第一話「凶兆」
「喜劇ではなく死劇をやれ」そう言って、弟子の前で受け身も取らずにバタンと倒れて見せた。
生憎とお名を失念してしまったが、尊敬に値するお笑いの師匠だ。
今やお笑いはファッションとなってしまい、命を懸けた必死さが失われてしまった。
全く嘆かわしい。
自分もクールな喜劇ではなく、血の涙を流して成す死劇をやりたい。
と、言う訳で、ギャグでーす。
全9話構成。
1話が駒の配置、2話が流れづくり、3話で加速して4話以降リミッター解除の全開。
そんな段取りです。
3話の後半あたりから、こうご期待。
黒猫保護条令
第一話「凶兆」
空手道
柔道
合気道
骨法
散打
少林拳
太極拳
テコンドー
ムエタイ
サバット
サンボ
カポエイラ
:
枚挙にいとまがない。
言うまでもなく、格闘技の名前だ。
列挙して改めて、こんなにもあるものかと驚く。
星の数ほど存在する格闘技が一派「阿羅漢手」の本堂が日本の筑波山山頂に有る。
「にゃ~」
「不吉な…なんと不吉な!」
国技と称される日本の一大門派、阿羅漢手。
その阿羅漢手門派を一握に束ねる、頂点に立つ人物…阿羅漢。
ロマンスグレーをざわつかせ、阿羅漢たるその男、迦諾迦麺痔州人は戦慄していた。
筑波山の頂上にどんと居座る阿羅漢手本堂。
威風堂々とした建前の羅睺羅大門をくぐる。
二間余りの中央廊下を板の間をきしませながら進み、突き当たった彫刻が美しい引き戸の向こう。
金堂。
そこが今、麺痔州人がいる場所。
麺痔州人の前には金色の十六羅漢像が立ち並んでいる。
その見事さが申すは阿羅漢手の権威。
「にゃ~」
十六羅漢の中でも、阿羅漢手においては特に権威のある羅睺羅像の、恐れ多くも頭の上。
「にゃ~」
畜生のもの知らずめ。そこは足を置いてよい場所ではない。
黒猫が一匹、涼しい顔をして爪を立て、欠伸などをしている。
猫一匹ごとき、この畜生めと今すぐに追い払えばよろしい訳だが、話は容易にあらず。
阿羅漢手の全てを握る男だからこそ、狼狽する理由がそこにある。
「良久!良久は居るか!」
廊下を早足に駆け付ける足音。
狼狽し声を裏返した老師の傍らに、一人の美しい青年が跪く。
「おお、良久よ。」
美青年の顔を見て我に返った老師は、ハッとして右に左にはたまた上に、剥きだした眼を向ける。
「大師父。ご安心を。この身以外に師父を見る眼は御座いません。」
青年の澄んだ声に、老人は安堵のため息をつく。
「朕が醜態をさらして良いのは貴様だけ。」
老いぼれ男は腰抜けに身体をしならせて、青年の白く細い腕にしがみついた。
「にゃ~」
「あれですね。」
青年は切れ長の目を黒猫に向けた。
すると黒猫はのったりと腰を上げ、ひょいっと空中に身を投げ出すと、てんてんと板の間を駆けて逃げてしまった。
「羅睺羅像の上に黒猫。これ以上の不吉があろうか?」
怯える老人を青年は格闘家のそれとは思えぬ細長い指で抱きしめる。
「ああお労しや大師父よ。こんなに怯えてしまって。」
阿羅漢手において、黒猫は不幸の象徴。
それが最も敬うべき羅睺羅像の上に立った。
老人は青年に抱かれて、氷水に濡れた子犬の様に震えている。
「この身にお任せください。」
金堂を出た良久は、中央廊下を入り口付近まで戻って左に曲がる。
「せいっ!!せいっ!!」
いくつもの勇ましい掛け声が次第に大きく聞こえてくる。
掛け声は廊下を進むほどに大きくなる。
「「「「せいっっっ!!!!」」」」
その轟音。遂にはへそに響いた。
良久が向かった先、それは道場。
がらんっっ!!
分厚い引き戸を開け放った。
「「「「せいっっ!!せいっっ!!」」」」
敷居の向こうに広がる光景を見よ!!
