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悪なるミタマ  作者: 九尾
最終幕 悪なるミタマ編
86/100

終・悪 結末=夢/現世/未来

 ――ドクンと、心臓が脈打った。

 ――ドクン、ドクンと。心臓が、鼓動を刻む。


 何故か、己の胸に心臓がない、という錯覚を受けた。

 確かに鼓動は、刻まれている。

 この心臓は、果たして本当に、自分のものであるのだろうか――。

 彼――久世原阿久は己の胸に手を当てて、心臓の有無を確認する。

 その手に、心臓の鼓動を感じた。

 自分の胸には、確かに心臓がある。

 それにホッとした彼に、「――るのか」という男の声がかかった。

 一体何事かと顔を上げてみれば、そこには、阿久の親友である男の顔がある。


「――聞いているのか、阿久」


 男――氷川悠斗は、普段は冷静としているのに、この時ばかりは眉に皺を寄せていた。


 ――奇妙な、夢を見ていたような気がした。


 どうやら阿久は、器用にも、彼の話を聞きながら、うつらうつらと船をこいでいたらしい。少し申し訳ないな、という気持ちもありながら、けれどどうしてお前の説教を俺が聞いてやらねばならんのか、という思いのまま、「ああ」とふてくされたような声で呟いた。


「キミもぼくも、いい加減いい年だろう。そろそろ探偵という不安定な職から卒業して、安定した収入を得られる職に就くべきだ」


「なんだよ。お前に言われることじゃないだろ、食える分は稼いでる」


「だから何度も言っているだろう。自分たちが食べられる程度では、子供など養えないぞ」


 はいはい、その話は何度も聞きました。

 軽く流すように悠斗の説教を聞きつつ、阿久は部屋を見渡した。

 そこには高級品らしき椅子や机、そして小さなシャンデリアなどが飾ってあって、まさしくここは氷川悠斗の家であるのだと確信する。

 流し流し話を聞いている阿久の態度に、少し声を荒げたことを反省しつつ、北風から太陽へとシフトして、今度は優しい声で悠斗は言った。


「これも何度も言ったが、ぼくの会社に来てはどうだ。阿久になら、良いポストも任せられる」


「なぁ、悠斗。これも何度も言わせんな。俺は職を変えるつもりはない。好きなんだ、今の仕事が」


「だから、安定しない収入では……」


「――金があれば、幸せなのかよ」


 悠斗の言葉を遮って、阿久は言う。

 その言葉に、悠斗は黙り込んでしまった。


「今はギリギリの所だが、なんとか生活は安定してる。ヤバくなったらそりゃ転職も考えるけどよ、大切にしたいんだ、今ある人との関わりを」


「……それを言われたら、ぼくが悪者みたいじゃないか」


 さっきまで阿久を説得しようとした悠斗は、まるで昼過ぎの朝顔のようにしゅんとして、

「ごめん、確かに言い過ぎた」と阿久に頭を下げた。


「いや、言い過ぎたのは俺もだ。お前が俺のことを思って言ってくれてるのも、分かってるつもりだ。悪いな、悠斗」


 互いに謝罪をして収まったところで、ふと、「しかし」と悠斗が口を開いた。


「かつて冷徹無常の悪魔の子、とまで言われた阿久が、『人との関わりを大切にしたい』ねぇ……。人間恋をしたら変わるというけれど、キミの場合は尋常でない変わりようだな」


 恋、という言葉にほのかに顔を赤らめて、阿久は「うるせぇ」と目を逸らす。


「そういうお前は、恋をしても全く変わらないな」


「うーん、そんなことはないと思うんだけどな。ぼくもだいぶ、浮かれてるよ」


 自分の話をこれ以上掘り下げられないよう、阿久は経験的に別の話を悠斗に振った。悠斗も、これ以上掘り下げたところで、阿久が怒って暴れるだけだと分かっているので、これ以上、彼の恋の話はしない。


