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悪なるミタマ  作者: 九尾
第二幕 ウォルター編
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己の道

 ――俺たちは、悪なるものだ。

 己は悪。己は邪悪。

 悪を悪にて害す外道。外道を外道となりて葬る外道。


「ならば、阿久。あなたはこれからどうするの」


 アルラの問いに。


「俺たちは、悪だ。悪党が事を成す際、何をするか知っているか」


「手段を選ばず、目的を遂げる」


「ああ。そして俺たちの目的は何だ」


「総ての吸血鬼を、喰らうこと」


 そして、その手段は選ばない。

 第七真祖ウォルターは強敵だ。彼は大城玄道から受けた巨大な傷によって満身創痍であろうが、こちらもウォルターや久遠から受けた傷で満身創痍。同じ条件ならば、ウォルターに勝てる道理はない。

 であれば自分たちは、どうするべきか。


「――利用する。俺たちは総てを、利用する」


 ――北条久遠を、利用する。


        ☆


「残念だったな、まだお前は死ねない。此処で死ねなかったことを、死ぬまで後悔するといい、クソ鉈女」


 血まみれでビル群の一角に倒れ、ウォルターからとどめを刺されようとしている北条久遠を見つけた阿久は、彼女を庇うように立ちはだかる。

 ウォルターの目が、見開かれた。

 強く歯を食いしばり、その顔を醜く歪めた。


「吸血鬼喰い……お前、何をしに来た」


 ピクリと、久遠の右手が反応した。

 どうやら、阿久たちが来るなどとは思ってもみなかったらしい。

 それも仕方ないか。阿久も初めは、来るつもりなど無かった。

 しかし、本当の目的を思えば、仕方ない。

 北条久遠の頼みごとを聞いたと思えば、腹が立つ。しかし、北条久遠を利用しに此処へ立ったと思えば、何故だろう。どうにも心が落ち着いた。


「どうして此処に……。わたしたちの協力関係は――」


「は。勘違いすんな。俺は俺のために此処に来た。断じてお前の為じゃない」


 ……それでも、感謝します。

 呟いて伏せた久遠に「あっそ」と言い捨てた阿久は、眼前に迫った小さな暴風を、硬質化させた右腕で弾いた。

 完全な不意打ちであるとウォルターは思ったかもしれないが、残念。阿久の意識は久遠になどなく、既にウォルターへと向けられていた。


「まさか、此方に意識を向けてくれていたとは。嬉しいよ、吸血鬼喰い」


 先ほどの顔とは打って変わり、ウォルターは僅かに機嫌を直したらしい。少しばかり微笑んだ。

 もっとも、その機嫌もここまでだ。その顔、二度と人前に出せないほど醜く潰してやると、阿久は心に刻む。


「久しぶりだな、クソガキ。今度こそてめぇをぶち殺す」


 ビッと、親指を立てた右手で首を斬り、一気に下方へ親指を落とす。

 ――此処で、死ね。

 そのジェスチャーを見て、ウォルターの額に青筋が立った。


「それはこっちのセリフなんだけどな、吸血鬼喰い」


「やってみろカス。やれるもんならな」


「は――ははははッ! 言ったな塵屑が! 真祖を舐めるんじゃないぞ、今度こそ塵に変えてやるよ下等種ッ!」


 ウォルターが風を包んだ球体を、右手に集めた。

 どういうわけか、左腕がウォルターの隣に転がっている。けれど、ウォルターの左腕は確かに存在している。それを見て、阿久は考える。

 なるほど、久遠は最後に片腕を奪ってくれたらしい。今はもう左腕が再生してしまったが、それでも十分すぎる働きだ。利用するに値する。

 だからこそ、此処で死なれてしまっては困る。

 仕方ない。不本意ながらも守ってやることとしよう。

 阿久は右腕を変身させ、巨大な黒い腕を創り出す。

 長さは阿久のくるぶしにまで伸び、その質量は元来の右腕のおおよそ五〇倍。簡単には斬らせない。また、簡単に攻撃を通らせない。この腕は、これより対ウォルター戦の重要な盾になる。


