挿入・大英 異国のサムライ
電球が壊れた、暗い廊下。ぴちゃぴちゃと水のようなものが滴る音と、そして、白い廊下を赤く染め上げる、誰かの血液。
男が、ずるりと倒れこむ使徒から、背後に駆けつけた新たな使徒に目を向け、「ほう」と笑みを見せた。
「ようやく来たか。やはりこの場において……否、この世界において、俺を止められるのはお前だけだ――《第一真祖》」
がりがりと、手に持った大剣を引きずって、彼女――《第一真祖》と呼ばれた使徒は、その瞳を真紅に輝かせ、男を見た。
「わたしの名はコーネリア・ルートレッジ。教会最強の使徒にして、白円卓第一位。かような名は、名乗ってはおりません」
そういって、コーネリアは視線を男の後ろに向ける。そこには、口から大量の血を流し、壁にもたれ掛って動かない、ソフィア・ラドクリフの姿があった。
コーネリアの瞳に、動揺はない。悲しみもない。その代わり、小さな炎が燃えていた。
「貴方が、彼女たちを」
コーネリアは暗に問う。
ああ。嘆息するように目線を少し後ろに向けて、動かないソフィアを一瞥した後、口を三日月のように歪ませて、男は言った。
「心臓を抉り出してやったら、動かなくなったんだ。脆いなぁ、人間というものは」
男が持ち上げた右手には、まだドクドクと動く心臓がある。おそらくは、ソフィアのモノた。それを。前に突き出すように。コーネリアの目の前で。ぶちゅりと――潰した。
「――ッ!」
コーネリアの、足元。床が、爆ぜる。
コーネリアの振るう『ラ=ピュセル』の横一閃が、男の背後にある壁を、すらりと両断する。しかし、男の肉体は未だ健在。彼はどうやら身体をかがめてその一閃を回避したようで、姿勢を低くしたまま、コーネリアに接近する。
「悲しいな、悲しいな。久々の再会に、まさか殺意を向けられるとは。育て方を間違えたかな」
剣を振るっていては間に合わぬ。そう咄嗟に判断したコーネリアは、『ラ=ピュセル』から手を離し、既に腹部にまで潜り込んでいた男の頭部を掴んで動きを止めようと、両手で挟み込もうとして――。
「これは――」
何かの“壁”らしきものに、阻まれた。
これが、この男の《忌能》か。
気付いた時には既に遅く、男の拳がコーネリアの腹部に計三発、叩き込まれる。
余りの衝撃に、コーネリアの肺に存在していた空気が残らず体内から吐き出され、呼吸が止まる。意識が遠のく。その隙をついて、最後に一撃。コーネリアの心臓目掛けて手刀が突き出された。
ザクリとコーネリアの胸を裂くも、避けられたために心臓には至らない。舌打ちして、男はコーネリアの頭部を蹴りつけると、彼女の肉体は後方へと飛ばされる。
空中を浮遊する間に意識をはっきりとさせたコーネリアは、即座に両手両足を広げてバランスを保ち、白い廊下に着地する。
「――わたしが吸血鬼から一撃を貰うなどとは、実に八〇年ぶり……でしょうか。第七ほどの真祖とも渡り合えるソフィアを即座に倒し、また、わたしを引かせるとは。あなたは一体、何者ですか」
コーネリアの問いに。
「俺を忘れてしまったのか。悲しいな、シャルロット」
男の言葉に、コーネリアは目を見開く。
そして、総てを理解する。この男が何なのか。どうして、この男が此処に居るのか。そして、なにより。どうしてこの男が、これほどまでに強いのか。
「あなた――《真祖》かッ!」
――《真祖》。
数字のつかない真祖は、真祖の中でも第零番。数字持ちの真祖とはありとあらゆる意味で別存在。規格外。始まりの始祖であり、諸悪の根源。究極存在。
すなわち――真祖・アルカード。
教会がおおよそ八〇年前に封印した、最恐の吸血鬼。それが、此処に居る。
