執事とお嬢様
豪華で装飾過剰な家具。綺麗に磨きのかかった白い壁には、有名な画家の描いた額縁の絵画が飾られている。人一人で生活するには無駄に広い、まるで貴族やご令嬢が住まうような一室。そんな場所に、初夏の日差しがカーテンの隙間から差し込み始めた頃。一人の少女がレースカーテンの垂れた天蓋付きのベットで静かに眠っていた。誰も足を踏み入れていない雪原のように白くなめらかな肌。まだ幼さを残してはいるが、十分女性らしさを感じさせる整った顔立ち。そして何より、純血のような艶のある真紅の髪が目を奪う、そんな少女だ。彼女は布団からチョコンと顔を出し、可愛らしい寝息を立てていた。
「失礼いたします」
ふと、部屋にドアをノックする音が二回響き、そんな声が聞こえてきた。そしてガチャリとドアが開き、一人の少年が入ってきた。一見クールだが、穏やかで優しそうな顔。スラッとした長身に、黒をベースとした執事服を着た冷静さをまとった少年だ。
「お嬢様。桜木紅花お嬢様。朝でございます、起きてくださいませ」
少年は真っ直ぐに少女の元に向かうと、まだ眠っている彼女の耳元でそっと声を発した。
「ん…んん……」
すると少女……桜木紅花はゆっくりと目蓋を開き、ムクリと起き上がった。そして手でコシコシと瞳を擦り、ふわぁ…っと小さくあくびをした。
「ふあ…?マモル…?」
それから紅花はようやく側にいる少年……黒夜真護にその真紅の瞳を向けた。
「おはようございます、紅花お嬢様」
「ん…、おはよう…。どうしてここにいるの…?」
紅花はまだ寝ぼけているのか、トロンとした表情で真護に問いかけた。
「どうしてと申されましても、私はお嬢様の執事でございます故。それにお嬢様が起こしてくれとご要望なさったではありませんか?」
真護は頭を下げたまま冷静に答える。
「そっか…そういえばそうだったわね。ありがとう」
「恐れ入ります」
「ところで真護」
「はい、なんでしょうお嬢様?」
「あなたいつまで私のすぐ真横にいるつもり?」
目が覚めたのか、ハッキリとした口調で紅花はそう告げ、お互いの顔が触れ合いそうなほど近くに座る真護をジト目で見る。
「おや?私はお嬢様の執事、いつでもお側にいるのは当たり前では?」
「そう言えばいいと思う?いいから離れなさい。準備ができないわ」
「御意」
命令された真護はすぐに立ち上がり、ベットから離れる。それからクローゼットへと足を進めた。
「ちょっと待ちなさい真護。なぜクローゼットに行こうしているの?」
紅花はそれをすぐに呼び止める。真護はクルッと振り返り、不思議そうな表情を彼女に向けた。
「お嬢様がご準備をなさるのでしたら、お着替えをお手伝いして差し上げようと思ったのですが?」
「にゃ…!?」
言われた紅花はボッと顔を一瞬にして赤く染めた。
「な…何言ってるのよこのエッチ!変態執事!そんなことしなくていいわよ!」
「お嬢様、私は変態ではございませんよ?」
「どうみても変態よ!いいから早く……あっ……」
「お嬢様!」
突如、ベットから立ち上がった紅花がふらっと倒れそうになる。真護はすぐに駆け寄り、彼女の背中を支えた。
「全く…お嬢様はなぜか低血圧で朝に弱いのですから、あまり無理なさらず」
「誰のせいよ……」
「少々早いですが…お吸いになられますか?」
真護は紅花の耳元でそうささやいた。紅花はまた少し顔を赤らめた後、彼から離れ立ち上った。
「い…今は大丈夫よ…。それより早く出ていきなさいよ…。着替えられないでしょ…」
「御意。では終わりましたらお呼びくださいませ。失礼いたします」
そうして真護は一礼してから部屋を出た。
「もう…バカ真護…」
紅花はそう呟き、ゆっくりと着替えを開始した。
「はぁ…」
数分後、紅花は着替えを済ませ自室をでると、ドアの横に真護が立っていた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
