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悪なるミタマ  作者: 九尾
第一幕 序章編
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《吸血鬼喰い》

「やぁ」


 その時は、唐突に訪れた。

 やはり近道だからと、細い道を歩く阿久。後ろをついていくかえで。

 常人ならば避けていくであろうその正面に立ちふさがったのは、制服の少年だった。


「通行の邪魔だ、退いてくれ」


 阿久は、不快感を隠すこともなく、目を細めて微笑む少年に、一言告げた。

 その表情は、昨日、男たちに向けたものと同じもの。

 ぎゅっと、阿久は自分の手を強く握る存在を意識した。

 かえでが、阿久の手を震えながら握っていた。


「どうし――」


 どうした。

 阿久が言おうとした言葉が、途切れた。

 そして、気付けば路地裏のゴミ袋の中に埋もれていた。

 痛い。肋骨がいくつか折れたような気がする。呼吸が上手くできない。先ほどまで存在していた場所から数メートルも離れているというのは、一体どういうことか。

 痛む頭を働かせて現状を理解しようとした阿久に、少年の声がかかる。


「彼女にようやく会えたんだ。キミこそ、ぼくと南さんの邪魔をしないでくれ」


 かえでが阿久を一瞥し、心配そうな顔をするも、少年の視線を感じて一歩下がった。


「そんなに怖がらないでくれよ、南さん。ぼくはね、牧村健二はね、これまでずっと。キミに言いたいことがあったんだ」


 すっと、少年――牧村は、右手をかえでに差し出した。


「キミのことが好きだ、南さん。どうか、ぼくと付き合って欲しい」


 ――意味が、わからなかった。

 どうして、今告白されているのか。どうして、彼が此処に居るのか。どうして、阿久が彼に殴り飛ばされたのか。

 わからない、わからない、わからない。

 まるでかえでは、意味がわからなかった。


「南さん。キミは、綺麗な人だ。どうか、そのまま綺麗なキミでいてほしい。だから、大人しくぼくに血を吸われてくれ。キミならきっと、ぼくと同じモノになれる」


 なにを言っているのか、おそらくかえでは理解していなかっただろう。

 けれど、「あなたと、同じモノ……?」と、親の言葉を反復する童子のように聞き返す。


「そうさ。ぼくと同じ存在になるんだ。不死身、不老不死。人の血を吸い未来永劫生きながらえる者。そう――吸血鬼に」


 かえでの脳が、言葉の理解を拒む。

 吸血鬼という、異常なワード。どうしてそのワードを此処で耳にしているのか。状況の判断に、脳が追いつかないでいるようだった。

 けれどそんなかえでの様子を意に介さないまま、牧村は恍惚と語り始める。


「ああ、そうそう。もう知っているかもしれないれど、一応伝えておくよ。キミは、家族が大好きだったよね。でも、家族なんて枷があったら、キミはぼくと同じ闇の永遠には来ないだろう。だから……さ。

 ――壊したよ、その枷を。キミを縛る不自由を、ぼくが代わりに壊してあげた。ああ、つまり。家族全員。キミと偶然出会ったあの夜に――殺しておいたよ」


 にこりと、牧村は笑った。

 どうだい、嬉しいかい。キミのために、舞台は整えておいたんだ。

 彼は本気で、かえでが自由になったと信じている。彼は本気で、かえでが自分に付いてきてくれると信じている。彼は、本気で信じている。

 この殺戮が、かえでのためであったと。

 ――狂っている。

 彼は、狂っている。どうしようもなく。救いがないほどに、狂っている。

 かえでは嫌でも、あの日の情景を思い出した。嫌でも、現実を直視した。

 南かえでの家族はもう、いない。帰るべき場所はもう、どこにもない。奪われたのだ、目の前の少年の手によって。理不尽に。


「……いや」


 かえでが、両腕で自分の身体を抱きしめ、一歩下がった。


「いや。嘘……嘘だよ。お父さんも、お母さんも、和希(かずき)も、死んでなんか……」


 かえでのその声は、恐怖と現実を信じたくない一心に震えていた。


 その様を見て、何故だろう。阿久は、苛立ちを感じた。

 ――ああ、ムカつくな。

 阿久は思考の定まらない頭で考える。

 愛を唄う牧村。けれどその本質は、愛ではない。誰かを愛する自分に酔っているだけだ。

 彼は自分勝手な快楽に身を委ね、南かえでという人間の『大切なもの』を破壊した。ああ確かに、自分は、最低最悪な人間だ。自覚もある。だが、そんなことは関係ない。どうでもいいことだ。

