序・使徒 鋼鉄/因縁/三日月
月が完全に欠けるまで、もう幾許もない、とある夜。
人気のない荒れ地にて行われる、死闘があった。
動く影は、おおよそ四つ。
銀と黒、鋼と堅牢、刃と爪牙。それらがぶつかる音が、響いた。
一度、二度、三度、四度、五度。
繰り返し、繰り返し、鋼鉄は鋼鉄と衝突する。
大英帝国連合。百年前に崩壊した国の名を冠し、多くの国と国とが合わさった大陸を支配する土地の上での、死闘であった。
聖職者を思わせる服装の、少女とも取れる銀髪の女が、何度目かになる言葉を、忌々しげに呟いた。
「答えなさい、吸血鬼。《第八》血族、“ユダ”はどこへ逃げましたか」
――吸血鬼。
その存在はこの世界において、未だ解明されていない未知の生物。目の前の男がまさしくそれであると、女は言う。
対する男もまた、吸血鬼と呼ばれて否定はしない。代わり、人のモノとは思えない鋭い爪牙で空を裂き、女の肉体を引き裂こうと振りかかる。
ガギンと、鋼鉄の刃に堅牢な爪が衝突する音。
男の黒爪を、女は手に持った武骨な銀の刃で弾く。
それは日本国において鉈と呼ばれる、武器というよりはモノを切断するために特化した凶器であった。
刃渡りはおおよそ一メートル。見るからに重く、両手で扱うにも、男ですら苦労しそうなそれ。一六〇ほどの身長の女は“それ”を軽々と振り回し、吸血鬼と呼んだ男に、次は彼女の方から一撃を加える。
今度は、男が防ぐ形になった。
本来、吸血鬼の腕力というものは、人間のそれとは比べるのもおこがましいほど高いものである。真祖と呼ばれる上位種ならば、低くて一〇倍。血族と呼ばれる真祖に次ぐ上位種でおおよそ八倍。通常種で五倍。例え下等種であっても、人間の数倍はあるものだ。
彼女の前に立つ吸血鬼は、通常種。吸血鬼にとってもっともオーソドックスと言える種である。当然、先述のように常人の五倍近くの筋力を有している。
であるのに。彼女は。
「答えなさい。“ユダ”は、どこですか」
グッと、女らしからぬ武骨な“それ”、己の武器であり凶器――鉈に力を込め、吸血鬼の腕力を圧倒した。
人間程度に力負けする屈辱。勝ち目のない戦。これまで表情を崩すことのなかった吸血鬼の男は、此処に来てようやく、苦虫を噛みしめたように叫んだ。
「知らねぇよ!」
少しでも力を抜けば、断頭台の刃が落ちる。緊迫した状況で叫んだ男に、汗の一つも流さない女は、「そうですか」と不快の意を表すこともなく。
「ならば、他の真祖は」
次いで、問うた。
「それも、知らねぇ」
今度は、男の視線に迷いがあった。
それを、女は見逃さない。
「そういえば、こんな話を知っていますか」
吸血鬼の男が冷汗を流す。けれど、やはり汗一つかかないまま女は吸血鬼を圧倒しており、不意に鉈を持ち上げ、吸血鬼の腹部に蹴りを入れた。
唐突な蹴りにバランスを崩して後方へ転んだ吸血鬼の左足に、女は太もものスリットから取り出した小型拳銃で、銀の弾丸を一発、右足に撃ち込む。
奇声が響いた。
それはさながら、血液に直接水銀でも流された人間のような、常軌を逸した獣の奇声。
激痛による、咆哮であった。
「かつて日本という国で流行した病に、『水俣病』というものがあります。吸血鬼が銀に触れた場合、それの末期に近い症状が出るそうですね。触れただけで、それなのですから……体内に打ち込まれれば、更に酷いものでしょう。ましてや、幾発も撃ち込まれれば尚更です。その激痛は、想像に難くない」
女の表情は変わらない。人の姿をしていても、人ならざる化け物の苦しみに同情はない。
かちりと、カートリッジを回して次弾の準備を整える。
「ま、待て、待ってくれ!」
これ以上の痛みは勘弁してもらいたいと、男は両手を上へあげて降伏を示す。
しかし、彼女が欲しいのはあくまで情報。男の降伏ではなかった。銃口はやはり、次に撃ち込む予定の、男の左足に向けられたままだ。
「最後です。“ユダ”の居場所を聞きたい。あの裏切り者はどこにいますか」
「そ、それは知らねぇ! 本当だ!」
「ならば、他の真祖は」
「そ、それは……」
発砲した。
しかし銀の弾丸が食い込んだのは男の肉体ではなく、すぐ隣のアスファルトであった。
威力はそれほどでもない。そもそもの用途として、銀は敵の肉体を貫くものではなく、敵の体内に潜り込ませて苦しませるためのものだからだ。
「次は当てます」
彼女の目は本気だ。むしろ、一度でも弾を外してもらえた事が幸運であるように思えた。
「に、日本だ! ウォルター様は、日本に行くと仰った!」
ピクリと、女の眉が引きつった。
日本と言えば、彼女――北条久遠にとっての母国である。小さな島国で、工業の発達はめざましいものの、食料に関しては他国に頼らなければならない。また戦争後には軍隊も持たない国となった。
そんな国に、真祖の一人が何の用なのか。確かに電子機器は最新のものが手に入るだろうが、わざわざ吸血鬼がそんなもののために日本に赴く理由にもならない。
――違う。そんなことは総て、どうでもいいことだ。
