最強の敵
第九真祖クラウンを喰らい、本来の目的である堕天使に向かって進んだ阿久は、床を幾度も削り、打ち砕いて、ようやく堕天使の目前までたどり着いた。
そこは、教会の遥か地下。高さは一〇〇メートルを超え、またその広さは限界を目では見て取れないほど、青白く光り輝くとても広い鍾乳洞のような空間だった。
鍾乳洞の中心、周囲の岩に囲まれる形で、それは在った。
美少年といって差し支えない、金色の髪。人形のように整った白く巨大な顔。閉じた大きな瞳に、乾いた唇。それ――堕天使が眠るように目を瞑り、この場に存在していた。その光景を見て、阿久は何故だろう、神秘的だと思った。うまく言葉にはできないが、とても美しいと、阿久は思った。
それは、どこか。かつて見上げた空に浮かぶ月を、思わせたからかもしれない。
堕天使は、白く巨大な、蚕の繭のようなものに包まれて、顔だけを覗かせている。その全長は実に二〇メートルほどで、阿久はクラウンの「堕天使を食べきれない」という言葉を思い出す。なるほど、これだけの量ならば、並はずれて巨大なものか、もしくは自分のような変身の能力を持たなければ喰らうことはできまい。
しばらくこの鍾乳洞、そして堕天使に見とれていた阿久だったが、ようやく我に返って、その足を前に出す。武者震いだろうか、それとも、未知のものを前にした畏怖だろうか。阿久の足は震えていた。
それでは、最後の目的を果たすために、この堕天使を喰らおうか。
心臓が締め付けられ、なんだか胃のものを残らず吐き出してしまいそうになる緊張を抑えながら、阿久が堕天使の前に立ったときに。数多の鍾乳石が垂れた天井――堕天使の頭の上あたりから、ずるりと、何かが落ちてきた。
初めに落ちたのは、小さなコンクリートの欠片だった。しかし欠片が零れれば零れるほど、欠片の大きさは増えていき、終いには鍾乳洞に大きな穴が開く。大きさはだいたい、人が一人通れる程度だろうか。
穴から、ぼとりと。堕天使の顔の表面を転がって、全身を黒に包んだ古老の男が転がり落ちてきた。
左胸部は、杭でも撃ち込まれたかのように不自然に穴が空き、ぜぇぜぇと呼吸を荒げながら、じろりと、この場に存在する筈のなかった阿久を見る。
“――彼は、第三真祖……”
ぽつりと、アルラが呟いた。
阿久も、彼の事を知っている。忘れるはずもない。――あの日。あの、ひどい雨の夜。意図せぬことであったとはいえ、久世原阿久の心臓を奪ったのは、紛れもないこの男なのだから。
「ふはッ、なんぞ、お主らも此処へ辿り着いていたのか。堕天使は儂が独り占めしてやろうと思っていたのだがのう」
のろのろと、オオダイラは立ち上がる。
誰がどう見ても、彼は既に死に体だ。尋常ならざる頑丈な肉体と、真祖としての治癒力。それらが優れているにしても、心臓をやられたせいか、修復が遅すぎる。力を使い果たしたというのが、目に見えて分かる。それなのに彼は、決して弱さを見せず、まだ戦えるといった様子を見せていた。
「来るが良い、吸血鬼喰い。堕天使は儂のものだ。欲しければ、力尽くでも奪って見せよ」
何が、彼をそこまで奮い立たせるのだろう。
女を犯し、男を殺し、これまで好き放題に生きてきた、自由な男。土竜と呼ばれた吸血鬼。彼に不幸にされた女は数知れず、彼に殺された人ももう、数えきれるほどではないだろう。ただ自由に生きた吸血鬼、大きな目的などないであろう彼にとって、もっとも大切なものは、己の命だろうに。それが何故、こうも懸命に生きようとするのか。
――もしか、自由に生きたからこそ、だろうか。
自由に生きたが故に、最後まで、己を曲げぬ己であろうとするのだろうか。
「どうした、吸血鬼喰い。お主がかかってこぬのなら、堕天使は儂が貰ってしまうぞ」
その息は荒い。言葉も途切れ途切れで、立っているのもやっとなのだと思う。それでも、オオダイラは決して弱さを見せない。まるでそうすることこそが、これまで自分が殺してきた人間たちへの弔いであるかのように。
「来いッ、吸血鬼喰い!」
オオダイラが叫ぶと同時、阿久は己の右腕を剣へと変身させて、オオダイラの肉体へと突き立てた。のみならず、オオダイラの肉体は宙に浮き、堕天使を包む繭へと叩き付けられる。
お前の思うようにしてやった。これで満足か。
その問いを込めてオオダイラを睨み付けた阿久は、彼の表情を見て、絶句した。
オオダイラは、笑っていたのだ。
死ぬというのに。心臓が破壊され、死ぬというのに。
痛いだろう。怖いだろう。苦しいだろう。それなのに彼は、大きく口を開けて。諸手を上げて、己の死を喜ぶように、笑うのだ。
「これまで散々してきた儂も、とうとうここいらが、積もり積もった年貢の納め時かのようだのう……。悔しいのう、もうすぐで、堕天使が手に入ったというに。目の前に、堕天使があるというに」
ならば。ならば何故、今の一撃を誘った。何故、今の一撃を避けようともしなかった。
阿久の疑問が声に出ることもないまま、「ああ」と、オオダイラの一人語りは続く。
「戦争の時はわしよりむごいことをした連中を知っておるが、平和なときにわしほど酷いことをした者はおらぬだろう。だが、まぁ。これも天命か。
……ああ。そうだとも。このように落ち着いた日に死ねるのは、幸福だ」