「あなたは一体、どうやって……」
アルカードと呼ばれた男は、さほど疑問でもあるまいと言った様子で、フンと鼻で笑い、ちらりとコーネリアの両手に刻まれた六芒星に目を向ける。
「流石の《聖痕》も、俺の出現は予知できなかったか。――いや、それとも。聞いたことしか答えてくれないのか、お前の《未来予知》は」
白円卓第一位、コーネリア・ルートレッジの聖痕の能力は、未来予知を中心とした智識を与える力である。これを用いて、コーネリアはかつて、真祖アルカードを封印することに成功した。しかし、それは未来予知を行い、彼の裏をかくことができたからである。この状況に置いて裏をかくなどは不可能であるし、なにより《未来予知》のことも知られてしまっては、その効果が薄まるというのも道理。
なにしろ相手は真祖。他の真祖である第九から第二までの真祖と比べても圧倒的に力を突き放す第一真祖たるコーネリア・ルートレッジからしてみても、規格外の存在だ。勝ち目など、初めから存在しない。
けれど、今の彼は完全ではない。そして、コーネリアの目的はアルカードを殺すこと。であれば、此処で殺さずどこで殺すという。まさしく、絶好の好機。
「此処であったが最後です。――あなたを殺すために、わたしは生かされたのだから」
両手にある聖痕を輝かせて、コーネリアは再度、アルカードに向かって駆ける。
アルカードが手を伸ばすと、ぐにゃりと、蜃気楼のように空間が曲がった。これこそは、彼の忌能。空間を捻じ曲げる能力である。この能力は、全真祖の中でも最強。攻防に優れ、また如何なる敵も寄せ付けず、そして触れずして敵を排除する。
幻術などというまやかしではなく、蜘蛛などという生物の力を得るわけでもなく、風の完全上位に当たり、熱や光すらも捻じ曲げて、炎も届かず、敵が軍勢であろうとものともせず、大地を掘り進もうと意味がなく、魔眼すらも屈折によって無効化し、そして、金属の質量変化という物理現象を無視した異能ですら霞んで見える究極の力。
「――空間、湾曲」
腕を捻じるように、そして、己が視界から右手を通して見える空間を包み込むようにして、アルカードは静かに右手を握る。それに連動するかのように、ぐにゃりと空間が折れ曲がり、彼の腕が動くと同様に床は抉れ、天井は削れて、小さな球体が生み出される。
その球体に触れたが最後、総ては捻じり曲がるだろう。
だからコーネリアも、触れようとはしない。かわり、壁を走り、天井を蹴りつけ、器用に球体を回避して、アルカードに向かう。
「ほう」
コーネリアの縦横無尽に動き回る様を見て感心したのか、少しばかり表情を愉快気に口を歪めたアルカードは、試すように、左手をコーネリアに向けた。
するとコーネリアが駆けた跡、コーネリアの進行方向、コーネリアの周囲に小さくも無数の蜃気楼が現れる。これに触れてもいけないと知っていたコーネリアは、やはり縦横無尽に廊下を駆け、アルカードへと突き進む。
背後では壁が爆散し、頭の上の天井が豆腐のように抉れても構わない。ただひたすらに、怨敵を殺すためだけに、使命に燃える少女はアルカードに拳を叩き込もうとして。
それでも、アルカードには遠く及ばない。
コーネリアが拳を振った直後に、アルカードの拳が振るわれた。
コーネリアの方が先に動いていた。残り、あとコンマ一秒でもあれば、アルカードに攻撃が当たるであろうその刹那、動いたアルカードの振るった拳によって、その華奢な肉体が跳ね飛ばされた。
激痛よりも、身体が思うようにいかないのが問題だった、痛みはそれほど感じない。けれど、身体が動かないのだ。
