在り方
久世原阿久は、部屋の隅で窓の外を眺めていた。
雨だった。
ひどい、雨だった。
雨音が、新しくないアパートに反響している。とても、うるさい。けれど、耳を塞ぐつもりにもなれず、ただ、窓の外を見た。
雨だった。
ひどい、雨だった。
あの、後。
ウォルターが復活し、大城玄道が倒れたあの後。
ウォルターと再度対峙した阿久と久遠は、完全に疲弊していた。満身創痍ともいえる状態の中、しかしウォルターはまだ僅かに余力を残しているようであった。
――勝てない。
おそらく、阿久とアルラは悟った。そして久遠もまた、悟っただろう。
殺される、此処で死ぬ。
しかし、絶対絶命の状況から、第七真祖ウォルターを撤退させるものがあった。
それが、日の出。すなわち太陽である。
日光は、吸血鬼にとっては致命的な弱点である。偶然の日の出に救われた阿久と久遠は、その場に崩れた。
阿久はなんとか物影に向かい、アルラと分離した。
アルラは影の中で待機したまま、阿久はかえでの肉体を運んだ。かえでには、立派な墓は作ってやれない。だから阿久は、土を掘った。どこかの家から飛んできたのであろうスコップがあって、それを使った。
瓦礫の山を、掘った。
深く深く、掘った。
かえでを、寝かせた。今にも起き上がりそうな、寝顔なのに。やはり、起きなかった。
灰を、かけた。
なんの灰かは知らない。ただ、かえでの家族のものであると願って、灰を入れた。
かえでを埋めたのち、阿久は立ち上がる。
ほぼ同時、ぽつりと小さな水滴が、阿久の頬をつたった。
雨、だった。
それから、どこをどう帰ったのかは覚えていない。
ただ、太陽の目を気にせず歩けるようになったアルラと共に、歩いた。
気付いたら、家の中で窓の外を眺めていた。
寒かった。
肉体は、冷たい。けれど、そういうことでなく。
阿久は、自分の胸に手を当てた。
鼓動はない。冷えたまま。
雨が、降っていた。
――それは、ひどい、雨だった。
――それは、阿久が総てを捨てたあの夜と同じ。
――ひどい、雨だった。
いつまで、そうしていたのだろう。
気付けば、時刻は昼下がりになっていた。
雨は、ゲリラ豪雨だった。すぐに晴れた空には、憎らしいほどに光り輝き、人々を照らしている。
晴れは、嫌いではない。でも、今は。
自分の代わりに泣いてくれていた、あの空は、もう。笑顔を、見せている。
チャイムが、鳴った。
出なかった。けれど幾度もチャイムが押された。
「出ないの、阿久」
アルラが、問うた。
阿久は、窓の外を眺めていた。
その間、アルラはずっと、阿久の傍にいた。何も言わず、ただ、本を開いて。たまに、目を閉じて。たまに、天井を見て。たまに、窓の外の雨を見て。そして、唇を、噛みしめて。
アルラは本を、読んでいた。
「お前が、出ればいい」
アルラの問いに、阿久が言う。
「そう」
やはり彼女の声に、感情はない。けれど、彼女の心は、どうなのだろう。
阿久はぼんやりと、そんなことを考えた。
☆
「……失礼します」
居間に入って来たのは、一人の女だった。
北条久遠。教会の使徒。混血者。
一体、何の用なのか。
「帰れ」
阿久は言うが、久遠はその場に正座した。
「話が、あります」
彼女が噛みしめた唇は、今にも張り裂けそうだった。
「わたしの状況判断力、認識能力、及び感情制御の問題により、久世原阿久、あなたには多大な迷惑をおかけした。そのことを、此処に謝罪する。また、南かえでという少女、及び日本国帝都府月区画、第二三ゲートの住居人に、深く謝罪する。本当に、本当に――申し訳ありませんでした」
深く、土下座した。
深く、深く。畳に頭を押し付けて、それでも足りないといった様子で、彼女は土下座をした。
吸血鬼という血。その存在。どうしようもなくそれらを恨んでいるのであろう彼女。
彼女が、眼前の吸血鬼喰いに頭を下げることが、どれほどのものか。
――阿久には、どうでもよかった。
「俺には謝らなくていい。ただ、かえでに、死んだものたちに詫びろ。帰れ」
「彼らには、詫びました。まだ足りないと言われるかもしれないが、不徳の身なれど、全霊を込めて、心から、謝罪をさせていただいた」
再度帰れと告げるが、久遠はまだ、帰らなかった。
「第七真祖ウォルターはおそらく、未だ《公正判決》の多大なダメージを受けています。となれば今夜、彼は肉体の修復のために不足した血液を補うために吸血を開始するでしょう。理性を失った真祖が己の傷を癒すため、どれほどの人間の吸血をするか――前例がないためにわかりませんが、最低でも二〇は出ると、《教会》は……いえ、マリア様は考えます。わたしとしては、これをなんとか未然に防ぎたい。あわよくば、ここでウォルターを打倒したい。そこで……」
くっと、唇を噛んだ。
裂けて、血が出た。
「そこで、久世原阿久。誠に勝手ながら、本当に、勝手で、何度謝罪しても足りないが、その力を――貸して欲しい。手を貸し与えてくれるのならば、なんでもしよう。この身の純血が欲しいのならば、あなたのために散らそう。生涯、この身をあなただけに捧げよう。戦が終われば、あなたに殺されることも厭わない。だから、どうか。どうか、力を貸して欲しい。第七を落とすため、《吸血鬼喰い》の力を。どうか、貸してはいただけないか」
――どうか。
噛みしめるように、久遠は言う。
「ああ、最低でも二〇の死者か。そりゃ大変な事件になるかもな――だが、だからどうした。お前のおかげで、昨日は四〇人ぐらい軽く死んでる。いや、もっとかもな。それより少ないんだから、大したことはないだろ」
――本当に?
