己の道
――俺たちは、悪なるものだ。
己は悪。己は邪悪。
悪を悪にて害す外道。外道を外道となりて葬る外道。
「ならば、阿久。あなたはこれからどうするの」
アルラの問いに。
「俺たちは、悪だ。悪党が事を成す際、何をするか知っているか」
「手段を選ばず、目的を遂げる」
「ああ。そして俺たちの目的は何だ」
「総ての吸血鬼を、喰らうこと」
そして、その手段は選ばない。
第七真祖ウォルターは強敵だ。彼は大城玄道から受けた巨大な傷によって満身創痍であろうが、こちらもウォルターや久遠から受けた傷で満身創痍。同じ条件ならば、ウォルターに勝てる道理はない。
であれば自分たちは、どうするべきか。
「――利用する。俺たちは総てを、利用する」
――北条久遠を、利用する。
☆
「残念だったな、まだお前は死ねない。此処で死ねなかったことを、死ぬまで後悔するといい、クソ鉈女」
血まみれでビル群の一角に倒れ、ウォルターからとどめを刺されようとしている北条久遠を見つけた阿久は、彼女を庇うように立ちはだかる。
ウォルターの目が、見開かれた。
強く歯を食いしばり、その顔を醜く歪めた。
「吸血鬼喰い……お前、何をしに来た」
ピクリと、久遠の右手が反応した。
どうやら、阿久たちが来るなどとは思ってもみなかったらしい。
それも仕方ないか。阿久も初めは、来るつもりなど無かった。
しかし、本当の目的を思えば、仕方ない。
北条久遠の頼みごとを聞いたと思えば、腹が立つ。しかし、北条久遠を利用しに此処へ立ったと思えば、何故だろう。どうにも心が落ち着いた。
「どうして此処に……。わたしたちの協力関係は――」
「は。勘違いすんな。俺は俺のために此処に来た。断じてお前の為じゃない」
……それでも、感謝します。
呟いて伏せた久遠に「あっそ」と言い捨てた阿久は、眼前に迫った小さな暴風を、硬質化させた右腕で弾いた。
完全な不意打ちであるとウォルターは思ったかもしれないが、残念。阿久の意識は久遠になどなく、既にウォルターへと向けられていた。
「まさか、此方に意識を向けてくれていたとは。嬉しいよ、吸血鬼喰い」
先ほどの顔とは打って変わり、ウォルターは僅かに機嫌を直したらしい。少しばかり微笑んだ。
もっとも、その機嫌もここまでだ。その顔、二度と人前に出せないほど醜く潰してやると、阿久は心に刻む。
「久しぶりだな、クソガキ。今度こそてめぇをぶち殺す」
ビッと、親指を立てた右手で首を斬り、一気に下方へ親指を落とす。
――此処で、死ね。
そのジェスチャーを見て、ウォルターの額に青筋が立った。
「それはこっちのセリフなんだけどな、吸血鬼喰い」
「やってみろカス。やれるもんならな」
「は――ははははッ! 言ったな塵屑が! 真祖を舐めるんじゃないぞ、今度こそ塵に変えてやるよ下等種ッ!」
ウォルターが風を包んだ球体を、右手に集めた。
どういうわけか、左腕がウォルターの隣に転がっている。けれど、ウォルターの左腕は確かに存在している。それを見て、阿久は考える。
なるほど、久遠は最後に片腕を奪ってくれたらしい。今はもう左腕が再生してしまったが、それでも十分すぎる働きだ。利用するに値する。
だからこそ、此処で死なれてしまっては困る。
仕方ない。不本意ながらも守ってやることとしよう。
阿久は右腕を変身させ、巨大な黒い腕を創り出す。
長さは阿久のくるぶしにまで伸び、その質量は元来の右腕のおおよそ五〇倍。簡単には斬らせない。また、簡単に攻撃を通らせない。この腕は、これより対ウォルター戦の重要な盾になる。
「行こうぜ、アルラ」
――ええ、行きましょう。
そして、生きましょう。
“心臓”の声を聞き、阿久は腰をかがめた。
ウォルターの弱点は、薄らとであるが見えている。
アレは無敵の砲台だ。風を操り空を舞い、己を覆う壁と敵を穿つ弾丸に、攻守双方の臨機応変な戦い方が出来る。しかし一つ、攻守双方の臨機応変を崩す方法がある。
それが、近接戦闘だ。
確かにウォルターの風は脅威だ。アレは骨すら容易く斬れるし、右手に球体を込めて放ってはいるものの、あの型など本来必要ない。好きな時に、好きなように、その風で敵を切り裂く鎌鼬。それが、ウォルターという兵器である。
