俺たちの在り方
立ち並ぶ、ビル。
ビルの下に止まった車には、人が落下したような潰れた跡があり、また付近の壁やアスファルトには、得体の知れないものが掘り進んだような跡がある。そして、根元から屋上にかけて、縦に切断された高層ビルが一つ。
その正面、べこべこに凹んだ車に座る者がいた。
雨が降っている。それなのに、傘も差さず、ビルの傷跡を懐かしむように眺めている女がいた。
黒い服、白い肌。長い黒髪の、女だった。
「……さようならって、言ったのに」
女は振り向くこともなく、阿久に言った。
「聞いた覚えはないな」
阿久はその場に立ったまま、言った。
「そうね。あの時あなたは、寝ていたから」
ほうとため息をついて、彼女はつづけた。
「わかりやすく、本に紙も挟んでおいたのに」
それは目にした。けれど、そんなにわかりやすいものでもなかったと思う。
「……そうだな」
ため息と一緒に、阿久は言葉を吐き出した。
しばらく、間。
雨の音だけが、鼓膜を叩く。
阿久は、ここでアルラを連れ帰らなければならない。けれど彼女がどんな理由で彼の下を去ったのか、明確にはわからない以上、下手なことは言えないと思った。
なにも言えずにいる阿久に、「阿久」とアルラが先に口を開いた。
「わたし、少しだけど思い出したわ」
その声に、感情はない。
「何をだ」
「わたしの、過去。此処で、あなたと出会う前の」
その声に、抑揚はない。
「……そうか」
「あのね、阿久。うすうすわかっていたのだけど」
その声に、感情も抑揚もない。
それなのに、どうして。
彼女の声は、悲しみに満ちていた。
「――わたし、やっぱり人間じゃなかったよ。それどころか、吸血鬼ですらなかったの」
自虐を思わせるセリフ。ゆっくりと、振り返ったアルラ。
その目には、涙が流れていた。
雨が降っている。その雫が頬をつたったというわけでなく。
彼女は確かに、泣いていた。阿久にぎこちない笑顔を向けてはいるものの、けれど笑いきれていなかった。口元だけは笑ってはいるものの、その目だけは、溢れる悲しみを零していた。
今の彼女には、確かな悲しみの表情があった。
彼女が表した、初めての表情。
それなのに、見ていられないほど、痛々しかった。
思わず阿久は、拳を握った。
「わたし、阿久と一緒にいられない。人間ではないから、阿久と一緒になれないの。わたしといたら、阿久は傷つく。戦いに巻き込まれてしまう。阿久は、わたしといたら幸せになれないの。あなたは、人として、人の世界で生きていくべきなの。あなたは、とても優しい人だから。……だから、さよならって、言ったのに」
どうして、探すの。
どうして、見つかるの。
ボロボロと、彼女は目から涙を零した。
雨粒よりも大きな雫を、その瞳から。
「本当はもう、日本を出ようと思ったの。でも、この雨。あの日を、思い出させるから」
初めて出会った、あの時。
あの、ひどい、雨の夜。
阿久が、心臓を失って。
アルラが、阿久の半身となったあの日を、思い出す。
「わたしは、あなたと一緒に居たい。わたしは、阿久が好きだから。あの日から、ずっと、わたしはあなた無しの生活なんて考えられない。でも、それではダメ。わたしのせいで、阿久は不幸になってしまうから」
「どうして俺が、不幸になるんだ」
「わたしがいたら、戦いに巻き込まれる。わたしはきっと、生まれた時から祝福されない存在。真祖を喰らうためだけに生み出された、堕天使の“心臓”。モノを殺すために生まれた兵器と一緒にいたら、阿久だって不幸になってしまうもの」
事実アルラは、久世原阿久から多くのものを奪ってきた。
久世原阿久から心臓を奪った。
人としての生き方を、心を、身体を――魂を奪った。
久世原阿久はアルラのために住居を決め、アルラのために服を買い、アルラのために、吸血鬼たちと戦った。
そして、大切なものを失った。南かえでを、失った。
「――南かえでを、覚えてる?」
「ああ」
「彼女とは大した時間を過ごしていない。すこし会話をしただけ。少しの間、同じ部屋で生活をしただけ。なのに、彼女が死んだとき、わたしの胸には穴が空いた。とても、痛かった。……でも、だんだん痛みがなくなっていくの。彼女との思い出を、忘れていくの。日々が過ぎる度に、時間が経つたびに。――わたしは、それが、すごく嫌。
もし阿久が死んだら、きっと、もっと痛い。だけど、いつかはきっと、痛くなくなってしまう。時間が経てば、忘れてしまう。それは嫌。それだけは、嫌。一緒にいたい。ずっと、一緒にいたい。でも、阿久が死ぬのは、絶対に嫌。
わたしがいなくなれば、阿久が狙われる理由がなくなる。だから、わたしさえ阿久の前からいなくなれば――」
「……そうか」
アルラの言葉を途切るように、阿久が相槌を打った。
言おうとした続きを押し込めて、アルラは結論を述べる。