「そういや、日付や場所は決まったのか。できればその日は空けておくが」


 日付、というのは、氷川悠斗の結婚式だ。

 彼はおおよそ二〇数年、女にはモテるものの、これまで一向に女という存在に興味を示さず、揚句にホモという噂が立ち始めた。終いには「阿久になら抱かれてもいい」などという、わけのわからない爆弾発言をぶちかましたことにより、悠斗は本当にホモなのではないかという疑惑が周囲の人間たちの間で確信に変わろうとしていた頃である。そんな悠斗が、つい数か月前に、運命の女と出会ったなどといって、外国の少女を阿久に紹介したのだ。

 少女の名は、トーア・エンフィールド。

 まだ若いがしっかりとしていて、少しばかり人見知りをするものの、誰とでも打ち解けることができるような、純粋で良い少女だった。

 親友の自分が言うのもなんだが、こんな変なヤツと電撃結婚を決めるなんざ正気の沙汰か、と思うほどいい娘であったので、突然の結婚の決定であったことに、周囲のみんなも驚いたものだ。


「日付はまだ決まっていないけどね、場所は決まったよ」


 ほう、と声を上げた阿久に、「チェイテ、という城なんだ」と悠斗は言った。


「チェイテ城? なんでまた、そんなところにしたんだ。そこって大英でも屈指の大きさであるあのチェイテだろ。それも、今はエリザベス・バートリの正式な跡継ぎである姫様が住んでるって話じゃなかったか。それ、許可はちゃんと取れんのかよ」


 流石は阿久だ。探偵だけあって、外国の城の名前も知っているんだね。

 感心して手を叩いた悠斗に、阿久は「茶化すな、有名だろうが」と一蹴。


「いやね、チェイテの姫君が、どうやらトーアの親友らしくて、是非とも式はうちの城で挙げてほしいと逆に頼まれたそうなんだ。初めは申し訳ないからとトーアは断ったみたいなんだが、どうにも断り切れなくなったようでね。けれど、人生一度きりの結婚。盛大にやるのも悪くないと思って、そこに決めたわけなんだ」


「日本一流企業の社長の嫁は、大英の姫の一人と親友なのか。なるほどな、こりゃ盛大にならない方がおかしい」


「その盛大な式でキミには挨拶をしてもらおうと思ってるけどね」


「――――は?」


「だって、ぼくの友人といったらキミしかいないからね。ちなみに親としての挨拶は、孤児院の遠藤先生が引き受けてくれた。そういえば、遠藤先生も『親友挨拶はもちろん久世原だよな』って聞いてきたから、当然ですって言っておいたよ」


 そう言って、はははと、悠斗は朗らかに笑った。


「……」


 頭を抱えた阿久に、「本当に嫌なら、『親友挨拶』は無しにしておくけれど」と悠斗は言う。悠斗の事だ、本当に挨拶を無しにするだろう。一生に一度の結婚式なのだから、阿久の職業云々であれこれ言うよりも、こういう自分に関係するところで我儘になればいいのに、と阿久は思う。

 舌打ちをして、「しゃーない」と、阿久はぼやいた。

 それは肯定を意味した言葉だと、長い付き合いのある悠斗は理解し、笑顔になって。


「だからぼくは、キミが好きなんだ」


 そんなことを、言った。

 

         ☆


 悠斗の家からの帰り際、阿久は、悠斗に貰った手紙を開いていた。

 ――そういえば、彼女から手紙が届いているよ。キミがあんまりにも自分の宅の手紙を見ないから、ぼくに届けられたじゃないか。

 そんな文句と共に受け取った手紙には、北条久遠と名前が書かれている。

 北条久遠は、氷川悠斗、久世原阿久と共に、『問題児三人組』と呼ばれるほどの、孤児院きっての問題児で有名な女である。

 久遠は言葉遣いこそは敬語であるものの、尊敬する義母より教わった正義について非常に敏感で、常に己の正義に従って生きているものだから、軒並み以上に頑固なところが、孤児院の教師たちから非常に問題視されていた。けれど彼女の正義は、それはそれで文句のつけようもない、道徳のテストにしたら問答無用の百点満点のものであったから、余計に教師は手を焼いたようである。

 どうして正義を語る彼女に、教師たちは手を焼いたのか。

 それは実に簡単、この決して謝らなかった男、『冷徹無常の悪魔の子』とまで呼ばれた悪の象徴たる彼――久世原阿久と同期であったからである。

 何か問題を起こす度、謝れと執拗に迫る北条久遠。決して謝らない久世原阿久。それを影から笑い、余計に喧嘩を加速させる氷川悠斗。これを聞けば、『問題児三人組』と呼ばれたことにも、納得してもらえることだろう。