しかし、彼も一人の生物だ。死ぬのは怖い。
昨日の戦闘のように頭のねじが飛ばない限りは、攻撃よりも防御を優先するだろう。だからこそ、その精神には突く隙がある。
近接戦闘に持ち込めば、ウォルターは風を放つことよりも、防御の風に力を使うだろう。となれば、一方的に攻められることになった時、ウォルターは防戦一方だ。
対する阿久の得意とするのは、己の身体を変身させての近接戦闘。確かに多少の遠距離攻撃も可能であるが、なにより遅い。しかし近接戦闘ならば最低限の速度で攻撃を当てられるし、なにより質量を無視した変身能力のために重い一撃を繰り出せる。
攻撃は最大の防御。やられる前にやれ。
――敵の防壁ごと、押し潰す。
「そら避けてみろォッ!」
今度は簡単には弾けないであろう大きな暴風。
当たれば裂ける、触れれば斬れる。
けれど、今更怖気づいてなどいられない。
此処で避けてしまえば、ウォルターは着地地点を狙って風を放つだろう。繰り返し、繰り返し、着地地点を狙われては避けて、狙われては避けての繰り返し。それでは防戦一方だ。
言ってしまえば、銃を持った相手に遠距離戦を行っているようなもの。
ここでは、避けない。このまま、突破する。そのための、右腕。
阿久は右手を伸ばし、その右手に隠れるように暴風の中に突っ込んだ。
避けるという可能性はありこそすれ、まさか正面から突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。ウォルターの目が見開かれた。
その隙を突くように、阿久は左腕を伸ばす。
伸びる、左腕。それは阿久の左腕本来の長さを無視して、鋭い刀剣となりウォルターへと突き進む。
しかしこれはウォルターの前で一度は見せた手だ。今度は食うまいと、ウォルターはその場を跳躍して離れた。
「逃がすかよッ!」
阿久は視線でウォルターを追う。
ここで離れて、一方的に的にされてはたまらない。今のこの瞬間を利用し、距離を詰める。
阿久の左腕はある一点を境に五本へ別れ、そのそれぞれが別ルートでウォルターを狙った。
「なかなかしつこいね……追いかけられるのは嫌いじゃないんだけどさ――」
一本、ウォルターは風を駆使した縦横無尽な空中旋回によって回避する。次ぐ二本も左、右と、阿久の細い剣が触れるかどうかというすれすれの距離で回避し、背中に迫る一本は放った風によって切り裂いた。
残るは、一本。
ウォルターの背後にあるビルのガラスを突き破り、それはウォルターの心臓を狙う。
「――あんまりしつこいのは、好みじゃない」
しかしそれも、ウォルターは察知していた。風の壁を正面に集中展開し、その矛先を逸らす。
「なんだ、これで終わりかい。案外たいしたことはないんだね」
ウォルターが嘲笑し、阿久を見下ろそうとしたときに。
「……おう、そうかよ」
その声は、すぐ近くから響いて来た。
すぐさま阿久の居た場所を見る。誰も、いない。
「しまッ……」
ウォルターは、あまりに阿久の腕に集中しすぎた。
そのために、阿久本来の姿を追うことをおろそかにした。
ウォルターが阿久の左腕に集中している間、阿久はビルの側面を駆け、跳躍。そして今、こうしてウォルターの上から、ウォルターに向けて手を突き出している。
ウォルターの展開した防壁は、彼の正面に展開されている。そしてそれ以外には――防壁はない。
阿久はウォルターの頭上で拳を握り。
「喰らえ、案外大した事ねぇ拳をよ」
意趣返しとばかりに、阿久は先のウォルターの言葉をなぞり、その顔面を防壁のない上方より思い切り殴りつけた。
めりめりと頭蓋が軋み、その顔があまりの衝撃に振動する。
「がァ……ッ」
地面に急降下するウォルターだが、まだ落とさない。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた阿久の左腕、その節々からは更に細い剣が無数に飛び出し、その総てがウォルターの肉体を貫いた。
心臓辺りを重点的に狙ったが、心臓の周囲には咄嗟に風の壁を展開したらしい。狙いが逸れる。だが、ウォルターの肉体を空中に押しとどめることには成功する。
再度、右拳を握る。
「おら、もう一丁ァッ!」
