語られる百年前
阿久は、紳士風の男に連れられて、近所にある彼の別荘とやらに誘われた。
本当ならアルラに断わりを入れるべきなのだろうが、連絡手段がない。最悪、夜の闇をつたってここまで来ることができるだろうと適当に思って、阿久はついていくことにした。
灯りの下、彼はずず、と紅茶を啜る。
帝都月区画、一三番ゲート付近の市街地、小さめの一軒家、その地下一階。洋風の部屋で、内装は至ってシンプル。
阿久のアパートもシンプルと言えばシンプルであるが、阿久のアパートの場合は、別の言い方をすれば何もないと言うことだ。しかし紳士の部屋はそれほど大きくはないものの、それなりに綺麗にしてあり、シンプルイズベストという言葉が良く似合う。
右手には、本棚。本はそれぞれ分厚く、どうやら何かしらの歴史本のようだ。左手には、コーヒーメーカーなどが置かれて、軽い喫茶のようになっている。
その部屋の中心には、一人用のそれほど大きくないテーブルとイスが二つ。テーブルの上には、紅茶が二つ。
そこに向かい合う形で、阿久と英国紳士風の男は腰かけている。
「フム。日本の紅茶もなかなか悪くない」
「そりゃよかったな」
足を組み、偉そうにふんぞり返る阿久は、紅茶に手を付けることなく、吐き捨てるように言った。
「キミは、紅茶は嫌いかね。私は味にはうるさい方だと自覚しているが、これはなかなかのものだよ」
「生憎、知らないおっさんから出されたモノには手を付けない主義でね」
「フム。それならば、知らないおっさんにノコノコついてくる時点で、既にいろいろと問題があると思うがね」
「おっさんに襲われたら自己防衛すればいい。が、飯に毒盛られちゃどうにもできん」
「なるほど、キミなりの線引きがあるのだね」
ことりとカップを受け皿に置いた男は、さて、と阿久に目を向けた。
「まずは、自己紹介を。私はアルバート。アルバート・クル――」
「前置きはいい。さっさと話せ」
阿久がこんなところに来たのは、ただ紳士に誘われたから、というわけではない。
彼は、百年前の真実を知っている。そして、その事実を阿久に教える。
その言葉に、阿久はこうしてついて来た。
なのに彼は、紅茶の準備に食事の準備にと、阿久を待たせに待たせていた。
時刻にして、かれこれ数時間。
ようやく彼が席に着いたと思ったら、紅茶を片手に自己紹介を始め出した。
これでは、一体いつになったら話が聞けるのか、まるでわからない。
「フム。最近の若者はせっかちだと聞いていたが、なるほど、どうやらキミもそのうちの一人らしい。まだまだ時間はあるよ、若人。もう少し楽に日々を生きてみてはどうか。それでは、楽しめるものも楽しめないからね。止まってから初めて知る景色の美しさもあるのだよ。例えば、そう。この紅茶のように」
すんと、アルバートは鼻をひくつかせた。
「――おっとすまない、そろそろ頃合いだ」
「は?」
また立ち上がったアルバートは、華麗にスーツの上からエプロンを羽織った。先に仕込んでおいた料理の続きをするらしい。
「あと五分、私に時間をくれたまえ。なに、後悔はさせないよ」
阿久に向けてウインクをした彼に、「言っとくが、お前の料理は喰わねぇぞ」と言うと、彼は泣きそうな顔をした。
見知らぬ男が作る料理を、そんなにおいそれと口にできるものか。
☆
宣言通り五分程度で準備を終えたアルバートは、自分と、そして阿久の前にジュウジュウと焼き音を立てるステーキをことりと置いた。
ステーキというものは基本的に芳しい匂いがするものだが、この肉は阿久の知るどんな肉料理とも異なる匂いがした。やはり、毒でも盛られているのだろうか。けれど眼前の男はそれを気にすることもなく、ナイフとフォークで肉を切り、口へ運んだ。
「フム。やはりこの肉は最高だね。冷凍保存しておいたもので質は若干落ちるが、それでも中国のものよりよほど美味だ。あそこのも嫌いではないが、どうにも産業廃棄物にまみれているという先入観が抜けなくてね」
