この両腕
今日は、快晴だった。
昨日より少し遅い時間、二人はやはり公園のあのベンチで、クレープをついばんでいた。
周囲の子供たちは帰宅の準備を始め、ちらほらと姿を消していく。
その様を見ながら、ぱくりと、阿久はクレープにかみついた。
――甘い。
眉をしかめる。
心なしか、昨日の数倍甘い。
本当に。本当に、甘いと、思った。
あれからかえでの腕を引っ張って、服を買ってやった。
幸い、氷川に貰った金があったのだ。替えの服も買ってやるといったが、今日はいいとかえでの方が断った。そうかと、今着る分の服だけ買って、此処へ来た。
「ねぇ、阿久」
この公園にきて、どれくらい経っただろう。
「服買うぞ、選べ」「これ」
「公園行くぞ」「うん」
「クレープ買うぞ、選べ」「これ」
会話らしい会話をこれまでしてこなかった二人だったが、かえでがようやく口を開いた。
「どうした」
そろそろ生クリームがしつこくなってきたと思いながら、阿久はいう。
「昼は、ごめんね」
「……気にすんな。人間、嫌になる事なんざ腐るほどある」
「うん」
かえでを見ると、クレープはもうなくなっていた。
阿久が食べるのが遅いのか、それともかえでが速いのか。おそらく今日に関しては前者だろうと思い、さっさとクレープを食べ終えようとした阿久だったが、そろそろ胸焼けが辛くなってきた。
見ると、残ったクレープは、適度に生クリームと果物、シロップが分配されていたものだから、阿久はダメでもともと、聞いてみた。
「……食うか?」
阿久は、キャラメル味。かえでは、イチゴ味。
昨日は、阿久がイチゴで、かえでがブルーベリーだった。
もしかしたら、昨日は少し分けた方が良かったのかもしれないと、ふと思ったからだ。
「いいの?」
「ああ。俺はもう要らん」
ありがとう。
かえでは、阿久から受け取ったキャラメル味のクレープを、口に含んだ。
「うわ、これはホントに甘い。あたし結構甘いもの強いと思ってたんだけど、これは一つ全部食べたら胸焼けしそうだよ」
「やっぱりか。どうりで甘いと思った」
「でも、美味しい。……すごく、美味しいよ」
「そうか」
「うん」
かえでが残ったクレープを食べている最中、阿久のポケットに入れていたスマートフォンの音が鳴った。
何かと、取り出す。
「阿久、スマホ持ってたんだ」
「ああ。必要な情報を早めに伝えられるから持て、といわれてな」
もちろんそれは氷川悠斗である。
画面を確認すると、そこには『残念だが』と表記されていた。
そのあとにもいくらか言葉が羅列されている。『南』だとか『吸血鬼』という言葉がちらほらとあったが、そんなものは見るまでもないと、画像だけ軽く目を通して、阿久は再びポケットにしまった。
かえでを見ると、クレープを食べ終わったようだった。
周囲を見る。人の姿はもう、なくなっていた。
日が、暮れようとしていた。
「阿久、あたしゴミ捨てて来るね」
二人分のゴミを持ってベンチから立とうしたかえでを引っ張って、「いい」と告げる。
立とうとしたところを引っ張られたために、人一人分あった阿久とかえでの距離がなくなって、肌が触れる距離になった。
阿久はかえでの手を包むようにクレープのゴミを掴みとると、背後にあるゴミ箱に投げ捨てた。
「な、ナイスシュートじゃない」
「まあな」
何故だろう。
心なしかかえでの頬は少し赤くて、瞳の焦点は定まっていなかった。
「かえで。少し真面目な話だ」
阿久の表情から、何を言おうとしているのか、ある程度推測したのだろう。
いや、いずれ話すことが分かっていたのか。
「うん」
凛とした声で、言った。
「お前の家族は死んだ。吸血鬼に殺された」
飾らずに言った。飾って言おうかと思ったが、阿久にはそんな器用なことはできないと思って、諦めた。
「……うん」