「ずっとここにいたの?…………覗いてないでしょうね?」
紅花は怪しそうな目を真護に向ける。それからレットカーペットの敷かれた長い廊下を歩き出す。それに真護は「心外です」と言いながらついて行く。
「私がそのような事をするように見えますか?」
「見えるから聞いたのよ…。まぁいいわ、朝食はできてる?」
「はい、整っております」
真護はそう答えると、紅花の前に先回りして、目の前の大きなドアを開けた。そして紅花が中に入ると………
『おはようございます、紅花お嬢様』
部屋にいたメイドやシェフなど……総勢二十人の使用人達から一斉にあいさつされた。
「えぇ、おはよう皆」
紅花はそれに笑顔で応じると、部屋中央にある豪華な長机に向かう。この桜木家に来て約7年。最初は驚いていたが、流石にもう慣れた。
「お嬢様、こちらへ」
紅花は真護が引いてくれたイスに腰掛ける。目の前にはいつも通りの豪華な朝食が並んでいた。
「お嬢様、何かご要望はございますか?
真護は紅花の膝の上にナプキンを敷く。そして料理に目を向けて、皿を手に取り彼女にそう問いかけた。と…
(しまった…!こんな聞きかたしたら…!)
真護はハッとして紅花の方に振り返る。すると紅花は小さく口元を悪戯につりあげ答えた。
「そうねぇ、ならそのベーコンエッグがいいわ。当然真護が食べさせてくれるわね?」
「っ!」
案の定、いつものように紅花の「真護いじり」であるわがままが始まってしまった。真護的には別に嫌ではないが、正直毎回恥ずかしいことばかりで困るのだ。
「はぁ…わかりました…」
だが執事が主の命を断る訳にはいかない。ましてや今回は自分から聞いた事、なおさら無理だ。真護はため息をつきながらベーコンエッグを皿に切り分ける。
「どうぞ、お嬢様」
それから真護は少し照れた表情のまま、片膝をついてベーコンエッグのささったフォークを紅花の口元に持っていく。
「あーん♪ふふ…♪美味しいわ、ありがとう♪」
「い…いえ…」
「じゃあ次はサラダね♪」
「っ!ぎ…御意…!」
結局その後、紅花のわがままは食事が終わるまで続いた。周りの使用人からの優しい視線が、余計真護を恥ずかしめた。
「ふぅ…ごちそうさま♪」
紅花がそうナプキンで口元を拭いていると……
「あまり執事をいじめてはいけませんよ、お嬢様?」
一人のメイドが紅花の前に紅茶の入ったカップを置きながら話かけてきた。
「いじめてないわよ美月。ちょっとからかっただけ」
「分かっておりますわお嬢様」
「ならいいんだけど…」
「おはようございます、美月先輩」
紅花がなぜか照れたようにカップで顔を隠した後、真護はすぐにあいさつをする。立っていたのは小川美月。白と黒のロングスカートの上からでもわかる綺麗な体躯。プリムの乗った長い黒髪をポニーテールにくくり、凛とした顔つきで大人の女性の雰囲気の優しい人だ。紅花達がここに来た時からメイドをしていて面倒見が良い。真護が執事になる前は作法などを教わったり、色々お世話になった人だ。
「おはよう真護君。相変わらず仲が良いわね」
「うぅ…からかわれてるだけですよ…」
「それはどうかしらねぇ」
美月は笑いながらそう言うと、ポケットから鍵を取り出し、真護に手渡した。
「車、もう庭に出してあるから。時間でしょ?早く行きなさい」
「ありがとうございます。ではお嬢様、そろそろ学校に向かいましょう」
「えぇ、わかったわ」
『いってらっしゃいませお嬢様』
入って来た時と同じように、使用人達全員からの声を背に、二人はリビングを後にした。
学校へと向かうリムジンの中、真護は紅花の様子を気にしていた。ちなみに今車を運転しているのは真護である。一応彼はもう18歳なので、紅花のためとすぐに免許を取得した。そのためハッキリとは分からないが、バックミラーから見える紅花の表情が、なんだか寂しそうに見えたからだ。
(どうなさったのでしょうか…?)