一抱えはある素焼きの鉢。
鉢は、焼けた玉砂利で満たされている。
それが100も並んでいるものだから、合計の熱量は想像に余りあり、道場は蒸し風呂同然。
「「「「せいっっ!!せいっっ!!」」」」
いや、訂正しよう。
語り部として、彼らに謝罪しなければならない。
名もなき100人の少年少女たちに。
「「「「せいっっ!!せいっっ!!」」」」
彼らは焼けた玉砂利に手刀を突き入れるという荒行を行っている。
彼らは必死だ。
筑波山の本堂で修業をしたいという子供は二千名を超える。
常にやる気と成果を示し続けねば切り捨てられる。
彼らの代わりはいくらでもいるのだから。
彼らの熱気が、この道場を蒸し風呂たらしめているのだ。
「「「「せいっっ!!せいっっ!!」」」」
熱気はもうもうと揺らぎ陽炎。
目を凝らすと道場の奥、一段高いところに人影が一つ座している。
完全に気配を殺している。
その凄まじい集中力が、人影が只者ではないことを示している。
「…」
良久は少年少女たちの間をすり抜けて進む。
少年少女たちは良久がそばを通るとき、手を止めて一礼する。
「しまっ…」
一人の少年。荒行に集中するあまり、良久に気付くのが遅れ、慌てて振り返った結果、良久の行く手を遮る形になってしまった。
少年は目を見開いてガタガタと震えている。
痩身の青年は、優しき笑顔で少年の肩に手を置く。
「修行を続けなさい。」
良かった、許された。少年はほっと胸をなでおろして、鉢に向き直った。
「君にとっての最後の修業を…」
いや、許されてなどいなかった。少年はわずかな失礼で、簡単に切り捨てられてしまったのだ。
良久の言葉を聞いた瞬間、少年の頭の中は真っ白になり、玉砂利に突き入れた手刀を引き戻すのを忘れ、彼の右手は焼けただれてしまった。
「あああっ!!熱っ!!痛い!痛いっ!!」
右手首を握りしめて床を転げまわる少年。その姿を見た他の少年少女たちは、唇を紫色にして良久を恐れる。
少女のうちの一人は、ついにこらえきれずに涙を流し、修業をする手が止まってしまった。
「今日は二人脱落か。」
良久の言葉には容赦がない。
彼は座する人影の前に、人影を見下すように立った。
人影は心身ともに鍛え上げた僧侶の姿として現れ、微動だにせず坐禅を組んでいる。
その男が静かに目を見開いた瞬間、道場を絶対的な戒律が切り裂いた。
一心不乱に荒行に没頭していた少年少女たちの背筋が一斉にピンと伸びて、男に向かって膝を屈し手を組んだ。
「「「「師父!平李!!!!」」」」
男に声を掛ける機会を逸した良久は視線を左上にイラつかせて溜息。
「良久よ、某の教え子を、勝手に破門にするでない。」
「ふん。この様なあまい男を、大師父は何故師範代に据えたのか?」
「用件を申せ。」
良久はまるでハゲタカが牛の死肉でも見つけたかの様に眼を見開いた。
「貴様の息子だ。」
「…」
「平李久利人。あの邪拳を使う厄病神を連れてこい。」
屈強な僧侶はため息交じりに頭を撫で上げた。
「順を追って話せ。」
「羅睺羅像の上に黒猫が乗った。」
百人の少年少女達がざわざわと落ち着きを失う。
黒猫は、阿羅漢手の道を進む者なら誰にでも分かる、絶対的な凶兆なのだ。
「久利人以外にも、黒猫を飼っている同門は他にも…」
「大師父の逆鱗に触れた邪道は、あの小僧だけだ!」
「迷信に声を荒げるでない。」
「大師父が尋常で無く気にしていらっしゃる。心臓がつぶれそうなほどにだ。それを迷信で済ます気か?」
「百歩譲って、某の息子が災いの元凶だとしよう。久利人を呼び出してどうする?魔女裁判よろしく火あぶりにでもするか。」
「是非そうしてやりたいが、太平の世の流儀では無い。軟禁し、凶星が筑波山の頭上を行き過ぎるまで、この身の監視下に置く。」
それまで、遥か彼方の一点を見つめていた思慮深い僧侶の視線が、痩身の青年の噛みつくような視線と重なる。
青年は底なし沼のような深い瞳に吸い込まれそうになり、思わず視線をそらした。
「ぶわっはっはっ!」
屈強な僧侶、平李呂舵夢から見て、大庭良久は一回り以上若い、まだまだ未熟者。
年相応の振る舞いがかわいくて、自然と笑いも出る。
「某の血筋をお主ごときが封じるなど笑止千万!」
「チッ!」
良久は嘲笑されたと恥じ入って舌打ち。
「師に伝えよ。科学の世に、魔術も迷信も出番なしとな。」
痩身の青年は眉間に深いしわを刻んで悔しがる。
「もし…」
「ん?」
「…貴様の…息子…が…凶星…そのもの……で…あったなら…なんとする?」
良久の声は、言い負かされた悔しさに由来する怒りで震えている。
「そうさな。」
「そこまで申せ。さすれば引き下がってやる。」
「やはり考えるまでも無い。某が、この手で討ち果たす。」
「…聞いたぞ。」