食べないのかい、と問いかけるアルバートに、「それより話をしろ」と視線で伝えた。
やれやれと肩を竦めたアルバートは、ステーキを切り分けつつ、口を開く。
「キミもそろそろ帰ると言いかねないし、そろそろ話を始めようか」
むしろ、これまで阿久が帰らなかったのが奇跡に等しかった。
苛立ちからガタガタとテーブルとイスを貧乏ゆすりで揺らしていたが、ようやくそれが納まり、阿久の表情に苛立ち以外の何かが混じる。
「キミは、《天使の欠片》――という言葉を知っているかな」
「天使、堕天使って響きは聞いたことはあるな」
――天使。
その単語に、阿久は確信する。
こいつは、本当に何かを知っている。これまで待ったことは、損ではない、と。
「では。百年前、この世界にはパンドラの箱が空けられた原因となる、天使降臨の儀は」
「天使降臨ってのは知らんが、災害が溢れたのは知っている」
大災厄『Pandora』。それよって、多くの国々が崩壊し、今の大英帝国連合があると歴史では記されている。
「なるほど。一〇〇年前の知識については齧った程度か」
かつんと音がして、アルバートの切り分けた肉に、フォークが刺さった。
それを口に運び、咀嚼し、飲み込む。
フム。頷いたアルバートは、ナプキンで口元を拭い、続けた。
「とりあえず、私の知る一〇〇年前の伝説を語っていくとしよう。
旧ヨーロッパには、とある宗教があった。それは邪神信仰、終末思想の宗教で、《外なる神》などという地球外の神を讃えるものであったのだがね、ある時彼らは、それらを地球に降臨させようと、とある儀を行った」
「……それが、さっき言ってた天使降臨の儀ってやつか」
如何にも。アルバートは頷いた。
「その儀がどのようなものであったのか、今となっては詳しい記録など残されていないがね。強姦に乱交、大量虐殺に死姦、人体で儀式道具や子供の血液で魔法陣作成などと、血を捧げ、心臓を捧げ、命を捧げた……まぁとにかく、非常に悪趣味で醜悪な儀式であったらしいね。そしてその結果、偶然か必然か、幸か不幸か、とある存在が地球に墜ちた」
――それこそが。
アルバートはそれ以上告げなかったが、代わりに「わかるだろう?」という視線を向けてきた。
悔しいが、分かる。
おそらくそれこそが、堕ちた天使――すなわち《堕天使》だ。
「《外なる神》――通称《堕天使》が召喚されたことで、堕天使の世界の異物――つまり《外なる世界のもの》がこの地球に蔓延した。それがかつて発生した大災厄《Pandora》と呼ばれるものだ。
そしてその災害の一つに、疫病があった。名は枯血病。原因不明の病で、多くの人々の命を奪った。キミは書店で枯血病の論文を見ていたからね、これの存在は知っているだろう。枯血病が流行したその時に、人々を救おうとした男がいた。
神話のパンドラ伝説には、厄災の最後に希望があるとされている。その希望こそがすなわち《堕天使》であると男は解釈した。そして彼は、枯血病から人々を救うために、人々を進化させる細胞移植を試みた。その検体は――自身を入れて一〇人」
――一〇人。
その数字に、阿久は既知を感じる。
阿久は、その数字を知っていた。
謎の共通点。その疑問を抱いたまま、阿久はアルバートの言葉に耳を貸した。
「モルモットなどで実験をしている余裕は、男にはなかった。彼の妻は枯血病によって死に、そして娘までもが侵されていたからね。孤児や死刑囚、金の無い者たちを、とにかく法外の手段で集めてきたんだ。
その時、彼らの心臓に埋め込まれたものが、《天使の欠片》と呼ばれるモノ。つまりは、《堕天使》の細胞だ。結局この実験は、成功したともいえるし、失敗したともいえる。やがて時は流れ、堕天使は何者かによって封印された、もしくは元の《外なる世界》に帰ったとされている」
以上が、私の知る一〇〇年前の伝説だ。
アルバートが言うと、一切れの肉を口に運んだ。