「だから、もう放っておいて。これ以上は、もう……あなたとは、居られない」
目を伏せるアルラ。
目を伏せて、悲しむアルラ。
彼女とは対照的に、いつものように退屈そうな顔をした阿久は、小さく唸り、頭を掻いた。彼女の隣に向かって歩き、彼女の腰かけていた車にどっかりと腰を下ろした。
小さな車体が、彼の体重で僅かに揺れた。
アルラの肩が、小さく震える。
これから、なにを言われるだろう。
思ったアルラに、阿久はさらりと。
「言いたいことはそれだけか。……なら帰るぞ、アルラ」
よくわからないことを、言う。
「話、聞いていたの」
彼女の声には、悲しみと、僅かな怒りと困惑が混じっている。
「ああ、聞いた」
「なら、どうして」
阿久の言いたいことがわからないと、アルラは普段は微塵も動かない眉を寄せた。
対する阿久は、こんなこともわからないのか、とでも言いたげな様子で嘆息し、肩を竦めた。
「お前昨日、二つの質問をしたよな。俺の幸せとは何か、お前をどう思っているか、……ってな。まだ、覚えてるか」
「……忘れるわけ、ない」
その質問の答え。それは、久世原阿久の胸には、とうの昔から存在していた。
ずっと、阿久はわかっていた。ずっとずっと、わかっていた。阿久の中で、アルラは本当に大切な存在であるのだと。
――きっと、初めて出会ったあの時から、俺はお前に惚れていた。
昨夜は言うのが照れ臭かったから言わなかったけれど、こんな言葉でも、お前が欲しいと願うならくれてやる。
空を見上げて、阿久は大きく口を開いた。
「俺の幸せは、惚れた女と一緒に生きることなんだと思う。そして、俺にとってお前は、唯一無二の女だ。他の誰にも渡さない。……俺の、女だ」
その言葉に、アルラの思考は理解が追いつかない。
「それは、どういう……」
意味かしら。
続く言葉を告げる前に、阿久が言った。
「俺の傍に居ろ」
その言葉は、生涯、久世原阿久が発した言葉の中で、もっとも強い心を持って告げた言葉であった。
彼女と共に道を進む困難は、よく知っている。
それでも、阿久は。彼女と共にいたいと、望んでいる。
だったら、困難などという壁など些細な問題だろう。
望むものがある。その前に困難が立ちふさがるからと逃げてしまっては、そんな気持ちは嘘だろう。阿久は、望んでいる。心の底から、彼女と共に生きることを望んでいる。であれば、その前に立つ困難などは、残らず総て小さなハードルだ。
例えその困難が、真祖総てを相手にすることだとして。
例えその困難が、教会総てを相手にすることだとして。
例えその困難が、この世界総てを敵に回すことであったとしても。
その総てを乗り越えてでも、阿久は彼女と共に生きる未来が欲しいと望んでいる。
「でも、わたしは――」
「……『でも』、なんだ」
――わたしは、人間ではないから。
ぽつりと、彼女は言った。
「なぁ、アルラ。人間だとか、人間じゃないとか、実際どうでもいいだろ、そんなもん」
本当に、本当にアルラが何であるのか、心底どうでもい様子で阿久が言う。
「大切なのは、そこじゃない。本当に大切なのは、お前の気持ちと、俺の気持ちだ。お前は俺と一緒にいたいんだろ。俺は、お前と一緒にいたい。だったら、迷うことなんてないはずだ」
「でも、それでは阿久は、真祖たちに殺されてしまう。あなた、戦って知ったでしょう。第七真祖、そして第四の血族を。……まだ、強い真祖は他にいる」
「――だったら、なおさら共に戦わなきゃいけないな。お前が死んだら、俺もきっと死んじまう」
比喩などではなく、文字通り。あの日から、アルラは阿久の“心臓”だ。もしアルラが死んでしまったら、阿久の心臓が消えてしまうかもしれない。
アルラがいたからこそ、阿久はあの日、死なずにこうして生きているのだから。
「――ッ」
阿久の言葉を理解したようで、アルラは唇を噛む。
それでも、納得はしていない風だった。
雨音が、響く。
互いに口を開かない。
アルラが、腰を下ろしていた車体から降りた。
「なら、わたしが死ななければいい」
それだけ告げたアルラは、その場を去ろうとした。
それは、違う。と、阿久は思った。
それでは、アルラはきっと幸せにはなれないだろう。
――いや、それは勝手な憶測だ。アルラはもしかしたら、他の誰かと吸血鬼喰いとなり、心を通わせることで幸せになる事ができるかもしれない。
けれどそんな未来は、想像するだけでも嫌だった。
初めてアルラを見た時に、阿久は彼女の事を、表情のない、つまらなそうな女だと思った。幸薄そうな女だと思った。それと同時に、この女の笑顔を見てみたいと思った。
この女は、顔だけはいい。
表情がなさそうで、幸も薄そうなこの女がもし笑ったら、自分はどう思うだろう。
そんなことを、ふと思った。