誰かが、囁いた。
「わかってはいる。自分でも、不甲斐ない。だが、それでも、どうか」
土下座をした久遠の拳が、強く締まった。
「そもそも誰がてめーの純血なんかいるかよ、クソが。てめーの命にも興味はねぇ。勝手に行って、勝手に死ね。第七なんぞ知ったことか」
――本当に?
消えたハズの心臓が、問いかける。
「わたしに、この命に、価値がないことはわかっている。……それでも、どうか」
畳が僅かに、赤くなった。
久遠の手の平が、己の爪に傷つけられたのか。
「自分の尻拭いくらい自分でしろ。どうして俺が、命を懸けてお前の頼みを聞かなきゃならねぇ。死んじまったよ、守りたかったもんはとっくに。お前のせいでな。俺には、もう……戦う理由がない」
――本当に、そうか?
消えない。声が消えない。
「それでも。それでも、どうか。おこがましいのはわかっている、頼める立場でないのも分かってはいるつもりだ。それでも、こうして。恥を晒してでも、お願いしたい。どうか、どうか――その力を、貸して欲しい」
「――帰れ」
――本当に、彼女だけが悪いのか?
「帰れッ!」
阿久の言葉を聞き、一度頭を上げた久遠の瞳は、ほんのり充血していた。
今にも、涙を流しそうだった。
それは、何に対する涙か。
久世原阿久という男に詫び、そして力を借りるという屈辱か。
それとも、本当に心から、己の行為を恥じ、赦しを乞うているのか。
わからない。阿久には、わからない。
「本当に、申し訳ありませんでした」
最後に一度、深く土下座をした久遠は、去って行った。
僅かに畳ににじんだ血は、彼女が去った後、アルラが濡らしたタオルでふき取っていた。
心臓が、ない。
――俺には、心臓がない。
きっと、心が枯れている。感情が欠如している。
これまで生きてきた中で、阿久は「悲しみ」というものをうまく理解したことはなかった。
幼稚園。孤児院。小学校、中学校。
義務教育を受けてきた中で、「悲しみ」「喜び」「楽しい」、いわゆる喜怒哀楽の内、阿久は「怒り」という感情以外を知らなかった。
何故かは知らない。それはきっと、生まれや、環境。なにより、人の愛を受けることのなかった久世原阿久の少年時代に影響されるものであったのだろう。
そう、あの夜まではそうだった。
あの夜に、久世原阿久は、くだらないと思った“人間”を捨てた。
――あの夜、久世原阿久という男の心臓は消え去り、以来、“心臓”が此処に生きていた。
そして、人間ではなく、吸血鬼喰いとして産声をあげた。
後悔などなかった。もとよりこの心は、人のものではない。ならばこの身でさえも人のものでなくなることに、一体何の抵抗があろうか。
捨てた。総てを捨てた。
たった一つ、この“心臓”。
これを、守るためだけに。これと、共に生きるためだけに。
久世原阿久は、あの日。あの、ひどい雨の夜。
――世界の悪総てを、壊すと誓った。
なのに、どうして。
なのに、どうしてなのか。
心が、痛い。心臓が、痛い。
あの日に総て、捨てたハズだった。あの日に総て、総て。
「――阿久」
これまで口を開かなかったアルラが、不意に口を開いた。
阿久は、なにも返さなかった。
けれどアルラは、本を閉じて、机の上に置いた。
「阿久。恨むなら、わたしを恨みなさい。あなたを戦いに巻き込んだのは、わたし。あなたから人としての肉体を奪ったのも、あなたに人としての生活を奪ったのも。――そして、あなたの人としての“心臓”を奪ったのも、わたし」
――違う、アルラ。お前は何も悪くない。
あの、ひどい、雨の夜。
俺は、お前に出会ったときに、運命を感じた。