「吸血鬼に殺された者がどうなるか、知っているか」
「……」
無言。
けれど彼女の顔は、知っているふうだった。
――吸血鬼に血を吸われた者は、満月の夜に、吸血鬼となって蘇る。
それは、遥か昔から言い伝えられてきた吸血鬼伝説、その俗説の一部。
そしておそらく、この世界において『満月の夜に出歩いてはならない』といわれる最大の理由であるとされている。
満月の日までに、吸血鬼によって吸血された死体が、火葬・土葬・水葬、いずれかの形で埋葬されているならば話は別であるが、しかし、『南』の家族は、唯一生き残ったかえでが知る事を拒んだために、その生死は、未だ不明である。
「お前には悪いが、少し調べさせてもらった。もし牧村がお前の家族をただ殺しただけならば、それは殺人事件となる。これはこれで問題だが、更に拙いのは――」
――牧村健二が、かえでの家族から吸血していた場合である。
阿久は吸血鬼――正確には《吸血鬼喰い》であるが――にしては、限りなく真祖に近い存在だ。吸血鬼は真祖に近づけばより強くなると言われるが、逆にその吸血衝動は低いとされている。実際、真祖は人間一人の吸血で一か月は優に生き延びるらしい。
しかし、真祖以外は別である。
真祖からほど遠い通常種、下等種に分類される吸血鬼は――これは一説では吸血鬼として不完全であるからとされているが――とにかく、吸血に対する固執が激しい。それは下等種ならば尚更だが、真祖に直接血を吸われた吸血種ですら、人間一人の吸血で一週間もてばいい方であるとされている。
牧村は、真祖に血を吸われた通常種。
『南』の家族を殺す直前、女を殺している。
だが、血に飢えた吸血鬼が、一人の人間の血液で満足するものなのか――。
これは氷川に聞いた話だが、大英帝国連合において始末された吸血種の中には、一週間に十数人もの吸血を行った者がいたらしい。
彼が言うには、吸血鬼の飢えは人間のそれとは比べものにならないほど苦痛であり、また下等種であったがために、一日に五人を吸っても満腹感を得ることは無かったという。
その吸血鬼を調べたところ、だ。
吸血鬼を種別した際、真祖を『第一世代』、真祖に血を吸われ、吸血鬼となったものを『第二世代』(牧村は第二世代にあたる)と考えた場合、彼は『第二世代』に吸血された『第三世代』の吸血種であることが判明した。
『第三世代』の吸血鬼の吸血衝動から既に、それなのだ。
いかに『第二世代』に分類される牧村であろうとも、一日に四人の吸血を行ったとして、なんら不思議はない。
それも、彼に吸血を行った者はおそらく《第七真祖》ジャック・ウォルター。彼は世界に存在する九人の真祖の中で、もっとも吸血衝動に忠実であるとされている。
であれば、最悪の場合――。
それを思って、阿久は氷川に問うたわけであるが、その答えは『残念』だ。
彼らの死については、刑事事件としての処理はされなかったようである。もっとも、満月であったのは昨日だ。なのに、それまでの三日間、「まさか意味のない無言の欠席などはありえないだろう」と考えたのか、誰も――職場の社員も、学校の教師も――誰も彼らの家に連絡を入れようとはしなかった。
それは、幸か不幸か、真面目な南かえでの父の人徳が大きいのだろう。
昨日ようやく会社から、何か大きな事件に巻き込まれたのかと心配されて連絡が来た次第であるらしい。しかしその電話に、南かえでの父は受話器を取った。
南かえでの父は、本日も変わらず仕事へ行き。
南かえでの母は、本日も変わらず家事を働き。
南かえでの弟は、本日も変わらず学校へ登校したという。
これが一体、何を意味することなのか。
「みんな、吸血鬼になってたのね」
事実を告げられずにいた阿久に、かえでがそう切り出した。
「……」
何を言えばいいのか、分からなかった。