 ――ドクン。

 阿久の“心臓”が、跳ねた。

 怒りが、胸に湧く。

 人の絶望を、笑うな。人の悲しみを、笑うな。

 自分勝手に生きるのはいい。自分の思うように生きるのもいい。だが、上から見下ろしたその目は。その目だけは――。

 ――どうしようもなく、腹が立つ。

 

「キミの家族はもう、いないんだよ」


 震えるかえでに手を伸ばしたまま、牧村は一歩、進む。


「さあ、南さん――いや、かえで。ぼくと一緒に永遠の愛を――」


 今度は、牧村の言葉が止まった。

 そのこめかみには、とうに風化が進み折れ曲がった換気扇のフィンが、頭蓋を切り裂いて食い込んでいた。


「知ってるか、ガキ。そういうの、世間一般では余計なお世話って言うらしいぜ」


 久世原阿久が、フィンで牧村を殴りつけていたようだった。

 牧村の裂けた頭から、血が、だくだくと流れる。

 普通の人間であれば、激痛と衝撃に倒れこんでいただろう。が、相手は話を聞く限り、人ならざる化け物だ。この程度では倒れないと、阿久は踏んでいた。反撃が、来る。

 わかっていたが、阿久には先ほど吹き飛ばされたダメージがまだ残っている。すぐには動けない。それでも、動かずにはいられなかった。この外道に、一撃をくれずにはいられなかった。


「お前……」


 ギョロリと、牧村の赤い視線が阿久を刺す。


「ぼくとかえでの邪魔をしないでくれって、言ったよな」


「邪魔をしないと言った覚えはないが」


「だったら二度と、邪魔できない身体にしてやるよォオ――ッ!」


 激昂した牧村の手刀が。


「――が、はッ」


 阿久の胸へと、突き刺さる。

 背後にあった壁へと押し付けられ、頭を強打した。その手刀はブチブチと音を立て、阿久の体内へと潜り込もうとする。

 速かった。目で追えたにしても、とても、並みの人の反射速度で対処できるものではない。尤も、今の阿久には、人並みの一撃であっても、回避できたかどうかは怪しいところであるが。


「どうだ、痛いか? もう二度と、ぼくとかえでの邪魔をしないと誓うか?」


 ぐりぐりと、片腕で傷口を抉られる。残る手で殴られて、背後の壁に後頭部をぶつけた。

 牧村の、目。見下した眼。汚らしい虫でも見るかのような視線。

 ――それが、どうしようもなく、イラつくんだよ。

 返事の代わりに、阿久は牧村の顔に向かって唾を吐き捨てた。

 時が、止まった。

 牧村はどうやら、何をされたのか理解できなかったらしい。しかし一秒経つごとに状況を理解し始めたのか、わなわなと震え始めた。そして。

 プツリと、牧村の何かが切れた音がした。


「やったなァこの愚図がッ! たかが家畜の分際で! お前ら人間はすべからくぼくらの食物だ。喰い潰されるだけの存在なんだ。それが、唾を! よりにもよってこのぼくに! 吐きかけやがった! 人間風情が、何様のつもりだッ! 死ね! 死ね死ね! その汚らしい血をまき散らして死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね――」


 牧村が阿久の胸に突き立てた手刀を、削岩機のように右へ左へと回し、阿久の体内へと手刀を掘り進める。


「やめて! 阿久が死んじゃう、やめて!」


 ようやく状況を理解してきたらしいかえでの制止も耳に入っていない様子で、牧村は「死ね」と連呼し、手刀を回す。


「死ね家畜! その心臓を抉り取って、お前の目の前で握りつぶしてやる! 感謝しろよ。人間は首を切られても一分は生きられるらしいからな、自分の心臓が破裂する様を見て死ぬ人間なんて、この世界中探し回ったって数えるほどしかいないだろう!」


