寒い夜
この身も、この心も、あなたのもの。
あの雨の日。あなたはわたしを助けてくれた。
わたしは、あなたを助けたいと思った。これまで会った記憶もなければ、言葉を交わした覚えもない。それなのに、どうして。言葉に出来ない何かに意志を突き動かされて、わたしはあなたと生を共にした。
今にして思えば、わたしはきっと、あなたに一目で惚れていた。だから、あれほどあなたを助けたいと願った。
久世原阿久。大好きな人。――あなたの心臓になれて、良かった。
アルラは、布団から這い出た。
阿久はどうやら、ぐっすりと眠っているらしい。
その頭を、撫でる。
「ごめんなさい。――さようなら」
――あなたと過ごした日々は、とても楽しかった。
アルラは一言告げて、扉を静かに閉じた。
いつもの服を着て、アパートの外に出る。
行く当てはない。目的もない。ただ、誰にも見つからないところへ。彼の心臓として、ただ生きていける所へ。
ゆくゆくはこの国を出て、大英へ向かう。今は適当にこの街を歩いて、行けるところに行けばいいだろう。
そう思って、アルラは歩いた。
「こんな夜に一人は危ないねェ、ねーちゃん。つかそれコスプレ? エロイなァその服」
歩く途中、ガラの悪い男たちに捕まった。
試しに、男の一人に触れてみた。そして、《吸血鬼喰い》として彼の内に入り込もうと思ったが、やはり駄目だった。何かに弾かれるように入れない。まるで、心の壁とでもいえるものがあるような、奇妙な感覚。
ガラの悪い男の持つ、常識という心の壁。阿久以外とは、共に在りたくないという、アルラの拒絶。互いが互いを拒んでいるからなのか。
やはり理由は、わからない。そのまま歩き去ろうとすると、男に腕を掴まれた。
アルラから男に触れたことが、身体を許すOKサインと取られたのだろうか。ガラの悪い男は涎を垂らしてズボンを下げた。汚らわしいと思ったので殴ったら、他の男たちがアルラに掴みかかろうとした。五、六人を同時に相手どるのは面倒だったので、そこいらの闇に潜った。すると、幽霊だのなんだのと騒いで、どこかへ走り去っていった。
歩いた。
とにかく、歩いた。
たまに、夜の街を歩く人々に触れた。この時間にはガラの悪い人間しかいなかったけれど、試しに触れてみた。やはり、《吸血鬼喰い》になることはできなかった。そしてやはり、アルラは何かしらの壁を感じた。
時折、欲情した男や、レズビアンの節があるように思える女に襲われそうになったが、そういうときはとりあえず、闇に潜った。
アルラは、探した。
久世原阿久の代わりに戦える人間を、探した。
先へ、先へ。アルラは歩いていくうちに、人の数が減っていることに気が付いた。人が少ないと、吸血鬼喰いになれる人間を探せなくなるために不都合だと思ったが、今日はもう疲れた。また明日、吸血鬼喰いになれる人を探そう。そう思えば、今は一人になって休むのも悪くはない。考えたアルラは、人の少ない道の先へと進んでいった。
そうして、とある場所へ行き着いた。
四番ゲートのビル群、その一角。
ほんの先日、第七真祖ウォルターと死闘を繰り広げた場所。その場所はウォルターの鎌鼬や久遠の鉈、そして阿久によってつけられた傷跡がそのままにされており、その先には、アルラにとって最も特別な場所があった。
巨大な土竜が通ったかのように、奇妙な形で盛り上がったアスファルト。人型の何かしらが落下して凹んだような形の、奇妙な車。大きく縦に切断された、巨大ビル。
此処は。この場所は。
「――もう、数年も昔のことなのね」
あの時のことは、今でも思い出せる。
酷い雨。曇り空。追われる者に、追う者。そして、傘もささずに歩く男。
そう、この場所は。
久世原阿久と、アルラが出会った場所だった。
そして、それ以前の事を、アルラは少しずつ思い出していた。