久世原阿久は、その時にはもう、アルラという女に惚れていたのだ。彼女を笑顔にしてみたい――彼女を幸せにしてやりたいと思った時点で、どうしようもなく、彼女に魅かれてしまっていたのだ。
他の男に、彼女の笑顔は見せたくない。
誰でもない、自分のこの手で、表情のない幸薄女を幸せにしたいと思うのだ。
「待て」と、阿久はアルラを引き留める。
「……なにかしら」
アルラが、止まる。
此方に顔を向けることはなかったが、耳は傾けているらしい。
阿久は続けた。
「アルラ。お前、かえでが死んで苦しかったって言ったな。忘れたくないって言ったな。けどさ……お前だけじゃないだろ、それは」
吸血鬼喰いは、二人で一人だ。
この心臓を、共有しているのだから、同じ感情を抱かない理由が何処にある。
「あいつの死は、俺だって苦しかった。悲しかった。でも、忘れていくんだ」
胸にあいた大穴は、塞がっていく。
どんな大穴だろうとも、怪我と同じように、塞がってしまうのだ。
時間が経てば経つほどに、彼女との思い出は色褪せる。遠い過去へと成り果てる。
「なぁ。あいつ、どんな声だっけ。あいつ、どんな風に笑ったっけ。……少し前は、全部覚えてた。ほんの少しの間一緒にいただけなのに。なのに、なんでだろうな――少しずつ、忘れていくんだ。あいつがいない世界が、当たり前になっていくんだ。悲しいよな、辛いよな。俺も、同じ気持ちなんだよ」
だから。
――だから。
「だから俺だってな、お前と同じだ。お前を差し出して俺だけが助かるなんざ、断固拒否する。けど、俺が死ぬことでお前が助かるのなら、俺は喜んで死んでやる。幸い俺が死んだところで、お前は死なないからな」
雨の中。
アルラが、阿久へと振り返った。
「駄目、それじゃ意味がない――」
振り返ったアルラの目を、阿久は見る。
しっかりと。
「ああ、そうだ。意味がない。お互いがお互いを犠牲にすることを望んでいない。だから、俺たちの選択肢は最初から一つしかないんだよ」
二人がいつまでも一緒にいるために、行うべきは。
――現存している真祖を、全員残らずぶち殺す。
阿久が、言った。
「お前はただ、自分の力に自信が無くて、逃げ腰になってるだけだろう。戦い続ければ俺が死ぬ? なんだそれは、勝手に俺の限界を決めんじゃねぇ。俺は、絶対に死なない。お前だって、絶対に守りきる。簡単なことだろうが。勝てばいいんだよ。勝ち続ければいいんだ、俺たちは。そうして、世界の総てを喰らえばいい」
残る真祖、第二、第三、第四、第五、第六、第九、総てを殺す。
愛した者のために、邪魔な奴らを皆殺す。もし教会が阿久の邪魔をするというのなら、その教会総てを皆潰す。
慈悲は無い。情けもない。
「――それが――」
人を餌にする、吸血鬼。
吸血鬼を餌にする、“吸血鬼喰い”。
すなわち、人を喰らうものを、“喰らうもの”。
邪悪を喰らう、邪悪なもの。
彼らはもともとが、そういう“もの”であったのだ。
故に。
「それが本来の、俺たちの在り方だろう」
阿久は、アルラを見た。
アルラもまた、阿久を見て。
それから、くすりと。
小さく、笑って。
「――そうね、そうだった。少しナイーブになっていたわ。ええ、本当、あなたの言う通り。わたしたちは、総てを喰らうもの。わたしたちに喧嘩を売るならば、たとえ世界であっても容赦はしない」
「ああ、そうだ。俺たちは、それでいい」
求めるものは、我欲を満たす互いのみ。
世界は知らぬ。他も知らぬ。己が良ければ其れで良し。
利用できるならば利用する。邪魔をするなら喰い殺す。
とうに腐りきった、我欲に生きる魂こそが。
――あの日。久世原阿久と、アルラの共有した“心臓”であったのだから。
☆
その日、阿久はアルラを連れて帰宅した。
アルラの身体が異常に冷たくなっていたものだから、阿久は着替えて風呂を沸かし、アルラは毛布でくるめておいた。
「あなたのほうが寒いでしょう。一緒に入れば、もう少し暖かくなると思うわ」
そんなことを言われたが、なんだか恥ずかしかったので、阿久は布団をかぶることにした。
少し熱めの風呂を沸かして、アルラを先に入れる。その間、毛布は阿久が使用した。アルラが出た後に、身体をタオルで拭かせ、彼女の長い黒髪をタオルで束ねて、例のパジャマ代わりになるワンピースを着せて脱衣所付近に座らせ、阿久もさっさと風呂に入る。
すぐに出た阿久は、アルラの髪を乾かした。
自分の髪も乾かして、それから軽い食事を作った。
アルラも手伝うと言って、多少の手伝いをしてくれた。
食事を終えて、就寝の準備を整えた阿久は、布団に入る。
同じ布団の中にはもう一人。アルラが、すぐ横にいる。
「おやすみなさい」
言った、アルラの声は。
いつもの抑揚のない声ではなく。
少し。ほんの少しだけ、嬉しさに弾んだ声だったように思う。