「が、ぐ――」


 抉れる。肉が削げる。穴が空く。

 もし心臓を握りつぶされなかったとしても、このまま手刀を引き抜かれれば、きっと普通の人間は死ぬだろう。

 普通の人間ならば。

 ――そう、普通の人間ならば。


「――お前、心臓――」


 牧村は確かに、阿久の心臓を掴もうとした。

 素手でも人間の心臓を抉り出すことなど、牧村には造作もないことだろう。それだけの力の差が、吸血鬼と人間の間には存在する。なのに。心臓を掴めない。

 本来あるべきものが、本来あるべき場所に、存在しない。

 この男には、久世原阿久には。――心臓が。


「何故ッ」


 腕を引き抜き、数歩後ろに下がった牧村。此処に来て初めて、その瞳に畏怖が浮かぶ。


「どうしてお前には、心臓が無いんだッ!」


 愉悦の表情から恐怖に一転した牧村に、阿久はニヤリと笑みで応えた。


「なァ、ガキ。この間、高校生の話をたまたま聞いたんだが、お前は知っているか。――《吸血鬼喰い(クルースニク)》の噂、ってやつを」


「死ね! 死ねぇええええああああああああああああアアアアア!」


 もはや何も聞こえてはいないのか、それとも聞えている上で無視し、狂ったように叫び散らしたのか。牧村は、全霊を込めて阿久に殴りかかった。

 ――瞬間。

 ゆらりと、阿久の背後にある闇が蠢いた。その様はさながら、這い寄る混沌を思わせる。久世原阿久という男の影に、不気味に光るものがあった。

 その光は邪悪。その光は悪意の権化。その光は混沌。総ての色を混ぜ込んだような、生理的嫌悪を催すような、異端の光。

 ぬるりと、泥沼を掻き雑ぜたように澱んだ波紋が一つ。

 波紋が起きた阿久の影から、骨のような、白く細いものが一つ。二つ、三つ、四つ、――そして最後に、もう一つ。

 それは、指。細く綺麗な、白い指。

 指に続いて掌が、手首が、細腕が。現れ、伸びる。

 伸びて、牧村の拳を包み込む。

 殴りかかった拳を止められたのだと理解するには、少し時間がかかった。


「これ以上、阿久に触れさせるわけにはいかないの」


 阿久の影から現れた、骨のように白い手の《主》は、そこから這い上がるように、生まれたての肉体を外気にさらす。

 どぷりと闇から抜け出して、最後の髪が、空気に触れる。

 黒い髪、黒い服。そして雪のように白い肌。


「遅ェ。遅刻だ」


「こうして間に合ったのだから、不問に処してくれると嬉しいわ」


 阿久の影から現れた女――アルラ。

 今更阿久は、「お前はアパートで寝ていたはずだろう、一体どこから現れた」などと、野暮なことは言わない。

 彼女が『何』なのか、知っている。自分が『何』なのか、知っている。

 であれば。するべきことを、するだけだ。


「始めるぞ、アルラ」


 阿久の言葉と同時、アルラの肉体が阿久に溶けていく。阿久の影ではなく、その肉体に。

 やがて、完全に阿久の内にアルラの姿は消えた。自然と、阿久の怪我が治癒していく。

 千切れた筋肉が紐のように伸びてそれぞれが繋がり、まるで怪我をしたときの逆再生のように元の姿を形作っていく。骨すらも例外でなく、折れた部分は修復され、切れた口の皮も治り、最後に、心臓近くまで開いていた穴が塞がった。

 この治癒力は、吸血種である自分を優に上回る――牧村はそれを確信した。

 それだけでなく、やがて肉体にも変化が始まった。

 瞳は、赤く。

 爪牙(そうが)は、鋭く。

 その姿はまさしく――吸血鬼(ヴァンパイア)


「お前のような外道には、俺のような外道の制裁が相応しい。――狂い哭き叫べよ吸血鬼、食刑(しょけい)の時間だ」


 彼は、吸血鬼喰い(クルースニク)。吸血鬼を喰らうもの。夜を支配する魔人を、上から踏みつけるもの。

 ――ドクン。

 阿久の肉体に、明確な鼓動が生まれる。感情が生まれる。全身に血液を巡らせ、冷えた心を熱くする。これが、“心臓”。これが、生の“鼓動”。ああ、生きている。自分は今、此処にいる。確かに此処に、存在している。

