交差 2
昼休みになった。先ほどの元気がよかったセミロングの少女、井口美空の席の周りに、女子達が机をくっつけて並べ、お弁当を広げている。その中には、一際目立つ茶髪の女子生徒である八雲綾香もいた。
「相変わらず美空のお弁当は美味しかったぁ」
そう言ってお腹をさすっていた八雲だったが、ふと、何かを思い出したように美空に聞く。
「そう言えば、昨日の卵焼きは甘かったのに、今日はどうして塩味なの?」
すると、美空は瞳を輝かせて答える。
「うふふっ。今日の四時間目は体育だったでしょ? 汗を沢山かくから、塩味にしたの。逆に、冬とかの持久走の後なら、甘い方を食べたくなると思うよっ!」
「うわっ! すっごぉ~い……。そこまで考えるんだ……」
あんぐりと口を開けて感心する八雲に、美空は首を横に振ってから言う。
「でもっ、食べてないけど、綾香のイカスミ野菜炒めも美味しそうだったけどなぁ」
「あれは焦がしたのよっ! それ嫌味ぃ?」
睨まれた美空は、慌てて口を両手で蓋をした。そして、皆で笑う。
「でも、綾香さんのお弁当も随分と良くなりましたよ」
そう言ったのは、八雲の正面に座っていた風早琴乃だった。
「えっ? そ…そう?」
照れる八雲の前で、風早は何やら歯を噛みながら言う。
「本当に…最初のお弁当は…ス…スクランブルエッグと白米だけで……黄色と白が半々の、バチカン市国の国旗のような……プ…プププ……」
そこで堪え切れず、風早は吹き出した。堰を切ったように、美空を含め全員が笑う。
八雲は顔を真っ赤にして頬を膨らまし、風早を指さす。
「なによっ! 琴乃なんて、美空の匠タコさんウィンナーに驚いていたくせにっ!」
「もっと驚いたのは、綾香さんの郵便ポストウィンナーでしたけれども」
「あれもタコさんよっ! たまたま手足が上手く切り分けられなくて、一本しか残らなかっただけなのっ!」
地団太を踏む八雲綾香に、澄ました顔で言い返す風早琴乃を、皆は大いに笑った。
「……あの……ちょっと良いかな?」
突然の男子の声に、皆は驚き振り返った。そこには、長身の男子が立っている。このクラスの学級代表である、水野誠人だ。
「井口さん、先生から頼まれている事があって、……手伝ってもらえるかな?」
確かに美空は学級副代表なのだが、それは名ばかりで、水野が病欠した場合のみの臨時要員である。今までこのように雑務の手伝いを、水野から要請される事は無かった。
目をぱちぱちとさせる美空だったが、八雲はぴんと来るものがあった。風早も、あの何事もそつなくこなす水野の手が、わずかに震えているのに気が付いた。
「はいは~い、どうぞ持って行ってくださいなっ!」
そう言いながら八雲が美空の右腕を掴むと、風早は美空の左腕を掴み、二人して美空を無理やり立たせた。
「えっ? えっ? なになに?」
八雲と風早に背中を押され、美空はつんのめりながら、水野の後に続いて教室を出た。
美空がいなくなった後、風早は、美空のお弁当を片づけながら、八雲に尋ねる。
「美空さんって料理がとてもお上手ですけど、もしかして母子家庭ですか?」
すると、八雲は首を横に振る。
「ん~ん。違うんだけど、なんでも中学生の時からお弁当を作ってたんだってさ。男のために」
周りの女子達は黄色い悲鳴を上げた。八雲綾香は、高校一年生から美空と友達であり、他の皆より美空を知っていた。
「どのような彼氏だったのです?」
風早は、一人だけ特に驚く様子が無いまま尋ねる。八雲は、眉を少し寄せ、頭を指で掻きながら答える。
「なんでも……『何も出来ない人』だったとか? 自分の髪が伸びているのに気が付かないから、美空が切りに行けと毎回注意しないといけなかったりとか、機械オンチ過ぎて、今時、ようやくガラケーが使えるようになった程度の人だったりとか……?」
風早は、ぽかんと口を開けて聞いていた。そして、小首を傾げながらまた尋ねる。
「その頼りない彼氏は、今どこにいるのです?」
「彼氏だったのかは良く分かんないんだけど……どうやら死んじゃったらしいのよ」
八雲が言うと、さすがの風早も息を飲んだ。
学校が終わり、美空は一人で帰路につく。
