満月
今宵は、満月。
奪われし者が、蘇る。
奪いし者へと、蘇る。
――闇こそ、我らが世界。
――隷属せよ、家畜共。貴様らは我らの糧となるべく生まれた、哀れな子羊に過ぎない。
誰かが、言った。
そう、今宵は満月。
奪われし者が、略奪者へと生まれ変わる夜。
美しい月の、夜。
☆
南かえでは、普通の女子高生だった。
少し周りに流されやすいところがあったけれど、普通の女子高生だった。
クラスの中では、そこそこ人気者。彼氏はいない。好きな人も、いない。友達の多くは彼氏がいたけれど、敢えて彼氏を作らないことで、自分よりも顔も頭も悪い友人たちに優越感を持たせていた。かえでは意外と男子人気が高く、たまに告白される。それに嫉妬され、友人関係にひずみが入りそうなこともあったが、そのあたりは食事に誘って奢るなどして上手く関係を保っていた。
家族は、父、母、弟の四人家族。
父はサラリーマン、母は専業主婦。弟はもうすぐ中学生に上がる、というところ。
かえでは、家族が好きだった。父も母も優しかったし、弟は可愛かった。
そんな、女子高生。どこにでもいる、女子高生だった。
――あの日までは。
その日は、弟の誕生日だった。
一二歳の、誕生日。
高校から帰宅している最中、忘れ物に気付いた。電車通学だったものだから、途中で乗り換え、もう一度高校へ戻るのに、多くの時間がかかった。日没前に帰宅できるはずだったのが、もう既に日没が近かった。もうそろそろ乗り換えの駅に到着するかというところで、親からメールが来た。
『お父さん、もう帰って来たわよ』
母からのメールだった。
ここのところ仕事が忙しかった父だが、どうやら早めに帰宅することに成功したらしい。
自分も早く帰ろうと、いつもとは違う道を通った。
いつもは安全のため、暗い路地を避けて帰宅していたのだが、その時のかえでは浮足立っていたのだろう。息を荒げながらも、早く弟の誕生日を祝いたいと暗い道を走っていた。
――急がば回れ。この時ほど、その言葉を噛みしめたことは無いだろう。
かえでの前には、女性が転がっていた。
いわゆるキャバクラなどの男性接客を行っていそうな、女だった。
初めは酔っぱらって倒れたのかと思った。けれど、違った。
――血。その女の周囲には、血がまき散らされていた。それも、明らかに致死量だ。
何が起きたのか、咄嗟に判断できなかった。けれどやがて、脳が状況に追いついた。
女が、死んでいる。
女のそばには、同じ高校の制服を着た少年が立っていた。
その少年を、かえでは知っている。同じクラスの、牧村健二。
一週間ほど前、だったか。彼と少しだけ話をしたことを思い出した。
『ねぇ、南さん』
『なに?』
『南さんって、あの噂を知ってる?』
『……噂?』
『――《吸血鬼喰い》の、噂だよ』
それは、近頃インターネットでも騒がれる都市伝説。
怪人赤マント。トイレの花子さん。口裂け女。こっくりさん。此処日本でも多くの都市伝説が語り継がれてきたが、中でも吸血鬼喰いは、一際異質を放っていた。
上げた都市伝説とは異なり、吸血鬼喰いの噂は一つ、おかしな点があったのだ。
それは、そもそもの大前提の話である。
――吸血鬼がこの世に存在しなければ、吸血鬼喰いは存在しえない――。
『そんなの迷信よ、迷信。そもそも吸血鬼なんて存在が既に怪しいでしょ』
吸血鬼食いがいるということは、吸血鬼も存在しているということになる。しかしかえでは、生まれてこの方、吸血鬼という存在を見たことがない。また、吸血鬼がいるという噂もしらない。テレビでも、新聞でも見たことがない。吸血鬼喰い以前に、もし吸血鬼なんてものが存在するならば、それが既に一大ニュースだろう。
『ぼくは、いると思うなぁ。吸血鬼』
どうして、だろう。
ただ一度だけ会話したことのある牧村の、その時の顔が。
どうにも印象に残り、頭から消えなかったその顔が。
今、女のシタイの前に立つ牧村の顔と――どうしようもなく酷似していた。