邪悪に据わったまなざしを流して、良久は道場を後にした。
若造の脅す瞳を意に介さず、再び目を閉じて心の修業を再開する徳の高い身、平李呂舵夢。
百人の少年少女達は揺らがざる師の威厳に恐れ入って再び荒行を始める。
「「「「せいっっ!!せいっっ!!」」」」
呂舵夢は思う。
「羅後裸像の上に黒猫とは出来過ぎた凶兆。これは恐らく…遂に、動き出したか。」
麺痔州人の元に戻った良久は、十六羅漢像の前に一直線に進む。
老人はオロオロと良久を目で追っている。
荘厳な羅漢像の前に位置する金色の台座。
そこに鎮座するは一つの独鈷杵。
独鈷杵とは、槍状の刃が柄の上下に一本ずつ取り付けられた金剛杵で、法具である。
金色の間にふさわしきは純金製の法具であろうが、この独鈷杵は安っぽい青銅製だ。
きれいに磨かれ手入れはされているが、経てきた年月相応にくたびれており、どちらかというとみすぼらしい。
痩身の青年はそれを手にした。
「良久よ!阿羅漢手の魂を何とする!?」
「凶星に、これを渡すのです。」
老いた皴顔が引き攣る。
「馬鹿を申すでない!!独鈷杵は重要文化財にも指定された門外不出の品!あまつさえそれを…」
良久は独鈷杵を握りしめて老人の元へ行き、下半身をこすりつけるように抱きしめて、キスをした。
「大師父よ、愛しい人よ。すべてこの身にお任せを。」
「おお、良久よ。朕はお主なしでは生きては行けぬ。」
「それはこの身も同じ事。私の身も心も全ては大師父の為に。どうかこの身を信じて下さい。」
「嗚呼。信じるとも。疑うものか。」
「お電話を拝借します。」
良久は再び金堂を後にし、中央廊下を講堂に抜け、回廊を回って麺痔州人の部屋に向かった。
この部屋の鍵を有するのは、麺痔州人と良久だけ。
家具のようなブラウン管テレビの上に、ゼンマイ式置き時計とトランジスタラジオが置いてある。
オレンジ色の白熱電球が一つ上を向いている燭台が隣にあって、燭台の建地の腰の高さから小さなテーブルが生えている。
このテーブルにダイヤル式の黒電話が一つ乗っているのだ。
受話器を持ち上げ、ダイヤルの穴に小指をひっかけて回す。
「弩鳴先生ですか。御久しゅうございます。」
『おお良久か久しいな。先生は変わらず御壮健か?』
「それが、思わぬ凶兆に阿羅漢手の未来を案じておいでです。」
『凶兆とは穏やかでは無い。』
「羅睺羅像の上に黒猫が乗りました。穏やかではありません。」
『なんと!!』
ガタ!ガタ!ガラン!!
電話の向こうから、椅子が跳ね飛ばされる音が聞こえてきた。
電話の相手も、相当に動揺しているようだ。
「例の法案、大師父のお力添えを頂けそうです。」
『それは有り難いが、今は頭上の凶星を払うが先よ。』
「ええ。ですので…」
『うん?』
「…凶星を払う意味からも、例の法案を至急推し進めていただきたいのです。」
良久は顔が見えぬをいいことに、腹黒い表情を隠さず、独鈷杵を握りしめた。
弩鳴は顔など見えぬでも、その程度は察せる男。
腹に一物持っていそうな物言いには、少なからず引っ掛かるものがあり、弩鳴はため息をついた。
『まあよろしい。利害は一致している。それが、お前の利害ではなく、先生の…ひいては阿羅漢手の利害と一致していることを望む。』
「勿論その通りですよ。ですので頼みましたよ。我が師父、弩鳴総理。」
弩鳴洋札。
支持率80%を誇る、日本の偉大なる、現職の総理大臣。
彼は「日本2100」と言う政策を打ち出し、おし進めている。
これは日本国が抱えている致命的な問題に対して、即効性を求めて短絡的に策を選ぶのではなく、安定的持続的に効果が期待できる策を根気よく続け、長期的に問題を根絶しようという政策だ。
インドやサウジアラビアなどの経済的パートナーを得て、これは順調に進んでいる。
一番目に見えてわかりやすいところでは、国民に痛みを強いることなく国の借入金が減り、黒字転換が見えてきたという成果がある。
清廉潔白な人柄で人望は厚い。
彼の短所をあげるとすれば、迷信深いということになろう。
特に「黒猫が横切ると縁起が悪い」という迷信を強く信じている。
そして一ヶ月後、奇妙な条令が発令された。
黒猫保護条令
日本では古来、黒猫は幸福の象徴とされた。
それが迷信と風説の流布により印象が悪化。
絶対数が減少したため、個体数が安定的に回復するまで国が一元的に管理する。
奇妙だ。
全くをもって奇妙だ。
このような奇妙な条令は、万人に支持されている弩鳴政権以外では成立しえなかったろう。
弩鳴洋札だからこそ、みな盲目的に信じ、従った。
数が減った云々と問題視するなら、黒猫ごとき輸入すればよろしいではないか。
ところが輸入は禁止されている。
奇妙だ。
奇妙なのだ。
