悪への祝福。或いは、奇跡。
――暗闇。
眼を開けば、そこは暗闇だった。
アルカードの、口の中。一見、そこに入った時点で阿久の敗北に思われたが、しかし阿久の闘志は消えていなかった。
もとよりこの身に宿る神は、這い寄る混沌。暗闇に潜むもの。今更暗闇を恐れる理由が、何処にある。例えそれが、敵の腹の中だとしても。
ボウ、と。
暗闇の中、三つ目が炎のように赤く浮かび上がる。
――危機は好機。久世原阿久、今こそわたしたちの力を、貸しましょう。
――あなたは最後まで気に食わない男でしたけど、今ぐらいは力を貸しますよ。さっき力を貸すって言いましたし、それに、二度も助けられましたから。
「……ああ、力を貸せ、お前ら」
“其の身は強靭。最も深い海の底、いかなる圧力すらも、彼の者にはすべからく、無意味の拘束。かつての文明、彼の黄金時代、此処に再現す。
主の目覚め――『配列崩壊螺旋刃“D”』”
「終焉のラッパを吹け。右に剣、左に秤を持ちて、公正を図り給え。神に似たるものは誰か。否、誰が神になれようか。――《公正判決》」
阿久の右手には、白銀の杭打ち機。
阿久の左手には、捻じれた螺旋の刃。
「アルラ。ヤツの“心臓”の位置を教えろ」
“この位置から右斜め上。そこに、堕天使の鼓動を感じるわ”
左手の螺旋の刃でアルカードの食道らしき器官を切り裂いて、阿久はアルラの言う位置へと向かう。
いくらアルカードが四〇メートルを超える巨大な生物であるとはいえ、眼前の壁を破壊しての直進コースであれば、それほど多くの時間をかける必要もない。アルカードの心臓を見つけた阿久の前に、ずるりと、体内の邪魔者を排除するため、一人の男が姿を現した。
黒衣の男。阿久は、彼を知っている。
アルカードと戦った際に、アレは化け物の姿から男の姿へと変貌した。その際に見せた姿が、これである。
彼は、ノーマン・マーレイ。
「……堕天使の生み出した、吸血鬼の抑止力――吸血鬼喰い」
ぎりと、歯を噛みしめて、男は毒づく。
“どうやら、彼はアルカードの一部のようね。自身の防衛機能、とでも言ったところかしら”
「なんでもいい。あいつを倒せば、俺の勝ちなんだろ」
ええ。静かに頷くアルラとは対象に、燃えるような怒りで身体を震わせながら、男は告げた。
「散々にやってくれたな、吸血鬼喰い。お前のために余計な力を使ったせいで、堕天使の吸収が不安定になってしまった。こうなれば、お前を喰らってその力を我が身のものとするより、他にない」
阿久の能力は、変身だ。けれど、もとよりアルラは吸血鬼を喰らうために創りだされた堕天使の心臓。『消化』という行為には非常に長けているといえる。対するノーマンは、空間・時間の湾曲という非常な強力な力に加え、質量をも変化させるという能力を持つ。けれど彼の変身は、所詮質量をもっただけのもので、変身したからと何が有利になるわけでもない。ただ質量を増やして巨大化するか、質量を減らして動きやすくするかである。
それ故に、彼は吸血鬼喰いに比べて消化器官が非常に劣り、堕天使の細胞をすぐに取り込むことは不可能なのであろう。だからこそ、阿久にも勝機があったのだ。
「どの道、俺たちは共存できない。喰らい合うしかないだろう。御託はいらねぇからさ、さっさと始めようぜ、アルカード」
炎のように、暗闇に揺らめく三つの赤い目と。
ノーマンの、真紅の瞳が睨み合う。
阿久が、駆けた。
ノーマンは空間を湾曲させるが、その湾曲すらもを、阿久の持つ螺旋の刃が薙ぎ払う。
もとよりこれは、存在そのものを破壊する最強の必滅兵器。この手に《未来予知》が存在し、その存在原理を識ることができる以上、破壊できないモノは何処にもない。
「執行ッ!」
阿久は右手の《公正判決》を突き出して、ノーマンの胸を穿とうと杭を打ち出した。
もとよりこの杭打ち機に、射程範囲はない。どこまでも伸びる白杭が放たれるわけだが、これの所有者であった玄道や久遠が遠距離からの攻撃を避けていたのは、外れることを恐れたためである。
一度杭を打ち出すと、新たな杭を打ち出すためにカートリッジを込めなければならない。
――けれど、阿久の腕にあるのは、未来すらも予知する力を秘めた聖痕だ。これがあれば、敵の行動予測を算出するなど容易い。故に《公正判決》は、必中必殺、一撃で敵の心臓を粉砕する最強の対吸血鬼必滅兵器と化す。