少しずつ身体の麻痺は溶けていくものの、今の一撃で、軽い脳震盪を起こしたらしい。立ち上がろうとしたコーネリアの肉体が、意志と反して膝をつく。
「遅い。のみならず、脆い。脆いな、シャルロット。そこな娘の方が、まだ楽しみ甲斐があった――」
先ほど殺した女の方に視線を向けつつ、そこまで言って、彼は気付く。
アルカードの背後には、あの女の死体がない。確かに、殺した。その心臓を抉り取り、握りつぶした。そこまでされれば、いくら吸血鬼でも復活は不可能だ。何故なら、吸血鬼に異能をもたらす《天使の欠片》は、その心臓に在るのだから。なのに、どうして、その女が目の前に立っている――。
「油断したわね、化け物」
女――ソフィア・ラドクリフが、コーネリアの落とした『ラ=ピュセル』を手に持ち、アルカードに向けて突き刺したようだった。ずるりと、《聖具》がアルカードの腹部に潜り込む。まだ、心臓を破壊されてはいない。故に、アルカードにとって、この程度の傷は些細なものだ。
しかし、この女がまだ生きている。そして、己に牙を剥いている。その事実が、アルカードには許容できなかった。
注意がコーネリアから完全にソフィアに向けられて、先に空間を湾曲させて創り出した球体が離散する。
「お前、どうして生きている。ただの人間が心臓を奪われ、生きているハズがない」
些細とはいえ傷を受けたアルカードは、何故だと視線を彷徨わせ、やがて留まった視線の先が、ソフィアの腕に刻まれた聖痕。
「――なるほど、貴様の“心臓”はそれか」
ニヤリと、笑った。
恐怖に、ソフィアの身体が竦んだ。
ソフィア・ラドクリフという使徒の生涯において、これまで、吸血鬼相手に恐怖したことはあれど、戦場の緊張や恐怖によって体が動かなかったことなどは、一度もなかった。それはおそらく、白円卓の家系として育ち、常に死と隣り合わせの身内の仕事を見てきたからであろう。いつか死ぬことは分かっているけれど、死を越えてでも成したいことがあった。
だから、死など怖くないハズなのに。
ソフィアは、恐怖した。
この男の、得体の知れない闇。圧倒的力の差。そして、なにより。
「であれば――その“心臓”を、喰らう」
己を捕食するという、生態系における上位種より向けられる視線。殺意でなく、敵意でなく、ただ、餌としてのみ認識した存在へ向けるその視線。障害とすら思われず、圧倒的力によって踏みつけられ、喰い潰される様を彷彿とさせるには、十分すぎる代物であった。
「下がりなさい、ソフィアッ!」
コーネリアの声によって我に返り、退こうとするも、遅かった。
――バクリと。
まるで、蟷螂が蝶を掴むが如く。
まるで、まるで――獅子が、獲物の肉を喰らうが如く。
ソフィアの左腕、聖痕の刻み付けられていた左腕を、その牙で。噛み付き、皮膚を破り、肉を切り、骨を断ち。
――その腕を、喰らった。
「――――ッ!」
ぶしゃりと、左手首より下を失ったソフィアの腕から血液が滝のように零れだし、次第に状況を理解したソフィアに、圧倒的恐怖と激痛が訪れる。
思わず絶叫したソフィアの心臓に、アルカードは手刀を突き刺した。ゴポリと吐血するソフィアを突き刺したままの右腕で持ち上げて、コーネリアの方向へ放り投げる。
どしゃりと大きく音をたてて、水風船でも詰まった人形のように、ソフィアはコーネリアの背後に落ちた。
そこには、ようやく駆け付けた、大城玄道とエリアス・リッケンバッカー、そして、残る使徒たちが立っていた。
「お前――アルカードォォォォッ!!」
辿り着いた彼らに気付くこともなく、コーネリアが激昂し、アルカードへ走る。コーネリアの怒りを見て尚、余裕の笑みを崩さないまま、アルカードはそれに難なく応戦する。しかし、大城玄道らの目には、そんな状況は映らない。