今日が落ち着いた日かどうかは、わからない。けれども、この空間は。この鍾乳洞の世界だけは確かに、落ち着いた空間だった。ここで死ぬ気は毛頭ないにしても、もし自分が死ぬのなら、このような静かな場所で死にたいと思うだろうな、と阿久が思うほどに、この場所は、鎮魂を思わせる何かに満ちていた。
「――亡き御霊、赦し給へし過去の罪、今日を最後に深く……果て……なん…………」
消えそうな声で言ったオオダイラが言い終えるとほぼ同時に、その首が垂れた。
これまで何人も吸血鬼を葬ってきた阿久だったが、この時ばかりは、ものを殺すということに、少し、ほんの少しだけれど、罪悪感とも呼べるものを感じた。
“……阿久”
アルラが、倒したオオダイラの心臓を喰らえという。ああ、わかっているとも。
貫いたオオダイラの心臓が肺になる前に、右手を変身させて喰らおうとして――。
ぐらぐらと、世界が揺れた。鍾乳洞の天井から垂直にたれている鍾乳石が折れて、阿久に向けて落下する。それを、咄嗟戻した右手で弾き、状況判断のために周囲を見渡した。
何が起きているのか、分からない。けれども、この揺れの震源地は下方から来ているように思う。ここは地下。既に地の下にいるというのに、その下だけから揺れが来るというのは、いささか奇妙ではないか――。
そして阿久が、下から何かが現れるという結論を導き出すのとほぼ同時、アルラが“下よ”と叫び、それは姿を現した。
下方より、堕天使を覆うように現れた巨大な口は、堕天使付近に落下したオオダイラごと周囲の大地を飲み込んで、ばくりと、あまりに巨大な口を閉じる。そして跳躍し、天井に突き刺さるかと思いきや、掘り進んでそのまま、天に昇る龍が如く、地表に向けて姿を消した。
この鍾乳洞は、おおよそ一〇〇数メートルほどの高さの空間だ。そんなところに、実に四〇メートルほどの巨大生物が出現し、堕天使とオオダイラを喰らって、そのまま地上に向かって消えていったのである。
あまりに現実離れした光景にしばらく呆けていた阿久は、アルラの“追いましょう!”という声によって我に返る。
堕天使の姿は、欠片もなく完全に消えている。肉体の総てをあの化け物が口に放り込んで、そのまま逃げ去ったとみて間違いはないだろう。
ここまで掘り進んできた時と同様、右手をドリルのように変身させ、阿久は怪物を追おうかと思ったが、怪物の通った跡を見て、そちらを登った方が速いと判断し、巨大な穴へ向かう。
その穴は、やはり並の地球生物が通ったとはとても信じられないほど大きなもので、大地の壁、そして人口の天井を掘り進み、遥か遠くに消え去ろうとしている怪物の容姿もまた、とても地球生物に見えないものであった。
四本の腕に、獣のような骨格。毛はなく、つるつるの肌に、のっぺりとした頭。ちょうど、映画などで見る怪物――エイリアンと呼ばれるものにもっとも近い容姿をしたものだ。
それが、堕天使を狙いすましたように喰らい、去っていった。
「アルラ! 一体どういうことだ!」
化け物が開けていった大穴の側面を、蹴りつけて跳躍する。壁跳びを繰り返して化け物を追う中で、阿久が問う。
“わたしだって、アレが何かよくわからないわ。けれど、確かにアレから天使の欠片の力を感じる。それも、他の真祖とは比べものにならないほど、大きな力”
「そりゃあ、堕天使喰ったからじゃねぇのか!?」
“――いいえ、アレは確かに吸血鬼。それも真祖以上のレベルなの。おかしいわね、あれほど大きな欠片を持つ相手なら、嫌でも存在に気付くはずなのに……”
しばらく考え込むように独り言をぶつぶつと呟いたアルラはやがて、“そうか”と一人納得して頷いた。
けれど阿久には、何が何やらわからない。「どういうことだ」と阿久が問うと、驚かないで聞いて、とアルラは深呼吸するように間を置いた。
“あれはおそらく、真祖・アルカード”
「はぁ!?」
思わず大声を出してしまったが、冷静さを欠いても仕方ないと、阿久はアルカードらしい化け物を追う足を緩めないまま、深呼吸して動揺する心臓に問いかける。
「どういうことだ。あの怪獣が、もとは人間だってのか」
“おそらく、真祖と比べても並みならない量の堕天使の細胞を移植された人間が、突然変異をしたものなのでしょう。堕天使はもともと地球外のものよ、となれば、あの肉体がとても地球上の生物とは思えない肉体の変化を遂げていても、不思議はないわ。どころか、納得できるほどね”
「いや全く納得できないんだが」
ぼやいた阿久も、地上へ出ようとしている怪物の姿を追いつつ、考えた。
阿久の能力は変身だ。また吸血鬼の基本能力として、並みならぬ治癒能力が存在する。これら二つの能力が、根本的に似たようなものであるとするならば――吸血鬼の治癒能力が変身の能力の応用であるとするならば――もしかしたら、過剰な治癒能力によってあのような怪物が出来上がることも、納得できるのかもしれない。
堕天使はそもそも、地球外の存在であったと聞いている。堕天使は堕天使なりに、己が環境に適応できるような姿を見つけ出し、この地球に馴染もうと進化したということなのだろうか。
考えても、堕天使と会話できないようでは分かるはずのないことだ、と、阿久は思考を脳の隅に追いやった。如何なる状況にも対応できるよう、眼前の敵を睨んだときに、気付く。
アルカードの動きが、止まっていた。地上に出ることなく、地面を掘り昇る手を止めていた。それから、ぐるりと回転したように見えた。