右には《公正判決》。左には、配列を崩壊させる螺旋の刃。
これに勝るものはないと、思った。――なのに。
「残念だったな。俺が捻じ曲げるものは、なにも空間だけではないのだ」
阿久の予測した未来を捻じ曲げて。
ノーマンは背後より、手刀によって、阿久の両腕を切断した。
確かにアルカードは、阿久の正面にいた。そして《公正判決》を心臓に突き立てて、螺旋の刃で切り裂いて、それでこの戦いは終わるハズだった。けれどノーマンは、確かに存在したハズの未来を、過去と未来に歪みを発生させることでその因果を崩壊させ、阿久の視た未来をなかったことにした。
この力の使用には相応の代償が必要だろうが、そんなものになりふり構うことができぬほど、今のノーマンは追い詰められているらしい。
ぶしゃりと、切断された両肩から鮮血がほとばしり、轟音を立てて《公正判》が転がり、そして螺旋の刃が、アルカードの肉の上へと突き立った。
“そんな、馬鹿な――”
驚愕に声を震わせたアルラに、「驚くことはない」とノーマンは静かに告げる。
「おれの力が空間と時間の操作であることは知っていただろう。空間はともかくとしても、時間を歪めた場合、平行世界の存在を許さぬ世界が、帳尻を合わせるために勝手な修正を始めるのでな。何が修正されるかわからん以上、この力を使わなかっただけだ」
阿久の背後より、正面に立ったノーマン。その心臓を狙って胸から杭を突き出した阿久だったが、ノーマンの左手刀がそれをいとも容易く切り裂き、そしてそのまま、阿久の胸部に腕を差し込んだ。
「……ふむ」
阿久の体内に腕を差し入れ、掻き混ぜるように何かを探したノーマンは、やがて目当てのものを見つけ出して、それを取り出した。
ぼぎゅりと、どろどろした液体から腕を引き抜く音と共に取り出されたそれは、阿久の――心臓だった。
「おま、え……」
その心臓だけは奪われまいと、阿久は手を伸ばす。
けれど、心臓を取り出されてしまった阿久にはもう、引き出せる力がどこにもない。
伸ばされた手を軽くつつくだけで、阿久の肉体は後ろへ倒れ込み、胸部から大量の血液をまき散らした。
倒れこんだ阿久を見た後に、ノーマンは手に掴んだ心臓に目を移す。ふと、大人の男の心臓のわりには、どこか小さいように感じた。
彼らの忌能は変身だ。もしかしたら、この心臓は偽物であるかもしれない。それを危惧して、ノーマンは知識の神の力を借りて、その心臓を視た。如何に本物に近づける無貌の神であっても、数十を超える知識の神の視線は、免れまい。
アルカードの所有する知の神たちは皆、「これは確かに、人間の心臓だ」と口をそろえていった。心臓の大きさには、多少の個人差があるものだ。ならば、久世原阿久の心臓は、一般に比べて小さい方だったのだろう。
これは間違いなく、久世原阿久の心臓なのだ。
「流石は抑止力。なかなか苦戦させてくれたな。だが、それももう終わりだ。堕天使の心臓は、此処にある」
それでは、戴こう。
ノーマンの口が開かれたとき、ふいに感じた激痛に、彼は頭を抑えた。
何が起きたと、ノーマンは考え、知識の神を起動させる。久世原阿久は此処に倒れた。教会の聖痕もすべて回収し、真祖たちの心臓も残らず、この久世原阿久の心臓にあるハズだ。敵はもういない、ならば何故――。
導き出された答えから、ノーマンは納得する。
今のは敵による攻撃ではなく、太陽光による肉体の損傷だ。
堕天使は、外から召喚された天使である。外界から来たモノゆえに、多くの地球物質とは相性が悪かった。中でもとりわけ、堕天使は太陽光に拒絶反応を示すことを、ノーマンはかつての研究によって知っている。
「朝日が昇ったか。早々に堕天使を取り込み、身を潜める場所を探さねばなるまいな」
そういって、阿久の心臓に、噛み付いた。
滴る鮮血、零れる命。喰らった。その心臓を、確かに喰らいつくした。
腹部に確かに、すとんと、堕ちた。
これで、最後のピースは揃い、堕天使は残らずこの身に取り込まれた。あとは完全に、この身に馴染むだけだ。――と。
ふと、アルカードは足元に倒れる男の骸に目を向けた。