お前のためになら、この命を捨ててもいいと思った。お前のためになら、総てを捨ててもいいと思った。そして、心臓が犠牲になった。
お前は俺に、生きる理由をくれた。
お前は俺に、愛を、与えてくれた。
生の『喜』びを、教えてくれた。人生の『楽』しみを、教えてくれた。
そして、今。俺の中にある“心臓”は、失うことの『哀』しみを、教えてくれている。
受け入れないと、ダメなんだ。俺が受け入れて、そして、それすらも乗り越えなければならないんだ。
本来俺が持っていて、そして捨てたもの。“心臓”。
それをもう一度捨てないと、ダメなんだ。
――なぜなら、俺は邪悪。俺は悪魔だ、悪魔を喰らうものだ。
外道を葬る外道。他者を利用し、生涯を喰らい潰す、悪なるものだ。
――あの夜に決めた。お前と共に生きると決めた。お前のために、世界の悪総てを敵にすると決めたんだ。
喜びも、哀しみも、楽しみも。そして、怒りも。人としての、総てを捨てて。
なのに阿久は、迷った。
アルラの“心臓”を受けて、人の世には愛があることを知ってしまったために。
偶然にも、南かえでには、「愛」を感じさせる、その優しさがあったのだ。
阿久は自分の“心臓”をとうに捨て、そして生まれたこの“心臓”はアルラのものであったはずなのに、阿久は、自分勝手にも、願ってしまったのだ。
――人の心を持ったまま、人として、生きたいと。人と手を取り合って、生きていきたいと。
だから久遠を殺せなかった。アルラは容赦をするなと言ったのに。久遠を殺せと言ったのに。もしかしたら、久遠ともかえでのように心を通わせることができるのではないかと願ったばかりに、阿久はかえでを失った。
お前は何も、悪くない。――俺がかえでを、殺したんだ。
阿久は、平和を願ってしまった。
けれどそれは、ダメだ。契約違反だ。阿久に心を与えてくれたアルラをないがしろにして、阿久だけがこの世界に生きるなんていうのは、あり得ない。もとより阿久とアルラは一心同体、二人で一つであるハズなんだ。
なのに阿久は、アルラを裏切ろうとした。アルラから受けた愛を、恩を、仇で返そうとした。
だからこの「悲しみ」はきっと、罰。
幸福を望んだ阿久への。人としての生を望んだ阿久への。
そして、世界に喧嘩を売っておきながら、平凡な日々を過ごした俺たちへの、罰なんだ。
「アルラ、何処にもいくな」
そう言って、阿久はアルラを抱き寄せた。
抵抗せず、アルラは、阿久の腕の中に収まった。
「――暖かい。わたし、あなたにこうされるの、好きよ」
すまない、アルラ。
阿久は、一言心の中で呟いて。
もう二度と、迷わないと誓う。
「俺は、阿久だ」
俺は、悪だ。
久世原、悪だ。
「そうだ。俺は、俺たちの魂は――」
総てを、捨てろ。人の心を捨てろ、人の幸福を捨てろ。利用できる他者はすべて利用しろ。障害は喰らい潰せ。
元よりこの身は、害悪を害すもの。
毒を毒にて破壊する。呪いを呪いで腐らせる。悪を悪にて滅し、外道の心を外道の心で喰い潰す。
人に害なすものを、同じ害なすものと成って害すもの。邪悪となりて、邪悪を撃ち滅ぼすもの。
此処に問う。
果たして、ソレは一体、何者の所業であるか。
正義の味方か? 否である。
剣を持たぬ弱者の剣か? 否である。
すなわちそれは――悪である。悪にとっての、悪である。
邪なるもの、邪なる己の『食』なる名を持つ欲求に応じて、忠実に喰らうものである。
それは、邪悪だ。己の都合で他者を害する、邪悪であるのだ。
であれば、その、魂は。
これもやはり、悪なるものだ。
そう、彼らが胸に宿すはすなわち――。
「――悪なる、御魂だ」