八〇〇メートルほどの距離を残したまま、阿久は穴の側面に杭として変身させた右手を突き立てて、その場で静止する。
「……あいつ、何しようとしてる」
独り言ちるように、アルラに問いかけた。
アルカード一人が、ようやく通れる穴。これは阿久にとっては非常に広いものであるが、アルカードにしてみれば、非常に狭い場所であるハズだ。それなのに、アルカードは器用なのか、それとも骨格が人と大きく異なるのかは知らないが、頭の位置と足の位置を入れ替えて、阿久を見た。
ボタボタと、口から零れる涎が、阿久のいる下方へ垂れて来る。それを、壁に突き刺した右腕で肉体を支えつつ、身体を揺らして避けながら、阿久もまた、アルカードを見る。
さながら獲物を見つけた狼のように、低く喉を鳴らしたアルカードは、やはり獲物を狙うが如くに、じりじりと阿久に向けてゆっくりと歩を進めてきた。
いくら鈍くても、流石にこれがどのような状況なのかはわかる。
“まずいわ、阿久。おそらく、アルカードが天使の心臓に気付いた”
ああ、なんとなく、そんなことだろうと思ったよ、クソッたれ。
心の中で毒づいて、阿久は自由になった左腕に小さな風を巻き起こす。
第九真祖クラウンは、多くの真祖を喰っていた。まず、第九真祖ヴィーデ。彼女を喰らうことで、クラウンは真祖としての力を手に入れた。次いで第八、第七、第四に第二。
そしてクラウンを阿久が喰らった今、その力は総て阿久の下にある。すなわち、それらの力を、阿久が行使することが可能になっているということだ。
暴と、阿久の周囲を囲むように、風が吹く。パラパラと零れ落ちる砂から異常を悟ったのか、アルカードの爬虫類じみた真紅の瞳が細まった。
阿久が何をしようとしているのか、アルラもまた悟ったのだろう。“それが最善ね”と、静かに呟いた。
アルカードと阿久が、睨み合う。
阿久は、自分の背中に冷汗が流れているのを感じる。自分の心臓の音が、やけにうるさい。これといって疲れることをしているわけでもないのに、どうにも身体を支える右腕が疲弊しているように感じる。阿久の体重に耐えきれずに土の壁が崩れて、阿久の肉体が落下してしまうのではないか、という嫌な想像が脳裏をよぎる。
ギチギチと、空気が悲鳴をあげているのではないかと思うほどに、阿久は緊張していた。
対するアルカードは、ぐるると獣のように喉を鳴らして、阿久を見る。アルカードもまた阿久同様に緊張しているのだろうが、阿久とは緊張の種類が違う。阿久の緊張が、失敗すれば取り返しのつかない生死の懸かった緊張であるとするならば、アルカードの緊張は、獲物を狙う動物と同じそれである。確かに失敗することは恐ろしいが、だからといって死ぬことはありえないし、どころか、またこのような好機はいずれ巡ってくることだろう。それだけに、アルカードの緊張には無駄がなく、極限の集中を行うのに適した、適度な緊張である。
アルカードからしてみれば、この空気は、張りつめてはいるものの、逃れたいとは思わないものである。どころか、心地よい程度のものであった。
二者はまだ、動かない。
阿久の手の内で舞う風が、ちりちりと小さく音を立てた。極力音を立てないように力を溜めたつもりだったが、慣れない力のためか、まだ上手く風の力を扱えない。多少の物音は仕方ないと、阿久は思い切って、左手の平に、目に見えて大きな球体を作り上げた。
それでもまだ、アルカードは動かない。阿久が未だ己の射程距離に入っていないことを本能的に知り、どこまで行けば己が確実に敵を屠れるか、ということを考えているのかもしれない。
阿久は、掌に風の球体を作り上げて、力を溜め。
アルカードは、いつでも飛び出せるように筋肉を張りつめつつも、じりじりと阿久との距離を詰めていた。
アルカードと対峙する中で、阿久は初めてウォルターと対峙した時のことを思い出す。あの時も、確か、今と同じような状況であったように思う。
どうあがいても勝ち目のない、自分と。絶対的強さをもって獲物を狩る、吸血鬼。
だがあの時と違うのは、阿久の心が折れていないということか。守ると決めたものがある。共に生きると決めたものがいる。――戦う理由が、確かにある。それだけあれば、阿久は戦える。
阿久の手の平にある風が、がりと、土を削り取る。それは小石程度の欠片をはらい落とす程度のものではあったが、ピクリと、二者の身体が動いた。だが、まだ、動かない。
そして、その小石が鍾乳洞に落下し、小さな音を立てた刹那――。
「おらぁあああああッ!」
「GRRRRRRRRRAAAAAAAAA‼」
――二者が、同時に動いた。
驚くべきは、アルカードの速度か。阿久も決して吸血種の中でも遅いわけではないが、しかしアルカードがあまりに迅すぎた。四〇メートル近くの巨体でありながらも、その瞬発力は地球上のありとあらゆる生命を超越している。がばりと開かれた、堕天使すらも一口で飲み込んでしまった巨大な口。それが、阿久を丸呑みにしようと迫る。
けれど阿久の表情に、焦りはない。もとよりアレが己の常識で測れないと踏んでいた。おそらく、手に集めた風をぶつけたところで、あの化け物には通用しないだろう。もしアルカードに通用する攻撃手段があるのなら、それはおそらく、トーアの黒い腕か、アルバートの熱量か、もしくは第四の毒ぐらいのものだろう。
では、この掌に集めた風は、何のために――?