この奇妙さが見えなかったなんて、黒猫の飼い主ほとんどが金に目がくらんだ結果かもしれぬ。
そう、黒猫は金になった。
黒猫たちは相場の1.5倍の値段で国が買い上げた。
「これはいい条令だ。」
それが大勢の意見であった。
集合住宅に住まうとある一家。
父親がリビングにノートパソコンを持って来て、家族で15インチ液晶画面を取り囲んでいる。
「どこに行きたい?」
「絶対フランス!」
「ははは。ヨーロッパは高くて無理だよ。」
「ハワイとか香港あたりかしら?」
「うーん。そうだねぇ。初めての海外旅行という意味からも、その辺りが無難じゃないかな。」
その一家は元々連休に温泉旅行を計画していた。
それが例のありがたい条例のおかげで、飼っていた黒猫三匹が売れた。
思わぬ副収入を得て、一家は温泉旅行の代わりに海外旅行をすることにしたのだ。
「ブレイクっ!!嫌あっ!」
小学生の少女が一人、愛猫ブレイクとの別れを悲しんで泣きじゃくっている。
「弩鳴総理がお決めになったことだから、聞き分けてちょうだい。ね?」
母親が少女を抱きしめてなだめる。
その横で父親が黒猫を引き渡し、代わりに現金を受け取る。ほくほくの笑顔で。
よく見る光景だ。
それを、一人の女子高生が見ていた。
長くまっすぐに伸びた黒髪。
世を達観したような一重瞼。
背はやや高めだが、運動が苦手そうな貧相な体躯。
そして首からぶら下げたタブレットPC。
少女の名は江出琉万梨阿。
奇門遁甲に精通した占い師だ。
「黒猫保護条令は弩鳴総理から見て乾柴烈火の景門。あの一家から見て黒雲遮日の傷門。すなわち、総理には後ろ盾がおり、あの一家は騙されている。この条例、何かおかしい。彼に伝えないと。」
彼女はT2Mobile Flameスマートフォンを取り出し、彼氏に警告の一報を送った。
青空に白い月が浮かんでいる。
見上げれば平和なのに、地面の上は何やら騒がしい。
「いたぞ!」
「4万5千円だ、逃がすなよ!」
「あ!走った!そっち!先回りして取り囲め!」
黒猫狩りだ。
ホームレスや学生が、たも網を手にして野良猫を追い回す。
今、四人の男が黒猫を追っている。
「まてーっ!」
「ニャ!ニャ!」
黒猫は身軽に一軒家の塀を乗り越えて、誰かさんの家の庭に逃げ込む。
だが追う方も必死で、他人様の家だろうが躊躇しない。
一人が塀に両手をつき、他の者三人は彼の肩を踏み台にし、塀を乗り越えて猫を追う。
不法侵入お構いなしだ。
最後に彼の肩を踏んだ男が、肩を貸してくれた男に「反対側の壁で待って居ろ。挟み撃ちだ。」と告げる。
「判っている。そっちもしくじるなよ。」
肩を踏み台に提供した男は、肩にこびりついた土を払おうともせずに、路地を走った。
「おうわあっ!」
自転車と衝突しそうになり、半身になってかわす。
見ず知らずの他人の家の庭で、好き勝手に猫を追い回す三人。
家主の老夫婦は目を血走らせた亡者どもに怯えている。
「向こうの壁に追い出せ!外で待ち伏せしている!」
彼らは大きなたも網を振り回し、とうとう盆栽を割ってしまった。
これで家長の爺さんの怒りが、亡者共への恐怖に勝った。
「バカ者―っ!!今すぐ出ていけーっ!!」
声を張り上げて一括するも、効果なし。
彼らは、老人ごとき口は出せても手は出せないと高をくくっているのだ。
「ぐぬぬ。」
確かに老人の干からびた細腕ではどうにもできない。
歯噛みしながらスマートフォンを取り出し、警察に電話をする。
猫狩りの連中のうちの一人がこれに気付き、駆け寄ってくる。
「ああっ!危ない!」老婆はすくみあがった。
男はたも網の柄で、老人のスマートフォンをはたき落とした。
スマートフォンはちょうど石の上に落ちてしまい、ガラスがバリンと割れる。
手をひっぱたかれた老人は、低くくぐもった悲鳴を上げた。
老婆は「酷い!」と涙を浮かべて悔しがる。
「そんなジジババは放っておけ!猫を追え!」
「ニャー」
黒猫が屋根の上へと駆け上がってゆく。
瓦を猫の爪が引っ掻いて、乾いた音を立てる。
「しまった!高いところに逃げられた!」
反対側の壁に追い出して挟み撃ち、この算段が崩れる。
「お前がじじぃに気を取られて、包囲網に隙を作るからだ!」
網を手にした男たちは、黒猫を呆然と見送る。
すると、突如屋根の上に人影が一つ現れて、黒猫の首をつまんで、ひょいと抱き上げた。
「はっ!はっ!はっ!」
その男、若禿。
磨き上げられたスキンヘッドに、青空の白い月が鮮やかに映り込んでいる。
「ハゲタカ正義だ!」網を持った男が、禿頭を指さして叫んだ。
禿青年の名は督正義。その筋では有名な黒猫ハンター、賞金稼ぎだ。
塀の向こうで待ち伏せをしていた男も、ハゲタカ正義の名を聞いて、塀の上に身を乗り出した。
「あれが、ハゲタカ正義。」
キラーン!!