所詮、伝説は伝説だろう。思った阿久は、ふんと鼻を鳴らした。
「それで、それがどうした」
そろそろ、本題に入ってはもらえないモノか。
退屈そうに、けれど先の疑問を抱いたまま、阿久は言った。
対するアルバートは、冷静に、口元のソースをナプキンでふき取る。
「……フム。これは確かに伝説として語り継がれているものだけれど、半分以上は、この世界に起きた真実でもあるのだよ」
そして、よくわからないことを言った。
「――どういうことだ?」
思わず、阿久は問うた。
確かに《Pandora》という大災厄が存在したとは言われている。でなければ、大英帝国連合などという巨大国などは現れない。旧ヨーロッパの段階では国と国との境があったのだから、よほどのことがない限りは、あれほど多数の国を一度に統合することはできないだろう。そこまでは納得できる。
しかし、堕天使までもが事実となると話は変わる。
邪神教や終末思想は宗教の中でもよくある話だが、それの神が地球に召喚されたとなれば話は別だ。そんな現実味のない話が、伝説ではなく事実であるとは思えない。
「事実は小説よりも奇なり、というだろう。こんなファンタジーのような出来事が、かつてこの地球に起きたのだよ」
動揺に瞳を揺らす阿久とは対象に、さながら「1+1=2だ」とでもいうように、当たり前のことだと、アルバートの視線が訴える。
「……話を続けてくれ」
「では、単刀直入に応えよう」
もう一度肉を口に含んで、飲み下したアルバートは、紅茶を啜って胃袋へ流し込む。
ふむ、やはりこの紅茶は肉によく合う。
満面の笑顔で頷いて、やはりナプキンで口元を拭き、無くなったステーキの皿を脇にどけて、机に片肘をつき、阿久を見る。
「《堕天使》の細胞を移植された一〇人の人間こそが、この世の影に存在するとされる吸血鬼――それも、真祖と呼ばれるものなのだよ」
そして驚くべき事実を、彼は口にした。
「待て。真祖は九人じゃないのか」
この男が、吸血鬼の存在を知っている。その時点でこの男が日常を生きるものでは無いと判断して然るべきであったが、今の阿久はそこまで頭が回らない。動揺し、脈打つ心臓に冷静さを欠いていた。
「フム。残念ながらそれは違うね、真祖は一〇人だ。……いや、新たに増えた者を考えれば……フム。ちょうどキミたち二人を合わせて一三人かな」
腕を組みなおして、アルバートは微笑む。
――一三人。
それは、キリストの使徒の数と等しくされているが、同様に不吉な数字であるとされている。阿久は詳しくはしらないが、その原因として、キリストの使徒、ユダが裏切ったという伝承が有名だ。そしてもう一つ、キリストが一三日の金曜日に死んだということが原因か。
因果なものだと、阿久は思う。
しかし、結局天使については何もわからないままである。
吸血鬼のことは、今はいい。阿久は、天使について聞くことにした。
「話を戻すが、その堕天使ってのは、そもそも何なんだ」
「さてね、詳しくは未だ解明していないよ。我々の内でも、《外なる神》ではないかという憶測が立てられているだけでね。なにしろ堕天使は、あの《教会》に独占されているからね」
「――《教会》?」
その響きには、覚えがある。
聖母マリアを中心として、コーネリア・ルートレッジを第一席として置いた吸血鬼を狩るための特殊組織。公には知られていない組織のハズだが、この男は吸血鬼のみならず、そのことを知っている。
「知っているだろう。吸血鬼狩りを仕事とする猟奇集団さ」
その教会については理解できた。
しかし何故、あの教会が堕天使を独占する必要があったのか。
「どうして、堕天使を教会が?」
「……なんだ、知らなかったのかい。――いや、それも致し方ないか。しかし、キミは不思議に思わなかったのかい。教会の一部の使徒だけが持つ《聖痕》、その異能の力を」
――ええと、白魔術の応用のようなものです。
――白魔術?