アルカードを攻撃するのではない。アルカードに当てるのではない。
もとより、この穴を破壊し、アルカードとの距離を取るために。
アルカードの口がもう少しで阿久を飲み込もうとしたときに、阿久の放った風の爆弾が周囲を切り裂き、右腕付近の土を破裂させ、大々的にぶちまけた。
飛び出した砂や土、岩石によって阿久の足場ならぬ腕場は崩れ、重力に引かれるままに落下する。これで、アルカードの目を眩ませることぐらいはできるだろうと踏んで、阿久は落下しつつ、ドクンと心臓に鼓動を刻む。
ドクン、ドクンと。
二つの“心臓”が。
ドクン、ドクンと。
“心臓”が、跳ねた。
阿久の肉体に、明確な鼓動が生まれる。感情が生まれる。全身に血液を巡らせ、冷えた心を熱くする。これが、“心臓”。これが、生の“鼓動”。ああ、生きている。自分は今、此処にいる。確かに此処に、存在している。
瞳は、真紅に光り輝き。
爪牙は、更に鋭く。
その背に、漆黒の両翼がずるりと生えた。
「喰らいやがれ、アルカード」
ドクンと、心臓が跳ねる。右半身が焼けるように熱くなる。沸騰しそうな熱をもって、右腕が黒く変色し、暴虐的なそれへと変化した。
漆黒の腕とは、また別の。これは、第二真祖のもの。
正面の土砂、岩石、それらをまるでないものとして扱い、巨大な穴を器用に這って阿久を喰らおうとする、巨大な口が現れた。なんとなくこうなるだろうと、阿久は感じていた。あの程度の目くらましで自分を見失うことはないだろうと。あの程度の土砂など、あの巨大な身では意に返すことはないだろうと。そして、自分が一安心したところを狙ってその口を開くだろうと。
果たして、阿久の推測は的中した。
阿久の推測通り、アルカードはあの爆発の中、阿久を見失うことなく、そして爆発によって巻き上げられた岩石ですらも意に返すことなく、その大口を開いて飛びかかってきたのである。
いくら相手が化け物であろうとも、阿久の方も、化け物の欠片を宿しているのだ。不意の一撃ぐらいは効いてもらわなければ、勝ち目がない。
勝ち目があるか否かを判断することを含め、阿久はその顔面に、第二真祖の拳を叩き込んだ。
――その、結果は。
見事、怪獣の頬を殴り飛ばすことに成功し、のみならず、怪獣の顔半分を土の中に埋めこむことに成功した。
勝機は、ある。
それを確信した阿久は、重力に引かれるまま落下してアルカードから離れていった。アルカードは、阿久に殴りつけられて体勢がおかしくなったせいか、首がつっかえて、穴の中で、もがき暴れている。
ざまあみろと嘲笑した阿久は、穴の底にそろそろ辿り着くことを見計らって、使い慣れた変身の能力で、背中の両翼を杭のように左右に突き立てる。杭として突き立てた両翼で自身の落下速度を緩やかにしつつ、穴から抜け出したところで変身を解いた。もとの両翼で落下位置を調整しつつ羽ばたき、阿久は再び鍾乳洞へと降り立つ。
降り立つと同時、阿久はその場を数百メートルの距離を取って離れ、アルラに問いかける。
「とりあえず一撃ぶちかましてやったわけだが、お前はどう思う」
“……どう思う、と言うと?”
「あの化け物相手に、渡り合えると思うか?」
少しばかり希望的観測を含めたように聞いてみると、アルラは“無理ね”と即答した。
“相手の隙をついて攻撃なんて、こんな広い鍾乳洞の中ではできないだろうし、相手もあなたの手を知ったでしょう。次は当たらないと思うわ。なにより、ほら。渾身の一撃も、効いていないように見える”
見れば、アルカードは体勢を立て直し、穴から蛇やトカゲのように這いずり、降りようとしていた。その動きを見ればわかる。脳震盪などを起こした様子もなければ、これといって大きな損傷があったようにも思えない。つまり、アルカードにとってみれば、あの程度の一撃は、それほど大したものではなかったということか。
「勝機は、あると思うか」
“ゼロね”
きっぱりと、アルラは告げる。
だというのに、ニヤリと、阿久は笑った。
「なら、お前はどうする。尻尾を巻いて逃げだすか」
“その選択肢も、無いわね。勝てない敵が相手だからと、逃げ出す理由にはならないもの”
それに、とアルラは付け足した。
“堕天使は万能の願望器、だけれど、わたしたちが先に喰らったクラウンの力を使いこなせないように、アルカードもまた、喰らって間もない堕天使の力を使いこなすことは難しいはず。ましてや、クラウンの宿す欠片とは比べものにならないほど巨大な細胞を、同時に身に宿したのだから、それは尚更のはずよ。もしわたしたちに勝機があるとするなら、力を使いこなせないであろう今をおいて他にはないわ。――そして、なによりも”
――堕天使の心臓は、此処に在る。
アルラはもともと、百年前に生まれた吸血鬼、その心臓にある堕天使の細胞――《天使の欠片》を集めるべくに、堕天使から産み落とされた心臓であるという。それはいわば、《神の使い》ともいえるべきものだ。
神の使いが、神の欠片に負けるようでは、欠片を集める《神の使い》たる意味はない。であれば、《神の使い》は最強で在らねばならない。だからこそ、堕天使は己の心臓をこの世に産み落としたのだから。
二人で一人の吸血鬼。存在しない、一三人目の真祖。
奇しくも、一三という数字は不吉を現す忌み数である。北欧神話やキリスト教においては、招かれざる客としての数字ともされる。
もし神の力を持つものを破る者がいるとするならば、これ以上に相応しい者はいるまい。
“それでも勝ち目がないというのなら、奇跡を起こせばいい。わたしたちは神に成ると決めた。なら、神の力などがこの手になくても、奇跡の一つ二つは起こすところを見せないと、それは嘘でしょう”
「こんな状況でよく吠える。だが、それでこそ。お前は俺の“心臓”だ」
ああ、本当にその通り。
神から恵まれた力に縋るだけでは、意味がないだろう。此処に、自分の腕がある。此処に、自分の足がある。此処に肉体があって、そして胸に、魂がある。真に神足りえる器を持つならば、奇跡の一つや二つを自力で起こせずに、なんとする。