 悠斗と久遠はともかくとして、文字通り犬猿の仲であった阿久と久遠が、こうして大人になった後にも関わりがあるのだから、本当に人生というものはわからない。

 はらりと捲った手紙を、阿久は読んでいく。

 久遠は現在、大英帝国連合に住んでいるくせに、日本で育った頃の名残からか、彼女の手紙はいつも、拝啓というお決まりの文句から、懇切丁寧に時効を述べた後に本題へと入る。

 阿久からしてみれば、探偵という職業上、無駄なものを嫌う。下らない挨拶など、そんなものはどうでもいいので、速読して要点だけをまとめた。

 真っ先に目に入ったのは、

 久遠の第二の母親代わりの人物――孤児院でありシスターでもあるソフィア・ラドクリフと、久遠を娘のように可愛がり、久遠の義母キャロラインと共に久遠を十代の頃より育てていた大城玄道が結婚する、という報告だ。

 次いで、それにともなって、二人の養子として久遠を迎える、というものがあった。

 久遠が生まれた時に、彼女は北条という苗字以外の全てを失っていた。父も、母も。そして、帰る家でさえも。多くの孤児院をたらいまわしにされた揚句、たまたま久遠を拾ったキャロラインという老婆が久遠を育て、そして遠藤というキャロラインと面識のあった孤児院の教師が、久遠を日本の孤児院へ引き取ったため、今の彼女がある。

 過去に久遠はキャロラインの他、多くの人物にあれこれと世話になったようで、そんな人々に恩返しをしながら行う大英帝国での生活は、だいぶ満足しているようである。

 次の久遠の報告。

 シスター、コーネリア・ルートレッジの運営する孤児院で、久遠の剣の師匠であるエリアス・リッケンバッカーとかいう強面の爺さんが、道場で子供に日本の『サムライダマシイ』なるものと共に剣道を伝授を始める。また、久遠の義母であるキャロラインは、かつて大災厄を招いた戦争の悲劇を語っているそうだ。

 もともと大英連合帝国という大国が生まれたのが、およそ一〇〇年前から八〇年前に起きた第三次大戦――別名を『Pandora』という、大戦争のためである。恨みが恨みを呼び込む戦争。絶望が溢れる中で、平和という最後の希望を忘れないようにと、この別名が付けられたのだという。

 もっとも、三次大戦では日本にさほど活躍も被害もなかったために、阿久としてはどうでもいい話ではあるが。

 

 ――上司コーネリア、義母ソフィア、義父玄道、師エリアス、育ての親キャロラインなど、これまで世話になった尊敬すべき人たちと共にこの孤児院で働いくのが、わたしの夢なんです。


 そんなことを、この日本を去った時に久遠は胸を張って告げていたが、どうやらその夢も、無事に叶えたようだった。

 旧友が、これまでずっとやりたいと思っていた職に就き、夢を叶えて仕事をしているのだ。それはなにも、北条久遠に限ったことではなく、氷川悠斗も同じである。それを思うと、自分も負けられてはいられないと、思うのだ。

 ――彼女との出会いのきっかけになった、小さな人助け。

 その時のように、誰かの感謝の言葉が聞きたくて、人を助けたいというその思いから始めた、探偵業。

 これで食べていくのが、阿久の夢だ。

 悠斗が夢を叶えたように。

 久遠が夢を叶えたように。

 いつか自分も、きっとこの夢を叶えてみせる。

 そんな思いと共に、手紙を胸にしまった阿久に、


「あーーくーーっ!」


 と、背後から無駄に大きな声がかかった。

 何かと振り向いて、阿久の前に小走りで現れたのは、薄いピンクのカーディガンに、空色の短いスカート、黒髪でセミロングの、小柄な少女であった。


「……なんだ、かえでか」


「なんだとは何よ。あたしがわざわざ声をかけてあげたのに」


 彼女――南かえで。服の通り、近所の帝都第二高等学校に通う高校生だ。

 彼女と阿久は、一年ほどの付き合いである。

 阿久が探偵業を始めて間もない頃、彼女の両親から依頼が来た。その内容は、家出した娘を見つけてほしい、というものだった。

 彼女はどうやら、家出した際、寝床として友達の家を総当たりするも、その総てを断られてしまい、やむなく怪しいサイトで男の家に泊めてもらおうとしていたようで、複数の男たちに犯されそうになっているところを、間一髪のところで阿久が救出に成功した。