「行こうぜ、アルラ」


 ――ええ、行きましょう。

 そして、生きましょう。

 “心臓”の声を聞き、阿久は腰をかがめた。

 ウォルターの弱点は、(うっす)らとであるが見えている。

 アレは無敵の砲台だ。風を操り空を舞い、己を覆う壁と敵を穿つ弾丸に、攻守双方の臨機応変な戦い方が出来る。しかし一つ、攻守双方の臨機応変を崩す方法がある。

 それが、近接戦闘だ。

 確かにウォルターの風は脅威だ。アレは骨すら容易く斬れるし、右手に球体を込めて放ってはいるものの、あの型など本来必要ない。好きな時に、好きなように、その風で敵を切り裂く鎌鼬。それが、ウォルターという兵器である。

 しかし、彼も一人の生物だ。死ぬのは怖い。

 昨日の戦闘のように頭のねじが飛ばない限りは、攻撃よりも防御を優先するだろう。だからこそ、その精神には突く隙がある。

 近接戦闘に持ち込めば、ウォルターは風を放つことよりも、防御の風に力を使うだろう。となれば、一方的に攻められることになった時、ウォルターは防戦一方だ。

 対する阿久の得意とするのは、己の身体を変身させての近接戦闘。確かに多少の遠距離攻撃も可能であるが、なにより遅い。しかし近接戦闘ならば最低限の速度で攻撃を当てられるし、なにより質量を無視した変身能力のために重い一撃を繰り出せる。

 攻撃は最大の防御。やられる前にやれ。

 ――敵の防壁ごと、押し潰す。


「そら避けてみろォッ!」


 今度は簡単には弾けないであろう大きな暴風。

 当たれば裂ける、触れれば斬れる。

 けれど、今更怖気づいてなどいられない。

 此処で避けてしまえば、ウォルターは着地地点を狙って風を放つだろう。繰り返し、繰り返し、着地地点を狙われては避けて、狙われては避けての繰り返し。それでは防戦一方だ。

 言ってしまえば、銃を持った相手に遠距離戦を行っているようなもの。

 ここでは、避けない。このまま、突破する。そのための、右腕。

 阿久は右手を伸ばし、その右手に隠れるように暴風の中に突っ込んだ。

 避けるという可能性はありこそすれ、まさか正面から突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。ウォルターの目が見開かれた。

 その隙を突くように、阿久は左腕を伸ばす。

 伸びる、左腕。それは阿久の左腕本来の長さを無視して、鋭い刀剣となりウォルターへと突き進む。

 しかしこれはウォルターの前で一度は見せた手だ。今度は食うまいと、ウォルターはその場を跳躍して離れた。


「逃がすかよッ!」


 阿久は視線でウォルターを追う。

 ここで離れて、一方的に的にされてはたまらない。今のこの瞬間を利用し、距離を詰める。

 阿久の左腕はある一点を境に五本へ別れ、そのそれぞれが別ルートでウォルターを狙った。


「なかなかしつこいね……追いかけられるのは嫌いじゃないんだけどさ――」


 一本、ウォルターは風を駆使した縦横無尽な空中旋回によって回避する。次ぐ二本も左、右と、阿久の細い剣が触れるかどうかというすれすれの距離で回避し、背中に迫る一本は放った風によって切り裂いた。

