交差 1
「陸っ! もう八時十五分よ!」
ダダダダダダ……ズデデデデンッ
母親の声は、階段から滑り落ちる音でかき消された。
「いってぇ……」
尻をさすりながら、制服の男の子は玄関へと向かう。白いシャツの裾は、左半分がズボンの中で、右半分は飛び出ている。実に前衛的な着こなしだった。
「朝御飯はいるのっ?」
「パスっ!」
陸と呼ばれた男の子は、靴の踵を両方踏みつぶしながら家の外へ出た。
「美空! おはよう!」
辺りに男の子の声が響いた。だが、通りには、彼以外の姿は無い。
陸は、ポケットから二つ折りの携帯を取り出しながら歩き、向かいの空き地の前に立った。空き地には、黒く焦げた柱が何本か立っており、その下には、焼けたような木材が転がっている。
陸の携帯の小さな画面には、すでに作成されたメール文章が表示されていた。そこには、
『ごめん、俺が悪かった』
と、書かれている。
「……送信……っと!」
陸がメールを送った数秒後、陸の携帯が鳴った。『MAILER-DAEMON(宛先人不明)』となり自動返送されたメールであったが、陸はまったく意に返さず携帯をポケットに戻した。
「じゃあ、美空、行ってくるなっ!」
陸は、けんけんをしながら踏みつぶしていた靴の踵を元に戻すと、通りを右へ、真っすぐに走り出した。
十五分後、駅向こうにある『公立 川西高校』の、二年六組の教室へ滑り込む陸の姿があった。
「ぎりぎりセーフ?」
後扉をそっと開けて中を伺うが、クラスメート達は殆どが着席しておらず、窓際や教室の後ろで井戸端会議をしていた。
席の最後尾に座っていた少しぽっちゃりめの男子が、そばの扉から顔を覗かせている陸の存在に気づき、声をかける。
「おいっす相沢ちん。センセまだだよ」
「なんだ……。急いで損した」
陸は額の汗を指で拭いながら、人の良さそうなぽっちゃり男子、林田仁志の隣の空いている席に座った。
「オイラみたいに坊主にしたら涼しいよん」
林田は、自分の頭を指さして言う。陸は、そのスポーツ刈りを眺めながら、自分の長めの髪をかき上げる。
「別にこだわりは無いんだよ。ただ……切るタイミングが分からなくてさぁ」
「へぇ? じゃあ 今までどうしてたんよ? 伸びてくると誰かが、そろそろ髪を切りに言って来~い、とでも言うのん?」
そう林田に聞かれると、陸は、ごまかすかのように窓の外を見た。
……その目の前に、ピンクのハンカチが現れた。陸は、それを差し出した子へと目線を遣る。すると、陸の前の席に座っていた女子は、慌てて顔を背けた。そして、赤い頬をちらりと覗かせたまま言う。
「あ…相沢君、これ使って下さい」
「えっ? ……ありがと」
受け取った陸は、ハンカチに入った高級そうな刺繍に遠慮しながら、それで額の汗を少しだけ拭った。
「ヒューヒュー。熱いねっ! ヒュー!」
そんな陸達に林田が指笛を吹く真似をしながら言うと、恥ずかしくなったのか、ハンカチを渡してきた女子は、完全に背を向けて俯いてしまった。
それを横目で確認した陸は、呆れた顔で林田に言う。
「なんだよヒューヒューって……。お前 歳 いくつだよ?」
「脳内は、ゲームで恋愛の全てを経験し尽した三十歳ですしおすし」
「の、割には、現実ではずっと彼女いないんだな」
陸は皮肉を言うが、林田はにやにやしながら立ち上がり、陸の腕を引っ張って教室の後ろへと連れて行く。
怪訝な顔をする陸へと顔を寄せてきた林田は、先ほどピンクのハンカチを差し出してきた女子の背を指さす。
「今の、美少女偏差値六十の、風早琴乃だって分かってんのかい?」
「美少女偏差値……ってのは初耳だが、もう二学期なんだから名前はもちろん知ってるに決まってるだろ。けど、確か風早は彼氏がいるんじゃなかったか? バスケ部のエースだっけ……?」
すると林田は、陸へ人差し指を振りながら、「チッチッチッ」と舌を鳴らしてみせる。
「ノン、ノン。彼氏とは、夏休中に別れたらしいよ。ボクのアンテナ ビンビンキャッチでおます」
「へー。じゃあ、狙えば?」
陸の即答に、林田は足を滑らせてコケる真似をする。
「相沢ちん(セニョール)! 彼女が、お主に気があるのが分からないのかっ! ハンカチを貸してくれるなんて、ゲームでは定番やでぇ!」
「……えっ? そうなのか? でも……付き合うとか興味ねーよ」
めんどくさそうに顔を背けた陸の隙を狙って、林田は、陸のズボンのポケットに手を滑らせる。そして、その中にあった陸の携帯を奪った。
「ちょっ、何すんだよ!」
取り返そうとする陸だが、林田は背を向け、肉厚の尻を押し付けて陸に携帯を奪わせない。タイマン押しくらまんじゅうで陸を遠ざけながら、林田は陸の携帯を勝手に操作する。
「まさか親友のオイラにも内緒で、夏休みの間に彼女を作ったとか? 機械オンチで未だにガラケーを愛用している相沢ちんの事だから、どうせこの基本写真フォルダにでもその子の画像が……」
陸の携帯画面に、柔らかく笑うセミロングの女子が映し出された。それと同時に、林田は膝から崩れ落ちた。その握力が消えた手から、陸は自分の携帯を抜き取る。
「……ったく」
陸は通話終了ボタンを連打し、素早く画面を元に戻した。
そこでようやく、固まっていた林田は首を動かし、陸の目を見て言う。
