈷杵と距離をとった。
久利人は独鈷杵が落下する付近で、最も背の高い木の枝に跳び蹴りの姿勢で踵から落下した。
5~6本の枝をへし折りながら、落下の衝撃を緩和させる。
落下の衝撃は完全には殺さず、計算して残した勢いを用いて木の幹を飛び伝って走り、木の枝に引っかかっていた独鈷杵を手にした。
しかし、独鈷杵に結んであった荒縄の先が2つの木の枝が重なった処に挟まってしまう。
腕が引っ張られる。
とはいえ久利人も急には止まれないので、荒縄の方が千切れると踏んで強引に引っ張った。
すると独鈷杵は荒縄と久利人の手の両方からすっぽ抜けて、明後日の方へ飛んでいく。
「くっ!!」
久利人は足をひねって向きを変え、独鈷杵を追う。
落下の勢いを使い果たし着地。
小枝を飛びわたりながらついてきていた黒猫ビラリーも、久利人の肩に戻ってきた。
少年は既に遠くに飛んで行っている独鈷杵を走って追う。
独鈷杵が行く先に一般道が見えている。
トレーラーが一台、山を下ってくる。
”ああ、あのコンテナの上に載ってしまうな”と、独鈷杵の行き先は目測で見当が付いた。
「荒縄を捨てずにいて、正解だった。」
黒猫ビラリーが縄の先端を銜える。猫とはいえ歳は久利人と同じ。甘えるだけの考えなしではない。自分の役割は判っている。
「頼んだぜ!相棒!!」
全力疾走をしながら、黒猫をトレーラーめがけて投げた。
独鈷杵は案の定、コンテナの上に転がって止まった。
黒猫はコンテナの後端に着地。
久利人は縄を送りながらトレーラーを追って走る。
もう送る縄が無くなったその時、黒猫は縄の先端をコンテナのリヤドアのレバーに巻き付け切った。
時速50kmで走るトレーラーに引きずり回される久利人。
「ぬあああっ!まじか!コレまじなんか!!」
独鈷杵はトレーラーがコーナーを曲がるたびに、右や左に転がって、コンテナの上から落ちかかっている。
今、独鈷杵が谷底側に落ちたら、絶対に見失う。
ビラリーはドアノブにぶら下がっていて、独鈷杵の動きに気付いていない。
トレーラーのブレーキライトが点灯。
赤信号だ。
独鈷杵はコンテナの左前方に勢いよく転がってゆき、コンテナ左端部の出っ張りで跳ねて谷底へまっしぐら。
それに気づいた黒猫が谷へ跳んで、爪の先になんとか独鈷杵をひっかける。
遅れて谷へ跳んだ久利人が、黒猫の足をつかんだ。
「ふーっ。無茶をしやがる。」
独鈷杵を抱え込んだ黒猫を引き上げて独鈷杵を口で受け取り、猫を肩に乗せた。
荒縄をよじ登り、ガードレールの上に足の先が引っ掛かった。
後はガードレールの上に立ち上がって荒縄から手を放すだけなのだが、青信号でトレーラーが走り出した。
これが偉く乱暴な発進で、少年は立ち上がろうとした勢いがそのままジャンプする力になってしまって空中へ。
一瞬たるんだ縄が手に絡みつき、すぐにぴんと張ってしまったものだから縄を手から放せない。
独鈷杵は確保した。後はトレーラーとサヨナラするだけなのに。
縄を介してトレーラーと一心同体になってしまった。
縄の長さは1.5mほど。ならばっ!
久利人は黒猫と独鈷杵をコンテナの上に放り投げ、側転をして逆立ちをした。
ビタン!!
少年の胴体がコンテナのドアにぶつかった。
「ぐああっ!!」
痛かろうが姿勢を崩すわけにはゆかない。
これは危うい逆立ちなのだ。
荒縄はドアノブから真下に伸びている。
少年は縄に巻き取られた右手を下にして、そんなゆらゆらと揺れる心もとないものに命を預けて、逆立ちをしているのだ。
だが、足を下にしたらトレーラーに引きずられてしまう。時速50kmでだ。
だから、逆立ちの方がまだましなのだ。
下にした拳は地面すれすれで、巻き付いた縄はアスファルトで削れて行く。
久利人は足でコンテナのレバーのあたりの突起をさぐり、踵をひっかけて腹筋で上半身を起こした。
荒縄をほどいて捨てる。
コンテナの上によじ登ると、黒猫が独鈷杵を抑え込んでいた。
「いい子だ。」
独鈷杵を懐にしまい、黒猫を肩に乗せる。
ほっとしたのもつかの間。突然、少年は足元をすくわれた。
コンテナの上から落ちそうになる。
急カーブだ。
前を見ると暫く九十九折れが続くようだ。これは厳しい。
急いでコンテナの前方、運転席の屋根に行き。
どんどんと屋根を叩いて訴える。少年が屋根の上に居る──運転手は驚いてトレーラーを止めた。
「この異常な登場の仕方。思い当たるは一人のみ。てめぇが噂の少年A。いや、平李久利人だな。」
運転手は久利人を助手席に招き入れて、再びトレーラーのアクセルを踏んだ。
「自分の名を知っている。あなたは阿羅漢手の関係者ですか?それとも…」
ふと、あの禿頭が頭に浮かんだ。
「阿羅漢手使いだ。」
運転手はきっぱりと言い切った。
きょろきょろとあたりを気にする久利人。
「どうした?俺が恐ろしいのか?」
「自分の場合、百人組手を仕掛けられる可能性がある。」
気に入らない。
運転手は、自分のことなんか眼中にない、少年のその態度が気に入らなかった。
運転手は右手でハンドルを操作しながら、左手を久利人に差し出した。
「来な。勝負だ。小童ごとき、運転の片手間にやっつけてやる。」
「実はこの物語は小説の登場人物が考えたフィクションだった。」
これもやってみたかったことのうちの一つ。
はじめは、1~8話までそれっぽく匂わせつつ、最終9話で種明かしをする作戦だったのだが、実際には読んでいて白けてしょうがなかった。
そこで、ダイナミックに方向転換。
序盤で言い放つことで、以降、話の展開を荒唐無稽な方向に大きく振りなおすことができた。
現代ものでありながら事実との整合性が取れていなくても、フィクションのフィクションなら、フィクションの真実としてまかり通るのでありになる。
それを踏まえて、、
次回3話の後半あたりから徐々に理性のタガを外した展開となる。
阿羅漢手がどういう格闘技なのか。その正体があらわになる前に、ちょろくばれてしまわないかとひやひやしている。