――ええ、白魔術。世には黒魔術、白魔術といったものが存在しますが、わたしたちなりの区分では、そうですね……。人に害を及ぼすもの、呪いを及ぼすもの――すなわち、他者を意図的に不幸にするものを黒魔術。自分に幸運を呼び込むもの、神より力を授かるもの――すなわち、自身に何かしらの加護や援助を受けるものを白魔術と称しています。
コーネリアの言葉を、阿久は思い出す。
聖痕の話に、堕天使は関係ない。
「あれは天使とかじゃない、話では白魔術だと――」
「それを聞いたのは、誰からだい」
「……教会の、人間だ」
「そうだろうね。教会が新たに入手した最新の極秘システムを、わざわざ部外者に教えるものか。あの聖痕のシステムがあるからこそ、教会は吸血鬼と渡り合っているというのに。
アレはね、人間に《堕天使》の細胞を改良したものを埋め込んだものだ。細かいことは私にもわからないがね、《堕天使》はそもそも、先も言った通り《外なる神》――すなわち、外界から来たモノだとされている。その細胞を媒介とし、異界のものを地球に呼び出す。それが、大まかな聖痕のシステムだろうね。ちなみに吸血鬼の《忌能》もまた、これに近しいものだ。だからこそ、あの《聖痕》は《忌能》を無効化できる」
アルバートの言葉には、確かに説得力がある。
しかし、どうにも解せないことが一つあった。
それが。
「なら、教会の目的は何だ。吸血鬼の根絶ではなかったのか」
そう、教会の目的である。阿久にはそれが、どうしても解せない。
もし教会が堕天使を所有しているとして、そして聖痕が堕天使の細胞から作られたものであるとして。ならば聖痕所有者は、将来的に吸血鬼となる可能性が大きいのではないだろうか。
もしそうだとしたら、矛盾している。吸血鬼を倒すために、吸血鬼を生み出すなど。
阿久の疑問に、フム。とアルバートは鼻を鳴らした。
「教会の目的は吸血鬼の根絶で間違いはない。だが、それはあくまで目標達成の過程に過ぎないのだ」
「……どういうことだ」
「キミ、吸血鬼を喰らったことがあるだろう。喰らう度、新たな力が目覚める感覚はなかったかな」
「――いや、わからない」
細かい記憶はない。けれど、第四真祖の血族と戦ったときのことを思い出す。あの戦いの時、確かに阿久の肉体は毒に蝕まれていた。しかし、始めの一人を喰らった後だったか、それとも最後の一人を喰らった後だったか。確かに存在していた痺れは、その時には完全になくなっていた。
あの時は毒は即効性のもので、長時間継続するものでは無いのだろうと思っていたのだが、もしかして。彼らを喰らい、新たな力が目覚めることにより、毒が無効化されたからなのか――?