「び…美少女偏差値七十OVER……。神クラス、アイドルクラスじゃないですかぁ……」
「んなわけねーだろ。普通だ」
そうは言うものの、陸はまんざらでもない顔をし、口元を緩ませた。
膝立ちのまま羨まし気に陸を仰ぎ見ていた林田だったが、ん? と、何やら思いついたように目をぱちくりとさせてから言う。
「あれ? 今の子の制服って……、地元の光陽台中学のじゃなかった? まさか、相沢ちんの彼女って中学生? ……ロリコン?」
眉間にしわを寄せ、林田は渋い顔をする。その坊主頭を、陸はぺちんと叩いた。
「中学の時の画像だ。俺は光陽台中出身なんだよ。それに、……こいつは彼女じゃねぇよ、幼馴染だ」
彼女じゃないと聞き、林田の目はきらりと光った。林田は立ち上がると、指でタバコを吹かす真似ごとをしながら、陸の肩に自分の肘を乗せた。
「それで、その美少女は、現在 どちらの高校へ?」
林田の質問に、陸の顔は曇った。しかし、林田はその陸の表情をもったいぶっていると解釈し、更に顔を寄せて聞く。
「教えてくれよん。オイラと相沢ちんの仲じゃん! その子は今…」
「……死んだ」
陸がぽつりと言うと、林田は数秒固まった後、苦笑いしながら聞く。
「冗談でしょ?」
「こんな嘘つくか馬鹿」
すると、林田は再び崩れ落ちた。そして、膝立ちのまま両手で頭を抱え、体を仰け反らす。そして、両の拳を床に叩きつけた。
「ち…地球規模の優良遺伝子損失……。あんな美少女が亡くなってしまっただなんて……。代わりにこんなボンクラが生きているってのに……」
「ボンクラ言うな」
陸は林田を見下ろしながら舌打ちをする。
悲しげに地面に伏していた林田だったが、すぐに立ち上がってまた陸へ顔を寄せる。
「しかし、天国の超美少女より、現実の美少女よん。中学の時の好きな子はそろそろ忘れてだな、新しい彼女を作り、そしてその友達をオイラに紹介してみてはいかがだろうか?」
「タフだなぁお前……。で、主旨は、俺よりお前の彼女を作る事なんだな?」
陸がそう突っ込むと、林田はにかっと、暑苦しく笑った。
「けど……」
そう言いながら、陸は視線を動かす。すると、いつの間にかこちらを見ていた風早琴乃と目が合った。彼女は、慌てて背を向けた。そんな可愛らしい仕草から目を反らした陸は、窓の外を見る。雲一つない青空だった。
「あれから一年半か……。俺は、どうしたら……」
ガラッ
そこへ、教室の前扉から、体格の良い男性教諭が入ってきた。教諭は、あご髭を指で掻きながら言う。
「遅くなってすまん。はい、ちゃくせ~き。ホームルームを始めぇ~る」
思い思いの場所にいた生徒達は、慌てて自分の席へと走る。
林田も、これから良い所だったのにと残念そうな表情を浮かべ、陸の背を押して言う。
「もう来たかヒゲゴリラめぇ……。ほら、『あ』の相沢ちんは一番に呼ばれるんだからさ、行けいけ~い」
陸は、気だるそうに窓際の自席へと急いだ。
「それじゃ、いつものように水野、出席頼む」
ヒゲゴリラこと、二年六組担任、松尾教諭がそう言うと、一人の生徒が教室の真ん中で立ちあがった。
彼は黒板の前まで来ると、くいと眼鏡を中指で押し上げ、教卓の上に置かれていた出席簿を手に取る。きちんと髪が分けらて切りそろえられ、実に清潔感があった。加えて百八十センチを超える高身長で、見た目も良く、成績も学年でトップで、全員が納得の学級代表(クラスを仕切るよう任命された者)、それが水野誠人だった。
水野は、出席簿の一番上に書かれている名前を指さし確認し、ゆっくりと口を開く。
「井口…美空さん」
そう言いながら、水野は窓際の女子を見た。すると、彼女はセミロングの髪を揺らしながら、手を上げて席を立つ。
「はぁ~いっ!」
小顔に大きな目と、アイドルと見まがうような容姿を持つ美空を、男子はデレた目で眺め、女子は憧れを持った目でうっとりと眺める。心なしか、水野の頬も赤く染まっているようだった。
「次、風早琴乃さん」
「はい」
元気だった先ほどの美空とは対照的に、風早琴乃はにっこりと小さく返事をした。
「斉藤珠緒さん」「はい」「佐藤陽太さん」「へいっ」「須藤真美さん」「はい」…………
次々と名前が呼ばれていくが、立ち上がって手を上げて返事をしたのは美空だけのようだった。
「じゃあ次……林田仁志さん」
「……あい」
林田は、スマホを片手にボソッと返事を返す。
そして大野は更に名前を読み上げ続け、ついに出席簿の一番下にある名前に辿り着いた。
「最後、…………八雲綾香さん」
「はいは~い!」
教室最後尾に座っていた茶髪ロングの女子生徒は、美空のように手を上げて立ち上がった。窓際の美空とアイコンタクトをすると、お互いにVサインを送り合っている。
「コホンッ」
水野が咳ばらいを一つすると、八雲綾香はペロッと舌を出して、ようやく着席した。
「欠席無しです」
「ご苦労さん」
松尾教諭は、出席簿を受け取って脇に挟み、水野の着席を見送った。そして、教卓の前に立つと、話を始める。
「今日のホームルームだが、いくつか注意事項があって、学校周辺での主に下校時の買い食いにマナーについてだが、ゴミはきちんと……」
生徒達は、一斉にスマホを触り始めた。