これが勝ち目のない戦いであろうとも、久世原阿久は、迷わない。仮に負けたとしても、後悔はしない。
例え世界を敵に回そうと。例え神を敵に回そうと。
それが愛した女との未来に利用できるならば利用する。それが愛した女との未来の障害になるならば、上等。世界総てを喰らうまで。
そう、決めたのだから。そう、誓ったのだから。
もし此処で己の決意を放棄したのなら、自分は口だけの大嘘つきだ。それこそ、これまで奪った命、そして失ってしまった命に対して失礼というものだろう。
「行くぞ、アルラ」
多くの意味を込めた、阿久の決意に。
地獄の底まで共に行こうという、その言葉に。
“ええ、行きましょう”
躊躇わず、まるでそうすることが当たり前であるとでも言うように、アルラは頷いた。
おそらく最後の敵、真祖アルカードを倒すと決めた二人の前に、大地に波のような揺れと轟音が響いた。どうやら、アルカードの肉体が鍾乳洞に落下したらしい。
あまりの揺れに、いくつもの鍾乳石が耐え切れない。つららのように落下して、地面に突き刺さる。
それらつららを、強固な爬虫類を思わせる鱗のような、甲殻動物を思わせる甲皮のような、硬質なアルカードの甲殻が、触れる度に粉々に砕いていた。よほど頑丈にできているのだろう。
一体、どれほどの強度なのだろう、あの肉体は。そこらの鉱石よりは、よほど強固に見えた。
“なんだか、先ほどの覚悟が揺らぎそうね”
「残念ながら、俺もそう思った」
アルラと下らない冗談をかわしつつ、阿久はアルカードを見る。
アルカードもまた、ぐるぐると身体を反転させて阿久を見た。
再び睨み合いになるかと思いきや、アルカードがすぐさま行動を開始した。穴から落下するような先の速度と同等、もしくはそれ以上の速度をもって、二足の足でアルカードが疾走する。
どうやらアルカードの骨格は四足歩行には向いていないようで、尾てい骨が本来の形を取り戻したらしい巨大な尾を、三本目の足として動かし、バランスを取って走っているらしかった。四足歩行(あれの場合は六足か)に比べれば速度は多少落ちるだろうが、それでも身体の大きさを考えれば、十分な速度である。また、四本の腕が自由になることを考えると、これは六足の場合よりも攻撃に特化する。やはり、十分以上の脅威か。
それらを踏まえたうえで、この化け物を相手に、阿久はどうするかを考える。
有効手段はやはり、先のように第二の腕、もしくは《漆黒の腕》で殴り飛ばすことのように思えるが、先と違ってここは場所が広く、殴り飛ばしたところで敵の突進力は止められず、突進に巻き込まれてしまう可能性がある。その上、敵は此方の手を知っている。いくら見た目が化け物であろうとも、元が人間であることを考えれば、多少知性はあると考えて然るべきである。ならば、先とは違う手で打って出るしかないのだが……。
さて、どうしよう。
勢いよく吠えたはいいものの、いい方法など頭に浮かぶわけもなく。
結局時間切れになる前に、妥協案として翼を広げ、大きく跳躍して怪物の頭上を飛び越えることにした。
大きく翼を広げ、跳躍。大きく広げて振われた、アルカードの腕。その爪と爪の間を上手く躱した阿久は、そのまま落下すようとする。身体を捻ってアルカードを見ると、己の頭上を越えさせまいとするアルカードの拳が迫っていた。これはおそらく、先ほど振るった腕とは異なる、二本目の腕だろう。迫る拳を、肉体を仰向けに浮かせ、翼をパラシュート代わり広げることで、わずかに落下速度を落とす。阿久の下方を、途方もない風圧が吹き抜けた。そんなギリギリの回避を行って、そのままアルカードの巨大な腕の上に、どうにか着地を成功させる。
振りかぶる腕。開いた掌。阿久が使用するは、総てを溶かす、第六の超高熱。
「コイツはどうだ、化け物ッ!」
アルカードの頭に向かって、腕の上を滑り落ちるように駆けたまま、右手を鍵爪のようにして、阿久はアルカードの腕を削っていく。傷口が、あまりの高熱から煙を吐く。だが、それまでだった。アルカードが痛がる素振りを見せることはない。
確かに強力な、第六の力。けれども、圧倒的質量を前にしては、あまりに攻撃範囲が少なすぎた。
しかし阿久は、その腕を輝かせたまま、アルカードの頭へ向かってひた駆ける。攻撃範囲が少ないにしても、落下する鍾乳石のつららすら砕くアルカードの防壁を破ることは可能なのだ。それならば、攻撃範囲が少なくとも、大きな効果を与えられる部位――急所を狙えばいいと考えたためである。
そして阿久が狙ったのは、眼球だ。
敵から両目――視界を奪うことができれば、僥倖。もし片目しか奪えなくとも、敵が遠近感を失えば、それで上等。仮に視覚を奪うことができずとも、アルカードが痛みに呻くのであれば、それが隙になる。心臓に杭を打ち込むぐらいは、試せるだろう。
跳躍し、アルカードの目に向けてその腕を潜り込ませようとした刹那、アルカードが大きく身体をのけ反らせ、阿久の一撃を回避した。
阿久が舌を打つが、しかしこれは想定された動きでもある。先のアルカードがようやく一匹通れる程度の空洞で見せた動きも、これと同等程度の速度であった。
攻撃は失敗。すぐにこの場を離れれば、アルカードの拳は当たらない。翼を羽ばたかせ、後方へ下がろうとしたときに、阿久の上に巨大な影が落ちた。
おかしいと、阿久は思う。のけ反った状態から腕を振り回すことは可能であろうが、しかし、目に見える四本の腕は伸ばされていない。ならば一体、何が――。
ふと視線を落とすと、アルカードの股を潜るように、巨大な尾が阿久の下を抜けていた。まさかと上を見上げると、アルカードの股下を潜り、阿久の後方から迫りくる巨大な尾が目に見えた。
せまる、巨大な尾。これに当たってはまずいと、咄嗟に右腕を第二の黒い腕へと変身させて、殴りつけた。
だがやはり、圧倒的を質量を持つアルカードの尾を受け止めることは出来ず、阿久はアルカードの方向へと弾き飛ばされる。
“阿久!”