「ちなみに私はにね、その感覚があった。先も述べたように、人間と吸血鬼の違いは《天使の欠片》が存在するかどうかだ。だからこそ、より純度の高い《天使の欠片》を宿す真祖が、吸血鬼の中で最も強いとされている。
もっとも、混血者――ダンピールと呼ばれる人間と真祖のハーフは、真祖以上にうまく《天使の欠片》と共生している。故に、吸血鬼とはまた別の強さを発揮できるようだがね。
……いや、混血者の話は今はいい。
つまりだね、《天使の欠片》というものは、人を吸血鬼たらしめる物質だ。そして、それを多く所有するほど力が増す。かつて第九真祖ヴィーデを喰らった第九血族クラウンが真祖並みの力を手に入れていることからも、それは明らかだ。
すなわち――共食いを行えば行うほど、吸血鬼はその力を増し、《堕天使》に近づける」
吸血鬼が吸血鬼と争う理由が、これでわかった。
通りで、同じ真祖同士であるというのになかなか一致団結しないわけだ。
しかし、それでもやはり話の筋は見えてこない。
「吸血鬼が《天使の欠片》を得る度に強くなること、教会が《堕天使》を所有していること、それはわかった。だが、この二つの事実になんの関係がある。教会には吸血鬼はいない。いくら聖痕持ちと言えど、流石に吸血鬼を喰おうって人間もいないだろう」
「吸血鬼を喰った人間? ああ、それもいるさ。先も述べた、第九の事だがね。そして彼の目的もまた、神になることなのだろうが――まぁ、今はいい。それよりもだね。教会にはいるだろう、最恐最悪、真祖殺しを行う真祖が」
「教会に、真祖――?」
ソレは一体、誰だ。
真祖の一人が、教会に紛れていたのか? だとすれば、誰が。
北条久遠――いや、違う。あいつはダンピールだ。では、他に誰が――。
エリアス? ソフィア?
それとも、《裏切り》の“ユダ”――?
思考を回す。これまでにないほど思考を回す。けれど、わからない。
考えても考えても、答えは出ない。
思考を続ける阿久に、アルバートは時間切れだと言わんばかりに人差し指を向けた。
「曰く、救世の女神。曰く大英のジャンヌ=ダルク。曰く教会の意志、マリアの代行者。白円卓一二使徒、第一席。すなわち――《第一真祖》コーネリア・ルートレッジ」
「――は?」
思考が、凍った。
アルバートがなんと言ったのか、阿久にはわからなかった。
あまりに呆けた顔をしていたのか、「知らなかったのかい」とアルバートは笑った。
「彼女こそ百年前に生まれた真祖、その十人目にして最強の真祖だよ。それでありながら、《堕天使》が彼女の手に在る以上、彼女はいくらでも力を手に入れることが出来る。教会が所有している《天使の欠片》の根源――《堕天使》そのものを取り込むことによってね」
「ば、馬鹿な――」
あの女が、第一真祖?
実感が沸かない。
仮に第一真祖であるとして、一体どうやって聖母マリアの下で生活をしているという。
吸血に関しては、一体どうしているという。
「ならば問うけどね。キミは、コーネリア。ルートレッジの法外の戦闘能力について説明できるかい。彼女は第五真祖アフムすらも圧倒する化け物だ。そして、教会の持つ、《聖痕》の原理について説明できるかい」
「だ、だったらコーネリアの目的はなんだ!」
相手を否定することで己の論を守ろうとした阿久に、アルバートは肩を竦めた。
「……さてね。しかし、半数ほどの真祖たちの願いは知っている」
――神に、成ることだ。
にやりと、アルバートは笑った。
その口はさながら、三日月のようで。その口の端から見える鋭い牙は、赤く光るその目は、阿久の頭を冷やすに十分すぎる代物であった。
――なるほど、詳しいわけだ。
ここでようやく冷静さを取り戻した阿久は、己の動揺や疑問、総てのものを頭から放り出して、静かに告げる。
「お前、真祖の一人か」
はっはっは!
