シャルロット・マーレイ
朝日で目が覚め、阿久は起き上がる。隣には、静かに寝息を立てるアルラが眠っていた。
今のうちに準備をしておこうと、阿久は残り少なくなってきた冷蔵庫の中にあるありあわせの食材で、ささやかな朝食を作っておく。
「……おはよう」
「おう」
アルラが、目を覚ました。
その後二人で朝食をとり、昨日の分も含めた食器を洗った。
アルラは本を読まなかった。
けれど阿久は、氷川悠斗から届けられた絵本を読んでいた。どうやら、阿久がアルラを探し回っている間に届けられていたらしい。相変わらず仕事の早い男である。
絵本のタイトルは『天使のはなし』。シャルロット・マーレイとかいう人物が書いた、何十年も昔の作品だった。
――しかし、百年前の文献を寄越せと言ったのに、どうしてあいつはこんな児童書を寄越したのか。
苛立ちながらも、阿久はその総てを読んだ。読んだけれど、まるで、意味が分からない。
内容は至って簡単だ。
空の国の天使を地上に無理やり落としたら、世界に毒物が蔓延した。その時に、毒物に対する薬物を作ろうとするのだが、それは出来ないと分かる。毒物から逃れる手段として、とある研究者は、人類を進化させることで人類を災いから救おうと考えた。
そして生まれたのは、人間の進化した姿である一〇人の黒い天使。けれど、黒い天使たちは、新たな毒物をまき散らす存在であった。このままではいけないと、地上に落ちた天使は自分の分身を作る。天使の分身が一〇人の黒い天使たちの毒物を取り込み、最後は天使総てが一つとなって、元の世界に帰る。
ただ、それだけの話。
いって見ればありきたりなハッピーエンドで、なんというか、阿久からしてみれば「だからどうした」という他なく、嘆息した。
もしかしたら、この天使というのはアルラに関係したものかと思ったが、あまり関係がなさそうだった。
一〇人の黒い天使。その毒を食べる小さな天使。
これは真祖とアルラのことを表したものではないだろうか。片隅でそんなことを考えるも、そもそも真祖は九人だ。一〇人も存在しない。そしてアルラが生まれたのは、ほんの数年前(阿久と出会う数か月前らしい)であると、先ほど確認を取った。
アルラが生まれる前から、アルラの話が出るというのは変な話だろう。
もしこれがアルラのことを書いたものであるとしたら、そいつは未来予知ができるのか、それとも神の啓示でも受けた者なのか。
神の啓示という言葉で、少しばかり思い当たる節があった。記憶によれば、《教会》を統べるマリアとかいうババアが、そんなことを出来たような気がした。しかし、阿久の知りえる教会のメンバーにシャルロット・マーレイなどという人物は存在しない。
念のために確認でもしてみようと思い、阿久は電話をかけた。
くしゃくしゃに丸まった小さな紙の中には、以前貰った電話番号が記されている。
まさか大英の帰りに国際電話の登録をしておいたのが、こんなにも早く役立つ時が来るとは。お望みならば、利用できるかぎり利用してやろう。悪い笑みと共に、阿久はスマートフォンにその番号を打ち込んだ。
二、三度コールが鳴った後に、「hello! Are you there?」と、女の流暢な英語が聞えて来た。
誰だコイツ。とだけ思って、阿久は電話を切り、もう一度番号を確認して再度電話する。
またもや女の英語が聞えてきて、これはあの鉈女が電話番号を書き間違えたんじゃないか、と疑ったところで、この女の声にどこか聞き覚えがあるように感じた。
「……俺だ」
試しに、そう言ってみた。
すると電話越しで、「あ」と察する声がする。
その発音は、外国人ではなく日本人のものだった。
「聞えてるか、俺だ」
『聞えています。日本ではおれおれ詐欺が流行していると聞きましたが、まさか大英のわたしにまでお電話をいただけるとは思いもしませんでした。日本警察に通報しておきますね』
「まぁ待て」
本当に電話を切られ、警察に通報されそうだったので、「久世原阿久だ」と名乗る。
『……ああ、誰かと思えば阿久ですか。紛らわしいので、次回からはさっさと名乗ってください』
「数日ぶりだな、久遠」
阿久が電話をかけた彼女は、久遠。
北条久遠である。
『ええ、数日ぶりですね。しかし、どうしましたか。もしや、わたしのが声が早くも恋しくて、電話でもされましたか』
「お前の声が恋しくなるやつは、多分ノイローゼだ」
『はぁああ!? 何言ってるんですか! 言っときますけど、わたしの声はこれでも美声と教会の一部からは評判高いですからね! そんなこと言っていつか後悔しても――』
「んなことどうでもいいから、教えろ。教会にシャルロットとかいうヤツはいるか?」
久遠の文句を最後まで聞かず、自分の要件を電話にねじ込んだ阿久に小声で文句をいいつつも、久遠は『わたしが知る限りではいませんね』と告げた。
「お前が知らない確率は」
『ほぼ無いですね。現在の使徒の全員は把握しているつもりです』
「過去の使徒には? それか、その親族には?」
『さぁ。どちらにせよ、今も昔も、わたしが把握している中では存在しませんね』
「……使えねぇな、お前」
『それは聞き捨てなりませんね、阿久。わたしが使えないとは。これでもわたしは次期白円卓の最優先候補で――』
また何か文句をぐちぐちと言われそうだったので、阿久は電話を切った。
となると、シャルロット・マーレイは《教会》とは関係がないのだろうか。それとも、白円卓の内の誰かの別名義なのだろうか。けれど何十年も前に書かれた絵本だし、事実と合致しない部分もある。
考えてみたが、とても自分一人の知識で出せる答えは無いと判断し、考えるのをやめて、ぽいと、阿久はスマートフォンを放り投げた。
無理やり電話を切ったことから、久遠が電話のコールをかけるかもしれなかったので、マナーモードにしておいたら、案の上。数十分後には大量の着信が残されることとなった。
もちろん、すべて無視した。
☆
「そういえば、アルラ」
「なにかしら」
久遠からの大量の着信を無視しつつ、阿久は隣に座っているアルラを見る。
「お前、記憶が戻ったって言ったよな」
部屋の隅であぐらをかき、窓を見ていた阿久を見て、アルラは「ええ」と頷いた。
「過去を全部、話せるか」
「……いえ。わたしが何であったのかは思い出したのだけれど、それ以外が少し、あやふやなの。それもなんとなくは自分で理解しているつもりなのだけど、言葉で人に伝えるのは難しい。ただ、これだけは言えるわ。――百年前の空白の歴史が、大きな意味を持っている」
やはり、百年前。
百年前の空白に、何かがある。それは間違いない。間違いないのだが、しかし……一体、何があるのか。それが、まったく見当もつかない。
「わかった。……また整理出来たら、話してくれ」
立ち上がった阿久を見て、アルラはその姿を目で追った。
「何処かへ行くの?」
アルラの問いに、阿久は答えた。
「少し、外へ出ないか」




