深層/もう一つの“心臓”
――。
――――。
阿久は、白い世界にいた。
他には誰もいない。アルラさえもいなくて、不思議に思った。
どうしてだろう、少し心細いと、思った。
周りを見渡しても、何もない。ただ、白かった。
どこかで見たことがあると思えば、あの《教会》に似ているのだ。病的なまでの白さ。他には何もない静けさ。けれど、あの教会以上に、この場所には何もない。
空はなく、太陽も月もなく、そして、壁も床も何もない、奇妙な空間。
その世界で。
「阿久」
誰かが、自分を呼んだ。
「……誰だ」
阿久が振り向くと、そこには見知った少女の姿があった。
茶髪に、改造された制服。小さな身体だけれど、大きめの胸。
南かえでだった。
「なんで、お前が」
こんなところに、いる?
問いかけた阿久に、かえでは「うーん」と可愛らしく首をひねり、
「どうしてだろうね」
そう、あの日の笑顔のままで笑った。
その笑顔は、輝いていた。何を嘆くでもなく、何を苦しむでもなく、ただ、輝いていた。
なのに、阿久の脳裏に思い出されるのは、楽しかった日々ではなく、かえでを失ったあの日。
ウォルターに吸血され、恐怖におびえたかえでの表情。
阿久は彼女にどんな顔をしたらいいのかわからなくて、困惑して、ようやく、口を開いた。
「――すまん」
目を逸らした。
「ん、どうして阿久が謝るの?」
阿久が少しかえでを見ると、本当にどうして謝られているのかわからない困惑した様子で、阿久の顔を見ようとかえでが駆け寄って来た。
かえでは阿久の目を見ようとしたが、阿久は目を合わせなった。
「俺は、お前を守ると決めたのに、守れなかった。俺の甘い心のせいで、お前を殺してしまった。だから、すまん」
再度頭を下げた阿久に、かえでは「ふーん」と、小悪魔のような笑みを見せた。
「なら、一つ条件」
「条件?」
かえでの言葉を反復して、阿久は頭を上げた。
「少しでも後悔してるなら、ずっと此処に居て。ずっと、あたしと一緒にいてよ」
そう言って、阿久に抱き付いた。
「……」
阿久の瞳。
その中に、かえでが映る。
彼女の瞳は、不安で揺れていた。
「あたしと居るのは、いやなの? 後悔、してないの?」
「――」
彼女の言う後悔とは、何を指すのだろう。
あの日、かえでを死なせてしまったことか。それとも、かえでをあの場に連れて行ったことか。それとも、初めて会ったとき、かえでを助けたことか。
阿久は、言葉に詰まった。
あの日、かえでを失った。けれどその代わり、得るものがあったのだ。結果として阿久は《堕天使の翼》というものを手に入れて、そして第七ウォルターを打倒するに至った。
かつて交わしたアルラとの約束。それが一歩、前に進んだ。
南かえでの死を利用して、久世原阿久という男は一つ、目的に近づいた。
彼女を守りたかった。けれど、守れなかった。代わりに雲の上に手が伸びたのだから、結果としてそれは、阿久にとって願ってもない幸運だったのだ。
だから阿久は、答えた。
「後悔は、していない」
「……嘘。阿久は後悔した。あたしを殺して、後悔したよ」
雨の中。暗い部屋で、阿久は後悔した。あの時、北条久遠を殺していたらと。
ああ、確かに。後悔した。だが。
だが――それでも。もう、二度と。
「後悔は、しない」
はっきりと、そう告げた。
「本当に? あたしが、阿久を恨んでも?」
かえでは、阿久に詰め寄った。
その視線には、先に見えた輝きはない。代わりに、黒ずんでいる。悪意が満ちている。
これまで見たことがないような、かえでの人を恨む視線。いつも、我儘で。いつも、天真爛漫に生きていた、子供のような彼女。そんなかえでから、悪意を持った視線を向けられている。
――それでも。
「俺は、後悔はしない。絶対に」
「あたしは、後悔してるよ。本当は、もっと生きていたかった。もっと阿久やアルラさんと一緒にいて、もっとたくさん話したかった。死にたくなかったよ。でも、死んじゃった。……だからさ、阿久。せめて一緒にいてよ。あたし、寂しいの。こんな広い場所で一人きりは、辛いんだよ」