「うわ!眩しっ!」
男は、正義の頭が反射した強烈な日光に目が眩み、塀から落ちて、尻もちをついてしまった。
ふと、正義のiPhoneにショートメッセージが飛んで来た。
”危険が迫っている”
「またか、あの中二病め。」
正義は親友のいつもの調子に、苦笑い。
「だが今回に限っては、奴の似非占いが当たったようだな。」
禿は屋根の上で、たも網を手にした四人の男に取り囲まれてしまった。
「黒猫を渡せ。俺たちが先に見つけた。」
「手前が先に捕まえた。この猫は手前がいただいて行く。」
そんな宣言を素直に聞く輩なら、他人様の庭で暴れまわったりはしない。
四人、たも網をくるくると回しながら禿の周囲を回り、隙を伺う。
「はいぃ~。ハイッ!!」
たも網を背中の方からくるりと回して、一人が禿の足を払いに来た。
禿は「はっ!」とジャンプしてこれを交わす。
「イヤアアアアァァァッッ!!」
別な一人がたも網を逆さに持ち、禿の心臓を突いて来た。
禿は左手でたも網の柄をからめ捕り、抑え込んだ。
たも網をからめとられた男は、禿を引っ張るように横に移動。
「「ハイヤアッ!!」」
他の二人が下段を狙って、禿の前方からたも網の柄を突き入れて来た。
禿は坂を駆け上がるように前方に足を繰り出し、足の裏で柄の先端を抑え込んだ。
体術はバランス。
今、三本のたも網の柄によって支えられ、禿は空中に浮いている。
「ニャーッ!」
右腕に抱えた猫が暴れ、すり抜けて、空中に放り出された。
この好機に、残った一人の男が、網を翻して黒猫を狙う。
禿は、その網を右手で抑え、猫の首を口で咥えて死守する。
四人は一斉にたも網を引いた。
「ん~っっ!」
禿は背中から瓦の上にガシャンと落ちて、猫を口から放してしまう。
四つの網が同時に猫を狙う。
いよいよ黒猫は網の一つに収まる。
四人の勝ち誇ったドヤ顔。
しかし、禿が猫を網の下から蹴り上げ、黒猫は再び空中へ。
蛇のようにしつこく四つの網が次々に猫を狙うが、いずれもひらりと猫に交わされて空を掻くのみ。
最後に禿が屋根に端っこギリギリに立って手を伸ばすが、わずか3mm及ばず猫を逃す。
屋根から落ちて行った猫は、下で様子をうかがっていた老婆の腕の中に収まった。
「あらあら。」
よほど居心地がいいのか、黒猫は喉を鳴らして老婆に甘えている。
「うふふ、可愛いこと。」
その様子を見て、禿は満足気にくるりと四人の方へ向き直った。
「見ての通りだ。あの黒猫は婆さんのものだ。」
当然、四人の荒くれ者たちに引き下がる気配はない。
粋のわからぬ奴らめ。
禿はため息をついた。
「はっ!はっ!はっ!文句がある奴は、手前が拳で聞いてやる。かかって来い!」
安アパートの一室。
大学生の青年が一人、ワークマンにて580円で買い求め、よれよれに着古したシャツをだらりと着ている。ぼさぼさの短髪。
彼のガラスがバリバリに割れたY!mobile 507SHスマートフォンに、ショートメッセージが飛んでくる。
バイト先の店長から、今すぐ応援に入れないかという依頼だ。
「バカか!?俺はさっきあがって帰って来たばかりだっつーの!」
スマートフォンを部屋の隅に放り投げた。
「それよりも…へへへ。」
押入れを開ける。
手前に漫画が積んであり、それをどけると奥にペット用のケージがある。
「にゃー」
黒猫だ。彼は黒猫を押入れの奥に隠しているのだ。
彼はケージから猫を出し、逃げてしまわないよう机の脚と首輪を紐でつないだ。
「みんなバカだ。今すぐ売るなんてな。今売っても4万5千円にしかならない。俺は頭がいいんだ。個体数が減れば相場は吊り上がる。吊り上がってからその1.5倍で売るんだ。へへへ。」
ピンポーン。
誰かが来たようだが青年は全く無視している。
ピンポーン。
今一度鳴る。
無視。
ピンポン!ピンポピンポピンポ!!…ぴぃんぽぉーん…
「っせぇなぁ!」
しまった、思わず声を出してしまった。
ドアの外から声が聞こえてくる。
「平!平習遠!」
それでも強情に居留守を決め込む。
「黒猫保護条令推進部調査室だ!そこに居るな!ドアを開けたまえ!」
青年は面倒そうにドアに向かって叫ぶ。
「何の用かは知ンないっすけどぉ!任意ですよね!帰ってもらえますかぁ!」
しばし間があってドアの向こうから声。
「悪いが強制調査だ。調査令状がある。」
「はぁ?調査令状?はぁ?ナンスかソレ?」
ドアノブのあたりでカチャカチャと音がする。鍵を開ける気だ。
ヤバイ。
平は黒猫をケージに放り込んで押し入れに隠した。
ガチャリ。
まもなく3名の調査官が部屋に入ってきた。
「平。最後通告だ。黒猫を渡せ。」
貧乏学生はバリボリと後頭部を掻いてイラつく。
「確かに俺は黒猫を飼っていた。飼っていましたぁ。でもぉ。逃げちまったんスよ。」
折角の金のなる木を二束三文で渡してなるものか。
「ほう。それはいつ頃のことかね?」
「え?あぁ…えーとぉ、半年以上前だよ。わかったら帰ってくれ。」
調査官たちを押し出して、ドアを閉めようとした平の腕を調査官が握る。
「それはおかしな話だね。君は3か月前に飼い猫に予防接種を受けさせている。」
平はぎくりと目を見開いた。
翻って調査官たちは、この手の輩を扱いなれているようで、落ち着いている。
「かっ!勘違いだ!よくあることだ。おかしくねーし。猫が逃げたのは2か月前だ!」
「ふむ。」