 残るは、一本。

 ウォルターの背後にあるビルのガラスを突き破り、それはウォルターの心臓を狙う。


「――あんまりしつこいのは、好みじゃない」


 しかしそれも、ウォルターは察知していた。風の壁を正面に集中展開し、その矛先を逸らす。


「なんだ、これで終わりかい。案外たいしたことはないんだね」


 ウォルターが嘲笑し、阿久を見下ろそうとしたときに。


「……おう、そうかよ」


 その声は、すぐ近くから響いて来た。

 すぐさま阿久の居た場所を見る。誰も、いない。


「しまッ……」


 ウォルターは、あまりに阿久の腕に集中しすぎた。

 そのために、阿久本来の姿を追うことをおろそかにした。

 ウォルターが阿久の左腕に集中している間、阿久はビルの側面を駆け、跳躍。そして今、こうしてウォルターの上から、ウォルターに向けて手を突き出している。

 ウォルターの展開した防壁は、彼の正面に展開されている。そしてそれ以外には――防壁はない。

 阿久はウォルターの頭上で拳を握り。


「喰らえ、案外大した事ねぇ拳をよ」


 意趣返しとばかりに、阿久は先のウォルターの言葉をなぞり、その顔面を防壁のない上方より思い切り殴りつけた。

 めりめりと頭蓋が軋み、その顔があまりの衝撃に振動する。


「がァ……ッ」


 地面に急降下するウォルターだが、まだ落とさない。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた阿久の左腕、その節々からは更に細い剣が無数に飛び出し、その総てがウォルターの肉体を貫いた。

 心臓辺りを重点的に狙ったが、心臓の周囲には咄嗟に風の壁を展開したらしい。狙いが逸れる。だが、ウォルターの肉体を空中に押しとどめることには成功する。

 再度、右拳を握る。


「おら、もう一丁ァッ!」


 その拳を、ウォルターの心臓目がけて叩き付けた。

 風の壁をぶち破り、その拳が心臓に喰らいつき、ウォルターの身体がバキバキと音を立て、心臓部を中心としてくの字に折れた。


「が――ブぁッ」


 あばらを粉々にする感触。おそらくそれらのいくつかは臓器に刺さっただろう。だが、だからどうした。


 ――阿久は、優しいね。


 否、優しくなどない。無慈悲だ。


 ――助けてくれて、ありがとう。

 

 違う、助けられなかった。目の前で死なせてしまった。

 だからもう、二度と迷いはしない。

 南かえでの笑顔は、声は、もう、見えないし聞えない。残ったのは、彼女の心臓(ココロ)だけだ。

 結局阿久の目に映る女は、あの夜同様、ただ一人。

 過去、己に心臓をくれた人。己に、心をくれた人。己に、生の実感を与えてくれた人。

 そして、何より大切な人。


「これでいいんだろう、アルラ」


 ――それが、あなたの選んだ道ならば。

 “心臓”が、呼応するように跳ね。

 阿久の右腕が、ウォルターの肉体を吹き飛ばし、アスファルトの上へと叩き付けた。

 ゴバリとアスファルトを抉ったウォルターの肉体は、完全に沈黙している。殺すなら、今が好機。


「ここから先、作戦はない。一気に攻める」


“ええ。ただし、気を付けて。これで終わる相手じゃない”


「ああ、わかってる。殺すまで油断はしねぇ」


“では、行きましょう”


