序・姫 月/雨/心臓
――ひどい雨の、夜だった。
その日は、ひどい雨の夜だった。
ばしゃばしゃと水たまりを踏みつけて、女は走る。
女は、追われていた。
何が起きたのか、何をされているのか、わからない。
地面を移動する古老の男。
女は、人かどうかもわからないソレに追われていた。逃げても逃げても、追いかけて来る。逃げられない。肩に傷。幸い足は無事なれど、この体力がいつ尽きるかもわからない。
肉体の疲労。精神の摩耗。息が、切れる。
――でも、まだ死ねない。
女には、記憶がなかった。それはほんの数時間、数日などというレベルではなく、生まれてからこの状況に至るまでの総ての記憶が欠如していた。
――死ねない。
それでも、彼女を突き動かす何かがあった。
成さねばならない、使命とも呼べるものがあった。
だから、彼女は逃げた。その使命が何かはわからないけれど、逃げた。今死んではそれが果たせなくなるからと、ひたすらに逃げた。
そして。
彼女の視界に広がるのは、既に人が消えて使われなくなった、多大なビル群。彼女が立つのは、使われていなかった高層ビル、その屋上。
追手は、ものを掘って移動する。
それは必ずしも土だけに限らず、コンクリートもアスファルトも例外ではなかった。
こうなれば手段は一つと、女は屋上のフェンスを越えて、ビルとビルの間を跳躍しようとする。これまでの動きから察するに、流石の追手も、空中は跳べないと見た。
女は、跳ぶ――。
「――ッ!」
ずるりと、彼女の足が、滑った。肩から滲んだ血が肉体を伝い、雨と共に足を滑らせたようだった。
落、ち、る。
ぐしゃりと、落下した。
たまたま落下地点にあった車を大きくひん曲げて、落下した。
落下距離はおよそ、五〇Mといったところか。
けれどまだ、生きていた。流石に無事とは言わないが、しかし、左足が折れる程度か。
普通の人間ならば、一〇〇度落ちれば一〇〇回とも確実に死ぬであろう。それが例え車の上であっても。なのに女は、生きていた。頭をぶつけていればどうなったかはわからない。たまたま、落下した時の雨が幸運を働かせたのかもしれない。
いや、いずれでも構うものか。
生きていた。
それは紛れもない事実で、それだけが彼女にとって重要な真実だ。
想定外の出来事に驚き、次いで感謝と安堵こそあれ、人ならざる己に対しての畏怖はなかった。
彼女に、記憶はない。自分と比較する対象も、あの土竜のような古老だけなのだ。
身体を激痛が苛む。
なんとか立とうと、女は動いた。
そして、“人”を見つけた。
目が、あった。
黒い、細身のコート。首元には毛がついている。開いた胸に、薄いシャツ。ドクロの首飾りに、黒いズボン。
若い、男だった。
長い間、見つめていた。十秒、一分。
いや、更に長い時をかけたのかもしれない。
「なんだ、あんた――」
なんだとは、何か。
男は女になんだと問うたが、女の方こそ、男にあなたは何だと問いたかった。
あの古老の仲間か。わたしの敵か。それとも――。
考えている間に、土竜は追いついて。
「ようやく鬼ごっこは終わりかな、《天使の姫君》。今宵は満月。月は見えぬが、このような落ち着いた日に死ねるのは幸福と存ずるが――如何に」
土竜の、触手のような腕が、針のように迫り。そして。何かを、貫いた。
女ではなかった。女ではない何かを、貫いた。
――男が、女を庇っていた。
何故、自分を庇ったのか。何故、通りすがりの女のために、命を投げ出したのか。女には、わからなかった。
それでも、助けなければならないと思った。助けるべきだと思った。
助けたいと、思った。
その時に、女は。男に、自分の総てを捧げると誓った。
――それは、ひどい雨の、夜だった。
けれど、とても美しい月の、夜だった。