目の前に人形のように打ち捨てられた見知った女が、血を流して倒れている。その事実だけが、彼らの状況判断力を鈍らせる。血を吹きだし、胸に大穴を空けた女――ソフィアしか、その眼には映っていなかった。
「ソフィア……?」
小声で呟き、千鳥足でふらふらと、引き寄せられるように進んだ玄道が、ソフィアの残る右手を取り、その身体を抱き起す。彼女の瞳を見ると、焦点は定まっていないものの、確かに玄道の瞳を捉えていた。
パクパクと、ソフィアは口を動かす。
その胸は貫かれている。心臓は破壊され、呼吸器官すらも潰されているだろう。それでも必死で声を出そうと、ソフィアは空気を口へ押し出そうとするものだから、空気の代わり、器官へ入り込んだ血液が大量に零れた。
ヒューヒューと笛のような音を鳴らして、ソフィアは告げる。
「ごめ――、げ……ど。はんに、まえ……なっ、ちゃ、た……」
ごめんね、玄道。わたしは、半人前になっちゃった。
玄道には、確かにソフィアがそう言ったように聞き取れた。
「馬鹿野郎、何言ってんだ……まだ死んでないだろ、まだ生きてるだろ!」
玄道がソフィアの腕を取って必死で呼びかけても、ソフィアは首を振るばかりだ。自分はもう、ダメだと知っている。助からないのだと、どこか客観的に物事を眺めるような目をしていた。
「お前、俺に半人前になるなって言っただろ! だったらお前も、半人前になったらダメだろうが!」
何度も玄道が呼びかける中で、使徒たちをかき分けて、ソフィアを囲む半円の外から、北条久遠が飛び出した。
「ソフィア! ソフィア!」
玄道の隣に駆け寄った彼女も、玄道の握った右手を共に握りしめて、ソフィアに語り掛ける。
「死なないでください、ソフィア!」
久遠は、敵が目の前にいることも忘れて、「死なないで」と、何度も、何度も呼びかける。
「ごめ、ね……ごは……いけ、ない……」
三人で、またご飯に行くと言った。玄道と、久遠と、ソフィアで。
玄道は、ソフィアに惹かれていて。そして、ソフィアも玄道に惹かれていて。年は二〇も離れていないけれど、久遠は、そんな二人の子供のように歩くのが好きだった。
「行けますよ! まだ死んでないじゃないですか! まだ生きてるじゃないですか!」
悲痛な叫びだけが、廊下に響く。エリアスも、他の使徒も、ただ久遠と玄道の嘆きを聞いていた。
ごめんと、繰り返すソフィアに、謝らないでくださいと、久遠は言う。何度も繰り返し、繰り返し。やがてその肩に、老人の手が置かれた。エリアス・リッケンバッカーのものだった。
「久遠。せめて最後は、笑顔で送ってやれい。でなくば、ソフィアも笑顔で逝けぬであろう」
「こんな時に、笑えませんよ!」
激昂するソフィアが、玄道を見ると、彼は、涙を流しながら笑おうとしていた。
「玄道、どうして!」
玄道は、答えない。けれども、その表情が告げていた。安心して、逝ってくれと。あとは俺たちがなんとかするからと。
どうして。再度問おうとした久遠は口を開くけれど、どうにも声が上手く出せず、喘ぐように息が漏れた。出そうとした声の代わりに、ボロボロと、涙が零れた。
久遠が泣きだすとと、背後の使徒たちの一部も、悲しみを堪えるように肩を震わせている。そのうちの使徒の一人が、大きく声を上げた。
「先ほど、第七席ソフィア・ラドクリフ殿は小生らを逃がし、その場を救ってくれました! 彼女の行動に、敬意と感謝を!」
そういって、彼は笑った。
「同じく、感謝を!」
「敬意を!」
各々、ソフィアとの思い出をささやかに語り、そして、十字を切った。
「止めてください! 縁起でもない――」