――それでも。
「俺は、後悔しない。例えお前に恨まれようと」
確かにかえでは失った。それでも、得るものがあったのだ。それは、他の何にも代えられない、戦うための力。目的を達成するために、必要な力。
もともと阿久は、かえでを助けるためにアルラと共に戦ってきたわけじゃない。
助けたいと思った女がいた。惚れた女がいた。
そのために、総てを利用すると誓った。
ならばどうして、後悔する理由があるという。
「……悪魔みたいな人だね、阿久は」
「――ああ。俺は悪だ」
正義の道も道徳も、皆すべからく無用の産物、説きたい者が説けばいい。
久世原阿久には、譲れない信念がある。譲れない目的がある。そのためならば、他の総てを捨てられる。
利用できるならば利用する。邪魔をするなら喰い殺す。
もし阿久が後悔するとしたら、その時は一つだけ。
アルラを、泣かせた時だ。不幸にしてしまった時だ。
だから阿久は、後悔しない。これまでのことも後悔しないし、これからも絶対に後悔しない。
最後にアルラを笑顔にすることができるならば、それだけで。
この久世原阿久という男の命に、意味はある。
「それが、俺の在り方だ」
「――例え、ここであたしに殺されても?」
かえでの手が、阿久の首を締めようと、握った。
けれど、抵抗することもなく。
「ああ」
阿久は、肯定した。
かえでは阿久の瞳を見つめる。くっと、首を絞める手に力がこもった。
だがやはり、阿久の瞳は揺るがない。
後悔しない。ただ一つの目的のために生きていく。その確固たる意志を持って、阿久は南かえでを見つめ返した。
「……やっぱり、敵わないなぁ」
そういって、かえでは阿の首から手を離し、ひらひらと手を振った。くるりと踊るように回って、手を後ろで組んで阿久に背中を見せる。
「あーあ、やんなっちゃう」
ため息をついて、小さな石ころでも蹴り上げるような仕草をして、かえでは阿久を見た。かえでの瞳には、もう悪意などは存在しなかった。
眼前の南かえでは、阿久の知る南かえでになっていた。
「やっぱり、ずるいよ。阿久ってば、かっこいい」
なにがなんだかわからない阿久に、かえでが答える。
「あたしね、阿久を少し試したの。阿久がアルラさんと進もうとしているのは、茨の道だから。阿久にそんな覚悟があるか試したんだけど……うん。覚悟があるなんてものじゃないね、絶対に成し遂げるっていう気持ちがある。失敗なんて考えてないんだ。その時その時の最善を選んで、切り詰めて、最後の最後まで目的を果たそうとするその意志は、きっとどんなことがあっても揺らがないんだね。
あー、あたしもこんなに想われてみたい」
やはりわからないという顔をする阿久に、かえでは「わからなくてもいいよ」と言って、阿久の後ろを指差した。
「そっちにね、アルラさんが待ってる。行ってきなよ、阿久」
かえでが指差したその先に、必死で阿久を呼ぶアルラの声が聞えた。
それを聞いて、阿久は総てを思い出す。
現在第六真祖と交戦していた阿久は、心臓付近に並ならぬダメージを受けて、一時的に意識を失っていたようだった。
――戻らなければ、ならない。戻って、この手に勝利を掴まねばならない。
「……助かる」
阿久は、歩く。
まっすぐに、歩く。
「ねぇ、阿久。あたしもね、後悔してないよ。あんたに会えてよかったと思う。あんたに会えて、あたしは少しだけ、強くなれた気がしたから」
阿久は、歩く。
かえでの方には振り向かない。ただ、歩く。アルラを助けるためだけに。
「もう、会うことはないだろうけど、あたしはあんたを応援するよ。あんたの心臓として、あたしが力を貸したげる」
「――ああ。力を貸せ、かえで」
呟いた阿久の瞳は、真紅に光輝き。
爪牙は更に鋭く尖り。
そして、ずるりと。漆黒の両翼が、その背に生えた。