残念だったね。
身内の不幸だね。
可哀相だね。
――ふざけるな、殺すぞ。
阿久の頭に多くの言葉が飛び交うも、ダメだ。その言葉の総てが、かえでの心を切り裂くだろう。
おそらく、いつもの自分であれば、何も声をかけようとはしなかった。
それは言葉をかければかえでが傷つくと、かえでを思いやるからではなく、ただ単に、南かえでという少女がどうなろうとも自分には関係ないと考えるからだ。
変な、話だ。
ほんの数日前、阿久は彼女が強姦されそうになっている現場に遭遇した。
助けようとしなかった。それは、心底、彼女のことがどうでもよかったからだ。
それなのに、ほんの数日共に過ごしただけなのに。
――阿久は、優しいね。
彼女の笑顔を守ってやりたいと、思ってしまった。
阿久の手は、この二つだけだ。
自分には二つの腕しかないから、掴めるものは限られてくる。
けれど阿久は、既に一つ、守るものがある。
それは、とても大きなものだ。きっと、それ一つで世界に匹敵するほどのものだ。
――二兎を追う者は、一兎をも得ず。
だから阿久には、かえでの笑顔は守れない。
阿久に、守れるものは他にない。
己の望むもののために、他の総てを捨てると誓った。
利用できるものは利用する。邪魔するなら喰い潰す。
決めたハズだった。決めた、ハズだったのに――。
「――すまん」
阿久は、かえでの頭に手を置いた。
他に掛ける言葉も、できることも、何もなかった。
頭をくしゃくしゃと撫でたその腕はきっと、震えていた。
するとかえでは、阿久の手をどけて、自分の腕で、阿久を抱きしめた。
本来は阿久が慰めるはずであったのに、かえでは阿久を包み込むようにして、「ううん」と、母親が子供をなだめるような声でいうのだ。
「阿久は謝らなくていいの。阿久はあの日、わたしが襲われてるところを助けてくれた。阿久は昨日、あたしの命を助けてくれた。だからね、お礼を言うべきなのはあたしなの。――助けてくれて、ありがとう、阿久」
自分は、弱い。
生まれてこの方、阿久は喧嘩に負けたことはなかった。誰よりも強いと思っていた。例え吸血鬼にも、過去大きな傷を負わされたことはあれど、負けたことはない。
総て勝ってきた。
立ちはだかるなら踏み潰す。邪魔をするなら喰い潰す。
なのに、初めて。
自分は弱いと、思った。
そして眼前の少女は、こんなに小さな身体なのに、とても強いと思った。
「……ねぇ、阿久。あたしの家まで、ついて来てくれる?」
出会って初めて、彼女は『自分の家』と口にした。
ほんの数時間前には、絶対の拒絶を見せていたのに、一体どんな心境の変化だったのか。
「ホントはね、わかってた。もっとはやく真実を知るべきだって。だって、もしあたしの家族が吸血鬼になってたら、今度はあたしの家族がみんなを襲う。そしたら今度は、あたしみたいな人が、もっとたくさん増える。その人たちが吸血鬼になっちゃったら、次は、もっと。その次は、もっともっと。誰かが、どこかで止めなきゃ止まらないのに」
「……かえで。お前は強いな」
素直に言葉にすると、かえでは阿久から離れて、少し照れた顔で言った。
「そんなことないよ。阿久やアルラさんに、たくさん甘えてるから」
ふっと、阿久は笑った。
「昨日ガキと言ったこと、訂正しよう。お前は、いい女だ」
少しキョトンとしたかえでは、にんまりと笑って、唇に人差し指を当てた。
「そう思うなら、キスの一つでも欲しいものですな」
そういって、くすりと笑った。
ああ、強い。こいつは、本当に強い。
「調子に乗るな」
そういって頭を小突くと、「あっ」とかえでは驚いた。
「阿久が、笑った!」
「俺が?」
「なんだ、阿久もそういう顔できるんじゃん!」
その時の阿久は、もしかしたら。
もしかしたら、笑っていたのかも、しれなかった。