八雲綾香はアルバイト、風早琴乃は習い事、その他の女子達はクラブ活動と、放課後は皆が忙しい。だが、美空は、何もする気が湧かないまま、高校入学から一年半が経過していた。今でも明るいと言われる美空だが、これでも全盛期であった中学生時の半分程度でしかない。
高校から歩いて二十分、美空の家がある住宅街に着いた。ここは、十二年程前に造成されて作られた新興住宅地で、その時に越してきた美空は、五歳からここに住んでいる。
住宅の塀に挟まれた小道を歩くと、いつも最後の日の事を美空は思い出す。その日も、同じようにこの道を、アイツと並んで歩いた。
「どうして喧嘩しちゃったんだろう……」
その時を思い出して涙が零れそうになった美空は、上を向く。すると、やはりあの日と同じように、赤く焼けた空が広がっている。
小道を抜けると、車両が通れる程度の通りに出る。その通りの両脇には、多少の違いはあれど、よく似た戸建てが立ち並ぶ。しかし、同時期に一斉に作られた住宅街であるはずなのに、一つだけ、歯が抜けたように空いている場所があった。一軒分のスペースの空き地がある。美空は、真っすぐと、そちらへ歩いて行った。
美空の前には、焼け焦げた柱が何本かと、黒焦げになった木の板が重なりあった物がある。ここは、一年半前に火事になった住宅で、外壁などや不燃物は除去されているが、燃え尽きた木材などは、ほとんどそのままになっている。両隣の家にも多少燃え移ったのだが、その家々はリフォームで綺麗に修復されている。
「陸、ただいまっ!」
美空は、五歳の時からのお向かいさんであった、同級生である相沢陸に声をかける。出掛ける時と帰ってきた時の挨拶は、美空の日課である。これは、相沢陸が火事で亡くなった日から欠かしたことがない。
「今日はね、お弁当を褒められたよ。中学生の時からずいぶんと腕が上がったんだよ。いつかどれくらい上手になったか、味をみて欲しいな」
焦げた木材に向かって、美空はくすくすと笑った。時折、通りがかった近所の人がそんな美空を見かけるが、皆、眉を寄せて歩き、涙を拭う人さえいた。もっと良く知った人だと、美空の後ろで、空地へ向かって手を合わせる人さえいる。
「そうだ! 今日、水野君から告白されちゃった! 良い人だとは思うんだけど、完璧過ぎちゃって……。もうちょっとバカな方が良いかなぁ。ペットだって、バカな方が可愛いって言うし! 言わない?」
笑っていた美空だったが、ふと急に何かを思い出したように、片足で一度地団太を踏んだ。
「そうだ……。またここをきちんと更地にしろって人達が現れたんだよ! でも、陸のお爺ちゃんが一歩も譲らない構えだし、私も頑張るからっ! 協力してくれる人もいっぱいいるしっ! 陸はずっとここに住んで良いんだからねっ!」
美空は頬を膨らましながら、鼻息荒く言った。そしてそのままプンスカ怒りながら、空地の向かいに建つ、自分の家へ入っていった。
………。
静かになった通りから、男の子の声が聞こえる。
「美空、またお前の家を更地にしろって言う人達が現れたよ。半年に一度は話が出るよな。一回忌はとっくに済んだし、今回はお前のお爺さんも弱気になっててさ、……危ないな」
陸は改めて空地を眺める。美空が存在した証が消えてしまえば、自分の携帯に残った画像も、ただの空想の産物と同等になってしまうんじゃないだろうか、そう思えた。
「もちろん俺も頑張るけど……、もし、生きていたのが美空だったとしたら、お前はどう考えるんだろうな?」
陸は、空地の向かいに建つ、自分の家へ戻りながらつぶやく。
「やっぱり、過去は過去、未来に目を向けようって感じかな? お前は、新しいもの好きだったもんな……」
陸は、家の扉を開けて中へ入った。いつもの事だが、母親と父親は帰宅が遅いので、家には誰もいない。
レトルトで夕食を済ませ、風呂に入った。今日は何か集中力が無く、早々にリビングのテレビを消して二階へと上がって来た。
ベッドに腰かけた時、陸は壁に吊るした制服のポケットから覗くピンクのハンカチが目に入った。「あ――っ!」と言いながら、自分の額を右手でぴしゃりと叩いた。
「風早の事を言っておくべきだったかなぁ……。美空の奴、中学の時も、俺が女子にチョコレートもらった事を言わないで置いたら、後から烈火のごとく怒ったんだよなぁ。『俺の話は、私の話、何でもすぐに話せ』とか、どっかのガキ大将理論で……」
