レイチェルの記憶
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電車の中はまだ蒸し暑く、人が多いせいか冷房は開閉ドアの近くに立っていた自分の所まで届くことはなく機械音とレールの繋ぎ目を擦る音とが耳の奥の方でリズム良く弾んだ。左側に立っている会社員風の男は耳にイヤホンを付けて外界と遮断された世界の中で携帯の画面に映る何かと対峙していた。男から目を離し、そのまま窓の外に視線を移してからしばらく眺めた。高層ビルが建ち並ぶ街の景色が深緑の大地と、うぐいす色の稲穂がなびく風景に変わる頃、自分は静かに深呼吸をして全身の痺れるような興奮を抑えようとしていた。
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実家の最寄駅の改札を抜けてから古ぼけた売店で缶コーヒーを買った。駅の入り口にある電話ボックスの横で遠くに聳える山々の景色を見渡しながら煙草に火を付ける。長い時間座っていたせいか、尻に違和感を感じたが少しするとそれは何処かへ消えてしまった。見覚えのある駅員やひとつ後輩の学生達を見かけたが、表情を変えずに吐き出した煙の行く末を見届ける事にした。ロータリーに見慣れたスバルの四駆車が滑り込んで来て弧を描いた。その車はこちらへ向かって進んでから目の前で停まった。自分は火種を靴の裏で揉み消してから車に乗り込んだ。
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「朝はちゃんと起きて学校へ行っているの?」
母親が投げ掛けてくる質問に適当な言葉を紡ぎながら応答した。しかし自分の心は開けた窓から流れ込む澄んだ空気と程よく照り付ける陽射しを享受していた。
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山の上を削って作られた小さな楕円形のタウンは四方を山に囲まれ、タウンに四つある坂を下れば昔から続く古い家々が点在する。タウンは縦に走る道を境に南区と北区に分けられていた。中学を卒業するまでその小さな世界が自分の知る全てであった。しかしその地には、小学校があれば生活に必要な物が揃うスーパーもあったし筆箱やおもちゃが売っている文具店も、香ばしくて温かみのある匂いのするパン屋もあった。
高校生の頃、毎日自転車で通ったタウンに繋がる少し長い坂道。雪が降った夜、部活から帰る時に、寂しさと疲労でペダルを踏み外して転んだ。自転車を蹴飛ばして両目の縁から流れ落ちた涙が今でも塗り替えられたコンクリートの下に染み付いているような気がしてならなかった。全てが懐かしくて何故か安心するのである。自分はここで育ったのだという思い出が、一年が経った事でより強い確信に変わったのである。
時間が流れたと言う言葉は、同時に生が流れたとも言える。生が死に、生から生へ何千年もの間流れてきたのである。
今目の前にある抜け殻にはかつて生が存在したのであった。生が死へと流れた後で、その事実は確実に自分の記憶に居座っていた。11年の生を全うしたレイは自らの死と誰にも止めることの出来ないこの川の流れを受け入れる事が出来たのだろうか。
「居ないでしょ」
母が何かを諭すように声をかけてきたが自分は何も答えなかった。
「一週間前の夕方だったかな。ここの草むしりをしていた時にいつもならレイが低い声で吠えながら餌くれって鉄皿を転がすんだけどその日は静かだったの。どうしたのかなって思って家の裏を覗いてみたら紐が伸び切ったところで横たわってたの、もう息がなくて慌ててレイの名前を何度も呼んだわ、そしたら数秒の間だけ息を取り戻して小さく目を開けてからレイは安心したように目を閉じたのよ」
レイは最後に愛してくれた人にお別れがしたかったのだろうか、首と繋がれた紐が伸び切る所まで移動して何を伝えたかったのだろうか。両目から流れる涙は嗚咽とともにこの地に止めどなく降り注いだ。この涙は染みになっていつか自分の記憶の中で丸みを帯び、確信に変わるだろう。少し強い風が吹いて、靴の上にふわりと着地したレイの毛を手に取り、軽く鼻に押し当てる。懐かしい匂いと鼻の奥に流れるしょっぱさが夕日の空の色と重なった。