 左手をもとに戻した阿久は、右腕をビルのコンクリートに打ち付け、己の肉体を引き寄せるようにビルの側面へ足を着ける。そしてそのまま、下方へ向けて駆けた。

 重力の落下速度にも負けず劣らず、高速で下方へ進む。

 狙いは、一つ。ウォルターだ。

 もとに戻した左腕を刃物状のものに変え、攻撃範囲に入った瞬間一気にその心臓を貫こうと――。


「いい加減にしろよ、クズめ……」


 突き出した刃を、ウォルターは素手で止めていた。

 やはり、腐っても真祖。忌能などに頼らずとも、その肉体性能は、並みの吸血種を凌駕する。


「……チ、先制もここまでか」


 阿久の左腕の刃を受け止めたウォルターは起き上がり、それをボキリとへし折った。

 ――激痛。しかし、痛みに呻いている暇はない。

 未だ健在の右腕でウォルターに殴りかかるが、左手に止められ。左腕を元に戻して振るうが、右手に止められ。

 完全に互いの手を掴む状態で、力比べは拮抗する。


「おい、吸血鬼喰い。どうだ、このまま力比べでもしてみるか?」


「冗談。負けた瞬間ネジ飛んで、鎌鼬でバラバラに切り刻むだろうが、てめぇは」


 クク、と笑ったウォルターは、「確かに」と口を三日月に釣り上げた。

 ぐっと、力がこもる。

 このままでは阿久の腕が折られて、そのまま押し潰されてしまう。

 ちらりと、久遠を見る。

 まだ、動くことは出来なさそうだ。

 ――仕方ない。

 少々疲れるが、ここで本気を出してやる。


「……行こうぜ、かえで」


 ――ドクン。

 阿久の肉体に、明確な鼓動が生まれる。感情が生まれる。全身に血液を巡らせ、冷えた心を熱くする。これが、“心臓”。これが、生の“鼓動”。

 瞳は、真紅に光り輝き。

 爪牙は、更に鋭く。

 その背に、漆黒の片翼がずるりと生えた。


「お前、その姿は……」


 以前見せた、進化のカタチ。

 どうやら、かえでの心臓を取り込んだことにより、アルラの力の鱗片が解放されたらしい。自分の意志で、阿久はこの力を制御することが出来るようになっていた。

 ウォルターは視線をずらして、阿久の左側に生えた翼を見る。

 そして再度、真紅に輝く阿久の目を見た。


「やはりそれは、堕天使の――」


「堕天使? 意味わかんねぇこと言ってんな。こいつはてめぇが喰った女がくれた、最高の贈り物だ」


 どうしてかえでの心臓を喰らった時、この翼が生えたのか。

 もしかしたら、あの夜以降、阿久に心臓が無いことに影響してるのかもしれない。

 これまで存在しなかった心臓がこの身に宿ることによって、新たな力を呼び起こしたのか。いや、それとも、何か他の要因があるのか。

 いずれにせよ、どうでもいい。

 此処に、かえでの心臓がある。それが、力をくれる。

 阿久にとっては、それだけだ。

 これは堕天使の翼だとか、そんなくだらないものじゃない。


「てめぇみたいな外道には、一生かけてもわかんねぇ代物だ」


 阿久はウォルターの腕を掴む力を、更に込める。

「く」と、ウォルターが眉をしかめて声を漏らす。

 ギチギチと、ウォルターの関節が悲鳴を上げる。

 このまま、押し潰す――。

 阿久が一気に力を込めようとした瞬間。


「だからどうしたァアアアアッ!」


 ウォルターを中心として、鋭い風が周囲を凪ぐ。

 鉄がへし曲がるような音と共にビルやアスファルトに亀裂が走り、円型に縮まりながら、阿久とウォルターの周囲を切り刻む。


「おいおい、負けそうになったからって頭のネジ飛ばすんじゃねぇよ、力比べはどうした」


「は、はははッ……死ね、死ね、死ね死ね死ね。お前は今死ねッッ!」


 こうなることは分かっていた。そして、すべきことは決めている。

 一気に阿久がウォルターの細腕ごと肉体を押し潰そうとするも、迫った鎌鼬が阿久の肉体を切り刻む。肉体の質量を増加させ、硬化してはいるものの、このままでは切り裂かれるのは目に見えている。