そう言って止めようとする久遠の後ろで、エリアスが十字を切った。
「ソフィア、お主はよう生きた。笑って、逝けい」
「エリアスッ!」
エリアスに掴みかかる勢いだった久遠も、正面の玄道が十字を切る姿を見て、そちらに意識が向いた。
どうして、どうして。涙を流す久遠の手を、玄道の手と共に、ソフィアは強く握る。
――ありがとう、二人とも。
そう言って、ソフィアは笑った。
笑って、それから、もう。二度と、動くことはなくなった。
泣き叫ぶ久遠の肩を、再度エリアスが叩く。「十字を切って弔ってやれ」という意味合いであることぐらい、理解できた。
泣きながら、十字を切る。ありがとうございましたと、最後に告げる。
ソフィアは、「こちらこそ、ありがとう」とでも言うかのように、笑っていた。笑って、死んでいったのだ。その眼にはもう、生気はない。
玄道がソフィアの目を閉じて、彼女の遺体を床に置いた。
隣の久遠が、静かに立ち上がる。
北条久遠は、背中から二刀の鉈を取り出して。
大城玄道は、下ろした棺を蹴りつけ、その中にある巨大な杭打ち機を手に取った。
目に映すは、侵入者。第一席、コーネリアと矛を交えるあの男。
アルカードの一撃を受け、後方――玄道らの方向へ床を擦りながら着地したコーネリアは、振り向かないままに言った。
「ここはわたしが押さえます! 使徒各員は此処より避難を!」
その言葉を無視して、玄道と久遠は前に出る。
背後の使徒たちもまた、逃げるような気配はない。
「あなたたちに適う相手ではない、殺されます。早くこの場を去りなさい、命令です!」
それでも進もうとする、玄道と久遠。
正面のアルカードは、肩を竦めて、「誰が来ようと構わない。なんなら、全員でかかってきてもいい」といった様子である。
家族同然に思っていた大切な人を、あのような形で殺されて。それを悪びれもせず、次の獲物を探すあの男。
――許せるはずがない。
復讐に染まった二人の肩を、掴む者がいた。
それは、コーネリアではなく。
「この小童共が。ソフィアに気を取られて、先の一席との戦いを見ておらんだか。どう見ても、汝らに勝てる相手ではなかろうよ」
古老の和服男。エリアス・リッケンバッカーであった。
エリアスは、視線をコーネリアに向ける。そして、笑った。
「ここは儂が殿を務めよう。皆は退け」
笑って、言った。
殿とは、戦場において、味方を逃がすために敵を抑える捨て駒――生贄だ。
己はそれになると、彼は言うのだ。
「しかし――」
コーネリアがエリアスに顔を向けると同時、エリアスの胸元の空間が湾曲する。右手を伸ばし、聖痕の特性を用いて、その空間湾曲の存在を消滅させたエリアスは、コーネリアの肩を左手で叩く。
またいくつかの空間湾曲が彼の周囲に現れるも、彼は右手の聖痕で消滅させていく。かわらずアルカードに目を向けぬまま、エリアスは告げた。
「どの道、儂は、吸血鬼を殺す術しか知らぬ。彼奴等を殺し尽くした後の世では、儂の心には何も残らぬのよ。殺人技術しか持たぬ老人など、生き残ったところでただの老害。ならばいっそ、此処で最後の一花を咲かせるも一興じゃろうて。白円卓最強を退けるほどの、最強の敵。なれば幸い、相手にとって不足はない」
エリアスは、久遠を玄道を見た。慈愛と、怒りと、多くの感情が入り混じった瞳であった。その瞳が、告げてている。
――お前たちは、まだ死ぬべきではない。今は逃げて、生きろと。
「コーネリア。久遠と玄道らを連れて早う走らんか。いくら儂とて、どこまで彼奴を留められているのかわからんぞ」
「けれど、此処で逃げたところで彼は――」