 この瞬間のために、久世原阿久は、生きている。


「所詮は同じ吸血鬼だろ! ぼくが負ける道理など――」


 牧村が叫んだ。阿久に向けて、一度は止められた拳を振おうとして。


「遅い」


 振るう前に、阿久の拳が、牧村の顔面に食い込んでいた。

 牧村は首が吹き飛ぶほどの衝撃を受けたが、辛うじての所で繋がっている。しかし、その打撃の威力を殺せたわけではない。易々と吹き飛び、壁に叩き付けられ、千切れかけた首元から、叩き付けられて破れた皮膚から、びしゃりと汚い血液をまき散らす。

 くぐもった声をあげ、落下した牧村に、阿久は首を回してバキバキ音を鳴らしながら、平然と歩み寄る。


「ええっと、なんだっけ。『たかが家畜の分際で』、『お前らは喰い潰されるだけの存在だ』……だったか。ああ、あと『お前何様だ』ってのもあったけ」


 自分の正面に立つ阿久。それを見て、ひぃと、牧村は小さな悲鳴を漏らした。


「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ、お坊ちゃま。てめぇら吸血鬼は、俺にとっての家畜だ。てめぇら吸血鬼は、俺に喰い潰されるだけの存在だ。

 ――てめぇこそ一体何様のつもりだカス。お前、喧嘩売る相手間違えたな」


 ――恐怖。

 牧村の心を、恐怖が渦巻いた。

 先に浮かべていた薄ら笑いの影は、今ではもうどこにもない。女を手に入れるはずだった喜びは、もう欠片もない。

 捕食するハズだった。自分が、世界の頂点に立ったのだと思っていた。

 ――1ヶ月前、自分を吸い殺したあの子供を恨んだ。自分をゴミのように扱ったあの子供を恨んだ。死んだと、思った。なのに何故か、牧村は息を吹き返した。人としてではなく、吸血鬼として。

 だから今度は、自分が喰ってやろうと思った。捕食者として、意趣返しをしてやろうと思った。人の上に立つモノとして、君臨してやろうと思った。自分は選ばれた。吸血鬼たる資格を得、そして吸血鬼として選ばれたのだ。選ばれし者となったのだ。そして超越した。人を越えた、ハズなのに。

 なのに。――なのに。


「どうしてお前のようなヤツが現れる! どうしてぼくの邪魔をする! どうしてぼくばかりが、こんな目に――!」


 牧村のミスは、あげてみればキリがない。

 吸血鬼となった自分の力を過信したこと。相手を見誤ったこと。自分が吸血鬼であると隠す努力を怠ったこと。南かえでの家族を、自分の都合のためだけに殺し、それを隠蔽しようとしなかったこと。そしてなにより、他者を見下す視線を向けたこと。

 ――久世原阿久を、怒らせたこと。

 だから、邪悪(あく)に目を付けられる。

 悪というものは、より純度の高い信念、目的を持つものほど力を増す。長いものに巻かれるという特徴は、他の人間関係に比べてもより顕著になる。

 彼は確かに悪と呼べる存在だ。自分の都合で他者を害したのだから。

 だが、小さすぎた。真に悪で在るとするならば、心底悪に徹するべきだったのだ。

 悪になるには、おそらく、狡猾さが足りなかった。真に悪足りえるものは、そもそも相手に自分が悪であると悟られないようにするべきだ。敵をつくらず、恨まれず、しかし確実に目的を果たす者になるべきなのだ。