調査官は机の脚に括りつけられた紐に気付く。
そしてずかずかと机の方へ向かって歩いていく。
「待てよ!何にかってしてンだよ!」
調査官は足を止め「おっといけない」と咳ばらいを一つ。
青年の手に紙きれを握らせた。
「令状だ、読んでおいてくれたまえ。」
いよいよ机に向かう調査官。貧乏学生は礼状を床にたたきつけて調査官につかみかからんとする。
別な調査官が声をかける。
「止めておけ。強制調査の妨害は懲役刑だ。」
懲役刑──貧乏学生なら、この3文字一発でビビりあがる。
「チッ!」
現に平は身動き一つできなくなった。
調査官は紐の前にしゃがんで、黒猫の体毛を見つける。
「新しい…この部屋を徹底的に探せ!」
徹底的に探すまでもなく、黒猫は押し入れの中にちょろく見つかった。
調査官は別な紙を平に握らせた。
「強制引き取りの案内だ。本書は5稼働日以内に別途郵送する。」
平は案内に目をやり、そのまんま目を丸くする。
「はぁ!?強制引き取りは有料でぇ!?費用は全額飼い主もちぃ!?9万円!?はぁ!?ナンスかソレ!?」
「安心しろ。黒猫の買取金額がある。差し引きでお前の負担は4万5千円だ。」
「ザけんなよ!これ!実質罰金刑じゃねーか!!」
平は案内を左右に引き裂いた。
「こんな金!絶対に払わなねーぞ!」
「そうか。」
「え?払わなくてもいいの?」
「いや、払いたまえよ。」
「じゃあ何が”そうか”なんだよっ!」
「我々の仕事はここまでだ。後は督促室に引き継ぐ。我々も忙しくてな、これにて失礼する。」
持参した携帯靴ベラで革靴を履く調査官。
その、去り際の一言。
「忠告しておくが、督促室の連中は我々と違って強面でね。素直に従うが懸命だ。」
バタン。
ドアは閉じられた。
しばしあっけにとられた後…
「くっそ!!」
唾液を飛ばして悔しがる。
平のアパートの外。
仕事を終えた調査官が、役所貸与の塗装が擦り切れたARROWS X LTE F-05Dスマートフォンで電話をする。
近くの駐車場で車と猫たちの番をしていた調査官が、平のアパートの前までワンボックス車、トヨタ・ハイエースを回してきた。
ハイエースに乗り込む3人。
車内後方のケージで5匹の猫がニャーニャーないている。
「係長。そろそろ猫を預けに戻りますか?」
「ん?ああ、そうだな。」
「その後はどうしますか?」
「筑波だ。平李久利人と言う少年の黒猫を引き取りに行く。彼は大人しく猫を渡してくれるはずだ。」
「それは楽でいいですね。」
係長の深いため息。
「こんな嫌われ仕事。好き好んでやってはいない。たまには円満な案件も回してもらうさ。車の中が猫臭いのは変わらぬがな。」
ウィンカーが点滅し、ハイエースは走り出した。
鹿淵陸夫。
43歳。
ガラケー派。
彼のMARVERA KYF35携帯電話にショートメッセージが飛んできた。
「ちっ」
舌打ちして、即時に削除する。
送り主は彼の母親。
逃亡をして行方知れずの彼を案じて、自首を勧めているのだ。
「ふざけるな。詐欺罪は懲役刑だ。豚箱に入るくらいなら死んだ方がましだ。」
たんたらりらり~。たんたらりらり~。たんたらりらりーらりーらり~。
彼の携帯の着信音。デイスプレイには見覚えのある番号が表示されている。
たんたらりらり~。たんたらりらり~。
先と同じ何号が表示されている。
切る。
たんたらりらり~。
いよいよ携帯電話の電源を切ってやろうかと思ったが、思うところがあって電話に出ることにした。
河川敷の橋の下。人目につかないところで携帯電話を耳にあてがった。
「娘咲さん。」
電話の相手は、娘咲亨。
鹿淵を追っているベテラン刑事だ。
ラーメンをすする音が800MHz帯の電波に乗ってやってくる。
『まだ、この番号を使っていたのか。』
「アンタの魂胆は判っている。俺の電話をしつこく鳴らして、番号を変えるのを待っているんだ。それで俺は足がつく。」
『そこまでの勘定ができるなら、自首したほうが得だと気付けないのか。』
「いいや!逃げたほうが得だね!俺みたいなちんけな犯罪…」
自転車が気持ちよさそうに河川敷を走ってきた。
話を聞かれないよう、通り過ぎるのを待つ。
「…俺みたいなちんけな犯罪、一年もすれば捜査の規模は縮小され、事実上の解散だ。」
『果たしてそうかな。お前は20匹の三毛猫の毛を染め、黒猫と偽った。』
「国は黒猫保護条令にいくら使ってる?その内のたった90万円だ。」
『90万円も、だ。推進部は極めて悪質なケースと判断している。見せしめの意味もあるのだから、事件解決が遅れれば、きっと増員される。俺で済んでいるうちに自主しろ。』
「ふざけろ!」
鹿淵は終話し、携帯電話の電源を切り、バッテリーを引き抜いてしまった。
携帯電話を鞄に放り込むとき、100万円の札束が入った封筒が見えた。
逃走の資金として、逃げ出す前に銀行で限度額いっぱいで引き出したものだ。
足がついてしまうから、もうATMは使えない。
鹿淵は盗んだママチャリのかごに鞄をねじ込み、筑波に向かって漕ぎ出した。
彼は筑波で痕跡を残し、今はまだ小規模な捜査班の注目を集めた後、電車で成田空港に移動、バンコクに高飛びするつもりなのだ。
娘咲と話して、その決意はいっそう固まった。
捜査の規模が縮小するなら、日本にとどまる選択肢もあったが、拡大するなら高跳びの一手だ。
見せしめ?冗談じゃない。