 だから、阿久は。


「――――ッァアアアッ!」


 ウォルターが叫んだ。

 しかしそれは咆哮というより絶叫。激痛から来る叫びだ。

 阿久の両掌が変化し、杭のようなものがウォルターの掌を貫いていた。


「てめぇが風を使うなら、俺はこの身を武器にする」


 貫いたまま、両手を一気に伸ばして。


「さっきの言葉、返すぜウォルター。お前が今、此処で死ねッ!」


「ぐ――うううううぉぉぉおおおおおおおおおおあああああああああああ!」


 阿久はウォルターの両腕を杭で貫いたまま、ウォルターの肉体を背後の壁に磔にした。

 しかし、両腕だけでは終わらない。

 阿久の両膝から、それぞれ鋭い杭のようなものが突き出して、ウォルターの両足を貫いた。

 大の字で磔にされ、更に獣のような叫びをあげるウォルターに、阿久は胸から突き出す杭でその心臓を貫こうとする。

 しかし、ウォルターの風の壁によって阻まれた。


「往生際が悪ィなクソガキが!」


 ならばと、背中から突き出した無数の針が、ウォルターの心臓を狙って飛び出した。

 しかしいずれも、当たらない。胸の周囲には刺さっても、ウォルターの壁が極限まで凝縮されているのか、心臓にだけは当たらない。


「死ぬものか、死ぬものか! 吸血鬼は不死身だ、真祖は無敵だ! このぼくが、こんなところで、死ぬものかァアアアアアアッ!」


 ウォルターの風の壁が、圧力を増した。

 びりびりと大気が震え、そして――。


「――ぐッ」


 巨大な暴風の塊が、阿久に直撃する。

 全身を裂かれる激痛。身体を吹き飛ばさんとする衝撃。しかし、なにより。

 阿久の左腕が、斬れた。

 これによって、ウォルターの右腕の束縛が解けた。

 初めは血液を流していた右腕が、数秒もしないうちに再生する。

 なんという、治癒力か。

 そのまま左腕の杭を引き抜こうと、ウォルターは杭を掴んだ。

 させるものかと、阿久は右腕の杭から無数の針を出す。それらはウォルターの右腕を貫くが、止まらない。ならばと背中の翼を変身させ、巨大な杭として打ち込もうとするが、やはり展開された風の壁がそれを阻む。

 このままでは、左腕の杭を引き抜かれる。もし両腕を自由にしてしまえば、下半身を犠牲にしてでも逃げるはずだ。今ここでウォルターを逃がしてしまえば、ウォルターは二度と阿久には近づかない。遠距離から風の大砲を撃ち放つだろう。

 そうなれば、負けは確定だ。いくら阿久の能力が変身だからといって、身体強化にも修復能力にも限度がある。

 この腕だけは、譲れない。

 阿久が右腕に力を込めると、それを待っていたと言わんばかりに、ウォルターの風が阿久の左膝から変形した杭を切断した。

 これで残るは、右手と左足。このままでは本当に、逃げられる。

 すぐさま左手と右膝から杭を出そうとするが、変身と杭を引き抜かれないために力を使ってしまい、修復が遅い。


“阿久、このままでは逃げられる。”