このリムジンは桜木家特製で、搭載されたマイクとスピーカーで運転手と乗車した人が話ができるようになっているのだ。気になった真護は、手元にあるマイクボタンを押した。
『どうなさいましたお嬢様?ご気分でも優れませんか?』
スピーカーから座席内に響く真護の声。紅花はやはり寂しそうな表情で窓の外を眺めながら答えた。
「いいえそうじゃないわ。ただ…さっきお義父様とお義母様がいなかったなって…」
『旦那様方でしたら、今朝お仕事のため早くに家を外出なさいました』
「それは昨日聞いて分かってたけど…」
『お嬢様のお気持ちは十分お察しいたしますよ。ですがあまりわがままは言ってはいけません』
「な…!わがままなんて言ってないわよ!娘なら親に会いたいのは当たり前じゃない!それにあの二人は……桜木家は私達の命の恩人でしょ…」
桜木家。国内どころか国外にもいくつもの企業を擁し、世界中でもかなりの有名な名家だ。そんな家の大黒柱、桜木純一郎。彼が昔、全てを失いかけていた紅花と真護を拾い、桜木家の家族としてここまで育ててくれた。おかげで紅花は美しいお嬢様に、真護は立派な執事にまでなれたのだ。
『そうでございますね。大変失礼いたしましたお嬢様。ですが私は…』
「何よ?」
真護はバックミラーでまだ寂しそうな紅花の表情を確認し、一拍おいてから声を発した。
『私はこうしてお嬢様のお側にいれるだけで幸せですよ』
「っ!たく…なんで真護はそんな恥ずかしいセリフをさらっと言えるのよ…」
紅花はすぐに顔を赤くし、また窓の外に目を向けた。だが嬉しかったのか、口元のにやけだけは隠せていなかった。それを見た真護もつられるように自然に笑顔になる。
『ですから旦那様方には心から感謝しておりますよ』
「分かってるわよ…。ていうかその旦那様って呼び方。お義父様が微妙な顔するわよ?」
『私は仮にも執事ですからね。仕方ありませんよ』
「けど真護だって一応はあれなんだし…私達だって…本当なら義兄妹なんだし…」
『お嬢様?』
マイクがとれないほどの声だったため、紅花の最後の言葉は真護には聞き取れなかった。ただバックミラーからはなぜか紅花の顔が赤面しているのが見えた。
『ところでお嬢様』
「ん?何?」
よく分からなかった真護は、とりあえず話題を変えてみることにした。前から気になっていた事を聞いてみる。
『お嬢様は学校でお友達など作らないのですか?』
「え…?」
しかしどうやらこれは聞いたらまずかったのか、紅花の表情はまた沈んでしまった。しばらく静寂が続いた後、紅花は呆れたように口を開いた。
「いらないわよ、そんなもの。私には真護がいるもの」
『そのお言葉は大変嬉しいのですが、私も学校ではずっと一緒にいる訳ではございません』
「だから何よ?それに私は作らないんじゃないってことくらい、真護が一番理解してるでしょ?」
『ですが…』
真護は言葉を続けようとして押し黙った。その通りだ。紅花の事は自分が一番知っている。彼女があまり人と関わらない……いや関われないのは……。紅花は真護の気持ちを悟ったように、絶えず窓の外に目をやりながら、呟いた。
「だって私は、吸血鬼だもの……」