その拳を、ウォルターの心臓目がけて叩き付けた。
風の壁をぶち破り、その拳が心臓に喰らいつき、ウォルターの身体がバキバキと音を立て、心臓部を中心としてくの字に折れた。
「が――ブぁッ」
あばらを粉々にする感触。おそらくそれらのいくつかは臓器に刺さっただろう。だが、だからどうした。
――阿久は、優しいね。
否、優しくなどない。無慈悲だ。
――助けてくれて、ありがとう。
違う、助けられなかった。目の前で死なせてしまった。
だからもう、二度と迷いはしない。
南かえでの笑顔は、声は、もう、見えないし聞えない。残ったのは、彼女の心臓だけだ。
結局阿久の目に映る女は、あの夜同様、ただ一人。
過去、己に心臓をくれた人。己に、心をくれた人。己に、生の実感を与えてくれた人。
そして、何より大切な人。
「これでいいんだろう、アルラ」
――それが、あなたの選んだ道ならば。
“心臓”が、呼応するように跳ね。
阿久の右腕が、ウォルターの肉体を吹き飛ばし、アスファルトの上へと叩き付けた。
ゴバリとアスファルトを抉ったウォルターの肉体は、完全に沈黙している。殺すなら、今が好機。
「ここから先、作戦はない。一気に攻める」
“ええ。ただし、気を付けて。これで終わる相手じゃない”
「ああ、わかってる。殺すまで油断はしねぇ」
“では、行きましょう”
左手をもとに戻した阿久は、右腕をビルのコンクリートに打ち付け、己の肉体を引き寄せるようにビルの側面へ足を着ける。そしてそのまま、下方へ向けて駆けた。
重力の落下速度にも負けず劣らず、高速で下方へ進む。
狙いは、一つ。ウォルターだ。
もとに戻した左腕を刃物状のものに変え、攻撃範囲に入った瞬間一気にその心臓を貫こうと――。
「いい加減にしろよ、クズめ……」
突き出した刃を、ウォルターは素手で止めていた。
やはり、腐っても真祖。忌能などに頼らずとも、その肉体性能は、並みの吸血種を凌駕する。
「……チ、先制もここまでか」
阿久の左腕の刃を受け止めたウォルターは起き上がり、それをボキリとへし折った。
――激痛。しかし、痛みに呻いている暇はない。
未だ健在の右腕でウォルターに殴りかかるが、左手に止められ。左腕を元に戻して振るうが、右手に止められ。
完全に互いの手を掴む状態で、力比べは拮抗する。
「おい、吸血鬼喰い。どうだ、このまま力比べでもしてみるか?」
「冗談。負けた瞬間ネジ飛んで、鎌鼬でバラバラに切り刻むだろうが、てめぇは」
クク、と笑ったウォルターは、「確かに」と口を三日月に釣り上げた。
ぐっと、力がこもる。
このままでは阿久の腕が折られて、そのまま押し潰されてしまう。
ちらりと、久遠を見る。
まだ、動くことは出来なさそうだ。
――仕方ない。
少々疲れるが、ここで本気を出してやる。
「……行こうぜ、かえで」
――ドクン。
阿久の肉体に、明確な鼓動が生まれる。感情が生まれる。全身に血液を巡らせ、冷えた心を熱くする。これが、“心臓”。これが、生の“鼓動”。
瞳は、真紅に光り輝き。
爪牙は、更に鋭く。
その背に、漆黒の片翼がずるりと生えた。
「お前、その姿は……」
以前見せた、進化のカタチ。
どうやら、かえでの心臓を取り込んだことにより、アルラの力の鱗片が解放されたらしい。自分の意志で、阿久はこの力を制御することが出来るようになっていた。
ウォルターは視線をずらして、阿久の左側に生えた翼を見る。
そして再度、真紅に輝く阿久の目を見た。
「やはりそれは、堕天使の――」
「堕天使? 意味わかんねぇこと言ってんな。こいつはてめぇが喰った女がくれた、最高の贈り物だ」
どうしてかえでの心臓を喰らった時、この翼が生えたのか。
もしかしたら、あの夜以降、阿久に心臓が無いことに影響してるのかもしれない。
これまで存在しなかった心臓がこの身に宿ることによって、新たな力を呼び起こしたのか。いや、それとも、何か他の要因があるのか。
いずれにせよ、どうでもいい。
此処に、かえでの心臓がある。それが、力をくれる。
阿久にとっては、それだけだ。
これは堕天使の翼だとか、そんなくだらないものじゃない。
「てめぇみたいな外道には、一生かけてもわかんねぇ代物だ」
阿久はウォルターの腕を掴む力を、更に込める。