 それが、南かえでとの出会いのキッカケであった。

 以来、南かえでは阿久の取り持ちから両親との和解を果たすが、どうやら懐かれてしまったようで、こうして顔を合わせる機会があっては、阿久に話しかけて来る迷惑な女と化したわけである。

 心なしか、阿久が街を歩く度、彼女と顔を合わせているような気がするが。


「最近はどうだ。親御さんと喧嘩はしてないか」


「うん、大丈夫。今ではね、バカなことしたなーって思ってるよ」


 彼女が家出をしたのは、確か父親と、髪の色をめぐっての大喧嘩をしたからだったか。今では父親との仲は良好なようで、阿久も安心する。


「そうか。反省できるのは、いいことだ。お前もだいぶ成長したじゃないか。……それで、今回はわざわざ大きな声で引き留めてどうした。何か困ったことでもあったか?」


 阿久が問うと、「あっ」と何か困ったような声を上げて、必死で周囲を挙動不審に見渡した後に、指を空に突き当てて、「そうだ」と、今思い出したというよりは、今思いついたかのように言う。


「あのね、あのね、あたしの友達のカレが最近、友達に冷たいらしくて。浮気調査を頼みたいらしいんだけど……」


「ガキの恋愛事情に口を出す気はないと、何度言えばわかるんだ」


「ウッ」


 奇妙なうめき声をあげて、かえでは黙り込んでしまう。


「じゃ、じゃあアレ! あたし最近、ストーカーみたいなことされてるんだけど……」


「またか。お前、見かけによらずモテるんだな」


「見かけによらずってなによ。そこそこ可愛いわよあたし」


「まぁ確かに、女子高生の中では可愛い方……なのか? だが自意識過剰だ、マイナス点」


「そんなことはどうでも良いの! ストーカーの話!」


「ああ、そうだったな。しかし、またストーカーか……」


 阿久が彼女を強姦未遂から助けた後に、頭を悩ませている彼女と、たまたま街で会う機会があった。また家出でもされてはたまらないと、何に悩んでいるのか聞いてみたところ、彼女はどうやら、ストーカー被害にあっているらしかった。

 思い返してみれば、そのストーカー被害を解決して以降、だっただろうか。今のように彼女に懐かれるようになったのは。


「そ、そうなの! だからだから、またあの時みたいに、真似事でいいから、デートでもしてくれたらなぁ……などと、貧相な頭のあたくしめは、考えているわけでごじゃりますけれろも……」


 ダメ?

 と、次第に小さく丸まっていく姿勢と共に、どんどん尻すぼみになっていくかえでの言葉(ついでに滑舌も悪くなっている)を聞いて、阿久は「はぁ」とため息をつく。


「前と違って、俺のお願いを聞いてもらうんじゃない。お前の依頼を受けてやるんだ。今度は公園のパフェは奢らないからな。それでもいいなら、付き合ってやる」


 阿久の言葉に、花が咲くような笑顔を向けたかえでは、今にも阿久に抱き付かんとムズムズさせた身体を、阿久に抱き付くことを我慢して、けれど行き場がなくなった高揚を、「やったっ!」と跳躍することで発散した。