 例え、影でどれほど悪逆非道の限りを尽くしていたとしても。

 もっとも阿久は、敵を作らない、などとは考えないが。

 彼にとって狡猾さなどは、心底どうでもいいものだ。正義の道も道徳も、皆すべからく無用の産物、()きたい者が()けばいい。

 久世原阿久には、譲れない信念がある。譲れない目的がある。そのためならば、他の総てを捨てられる。

 利用できるならば利用する。邪魔をするなら喰い殺す。

 とうに腐りきった、我欲に生きる魂は。

 ――なんと悪なる(たましい)か。


「目先の利益に囚われ、物事の全容が見えていなかった。それが、てめぇの敗因だ」


 情報はそこらに転がっていた。一時の快楽に身を任せるのではなく、彼――牧村健二は、それを掴み取り、どう生きるかを考えるべきであった。

 自分がすごい。自分は特別だ。人より少しばかり優位にたったからと、自惚れた。

 少し考えれば、この世界で吸血鬼という存在が姿を隠している理由がわかる筈である。なのに彼は、考えようともしなかった。己よりも強いものの存在を否定した。

 だから、子悪党止まりだったのだ。だから、負けるのだ。

 眼前の、この捕食者(じゃあく)に。

 ――悪魔だ。

 誰かが、阿久を見て呟いた。

 それは少年か、それとも少女か。

 どちらでもかまわない。ああ、その通り。此処にいるのは悪魔だ。人ならざる化け物だ。

 人の心などというものは、とうの昔に腐敗した。


「終わりだな」


 阿久の右腕が、刺突型の刃物の形状へと変化した。


「おい、おい! なんだよその手は! なんで変わるんだ! なんだよそれ、なんだよ! なんなんだよ!」


 それはなんだと、数えるのも億劫なほど問いを投げられ、阿久は自分の右腕を見た。

 鋭い槍のような刃だ。とても鋭い。人間は愚か、例え吸血鬼の強化された肉体であろうとも、易々と刺し殺せるだろう。感想を抱くとしたら、それだけだ。疑問に思うことなど、何もない。

 ただ一つ、思うことがあるならば。

 ――彼、《忌能(カース)》すら持たない下等種のようね。もっとも、通常種にしては強い方だとは思うけれど。

 阿久の代わりに、“心臓(アルラ)”が代弁した。

 真祖にでも吸われたかしら。と、“心臓”は付け足す。


「どちらにしても同じだ。小物はあくまで小物。所詮は雑魚に代わりはない」


 呟いて、ためらうことなく、阿久は右腕を牧村に差し込んだ。

 月の光の中。血が、舞った。

 肉をかき分け、骨を切り裂き。心臓へ、到達する感触。

 刃へと変化した右腕を再び元来の右手へ戻し、牧村の心臓を掴み。そして、引き抜いた。

 命の源泉とも言うべき真紅が、放物線を描いて空を舞う。

 どくどくと脈打つ心臓。これ単体で生命を思わせる臓器を、阿久はその手に握っている。


「や、やめ……」


 牧村は、自分自身の心臓を見た。

 おそらくそれは、初めての経験だったことだろう。

 返してくれ、とでもいいたいのか。声にならない声をあげて、牧村は心臓に向けて手を伸ばす。


「じゃあな。次の人生があるなら、お前は真面目に生きるといい」


 阿久は右手のひらに口構築、そしてその心臓を握り潰すが如くに――喰らう。

 悲鳴はない。如何に不死身、不老不死を誇る吸血鬼といえど、弱点はある。

 銀、聖水、日光、十字架。そして――心臓。


「が――か、ァ……」


 牧原が掠れる声をひねり出し、奪われた心臓を取り戻そうと手を伸ばす。しかし、その心臓は既に――。


「不味いな。下衆の味だ」


 ――悪魔の腹の中に在る。

 自らの身体からあふれ出る鮮血のシャワーを浴びて、牧村は息絶えた。

 心臓に向けて伸ばした手に力が抜けて、アスファルトに落ちる。落ちた瞬間、白い灰となって崩れた。

 やがて彼の肉体も、血液も、その総てが、灰となって崩れ落ちる。死体は、残らない。その灰ですら風に吹かれて、空気に溶けて、消えていく。

 まるで、牧村健二と名乗った吸血鬼が存在しなかったかのように。


「吸血鬼の存在がこの世界に広まっていないのは、これが理由だ」


 腕を元に戻した阿久が、腰を抜かして失禁していた少女を見る。

 阿久の視線を感じ、少女――南かえではびくりと身体を震わせた。

 阿久が彼女に向けて歩を踏み出すと、かえでは瞳孔の開いた瞳で阿久を見た。

 その瞳には、「あたしも殺すの?」という意が込められているように思う。

 かえでの前にしゃがみこみ、阿久は視線を合わせた。


「俺が怖いか」


 かえでは、何も答えない。

 かえでに背を向け、その場を去ろうとした時だった。

 くいと、シャツが引かれた。

 何かと思えば、かえでが端を掴んでいた。


「置いて、行かないで……」


「……なら、帰るか」


 こくりと、かえでは頷いた。


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