「く」と、ウォルターが眉をしかめて声を漏らす。
ギチギチと、ウォルターの関節が悲鳴を上げる。
このまま、押し潰す――。
阿久が一気に力を込めようとした瞬間。
「だからどうしたァアアアアッ!」
ウォルターを中心として、鋭い風が周囲を凪ぐ。
鉄がへし曲がるような音と共にビルやアスファルトに亀裂が走り、円型に縮まりながら、阿久とウォルターの周囲を切り刻む。
「おいおい、負けそうになったからって頭のネジ飛ばすんじゃねぇよ、力比べはどうした」
「は、はははッ……死ね、死ね、死ね死ね死ね。お前は今死ねッッ!」
こうなることは分かっていた。そして、すべきことは決めている。
一気に阿久がウォルターの細腕ごと肉体を押し潰そうとするも、迫った鎌鼬が阿久の肉体を切り刻む。肉体の質量を増加させ、硬化してはいるものの、このままでは切り裂かれるのは目に見えている。
だから、阿久は。
「――――ッァアアアッ!」
ウォルターが叫んだ。
しかしそれは咆哮というより絶叫。激痛から来る叫びだ。
阿久の両掌が変化し、杭のようなものがウォルターの掌を貫いていた。
「てめぇが風を使うなら、俺はこの身を武器にする」
貫いたまま、両手を一気に伸ばして。
「さっきの言葉、返すぜウォルター。お前が今、此処で死ねッ!」
「ぐ――うううううぉぉぉおおおおおおおおおおあああああああああああ!」
阿久はウォルターの両腕を杭で貫いたまま、ウォルターの肉体を背後の壁に磔にした。
しかし、両腕だけでは終わらない。
阿久の両膝から、それぞれ鋭い杭のようなものが突き出して、ウォルターの両足を貫いた。
大の字で磔にされ、更に獣のような叫びをあげるウォルターに、阿久は胸から突き出す杭でその心臓を貫こうとする。
しかし、ウォルターの風の壁によって阻まれた。
「往生際が悪ィなクソガキが!」
ならばと、背中から突き出した無数の針が、ウォルターの心臓を狙って飛び出した。
しかしいずれも、当たらない。胸の周囲には刺さっても、ウォルターの壁が極限まで凝縮されているのか、心臓にだけは当たらない。
「死ぬものか、死ぬものか! 吸血鬼は不死身だ、真祖は無敵だ! このぼくが、こんなところで、死ぬものかァアアアアアアッ!」
ウォルターの風の壁が、圧力を増した。
びりびりと大気が震え、そして――。
「――ぐッ」
巨大な暴風の塊が、阿久に直撃する。
全身を裂かれる激痛。身体を吹き飛ばさんとする衝撃。しかし、なにより。
阿久の左腕が、斬れた。
これによって、ウォルターの右腕の束縛が解けた。
初めは血液を流していた右腕が、数秒もしないうちに再生する。
なんという、治癒力か。
そのまま左腕の杭を引き抜こうと、ウォルターは杭を掴んだ。
させるものかと、阿久は右腕の杭から無数の針を出す。それらはウォルターの右腕を貫くが、止まらない。ならばと背中の翼を変身させ、巨大な杭として打ち込もうとするが、やはり展開された風の壁がそれを阻む。
このままでは、左腕の杭を引き抜かれる。もし両腕を自由にしてしまえば、下半身を犠牲にしてでも逃げるはずだ。今ここでウォルターを逃がしてしまえば、ウォルターは二度と阿久には近づかない。遠距離から風の大砲を撃ち放つだろう。
そうなれば、負けは確定だ。いくら阿久の能力が変身だからといって、身体強化にも修復能力にも限度がある。
この腕だけは、譲れない。
阿久が右腕に力を込めると、それを待っていたと言わんばかりに、ウォルターの風が阿久の左膝から変形した杭を切断した。
これで残るは、右手と左足。このままでは本当に、逃げられる。
すぐさま左手と右膝から杭を出そうとするが、変身と杭を引き抜かれないために力を使ってしまい、修復が遅い。
“阿久、このままでは逃げられる。”
アルラの静かな声から、焦りを感じた。
こうなれば、手段は一つ。このために、わざわざ助けたのだ。ここで役に立ってもらう。
「久遠! 力を貸せ!」
背後の女、北条久遠に向けて、阿久は叫んだ。
聞こえているかどうかはわからない。けれど僅かに、彼女が立ち上がるような気配があった。
彼女の肉体は満身創痍。立つこともやっとだろう。しかし、ここで歯を食いしばってくれなくては困る。せめて、あと一撃。