アルラの叫びから、すぐにアルカードへ視線を移すと、アルカードはのけ反った身体をバネにするように、二本の右拳を突き出した。
回避は不可能。かといって、先のように拳を打ち出すにも、体勢に無理があり過ぎる。加えて、先の一撃から受けたダメージが、未だ腕に残っており、痺れて力が入らない。
まるで羽虫でも叩き落とすかのような仕草でアルカードは拳を振るい、阿久の肉体を鍾乳洞の大地へと叩き付けた。
「――ぉ……ッ」
不幸中の幸いか、阿久の肉体に鍾乳石の切っ先が刺さることはなかったが、しかしあれほどの巨体に殴りつけられて、ただで済むはずもない。左足があり得ない方向へ捻じれて、右手は殴りつけられた衝撃から、完全に骨が砕けている。あばらもいくつか折れてしまったようで、胸部に鋭い痛みがあった。
すぐにアルラの変身能力と治癒能力を使用して、肉体を再生する。
だが阿久も、ただやられたわけではない。
アルカードの一撃が加わる刹那、右腕を変身させて全身を守るような盾を作り上げ、一撃の威力を軽減した。のみならず、そこから小さな杭を突き出して、アルカードの肉体へ侵入させ、第四真祖の忌能――体内にて生成する毒物を流し込んでいた。
果たして、効果は如何ほどか。
阿久はアルカードを見て、絶句した。阿久が打ち込んだものは、多量の即効性神経毒。少しぐらいは腕が動かなくなってもいいだろうに、アルカードはまるで何もなかったが如く、叩き落とした阿久に向けて、先の拳を振りかぶっていた。あの巨体には、毒ですらも回らないらしい。
第六は、効かず。第四も、届かず。ならば一体、この化け物を倒すには、何をすればいいというのか――。
“避けて早く!”
圧倒的な強さを誇る怪物を相手に、思わず諦めに近い気持ちを抱いてしまった精神。アルラの叫びを聞いて、阿久は再び気を引き締める。
まずは放たれた拳を回避しようと、背に生えた翼を使って大きく跳躍した。
アルカードの拳が、大地を抉る。
それはもはや、大砲の一撃にも等しい威力であった。阿久の周囲を、アルカードが巻き起こした小さな爆発によって起こる砂塵が飛び回る。小さな石でさえもが、無数の弾丸のように阿久の肉体を傷つける。
腕で頭を庇うことはしたものの、あまりの出来事に変身を行うことは出来ず、腹部にひときわ大きな欠片が刺さった。
余りの痛みに目を瞑りそうになったが、歯を食いしばり、アルカードを睨む。
やはり、アルカードの猛攻はこの程度では終わらない。己の起こした砂塵の中を突き進んで、アルカードは再度拳を放とうとしていた。
例え相手が自分より弱かろうと、慢心はなく、油断もせず、確実に獲物を狩るアルカード。悔しいが、そこに隙はない。故に阿久は、傷つきながらも逃げ回るしかなかった。
アルカードの拳が迫る中、阿久は第七の風の力を使って、己の肉体を本来あり得ない上方へと飛ばして、寸前のところでアルカードの拳を回避する。このまま再度距離を取ったところで、おそらく追撃が襲って、今度こそ詰むだけだ。ならば反撃に出るべきであると、阿久は両手をアルカードへ向けてかざす。
真祖とはいえ、アルカードも一人の吸血鬼だ。弱点は、あるハズ――。
阿久は此処に、再び第六の力を発動する。
今度は、アルカードの装甲を溶かす熱の力ではなく、アルカードの目を潰す、光の力。
「おらよぉおおッ!」
旧式のカメラがたてるようなフラッシュ音が鍾乳洞に響き渡り、阿久の手の平を中心に、膨大な光が世界を包んだ。
一瞬の後に消え去った光。視覚を取り戻した阿久の前には、阿久に近寄られまいと、がむしゃらに動くアルカードの姿。暴れるアルカードの隙間を、翼を駆使することで通過、阿久は右腕を第二の黒い腕へと変身させる。
「もう一発、持っていけ!」
その右手で、ようやくたどり着いたアルカードの顔面。それを。第二の拳で。全身全霊、あわよくばこれで終わってくれという心持ちで殴りつけた。
本来ならばそれほど大したことはないであろう、阿久の一撃。しかし、視覚を奪われているアルカードにとっては、肉体以上に、精神に大きなダメージを与えるものになるのだろう。アルカードの巨体がバランスを崩し、この空間に巨大な爆音を反響させながら、転倒した。
“好機よ、一気に攻めましょう”
「ああ、分かってる」
まずはその視覚を、確実に奪う。
右手に第七の風の力を数秒溜めて、倒れたままでもがいているアルカードの目に向けて、阿久は細く鋭い風の塊を三つ、同時に放った。最初の二発は、もがくアルカードのために外れたが、最後の三発目は目の中に吸い込まれるようにして――ガラスが割れるような音と共に、当たるハズだったものが――弾かれた。
「――は?」
思わず呆ける阿久とは対象に、先ほどまで獣のようにもがいていたアルカードは、まるで、視覚と同時に冷静さを取り戻したかのように起き上がる。その様は、これまでの獣じみたものではなく、どこか人間らしさを感じさせるものであった。
“まさか、もう堕天使を完全に取り込んで――?”