彼は追って来て、わたしたちを殺すでしょう。そう言おうといたコーネリアの言葉を、エリアスは「否」と遮った。
「この教会には《堕天使》が存在する。彼奴の目的はおそらく堕天使。であれば、彼奴がこの場を動く道理がない。どころか、彼奴は防衛戦に入るじゃろうて。なれば――叩く機会は、在る」
冷静に状況判断を下したエリアスは、再度、コーネリアに行けと告げた。
今度は、コーネリアは否定しなかった。
強く唇を噛みしめて、一言。
「エリアス。この場は、頼みます」
久遠と玄道を叱咤し、また他の使徒を連れてこの場を去っていくコーネリアに聞こえないよう、エリアスは小さく告げた。
「なに、感謝するは儂よ。お主は八〇年前、儂に仲間を与えてくれた。そして今、死に場所を与えてくれた。これほどの幸福は、他にあるまい」
コーネリアは、知っていたのですかと心の中で呟いて、けれどその言葉を聞えなかったことにして、この場を去るために駆けた。エリアス・リッケンバッカーという男が死ぬと分かっていながら、駆けた。そして冷静さを取り戻した大城玄道は、未だ煮え切らないでいる久遠を抱えるように、コーネリアに続く。
三人は去った。何人かの使徒も、コーネリアの指示に従って走り去った。
しかし、おかしい。エリアスの背後には、未だ二〇人近くの使徒が残っている。
「……戯けが」
使徒たちに小さく笑って、エリアスは目の前で退屈そうに空間を湾曲させて遊ぶ男に、視線を向けた。
男――アルカードは、ようやく話は終わったかと、エリアスに向けて空間湾曲の歪みをいくつか放つ。それを、なんでもないことのように、エリアスは聖痕の忌能無効の特性で、その総てを打ち消した。
「この俺と一人で戦うか、老いぼれジジイ。だが、無駄だ。いくら逃げたところで、お前を殺して、奴らもすぐに血祭りだ」
「ならば何故、今すぐ儂を殺さぬ」
「なに、敬意だよ。俺は日本を知らんが、サムライには敬意を表するものなのだろう」
その言葉に、フンと、古老の男は鼻を鳴らした。
「こうして話す間にも、汝は空間を湾曲させ、この距離からあやつらを殺すつもりであろうが……その余裕は、与えんよ」
「……おや。気付かれたか」
先ほどまで、アルカードはなにも遊んでいたわけでなく、姿の見えなくなったコーネリアたちを遠方より殺すために、空間湾曲を行っていた。それを見抜いたエリアスは、殿として、これより戦を始めようと歩を進める。
彼を試すように、アルカードはエリアスの周囲に空間湾曲の歪みを作る。それをやはり、華麗に聖痕で打ち消して、エリアスは、背後に控える愚か者たちに告げた。
「此処に問う。今の儂らに勝ち目はない。しかし儂と共に、命の花を散らす覚悟の戯けどもはおるか。其の心は騎士にあらず。神の加護を受けし使徒にあらず。復讐に燃えるただの修羅、醜き悪鬼ぞ。されど花を散らす、戯けはおるか」
その一言に、エリアスの後姿を見ていただけであった使徒の一人は、怯えの表情から拳を握って、顔を前に向け、高らかに告げた。
「もとより我が使徒となったは復讐がため! 所詮心根は悪鬼同然、醜き戦に大義名分などは無し!」
彼が告げると同時に、他の使徒共も震える拳を握り、口々に叫ぶ。
「元来、我らの悲願は吸血鬼の一掃! その駆逐! ならばここで行わずして、どこで悲願を果たそうか!」
「我らが望むは戦の血! そこに掲げる騎士道も、神の御意志もありはせぬ! 外道と成りて、悪魔の血潮を浴びようぞ!」
「我求むるは平和に非ず! 復讐に非ず! されど此処で、あなたのような男と共に死ぬるは、戦士の誉に他ならぬ!」
彼らの心は、一つであった。
復讐、悲願、戦の血に戦士の誉。彼らの求めるものは異なれど、それでも、彼らの心は、確かに一つであった。