頭を抱えていた陸だったが、しばらくすると、ゆっくり顔を上げてからぽつりと言う。
「美空、やっぱりお前がいないと、俺、何して良いか分かんねーよ……」
はぁっと息を吐きだした時、陸の目に、あるものが入った。
「そう言えば……毎年 夏休み最後の日の恒例行事だったのに、二年連続で忘れてたな……」
陸は、壁の柱の前に立った。
この柱には、不規則に刻まれた横傷があり、これは、五歳からの陸と美空の身長を記したものだった。
陸は、一人黙って壁に背を付けた。そして隣の机の上にあったティッシュ箱を手に取ると、頭の上に乗せる。そして体を抜くと、箱の底面に、コンパスの針で、真横に傷をつけた。その線傷は、真下にある線とずいぶん離れていた。
「あれ? すげー伸びてる。なんか今年に入ってから、妙に服が縮んだなと思ってたけど、あれは母さんの洗濯が雑なせいじゃ無かったのか……」
前回、中学三年生の夏につけたと思われる一年半前の傷は、十センチ程度も下にあった。もちろん春には学校で身体測定があったはずなのだが、美空がそれを話題にしなければ、陸はそんな数値を気にも留めない。実際には、この時の陸の身長は、百七十五センチを超えていた。
陸は、柱の傷を下からたどる。
小学校の時は、美空の方が常に身長が高かった。だが、中一で微差となり、中二で追いつき、中三で追い越した。あの時の悔しそうな美空の顔を思い出すたび、陸は笑ってしまう。十センチ以上差がついた今は、美空は生きていればどんな顔をするだろうか? それとも、中三に負けた時の捨て台詞通り、急に身長を伸ばして陸に追いついただろうか?
陸はそんな事を考えながら、ベッドの上で目をつぶった。
パジャマ姿の美空は、壁の柱に背を付けて立っていた。
体を抜いた美空は、頭の上に置いていた辞書の場所に、鉛筆で線を引く。すると、前からあった鉛筆の線が、さらに濃くなった。
美空は、膝を折ってがっくりと床に両手をついた。
「一年半前から一ミリも伸びない……。これが女子の、私の限界なのか……」
そのまま少し考えていた美空は、口元を緩ませながら立ち上がる。
「まあ……胸はサイズアップしたけどね。これは、幼馴染がいつの間にか大人になっていたって意識し始めるパターンだ。さぞかし触りたかろう、陸よっ!」
胸を突き出して見せながら、美空は閉じていたカーテンを両手で左右にサッと開いた。
「――――っ!?」
美空は、慌てて目をごしごしと擦った。そして、そーっと瞼を開けると、いつものように、向かいの家があった場所には闇が広がっていた。
「き…気のせいか……。びっくりした……」
そのまま後ろへ歩いた美空は、ベッドに足をぶつけて勢いよく座った。まだ胸がドキドキしていた。
今、美空の目には、向かいの場所に家があったように見えた。陸の家があった場所に、懐かしい陸の家が建っていた。一階は明かりが消えていたけど、二階の陸の部屋には、煌々と明かりがついていたのが、相手のカーテン越しにでも確かに分かった。だが、陸の家はあるはずがない。やはり次の瞬間には消えていた。
「ちょっと私 風邪……でもひいたのかな……。寝ちゃおーっと……」
美空は横になり、薄手の布団を頭まで被った。
翌日の朝、朝食を済ませた美空は、制服に着替えて時計を見る。陸を起こしていた時の癖で、支度はいつも十五分の余裕を持って終わらせてしまう。
「行ってきまーす」と言った美空は、両手を大きく振って歩き、真っすぐに陸の家跡へと向かう。
いつも通りの朝、いつも通りの平凡な日だった。
……だが、美空の笑顔は、陸の家の前で強張った。
「誰が……こんな……」
美空の前には、焼け焦げた柱や、焼け落ちた木材が散らばっている。その全てが昨日の夕刻と同じように思えるのだが、美空は些細な違いに気が付いていた。
美空は、一番手前に転がっていた木材の前にしゃがみこんだ。そして、それをじーっと、まったく視線を動かさずに見ている。まさに地蔵のごとく、微動だにせず観察していた。
一本向こうの道を車が通り、そのエンジン音で美空は我に返った。時刻を確認すると、急ぎ足で歩かなければ、学校に遅刻しそうな時間となっていた。
「そんなはずない……。でも……どうして……?」
美空は、学校への道を進みながらも、何度も陸の家跡を振り返った。