アルラが阿久にだけ聞える“心臓”の鼓動がその意を伝えた時に、『如何にも』と何者かの声が介入した気がした。
誰だ、と周囲を見渡すも、この場には阿久とアルカードを除いて他にはない。
もしやと思って阿久が立ち上がったアルカードを見ると、爬虫類じみた頭の額に当たる部分から、人の影のようなものが現れる、すると、そこに収束するかのように、アルカードの肉体はどんどんと縮んでいき、最後は、阿久と同じかそれよりも少し大きい程度の男の姿になった。
大英の人間らしき顔立ちに、漆黒のヴェールを纏った男。
四〇メートル近い爬虫類型の怪獣が、ものの数秒で人と同等の大きさの人となる。阿久も変身という物理法則を無視した忌能を持っているのだが、流石にこれには、アルカードの変身が地球の法則を遥かに超越したところにあるように感じた。
頭痛がするようで、僅かに呻いて頭を抑えた後、アルカードは静かに口を開いた。
「いや、先の一撃は効いた。けれどそれのおかげか、意識が戻ったようだ。」
まだ、頭痛が酷いがね。
そう言って、先ほどまで獣のように動いていた化け物。それが人の姿を得、途端に人のような動きで、痛むのであろう頭を抑え、首を振る。
「お前、話せるんだな」
人間らしい仕草から、そして先ほどの言葉に少しばかり驚いた阿久は、アルカードに問いかけてみた。
すると、「驚くことはない」と、アルカードが返事を返す。
そのことに、阿久は少しばかり驚いた。
「俺も元は、天使の欠片を宿した吸血鬼だ。そもそもが人間であるのだから、知性があっておかしなことはないだろう。つい先ほどまで、堕天使を喰らったせいか、理性が少しばかり飛んでいたようだがね」
アルカードの言う通りだとすると、理性が飛んだ状態になるとあの姿になり、理性が戻ると、今の人間のような姿になるとでもいうのだろうか。よく、わからない。
そんな阿久の心を読んだかのように、アルカードが続けた。
「俺の本来の姿はあちらなのだが、人としての姿の方が、己が人であることを自覚できるのでね。多少吸血鬼としての力は落ちるが、理性を保つには、こちらの方が都合がいいのだよ」
告げたアルカードの言葉に、“なるほど”とアルラは頷いた。
彼女は理解したようだったが、阿久にはよくわからない。二人の話を聞いたところ、本来の力を発揮する際には、あの怪獣のような姿になるということだろうか。
しかしだからといって、先ほど第七の風を弾かれたことに、納得はできない。
「今のは、何だ」
阿久は再度、問いを投げかける。
「はて、今のとは」
すると律儀にも、首を傾げて、彼は阿久の問いに返事をだした。
「俺が放った風を弾いた、アレだ」
アルカードは確かに、阿久の放った第七の風を、何かしらの手段によって弾いていた。それは一体、いかなる手段であったのか。それを聞いておきたかったのだが、くすりと含むように笑うばかりで、アルカードは答えない。
「己の手の内を敵に明かす馬鹿が、いるものか」
それはその通りだと、阿久は嘆息する。我ながら馬鹿なことを聞いたものである。けれど答えないアルカードの代わりに、心臓が口を開いた。
“それほど疑問に思うことはないわ。彼の手には、堕天使の大部分があるのだから”
アルラは簡単に言うけれど、阿久にはそれがどういうことなのか、いまいちわからない。確かに堕天使は、神に等しい強力な力を持つのだろう。だがだからといって、今の現象すらもが、『堕天使の力だから』と片付けられてしまっては、理解も納得もできるわけがない。
阿久の疑問に答えるように、アルラが続けた。
“堕天使とはそもそも、万能の願望器。そしてその願いを叶える器に、願いを成すべき形を与えるのは、人の願いであり欲望よ。人の願いは確かに千差万別だけれど、それでも普遍的な願望を、太古の者たちは物語の中に記している。その物語こそが、神話。そしてその普遍的な願望を叶えるものこそが、神話に登場する神々や悪魔なの。
願いを叶える際、これらのイメージがあった方が、願いを叶える側からしても、叶えられる側からしても、都合がいいし楽なのよ。
先も言ったように、堕天使は万能の願望器。であるなら、堕天使が『普遍的な願望を叶える者たち』――すなわち、神話の登場人物の集合体としてこの世に顕現することの、何処にも不思議はないわ”
ということはつまり、堕天使はありとあらゆる神話に登場する神、悪魔、天使などの集合体ということになるわけか。あまりにとんでもないスケールの話に、もはや驚きを通り越して、感心するしかない。
なるほどね、と、分かったような、分からなかったような複雑な心境で頷いた阿久と同様に、アルカードもまた、「なるほど」と頷いた。
「では今、俺は身を守るために風の神、もしくは風に関する悪魔の力を、堕天使の細胞より呼び出したというわけか。わかりやすい説明、ご苦労」
アルカードの呟きに、阿久は眉をひそめた。同様に、“心臓”もアルカードに対して不快を見せているように思う。
――アルラの声が、アルカードには聞えている。
まるで、心の中を読まれるような不快感。
阿久らが抱いた、自分へ対する不快感に気づいたのか、アルカードは、含むように口元を歪めた。それはまるで、心の中を読んでいるのではないか、という疑問を肯定するかのようなものだった。
(お前の目的は何だ)
試しに、阿久は心の中でアルカードに問うてみる。
するとアルカードは、何でもないことのように、
「おれの目的か。目的……ふむ。一言でいうならば、この世界の破壊だな」
そう、答えた。
どうやら彼は、本当に阿久の心が読めるらしい。
それを確かめたところで会話を終えてもよかったのだが、阿久の代わり、アルラが続けて問うた。
“あなたは一体何のために、世界を破壊するの?”
それは、純粋な疑問だった。
阿久には、アルラを他の者たちに渡さないという目的がある。コーネリアには、過去、アルカードが犯した罪を清算するという目的がある。おそらく他の真祖たちにも、何かしらの目的があったことだろう。
しかしアルカードの行動に、なにかしらの目的はもちろん、その欠片ですらも浮かんでこない。かといって、オオダイラやウォルターのように愉快犯にも思えない。ならば一体、彼は何のために堕天使を求めるというのだろうか。
アルラの問いに、アルカードはしばらく首を捻って考えた後に。
「分からん」
と、答えた。
――こいつ、何を言っている?