「いい加減寝すぎだお前! とっくに体力回復してんだろうが! さっさとしねぇと仕事無くなんぞ! 最後の一仕事くれてやるから、とっておきの一撃をぶちかましやがれ!」
拙い、本当に拙い。
ウォルターの力は更に強くなった。
どこにそんな力を秘めているのか。あまりの怪力に、阿久の力が押されようとしたときに。
「やれやれ。これだから、女の扱いを知らない野蛮人は困ります」
北条久遠が、駆けた。
満身創痍だろうに、それを思わせない速度で駆けた。
「――けれど」
阿久の横を、例の人ならざる恐るべき速度で通過して、一本の鉈を両手で掴み、そして跳躍した。
「助けてくれたことに、そして此処へ来てくれたことに――感謝します」
二刀鉈の一つ、『天落』。
それをウォルターの心臓部に向け、逆手に持ち替えたそれを、久遠は思い切り突き立てた。
風の壁が、やはり鉈を阻む。
阿久は残る全力を振り絞り、翼をもとに戻して、背中から針を打ち出した。久遠の鉈を包むように、風の壁を裂くように、背の針を差し込んだ。
激痛、激痛、激痛。
これでは針に変化させた背中の筋肉がボロボロに切り裂かれる。
だがだからといって、ここで引くわけにもいかない。
久遠の鉈の道を切り開くため、阿久はウォルターの風を敢えて受けて、その風の壁を少しでも薄くする。
「行けぇえええええええええええええええええええええ!」
阿久の咆哮が、大気を切り裂き。
「はぁああああああああああああああああああああああ!」
叫ぶ久遠のその鉈が。
ずるりと、ウォルターの風の壁へと入り込む。
そのまま、壁を破って。
『天落』が、ウォルターの心臓を打ち砕いた。
「か――ふ……」
鉈を手放さないまま落下した久遠を見て阿久は、半分磔のようになったウォルターを持ち上げて。
「コイツぁ、おまけだ。冥土の土産にくれてやる」
跳躍した阿久は、背中の翼を黒い杭に変身させて、ウォルターの心臓へ打ち込んだ。
もう、ウォルターは何も声を吐き出さない。それでも一撃、阿久は加えた。
漆黒の杭は完全にウォルターの胸部を貫通し、そして背後にあったビルの内に突っ込んだ。これまでの戦闘の衝撃に耐えきれなかったビルは崩壊を始め、ウォルターの亡骸はビルのそこへ沈んでいく。
このままビルの崩壊に巻き込まれれば、さしもの第七真祖といえどただでは済むまい。ついでに言えば、その付近で倒れている混血者もまた然り。
阿久はビルの目の前で倒れこんでいる久遠を掴み、変身させた右手を伸ばして引っ張った。
そのまま、阿久の近くに転がせる。
「……助かります」
起き上がらないまま、久遠が言った。
起き上がらないというよりは、起き上がるだけの余力がないのだろう。
「俺ももう、限界だ」
そのまま阿久は、仰向けに倒れこむ。
その空は、昨日に引き続き、またしても曇っていた。
空から、何かが落ちた。
ぽつり、ぽつりと、何かが落ちた。
雨が、降り始めたようだった。
やがて雨はざあざあと音を立て、阿久と久遠を濡らしていった。
一向にやまない雨の中、久遠が口を開いた。
「どうして、此処へ来たのですか。わたしの交渉は決裂したと思ったのですが」
口を開くのも億劫だったので、阿久は無視をした。
「何故ですか、久世原阿久」
無視した。
「聞いているのですか」
聞いてない。
「どうして返事をしないのですか」
気絶しているていで話を進めてくれ。
「あからさまに顔を背けないでください」
「……気のせいだ」
「バレバレです」
それで、と、久遠は再度問うた。
何故、此処へ来たのかと。
「俺には俺の目的がある。別にお前を助けたわけじゃない」
利用するために、利用しただけに過ぎない。
ウォルターを倒すのは、今の阿久には無理だとわかっていた。
だから、最後の切り札として北条久遠を生かしておいたのだ。
「その割に、最後はわたしを助けてくれましたが」
「……気まぐれだ」
別に、理由はない。
阿久は久遠を殺したいほど憎んでいるわけではないし、その行為に大きな意味はない。ただ、助けるだけの余力が欠片ほど残っていた。本当に、それだけだった。
――阿久は、優しいね。
何故だろう、阿久の“心臓”が、呟いた気がした。