豪快に笑った彼は、諸手を広げて立ち上がった。
「ようやく気付いてくれたようだね。……如何にも! 我が名はアルバート。《第六真祖》――アルバート・クルックス!」
「お前の目的は、なんだ。どうして俺にこんな話をした」
「フム、私の目的か……。キミにこの話をしたのは、もしかしたらキミと私は共感できる何かがあると思ったからだよ。しかし、私の目的、目的……」
少し考え込むように腕を組み、首をひねった紳士はしかし、「強いて言うならこれかな」と、思い出すように人差し指をぴんと立てた。
「私にはね、過去の記憶がない。吸血鬼となって以降、百年間の記憶はあっても、生前……とでもいうのか、私が人間であった頃を指すものだがね。その頃の記憶が欠如している。これはおそらく、《天使の欠片》の副作用なのだろうが。だからね、何を目指せばいいのかもわからなかったのだよ。けれどただ一つ、私の心を躍らせるものがあった」
笑いを堪えるように、そして感情を押し殺すように、アルバートは身体を丸めたが、やがて耐えきれなくなったのか、高らかに笑い諸手を広げて叫んだ。
「それが、美食の探求だ! すなわち――カニバリズム! ああ、私は吸血鬼であるから人間を喰らうのは当たり前に思われるようだがね、普通の吸血鬼は人間の肉に興味はない。血を捨ててポイだ。だが私は違う。その肉を――喰らう!」
彼の狂気に思わず一歩引いた阿久は、ふとテーブルに置かれたステーキを見た。
「――ッ」
その様子がおかしかったのか、アルバートは笑った。
その笑いは、この肉が、人間のものであることを肯定する笑いであった。
「く、狂ってやがる――」
阿久の動揺には目もくれず、アルバートは一人語りを続けた。
「そしてね、いつしか思うようになったのだよ。――吸血鬼の肉は、どのような味がするのだろうかと。
いやぁ、吸血鬼も存外美味いものだよ。人間に比べれば少しばかり固いがね、しかし筋がいい。どの筋肉も上手い肉付きだ、人間の数倍の力を持つ下等種ですら、人間のそれを軽々超える。比べることすらおこがましいほどに。特に日本人の吸血鬼は美味いものだ。そして通常種、これはもう、格別だったよ。
フム、日本の魚に置き換えるならば、人間は秋刀魚。下等種は鮭。そして通常種はマグロ――それも大トロといったところか。
ああ、ああ……ならば。ならばこそ、心が躍る。想像せずにはいられない。なぁ、教えてくれよ久世原阿久。
真祖は、そして《吸血鬼喰い》は――一体どんな味がするのだろうなァ」
恍惚と語るアルバートが、天井を見上げた瞳で阿久を流し見た時に。
「ええ。だったら教えてあげるわ、真祖の味を」
その問いに答えたのは、阿久ではない。
ましてや、アルバートでもなく。
ゆらりと、阿久の背後にある闇が蠢いた。その様はさながら、這い寄る混沌を思わせる。久世原阿久という男の影に、不気味に光るものがあった。
その光は邪悪。その光は悪意の権化。その光は混沌。総ての色を混ぜ込んだような、生理的嫌悪を催すような、異端の光。
ぬるりと、泥沼を掻き雑ぜたように澱んだ波紋が一つ。
波紋が起きた阿久の影から、骨のような、白く細いものが一つ。それは、指。細く綺麗な、白い指。
指に続いて掌が、手首が、細腕が。現れ、伸びる。
阿久の影から現れた、骨のように白い手の主は、そこから這い上がるように、生まれたての肉体を外気にさらす。
黒い髪、黒い服。そして雪のように白い肌。
白い肌を持つ、黒い女――アルラ。
「《天使の姫君》、まさかそんなところに隠れていようとは」
大して驚いた素振りを見せないアルバートに、アルラは「いいえ」と首を振る。
「到着したのは今さっき。間に合ってよかったわ」
ちらりと阿久を見たアルラは、小さく笑った。
それはまるで、「今度は間に合ったでしょう」と自信ありげに胸を張っているようで。
こんな表情が、出来るようになったのか。
ハッと、鼻で笑って。
「それじゃあ、始めようぜ」
アルバートが見守る中で、アルラは阿久の内へ消えるように溶けていき。
――ドクン。
阿久の肉体に、明確な鼓動が生まれる。感情が生まれる。全身に血液を巡らせ、冷えた心を熱くする。これが、“心臓”。これが、生の“鼓動”。
もう、心の何処かにあった壁は感じない。阿久とアルラは、二人で一人の吸血鬼。そのことが、今になってよくわかる。
「行くぜ、アルラ」
“ええ。共に行きましょう、阿久”
瞳は、真紅に輝き。
爪牙は、鋭く。
二人は、言った。
――食刑の、時間だ――。