阿久とアルラ、二人の疑問ももっともだ。
世界を破壊する。そのために堕天使を求める。けれど破壊する理由がわからないなどというのは、目的も理由もなく人を殺すということだ。あまりに、危険すぎる存在だ。過去、一人の娘の父親であり、人を救おうとした研究者であったものが発するには、異常極まりない一言である。
「俺には、成さなければならない物事があった。そして、それを成すためには世界を破壊しなければならなかった。俺が世界を壊す理由といえば、それだけだ」
こいつは、変だ。こいつは、狂っている。
そもそもの目的と、それを行うための方法が、彼の中で逆になっているではないか。
思わず感じたことを言いたい気分にもなったが、もとより人の心を捨てた彼らが言えた義理でもないだろう。阿久とアルラは同じ答えを出して「変なことを聞いた」と一言告げる。
会話は、これまで。
――では、続きを始めよう。
阿久は、アルカードの体内に存在する堕天使が欲しい。
アルカードは、阿久が胸に宿す、堕天使の“心臓”が欲しい。
自分の欲を満たすには、相手を喰らう他はない。ならば、是非もなし。
すっと、アルカードの手が、阿久に向けられた。
その手、指は、空気を掴むように曲げれらて、くるりと手首を回された。それと同時に、阿久の周囲に現れた空間の歪みが、アルカードの手と連動するかのように、回転を始めた。
この場にいてはまずいと、阿久は後方へ跳躍する。すると、阿久の存在していた地点が歪み、何かが離散した。もしか、あの場に合った空気の分子などが、奇妙な形で破壊されたのかもしれなかった。
ほう、この力は変わりないようで安心する。と、試すように右手を開き、閉じた様を眺めつつ、アルカードはぼやく。
「流石に、知らない神や悪魔が多すぎるな。慣れるまでは、もう少し見知った天使の力を借り受けることにしよう」
先の力は、空間を操る神か、もしくは悪魔の力なのだろうか。それとも、アルカード本来が持ち得る吸血鬼としての忌能なのだろうか。わからないが、アルカードの口ぶりからすると、どうやら本来の忌能のようだが。
再び、アルカードが手を阿久へと向ける。すると、掌には奇妙な六芒星が浮かび上がり、それを中心として、見たこともない魔法陣が展開される。そしてその魔方陣の中心からは、奇妙な筒状のものが現れた。
阿久は、アレを見たことはない。けれども、アレに近いものを知っている。
教会最強の機構――《聖痕》。
いつか、大城玄道が第七真祖ウォルターに向けて放った巨大な杭に、限りなく近いものであることが分かった。
アレに当たっては、拙い。阿久の脳が警鐘を鳴らす。そして阿久の“心臓”もまた、並みならぬ鼓動をもって危機を伝える。
教会の改良を受けてはいるものの、アレもまた堕天使の欠片の一つ。どうして教会の機構をアルカードが持っているのか知る由もないが、おそらく聖痕所有者から奪ったものだろうと推測する。
聖痕は忌能を無効化する。のみならず、対吸血鬼に対して有効的な攻撃を行う。当たればおそらく、敗北は免れない。
「――くっそォッ!」
アルカードの手の平に展開した魔法陣。それの意味するところを悟った阿久は、即座に後方へ跳躍し、アルカードから離れようと全力で飛行する。数百メートル以上の距離を取ったところで一度背後を振り向いてみると、アルカードは口元を歪め、まるで阿久の行動を無駄だと嘲笑うばかりであった。
彼の手の平、展開された魔法陣から現れた筒状のものから、僅かに熱のようなものが漏れている。
おそらくアレは、炎に関する天使の力だ。
冗談ではないと、阿久は思う。
吸血種の多くには、本来弱点として在るべきもの、いわゆる吸血鬼に設定された弱点がまばらになっている。アルラの場合、弱点はそれほど多くはない。太陽の明かりは苦手だが、耐えられないほどではない。また、阿久の影に潜めば、太陽の日など、どうということはなかった。十字、聖水にはあまり近寄ろうとしないが、人間がゴキブリなどの害虫を前にするとき同様に、それらに対する生理的嫌悪のようなものがあるだけらしい。
――けれど。彼女は。炎にだけは、耐えられない。
過去、阿久が火を使って料理した際に、炎の音、炎の熱、炎の光、それら総てに並みならぬ嫌悪を催し、冷静を保てなかったことがある。以降、炎を使う際はアルラが台所から離れた時のみという暗黙のルールが、二人の間で作られたほどだ。
調理用の炎だけで、既にそれなのだ。身を焦がすほどの炎が放たれては、彼女はどうなってしまうことか。
「《咎人断罪》」
焦る阿久、そしてアルラとは対象に、アルカードは静かに、そして冷静に、言葉を紡いだ。彼の声は小さなモノであるハズなのに、この広く静かな二人だけの空間では、嫌に大きく響いた。
来る。炎が、総ての咎人を燃やしつくす断罪の炎が、来る。
「アルラァアアアッ!」
獣の咆哮が如くに叫ぶ阿久。その阿久に呼応するように、アルカードの方向へと振り返り、突き出した右腕が変身を開始する。炎の音を聞かないように、炎の光を目に入れないように、そして炎の熱を感じないために、数十、数百にも渡るほど、全身を包み込むような防壁を展開した。
それでもきっと、まだ足りない。
あの炎は、総てを貫いて全身を燃やしつくす――。
アルカードとの戦闘は、これまでも危機の繰り返しであったが、今回ほど絶体絶命とまで呼べる危機はないだろう。もし炎のためにアルラの精神が正常を保てなくなってしまっては、この死闘、敗北を期す。