「……奇遇だね、南さん。女の子がこんな時間、こんな場所を歩くなんて、感心しないよ」
口は、半月。端に牙。
その目は、真紅。
――吸血鬼。
かえでの頭は、何故か異常極まりないその結論を導き出した。
そこからは、どうなったのかよく覚えていない。ただ、逃げた。
命がかかっていた。文字通り必死で、逃げた。
逃げている最中、何度か振り返ったが、牧村の姿は見えなかった。そのことに疑問を抱くこともなく、ただ逃げた。
気付けば、『南』と表札に書かれた家の前にいた。
かえでの帰るべき場所だった。
――きっと、今のは夢だ。
自分に言い聞かせて、かえでは鍵がかかったドアを、開き――。
「――――や」
血。
「――――い、や」
血、血、血。
家の中は、ペンキを塗りたくったようなおびただしい赤で彩られて。
「いやぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!」
また、逃げた。今度は、知らない道ばかりを選んで逃げた。
自分の家族がどうなったのか、かえでは知らない。
知る前に、逃げ出した。
自分の心を守るため。残酷な現実から目を背けるために――。
「――ッ」
がばりと、かえでが起き上がる。
同時、ゴツリと頭をぶつけた。
「いたぁ……」
頭をさすりながら目を開くと、そこには久世原阿久がいた。
「痛いのは俺だ」
大して痛くもなさそうな顔で、阿久は膝で寝ていたかえでをごろりと転がした。
ごろんと転がり、公園のベンチから地面に落下した。
「何すんの! 痛いでしょうが!」
「起きたか」
「……あたし、寝てた?」
「ああ。俺が膝を貸してやっていた」
「ちなみに寝顔、見た?」
「五月蠅い女の寝顔は、静かで悪くない」
「忘れて! 今すぐ!」
がくがくと肩をゆするかえでの両手を自分の肩から話して、阿久は「帰るぞ」と言った。
もう、日は落ちかけていた。
歩く。やはり、阿久は自分から口は開かない。速度も、自分のペースだ。
けれど、表情がある。なにより、根底には優しさがある。
他の誰かから見て、彼がどう映っているかはしらない。しかし、南かえでという少女からは、彼はとても魅力的に見えた。
ほんの二十四時間程度、共に過ごしただけなのに。何故だろう。彼に引かれている自分がいる。
――でも、阿久にはアルラさんがいるから。
片隅に描いた彼と自分の未来を「まさか」と笑い飛ばして、阿久の後ろをついていく。
彼の背中は、何故だろう。なによりも、逞しく思う。
誰もいない高層ビルの間の細道を、阿久と共に歩いていく。
「綺麗だよな」
唐突に、阿久が口を開いた。
へ。と、かえでは、自分の喉から出たとは思えないほど間抜けな、裏返った声が出る。
「空を見ろ。月だ」
けれどかえでの奇妙な声を意に介すこともなく、阿久が指差す先を――空を見上げれば、そこには満月が輝いていた。
夜であるのに、電灯が必要ないほど周囲を照らしている。
思えばかえでは、これまで満月の夜を歩いたことは無かった。
この世の中では、満月の夜に出歩かない、というのが、暗黙の了解として存在している。詳しい理由ははわからない。満月の日に、何か、大きな事件があったのは知っている。けれど、それより前から――自分たちが生まれるもっと前には、その了解は在った。
「俺はな、月が好きだ。月は、誰にも差別はしない。誰にでも、同じように顔を向けるんだ」
かえでが目に映した、月を語る阿久。
月が綺麗だと言っている。それだけなのに、かえではどうしてか、阿久が寂しい心を隠しているように思った。
でも、多分、踏み込んでほしくはないところ。
だからかえでは、気付かないふりをして。
「そうだね。とても、綺麗」
阿久の手を、握った。
夜空に輝く、綺麗な星空。
その中でも、いっそう美しく見えるのは、やはり、満月。
これを見ることができないのは、もったいないと思った。みんな、外に出ればいいのにと思った。
満月は、こんなにも美しく輝いているのに。