エリアス一人では、この場を凌ぐことは出来ない。アルカードを止めるには、有象無象の己たちが幾らいたところで足りないだろうが、それでもいないよりはマシだ。一分、一秒でも、コーネリアらのために時間を稼ぐ必要がある。どの道役に立てない命であるならば、此処で捨てても構わない。彼のような男と肩を並べて戦い、そして僅かでも時間を稼げるならば、此処で死ぬことも厭わない。
――総ては、守るために。もとより彼らは、そのために使徒となったのだから。
「再度問う! 儂は貴様らに、『此処で死ね』と云っておる! それでも貴様らは、最後の希望を残すため、『カミカゼ』と成るか! 勝てぬ戦に挑む、『サムライ』は居るか!」
神風、その意味を彼らは知っている。
二次大戦、日本の行った『神風特攻』。己の命を捨ててまで、敵を殺す執念。国のために死ねと告げられ、そして死ぬ。
物狂いにしか思えぬ悪魔の道理、己の命を軽々捨てる歪な精神。
けれど――否。だからこそ。復讐を、そして愛する者たち、愛する国を守ると誓った彼らの共感を得るには、『神風』ほど相応しい言葉は他にない。
彼の精神に同調し、我、『サムライ』と成ると、『サムライ』は居ると、彼らは口々に叫ぶのだ。
曰く、『サムライ』と成るか。
然り! 然り!
曰く、『サムライ』は居るか。
此処に! 此処に!
「ならば征こうか、戯け共ォッ! この爺と共に死ねッッ!!」
そして、エリアス・リッケンバッカーは駆けた。
その足運びは日本剣術、それを独自に改良したものだ。日本剣術の足運び、いかなる状況においても剣を振れるよう、ある程度速度が遅くなるものだが、この走りは完全にそれを捨てたものである。とにかく、速度。速度のみを極めた神速の疾走で、一撃のもとに吸血鬼を狩る。
まさに、神風特攻。
エリアスの周囲の空間が、湾曲する。それをトカゲのように身体をかがめ、更なる加速をもって、回避する。
――おおおおおおおおおおおおおッ!
エリアスに続き、二〇の使徒たちは、各々の《聖具》を手に、アルカードへ走りだした。
「老いぼれに、この俺の相手が務まるか?」
人並み外れた反射神経、そして人を限界以上に極めたその肉体をもって、エリアスは、空間湾曲、その総てを悉く回避した。そしてアルカードの眼前へと、腰にぶら下げた刀、その柄に手をかける。
「ほざけ老害! 彷徨えるその魂、冥土へ送り還してくれようかッ!」
一閃。
エリアスの《聖具》、『鵺丸・臣來』が瞬いた。
この日本刀、ただの日本刀に非ず。吸血鬼を狩るためだけに作られた、かの『師子王』に勝るとも劣らぬとされる名刀なり。
「――桜散――」
その名の如く、桜が散った。
その桜は、アルカードの切断された腕より舞い散る、刹那の桜。
「なるほど、確かに俺は老害に違いない」
自虐の言を吐き、ふんと笑ったアルカード。その胸を蹴りつけたエリアスは、虚空に舞ったその腕を、再度鵺丸で切り付け、完全に消滅させる。
けれどそれを大したこととでも思わないように、後方へ下がったアルカードは口元を歪めて、まるで傷など無かったかのように、新たな腕をその傷口から生やした。
「そこのジジイ。俺は、真祖だ。真祖・アルカード。かつてこの教会に封印された、男だよ。――お前の名を、聞きたいな」
その言葉を聞いて、エリアスは鵺丸に付着した血液を振り払い、パチンと刃を鞘に納める。
腰は低く。いつでも斬り付けられるよう、十分な集中をして。
「白円卓第三位、『柳生新陰我流』エリアス・リッケンバッカー――推して参るッ!」
サムライは、命を賭して、勝てぬ戦に挑むのだ。