https://nekohaijin.cat
自分はおろか家族の命より猫の幸せが大事と言ってはばからない、ある種の変態が集う、会員制の地下サイト『猫廃人』。
ここの黒猫スレッドは、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。
『国に保護された黒猫の雄は、すべからく去勢手術を受けている。』
その書き込みが騒動の発端。
『黒猫の個体数を増やすのが目的ではないのか?去勢したらダメじゃん。』
『デマに違いない。』
『どこソースだよ?』
『残念だが確かな情報だ。』
『え?俺ら騙されてるの?』
さぁ、ここからが大変。
口ばっかりで行動が伴わない輩が、火事場の野次馬の様にもっと燃えろと煽りたてる。
彼らは、祭りの理由があれば何でもよかったのだ。
無論、黒猫を真に愛し、黒猫保護条令の真偽を真剣に考えている者もいる。
例えばここに一人…
嵐のように流れていくスレッドをVAIO Phone Bizで見つめる一人の少年。
タッチ操作をする親指の爪は、のこぎりの歯の様に切りそろえられている。
痩身な体躯は鍛え上げられており、一切の脂肪はない。腕や足の血管が透けて見えるほどだ。
大人びて落ち着いた表情。
少年は親から厳しい教育を受けて育った。
彼のたたずまいからは、伸び伸びとした子供らしさは全く感じられない。
彼は、彼の彼女である万梨阿からのショートメッセージを今一度確認する。
「万梨阿の奇門遁甲が未来を読み違えたためしなし。こと、不吉に限っては。」
びょうっ!!
風が吹いた。
心の隙を突き「わっ」と脅すようないやらしい風だ。
「ニャー」
彼の肩に、一匹の黒猫が乗って来た。
「ビラリー…」
いとおし気に頭をなでる。
彼は今、筑波万博記念公園の科学の門の前に立っている。
目の前には偉大なるアイザック・ニュートンの顔。
「彼は言った。”私は仮説を作らない”と。自分も真実を見極めるまでは、ビラリーを国には渡せない。」
ふと、背後に迫る気配を感じた。
久利人は目を閉じて「良久さん」と、確信をもって呟いた。
「流石だな。久利人。」
良久は邪拳使いの感の鋭さを不気味に感じ、こめかみに冷や汗。
「あなたは自分を毛嫌いしていた筈。」
「それは今でも変わらぬ、汚らわしい邪拳使いめ。」
「…」
「罵声を浴びせられても眉一つ動かさない。お前は不気味の一言に尽きる。」
「…」
「この身がお前に会いに来た理由を知りたいか?」
久利人はふっと目をそらして立ち去ろうとした。
良久は久利人の前に立ちふさがり、「知りたいよな」と目を血走らせて訴える。
久利人は良久を避けて、先を急がんとする。
良久が背後に駆け寄ってきたので、久利人は足を速めながら両手で耳をふさいだ。
良久は久利人の手首をつかんで耳の上から手をどける。
「久利人!お前はこの身の話が聞きたい!そうに決まっている!」
「そんなに話したいのですか?ならば話せばいいではないですか。」
「違う!お前が素直になれば簡単だと、そう言う話をしている!」
二人の間に挟まる気まずい間。
「しからばさらば。」
「待て!」良久の声が裏返る。
「良久さん。折角自分が素直になって簡単にした話を、何故ややこしくするのです?」
「いいか、よく聞くのだ。多くの場合、人は自らのことを最も理解していない。特に若い者はそうだ。久利人。自分をよく見つめなおせ。お前の心の中にはあるはずだ。この身の話を聞きたいという気持ちがな。」
「残念ながら欠片も…」
「喝っっ!!!!」
憤る良久に、久利人のため息。
「ふうっ…良久さん。もういっそ、阿羅漢手で決着をつけましょう。我々の拳はそのためにあるのですから。」
久利人が右手を差し出した。のこぎりの歯のような親指の爪。
「くっ!」
それにひるむ良久。
平李家の兄妹。兄の久利人と妹の千枝子。この二人は特別だ。
千枝子は天才の名を欲しいままにし、連勝街道をまっしぐら。行く行くは呂舵夢の跡を継ぎ師範代になる大器と目されている。
久利人はその邪拳が麺痔州人を激怒させ、公式戦への参加は禁止されている。
したがって久利人は未だ段位を持たないが、その強さは良久も認めている。
「ふん。邪拳と手合わせをしたと知れたらこの身の立場がない。」
良久は体よく誤魔化して、久利人との対戦を避けた。
「貴様のようなひねくれ者は居ない。全く話にならぬ。お前はこの身の話を聞きたくてたまらない。それが真実なのだ。」
「はぁ、」再び久利人のため息。
「はぁ…ではない。シャキッとせぬか。お前は阿羅漢手本堂師範代の息子なるぞ!」
「うーん。なんか…わかりました。」
「何を分かったと申すか?」
「良久さんの話を聞いてしまった方が早いということがわかりました。どうぞ。話してください。」
「喝っっ!!!!」
「本当に。いい加減にして、話を勧めませんか?」
「その様な猪口才な理由でこの身の話を聞くと申すな!心の底からこの身の話を聞きたがれ!」
「そうですね。そこまで言われると、良久さんの話を聞きたいような気がしてきました。」
「何故余計な枕詞をつける!!”良久さんの話が聞きたいなあ”それだけ言えばよろしいではないか!まるで、この身が無理強いして言わせたようではないか!」
「良久さんの話が聞きたいなあ。」
「ええい!とってつけたように!」
ズバン!!