彼の心臓は、確かに喰らった筈なのだ。それなのに、倒れた久世原阿久の肉体は、灰と化さない。今だ、元の肉体を保ったままである。
久世原阿久は、天使の花婿。天使の姫君と合わせて、二人で一人の吸血鬼喰い。吸血鬼のように、天使の欠片を直接宿した存在ではない以上、灰にならないのも道理ではないだろうか。
そうして頭に残る疑問を物色しようとしたノーマンだったが、おかしいと気付く。
久世原阿久の額にある、燃えるような眼は今だ閉ざされておらず、どころか、その背には漆黒の翼が残っている。天使の姫君――堕天使の心臓は喰らったハズだ。確かに、久世原阿久の心臓を、喰らった筈なのだ。
人間の死体として残るのならばともかく、彼の姿は今だ、吸血鬼喰いとしての形を保っている。吸血鬼喰いとしての力は、とうに失われているハズなのに――。
「ぐぅッ!」
唐突に、頭痛が奔る。この分身ともいえるノーマンの肉体は無事でも、本体である巨大なアルカードは、太陽の光に照らされている。早々にどこかの日陰に潜り、堕天使を消化しなければ――。
そう思った、ノーマンの胸が。
ドスリ、と。
何者かに、杭のようなもので貫かれていた。
「な……にィ!?」
「おいおい、随分苦しそうじゃねぇか。なに、今すぐ俺が楽にしてやるよ」
両手を失い、心臓を失い、体中から血を吐きながらも、漆黒の翼を杭へと変身させて、ノーマンの胸を貫く男が、背後に立っていた。
彼は、とうに死んでいるハズで。彼は、とうに力を失っているハズなのに――。
「久世原ァ、阿久ァァァッ!」
何故、お前が――!
ノーマンのそ問いに、答えるはずのない久世原阿久の“心臓”が、おおよそこの場に似つかわしくないほど静かに、答えた。
“簡単なことよ。わたしたちの忌能は変身。“心臓”を一時の内に他の臓器に変えてしまえば、あなたの目は誤魔化せる”
「しかし、あの心臓は、確かに――!」
ノーマンの喰らった心臓は、確かに、本物の人間の心臓だった。
神の眼で確かめたのだ。間違うはずもない。アレばかりは、変身で創られた心臓ではなかったハズなのに――。
「残念だったな。アレは“心臓”じゃねぇ」
「ならば一体、誰のものだ! お前本来の心臓は、とうにオオダイラによって失っている筈だろう!」
阿久に喰われた吸血鬼の心臓は、その総てがアルラに吸収され、完全に消化される。例え先に喰らったコーネリアと久遠の心臓であろうと、彼女らが吸血鬼で在る以上、その心臓は、嫌でも消化されるはずなのだ。
吸血鬼喰いである彼の肉体には、アルラを除いて心臓など存在しない。それなのに、何故。
血反吐を吐きながら吼えるノーマンは、そこまで言って、かつて行われたとある戦いを思い出す。
久世原阿久が初めて真祖と交戦したあの日。
久世原阿久は、新たな心臓を手にしていたハズだ。
とある、心臓。
とある少女の、心臓を――。
「南ィ……かえでかぁぁぁああああああッ!」
その通り。先ほどアルカードが喰らったのは、南かえでの心臓だ。
第七真祖と戦った際に阿久が喰らった、吸血鬼ならざる者の心臓。確かにあの時のかえでは吸血され、死に至ったが、満月の夜が訪れ、吸血鬼として覚醒する前――まだ人としての身体の内に、その心臓は、久世原阿久によって喰われている。
吸血鬼喰いは、人を喰らうものではない。その結果、消化されることなく、彼女の心臓は阿久の心臓へと成り代わり、新たな力を阿久とアルラに与えたのだ。
その心臓が今。こうして。久世原阿久に勝機を与えた。
これを神の与えた奇跡と言わずして、なんと言おう。
「貫けぇええええああああああああああああッ!!」
阿久の背に生えた、漆黒の翼。それすらも、南かえでが与えたもので。
杭となったその翼が、ノーマンの心臓を破壊して、その奥にあるアルカード本体の巨大な心臓に突き刺さる。
「貴様らッ! 貴様らァアアアアアアアアッ!!」
“食刑の時間よ。その心臓――神に返しなさい”
そして、大きな口となったその翼が、ノーマンごと、アルカードの心臓を。
バクリ、と。
喰らい尽くした。
――かえで。お前は本当に、勝利を呼び込む女神かもしれないな。
阿久の心の言葉を聞いて。
――ほら、ちゃんと役に立ったでしょ。
消えたはずの心臓の鼓動が、聞えた気がした。