ウォルター。その一言に、「日本」と聞いて組み立て始めた彼女の思考は、総て残らず砕けて消えた。
「《第七》……ウォルターが?」
第七真祖、ウォルター。《鎌鼬》の二つ名で呼ばれる、吸血鬼の始祖、その一人。
残虐非道の限りを尽くし、己の快楽のためだけに他の命を食い潰す、法外の化け物。
そして数年前、北条久遠から総てを奪った悪魔――。
冷静だった彼女の思考は、男の口から飛び出したウォルターという単語に瞬く間に蹂躙され、たちまち真紅に煮えたぎる。
元来の彼女であれば、確実に問うただろう。
何故、日本なのかと。
けれど今の彼女には、無理な話だ。
「ウォルターが……ウォルターが日本にいるのですか!」
突如声を荒げ始めた久遠に、戸惑いと恐怖を覚えた吸血鬼は、いつ発砲されるともしれない恐怖に怯えながら、激痛で使えない右足の代わりに両手を使い、器用にも仰向けの姿勢のまま匍匐前進のような形をとり、必死で後ずさる。
「聞いた話だ! 以前ユダ様と本人が立ち話してる時に、たまたま聞いたんだよ!」
ウォルターの性格からして、「人に聞かれるからどうこう」という細かいことを考えることはない。行先を偶然立ち聞きしたというのも、存分にあり得る話である。
銃口が、震える。
気付けば、久遠の肉体は、細かく震えているようだった。
それは、恐怖か。それとも、武者震いと呼ばれるものか。もしか、その双方か。
唯一ハッキリしているのは、彼女が日本に行かなければならないということだ。
――いや、もう一つハッキリしていることがある。
「だからとっとと死ねよクソ女ァッ」
――吸血鬼は、残らず駆逐するべきだ。
「あ」
死ねよクソ女。威勢よく叫び、残る左足で駆け、久遠に向けて爪を振るおうとした吸血鬼。
その首は、間抜けな声と共に、久遠の持つ巨大な鉈によって強引に切り離されていた。
「有意義な時間でした。感謝します」
吸血鬼が吸血鬼らしい行動をとったためか、久遠の頭は自然と冷えた。
今はウォルターではなく、目の前の吸血鬼に意識を向けるべきであると、経験を積んできた肉体が知らせてくれる。
吸血鬼は、首を切り離された程度で死ぬことは無い。
殺すには、限られた方法しかない。
本来吸血鬼が苦手とする銀、水、杭などの弱点を突くか。もしくは――。
「願わくば、あなたに神による導きがあらんことを」
――特殊な《咒》、すなわち清めを行った聖なる武具、《聖具》にて、その心臓を破壊すること。
なんの躊躇いもなく、久遠は男の肉体、その心臓部位を狙って、己の鉈を突き刺した――否。鉈という武骨な武器であるため、突き刺したというよりは、押し潰したという方が正しいか。
潰された心臓からドクドクと溢れていた血液は、僅か数秒で止まり、たちまち凝固し、白くなる。
やがて肉体も血の色が抜けるかのように白くなり、ピシリと割れた。一度崩壊が始まれば、まるで乾いた泥人形のようにボロボロと崩れ、白い灰となっていく。
これこそが、吸血鬼の消滅。これこそが、吸血鬼の存在が公にならない大きな理由の一つである。
風が吹くと、吸血鬼であった白い灰は、骨も臓器も残さないまま掻き消えた。残ったのは、灰の山だけだ。
しゃがみ込んでその灰をわずかに回収し、久遠は辺りを見渡す。
音は、他にない。
となれば、此方で戦いを終えたように、どうやら向こうも仕事を終えたらしい。砂を踏みしめる音がする。
へらへらとした笑顔で久遠へと歩み寄るのは、巨大な棺桶を背負った巨漢だった。
「よぉ久遠。ちょうどそっちも終わったらしいな」
「ええ。しかし、肝心の“ユダ”の情報は……」
「残念ながら、俺もだ。どうも、情報を引き出すのは苦手でね」
帰るか。
巨漢が背中で語り、その場を離れ始める。久遠もその隣に並んだ。そして、一言。小さく告げた。
「第七が、日本にいる可能性があります。先の殲滅対象が吐きました」
「――鎌鼬が? そりゃまた何故だ」
「申し訳ありませんが、理由は聞き出せませんでした。しかし、第七までもが日本にいるとなると――」
現在行方が判明している真祖は《第二》と《第四》のみである。
しかし第二は真祖の中でも異端で、人を好んで害そうとしない。第二に勝ち目のあった使徒は存在せず、また第二に挑んで死んだ者も存在しないといわれている。そのため、教会は第二をさほど重要視しない。
第四は真祖の中でも閉鎖的で、自らの領地に足を踏み入れなければ何もしないが、足を踏み入れると同時に敵とみなされ、駆逐される。第四はその特性から多くの下僕を有しており、彼女ら《教会》のメンバーを総動員しても、これに勝つのは難しいと思われる。
となれば、自然と他の真祖を標的に定めることから始めるわけであるが――。
「しかし、第七か」
巨漢は、久遠を見た。
「いずれにせよ、この件は教会の指示を仰ぐ必要があるな。マリア様の耳に入れておくべきことだ」
「ええ。わたしも、同じ意見です」
久遠の目はもう、巨漢を見てはいなかった。
空に浮かぶ、三日月は。
嫌でも、狂った子供の笑顔を、思い出させるのだ。