「ごふうっ!!」
良久の腹に久利人の裏拳が入った。
拳は重く堅く、口元まで臓物がこみ上げる。
「自分は喧嘩空手で良久さんを撃破し、先を急ごうと思います。悪しからずご了承くださいませ。」
これは良久もうっかりしていた。平李兄妹は阿羅漢手に限らず、格闘技はおおむね心得ており、その強さは達人級なのだ。何故なら二人の母は…
「では、失敬。」
立ち去ろうとする久利人。良久は自身の策略が故、少年に立ち去られるわけにはゆかない。
腹に響く激痛をおして声を出す。
「待て久利人。この身の話を聞くのだ。」
無視して遠のく背を見せ続ける少年。
「お前は黒猫を連れて夜逃げをしようとしている。その助けになるぞ。」
少年の心がざわついた。
何故見透かされた!?
久利人だって今しがた決心したことを、先回りをして知っているだなんて!
少年は思わず、膝を折って苦しがる兄弟子の方へ振り返った。
良久は懐から取り出したものを少年に見せる。
驚いた久利人はぴゅんと駆け戻ってきて、それを良久の懐に押し戻す。
「早く隠して!独鈷杵ではないですか。それを本堂から持ち出すなんて、破門ではすみませんよ。」
「大師父の許可は得ている。」
良久は独鈷杵を久利人の懐に押し込んだ。
「久利人。この阿羅漢手の魂をお前に預ける。」
「どうして…自分のような破門同然の輩に?」
「聞きたいか?」
「是非。」
「いい返事だ。実は先日、本堂の羅睺羅像に黒猫が乗るという凶兆が出た。」
「凶兆ですか。黒猫の嫌われ方たるや悪魔のごとし。」
「フン。兎に角、黒猫は羅睺羅像の頭に乗った。頭はすなわち北を示す。さて、お前が夜逃げしようと考えている、その場所はどこかな?」
「くっ、」
久利人は言葉に詰まった。確実に見透かされている。
「北海道であろう。あの地は黒猫の引き取りが最後に計画されている。日本で最も長く黒猫を飼っていられる場所だ。いや、多くの者にとっては黒猫を最後まで現金に換えられない、残念な場所だ。」
「自分が凶兆の源だと、そうおっしゃるのですか?」
「身の程を知れ小童目が。お前ごとき小人物が何をしたところで、阿羅漢手は微動だにせぬわ。」
「ならば、放っておいて下さい。」
「お前には役目がある。」
「役目…」
「毒をもって毒を制す。そう表現すれば合点が行くだろうか。」
「まさか…自分に…いや!あり得ない!」
良久は久利人の両肩にどっしりと両手を置いた。
「あり得るのだ。凶兆の正体は未だ知れぬが、お前が行く先に凶兆は現れる。久利人。お前に託す。独鈷杵はその証であり、また、お前を通して阿羅漢手を守る必勝の剣だ。」
懐に手を当て、少年は独鈷杵の重さを感じる。
「相打ち上等の決死隊か。成程、自分の役目らしい。」
「合点がいったか?」
「一から十まで。」
「では行け。旅支度を整え、先ずは筑波山へ向かうのだ。阿羅漢手本堂を通り過ぎ、峰沿いに山道を北上せよ。」
久利人は無言のまま、その場を去った。
少年が彼の黒猫ビラリーを連れて、良久に言われた通りに阿羅漢手本堂を通り過ぎた夜半過ぎ。
阿羅漢手本堂にて、良久はこう叫んだ。
「独鈷杵が盗まれた!恐れを知らぬ逆賊の名は平李久利人!!」
少年は罠にはめられたのだ。
主人公が一話の終盤までなかなか出てこないという演出は、やってみたかったことの一つ。
ヒロインその1ですら、一話の中盤まで出てこない。
プロはやはり出だしで読者や視聴者のハートを掴まないといけないので、のっけに派手な演出を持ってくる。
そういった「売れる作品」のテンプレートに逆らえるのは、素人小説家の役得であり、醍醐味だと思う。