 人助けは嫌いではないが、こういう子供にいいように使われている事実に、なんとなく虚しさと情けなさを感じた阿久は、せめてもの仕返しとばかりに、かえでに一言告げる。


「下着が見える、跳ぶのは止めとけ」


「~~~~っ!」


 跳躍した後、落下した勢いでスカートを抱きしめるようにしゃがみ込んだかえでは、「見たの?」と、親の仇でも見るような視線で阿久を見た。


「黒は、もう少し年を取ってからにしておいた方がいいな。子供の背伸びに見える」


 うんうんと頷きながら、阿久はアドバイスをしてやった。

 すると、その言葉を聞いて、かえでは次第にふるふると肩を震わせた。


「あんったがこの間! 『女の下着は、やっぱ黒だよなぁ(さりげなく真似は上手かった)』とかなんとか言ってたんでしょうが!」


 そんなことを、街中で突然叫び出すものだから、阿久は困ってしまう。


「馬鹿、そんなことを大声で言うのは止めろ、俺たちが援助交際でもしているように思われるだろうが。見ろ、通行人たちの訝しむ視線が、とても背に刺さる」


「うるさい変態! 友達を待ち合わせしてるから、はい、バイバイ!」


 捨て台詞を残して、さっさと歩き去ろうとしたかえでは、「おう、気を付けろよ」と手振った阿久にもう一度だけ顔を向けて、阿久に向けて指を突き出した。


「デートの件、忘れないでよね! 電話するから、無視したら殺すわよ!」


 不規則な生活が常識的な仕事なのだから、電話に出られないこともあるだろう、なんてことを心の中でぼやきながらも、阿久は「はいはい」と手を振った。

 なんだかもう、今更周囲の視線もくそもないな、と諦めて、阿久はかえでの背中を見送りながら、その場を去った。

 家までの道のりの中、ふと、阿久の脳裏に奇妙な記憶が蘇る。


 ――阿久は、優しいね。


 それは、南かえでの言葉のようであったけれど。

 阿久は、そんな言葉をかえでから向けられたことはなかった。

 どうにも、奇妙な記憶が頭に交じっているように見える。それは、悠斗の家で見た夢で、事実とは違うものであるハズなのに。どうにも、現実味の溢れた夢であったように思う。

 けれど、あの夢が現実であったのか、今はもう確かめる術はない。

 あの夢に不思議な現実味があったように、阿久の頭にあるこれまでの記憶もまた、現実味に溢れているのだから。

 なんにせよ、確かめる術がもうないというのなら、今此処にあるものがきっと、久世原阿久にとっての真実で、現実であるのだろう。


        ☆


「ただいま」


 阿久の帰る場所。ボロいアパート。ぎちぎちと錆びた鉄の音を鳴らして、阿久はドアを開いた。


「おかえりなさい」


 阿久を迎えようと、台所から歩いて来た白い肌、白いワンピースの女が、言った。


「ああ」


 靴を脱いで、家に入る。

 阿久と共に彼女も歩いて、阿久は座敷に、彼女は台所へ移る。

 トントンという子気味のいい包丁の音だけが、この部屋にあった。

 しばらく二人が無言でいる中で、不意に阿久が口を開く。


「なんかわからんが、夢を見た気がする。長い長い、夢だった」


 自分が、黒い女と出会って。吸血鬼なんていう、非現実的なものと戦う、とても、とても長い夢。それこそ、二〇年近くの月日を過ごすほど、長い夢。

 何を言っているの。

 そういって彼女は笑うと、阿久は思ったのだけれど。


「偶然ね。わたしもね、変な夢を見ていた気がするの。あなたと一つになって、吸血鬼なんていうものと戦う、変な夢」


 調理の手を止めて、阿久に振り向いた彼女が言った。

 彼女の黒い瞳。それを見て、何故だろう。先ほどまで自分が見ていた夢が、夢ではないように感じた。

 その夢はきっと、夢ではなく。

 もしか、こちらが夢であるのかもしれない。

 ――けれど。

 けれども。今と変わらないものが、確かにあった。


「でもやっぱり、俺はお前が好きだった」

「でもやっぱり、わたしはあなたが好きだった」


 無言で見つめ合った、二人。

 それがどこかおかしくて、「何を言っているのかしらね、わたしたち」と彼女は笑った。


「……ほんとだよな」


 彼女の笑顔を見て、阿久は思う。

 夢だとか、全部全部、どうでもいい。

 此処にある、自分の心は。

 そして目の前に在る、彼女の笑顔だけは。

 紛れもない、本物なのだから。


 ――俺は、幸せ者だ。


 目を閉じて、彼は思った。

 そして。

 久世原阿久は。

 最高に今の自分らしく、笑うのだ。


 開いた眼。そこに見える新たな世界が、彼の前には広がっていた。


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