失った記憶を思い出し始めたのは、そう。ウォルターと戦ってからか。それとも、かえでの心臓を喰らってからだったか。その頃から、アルラは夢を見るようになっていた。
それは、過去。昔の、夢。
その夢を見ていくうちに、アルラは、うっすらと自分が何者であるかを想像していった。
おそらく、人間ではないだろう。
そんな予想はあったものの、けれどその事実は、どうしようもなく。
――阿久と、共に生きていたい。
どうしようもなく、彼女の些細な望みすらも破壊する、理不尽そのものであった。
彼女は、人ではなかった。それどころか、生物とすら呼べない類のものであった。
アルラの正体は、曰く《堕天使》によって生み出された吸血鬼の抑止力。人の力が及ばぬ毒を殺すための毒である。力を、より強い力によって破壊する兵器である。吸血鬼喰いとなり、総ての吸血鬼を滅ぼすために生まれた、兵器である。
自分のような、モノを殺すためだけに生まれた兵器が、幸福になっていいはずがない。そして兵器を片手に戦いを強いられる者もまた、幸福になれるはずがない。
兵器とは、戦いを呼ぶものだ。死を呼ぶものだ。人を、不幸にするものだ。
それは使い手にとっても、例外ではない。
アルラと共にいれば、久世原阿久は戦いに巻き込まれてしまう。己を片手に、吸血鬼との戦いを強いられる。
第七真祖ウォルターと戦ったときのことを、思い出す。
死ぬかと思った。自分の死が、怖かった。けれどそれ以上に、阿久の死が怖かった。
目に焼き付いた死が、離れないのだ。
――南かえでの死体を見た。
生きているように見えた。まだ体に熱は残っていた。だというのに、その目はもう、開かないとわかった。どうしようもない『無』が、彼女から感じられた。これが死。これが、モノの終わり。
今では、塞がりつつあるけれど。あの時の、胸に空いた空白は、簡単には消えてくれなかった。
阿久を巻き込みたくはない。自分は幸福になるべきではない。その気持ちとは裏腹に、阿久と共に居たいと願う自分がいる。幸福になりたいと願う自分がいる。もし自分が人間であったのなら、あるいはその願いを叶えることができたのかもしれない。
――けれど、ダメなのだ。
自分は道具。それも、兵器の類。吸血鬼を殺すための吸血鬼。吸血鬼を殺すことが使命である以上、戦いからは、避けられない。
そして、戦いの隣にはいつも『死』が存在している。
これから行われる戦いは、更に苛烈を極めたものになるだろう。
――このまま戦い続ければ、阿久は、いつか死んでしまう。
だから、離れるべきなのだ。これが、正しい選択。唯一、兵器である自分が久世原阿久を幸福にできる、ただ一つの方法。
あとは、自分が一人で戦えばいい。総ての真祖を、倒せばいい。
これが、最善。これこそが、正しい道なのだ。
アルラは、思う。
なのに。それなのに。
「……寒い」
この気持ちは、なんと言うのだろう。
南かえでが死んだ時とは、違う。悲しみの類なのだろうけれど、また別の何か。胸が張り裂けそうで、いっそ死んでしまいたくて。でも、胸に残る使命がそれを許さなくて。どうにも、できなくて。
寒かった。
とにかく、寒かった。
気温など、アルラの肉体を前にしては大した意味を持たない。もとより、彼女の肉体は人のそれとは異なるものであるのだから。それなのに。そのはずなのに。先ほど抜けた布団の暖かさがまだ、この胸に残っている。
けれど、その暖かさが失われてしまいそうで。
それが、どうしようもなく、寒かった。
――寂しい。
初めての感情が、アルラはどのようなものなのかわからない。どうすればいいのかも、わからない。だから、己の肉体を抱きしめた。
「……寒い……」
空に、月は見えない。
その夜は、雨が、降りそうだった。