 アルラの静かな声から、焦りを感じた。

 こうなれば、手段は一つ。このために、わざわざ助けたのだ。ここで役に立ってもらう。


「久遠! 力を貸せ!」


 背後の女、北条久遠に向けて、阿久は叫んだ。

 聞こえているかどうかはわからない。けれど僅かに、彼女が立ち上がるような気配があった。

 彼女の肉体は満身創痍。立つこともやっとだろう。しかし、ここで歯を食いしばってくれなくては困る。せめて、あと一撃。


「いい加減寝すぎだお前! とっくに体力回復してんだろうが! さっさとしねぇと仕事無くなんぞ! 最後の一仕事くれてやるから、とっておきの一撃をぶちかましやがれ!」


 拙い、本当に拙い。

 ウォルターの力は更に強くなった。

 どこにそんな力を秘めているのか。あまりの怪力に、阿久の力が押されようとしたときに。


「やれやれ。これだから、女の扱いを知らない野蛮人は困ります」


 北条久遠が、駆けた。

 満身創痍だろうに、それを思わせない速度で駆けた。


「――けれど」


 阿久の横を、例の人ならざる恐るべき速度で通過して、一本の鉈を両手で掴み、そして跳躍した。


「助けてくれたことに、そして此処へ来てくれたことに――感謝します」


 二刀鉈の一つ、『天落』。

 それをウォルターの心臓部に向け、逆手に持ち替えたそれを、久遠は思い切り突き立てた。

 風の壁が、やはり鉈を阻む。

 阿久は残る全力を振り絞り、翼をもとに戻して、背中から針を打ち出した。久遠の鉈を包むように、風の壁を裂くように、背の針を差し込んだ。

 激痛、激痛、激痛。

 これでは針に変化させた背中の筋肉がボロボロに切り裂かれる。

 だがだからといって、ここで引くわけにもいかない。

 久遠の鉈の道を切り開くため、阿久はウォルターの風を敢えて受けて、その風の壁を少しでも薄くする。


「行けぇえええええええええええええええええええええ!」


 阿久の咆哮が、大気を切り裂き。


「はぁああああああああああああああああああああああ!」


 叫ぶ久遠のその鉈が。

 ずるりと、ウォルターの風の壁へと入り込む。

 そのまま、壁を破って。

 『天落』が、ウォルターの心臓を打ち砕いた。


「か――ふ……」


 鉈を手放さないまま落下した久遠を見て阿久は、半分磔のようになったウォルターを持ち上げて。


「コイツぁ、おまけだ。冥土の土産にくれてやる」


 跳躍した阿久は、背中の翼を黒い杭に変身させて、ウォルターの心臓へ打ち込んだ。

 もう、ウォルターは何も声を吐き出さない。それでも一撃、阿久は加えた。

 漆黒の杭は完全にウォルターの胸部を貫通し、そして背後にあったビルの内に突っ込んだ。これまでの戦闘の衝撃に耐えきれなかったビルは崩壊を始め、ウォルターの亡骸はビルのそこへ沈んでいく。

 このままビルの崩壊に巻き込まれれば、さしもの第七真祖といえどただでは済むまい。ついでに言えば、その付近で倒れている混血者もまた然り。

 阿久はビルの目の前で倒れこんでいる久遠を掴み、変身させた右手を伸ばして引っ張った。

 そのまま、阿久の近くに転がせる。


「……助かります」


 起き上がらないまま、久遠が言った。

 起き上がらないというよりは、起き上がるだけの余力がないのだろう。


「俺ももう、限界だ」


 そのまま阿久は、仰向けに倒れこむ。

 その空は、昨日に引き続き、またしても曇っていた。

 空から、何かが落ちた。

 ぽつり、ぽつりと、何かが落ちた。

 雨が、降り始めたようだった。

 やがて雨はざあざあと音を立て、阿久と久遠を濡らしていった。

 一向にやまない雨の中、久遠が口を開いた。


「どうして、此処へ来たのですか。わたしの交渉は決裂したと思ったのですが」


 口を開くのも億劫だったので、阿久は無視をした。


「何故ですか、久世原阿久」


 無視した。


「聞いているのですか」


 聞いてない。


「どうして返事をしないのですか」


 気絶しているていで話を進めてくれ。


「あからさまに顔を背けないでください」


「……気のせいだ」


「バレバレです」


 それで、と、久遠は再度問うた。

 何故、此処へ来たのかと。


「俺には俺の目的がある。別にお前を助けたわけじゃない」


 利用するために、利用しただけに過ぎない。

 ウォルターを倒すのは、今の阿久には無理だとわかっていた。

 だから、最後の切り札として北条久遠を生かしておいたのだ。


「その割に、最後はわたしを助けてくれましたが」


「……気まぐれだ」


 別に、理由はない。

 阿久は久遠を殺したいほど憎んでいるわけではないし、その行為に大きな意味はない。ただ、助けるだけの余力が欠片ほど残っていた。本当に、それだけだった。


 ――阿久は、優しいね。


 何故だろう、阿久の“心臓”が、呟いた気がした。


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