第七話:マンティコア
サフィニア視点です。
夜は魔術の研究。昼は小説の執筆。
刻一刻と迫る“死”を迎えるまでにするべきことはありすぎるほどにある。太陽が沈むのを見る度、頭を悩ませて無為に時間が過ぎる度、焦りと不安に身を焼く。
綱渡りをするように不安定な精神の続く生活の中で唯一、ただ傍にある温もりを肌で感じ、心に刻むだけの時間が存在する。
睡眠不足による強烈な眠気に誘われ、あっさり眠りに落ちてどれほど経ったか。ぼんやりと視線を彷徨わせていたサフィニアは、視界に映ったものを認識してゆるゆると微笑んだ。
「おはよう。よく眠れた?」
「……うん」
「まだ夕食の時間までは少し時間が残ってるけど」
サフィニアの顔を覗き込んで、オスカーは穏やかに微笑む。
言われて周囲を見渡すと部屋の窓から差す光は茜色に染まり、空気はやや肌寒い。身体の上にかぶせられた薄いタオルのおかげでサフィニアの身体は冷えずに済んでいる。
ふと脳裏に双子の姉の姿を思い浮かべ、小首を傾げる。
「アマリーはもう来た?」
「いや、まだだよ。今日はいつもより遅いみたいだ」
「――この頃、ずっと工房で寝泊りしてるからね」
もう三日双子の片割れの顔を見ていない。
アマリリスもまた、サフィニア同様に焦っているのだ。貪欲に残された時間をむさぼっている。きっと今も工房で汗にまみれながら武具の製作に精をだしているのだろう。
「今日はデザートにいちごパイを焼いたんだから。早く来ないと他の子たちに食べられちゃうのに」
今日は週に一度の、孤児院で夕食を食べる日だ。今もエナが忙しそうに台所で大勢の夕食を作っているはずである。彼女の作る料理は絶品だとご近所で評判だ。
そのエナに師事して料理を教わったサフィニアは、週に一度のこの日に必ずたくさんのお菓子を焼く。
今日を含めてあと三度しか、ここでお菓子を焼けないのかと思うと凝ったお菓子を作りすぎるほどに作ってしまう。
アマリリスはとにかくパイと名のつくものが好きなので、お菓子は自然とパイ類が多くなっている。
「ねぇ。オスカーは何が好き? シュークリーム? ケーキ? それともクッキー? 次はオスカーが好きなものを作るから」
「サフィーのお菓子は全部好きだけど……そうだな、前に作ってくれたマフィンがいい」
「マフィン? えっと、確かリンゴ入りのやつだよね。りんごは今が旬じゃないから手に入れるのが難しいけど――アマリーに頼めば何とかなるわね」
「? 何でだ?」
「だって、アマリーは他国の商人たちと顔見知りで、いっつも安く食料を仕入れさせて貰ってるの。この国で旬じゃない食べ物も、他の国なら何とかなるから。ほら、隣国は食料改良に力入れてる場所もあってりんごもどきの果物もあるから」
双子の住む島国の周りには、同じような島国がたくさんあり、連合を組んでいる。過去には互いの領土を廻って戦争を起こした歴史もあるが、今は戦争をしている近隣諸国はない。どの国もそれなりに潤っている理想的な環境が続いているからだ。
同盟で戦争を回避した諸国は友好的な貿易と内政に力を入れており、食料改良もこの頃成功例を幾つか挙げている。この頃では、旬でない食べ物を食べたい時のために「もどき」の果物が普及し始めている。味は似ているが、形が似ているとは言えない果物だ。
「……アマリーはどこまで人望があるんだ?」
「さぁ?」
少し引き攣った顔でつぶやくオスカーにサフィニアはにっこりと笑みを返す。
たかだか十八歳の小娘が他国の商人やどこぞの王子と縁を結んで良好な関係を存続させるなんて、そうそうできることでもない。アマリリスには不思議と人を引き付けるところがあり、その人脈は一個人にしては広すぎるほどである。
「アマリーを知らない人って王都では少ないと思うなぁ。いろんなとこでお世話になってるもの」
アマリリスは人と触れ合うのが好きだ。いつも人の温もりがある場所に飛び込んでいく。その先に黒々とした陰謀や駆け引きが渦巻いていても、それさえ容認してしまう。持前の度胸と行動力で自ら道を切り開いて、人々の間を渡り歩いていくのだ。
アマリリスは人間を愛している。
サフィニアは彼女ほど寛容になれないから、友好範囲も狭い。
「アマリーはね。ずっと、独りになることを怖がってるの」
「独り?」
「私とアマリーは一度だけ、別れ別れになったことがあるの。生まれてからそれまで、ずっと一緒に居たのに。本当の意味で独りになったことなんて絶対になかったのに。――お母様もお父様も、妹もいない。温もりなんて欠片もない。そんな場所をアマリーは知ってしまったのよ」
「それは?」
「“死”だよ」
サフィニアの答えにオスカーは声を詰まらせた。
十年前。アマリリスはサフィニアをかばって死に掛けた。いや、死んだのだ。それをサフィニアが強引に時限の魔術で甦らせた。
“死”を体感した時、アマリリスは孤独を知ったのだ。ひんやりとした暗い場所を。
以来、アマリリスは孤独を怖がるようになった。人の居ない場所を怖れて、人の居る場所を求めて様々な場所に足を伸ばすようになった。今の人脈はその過程で培われた副産物だ。
サフィニアは十年前を思い出し、表情を沈鬱にさせた。
――もし、あの時魔術が成功しなければ今頃アマリリスはここにいなかった。
それは考えるだけでもぞっとする話だった。アマリリスが生きていなければ、今孤独を怖れているのはサフィニアであったはずだ。
もしもという仮定に浸ったサフィニアは、今自分がどれほど沈んだ表情でいるのか、気づかない。どれほど辛そうな表情をしているのかを。
隣にいたオスカーだけがその様子を見ていた。
「サフィー」
「えっ?」
突然腰に手をまわされてオスカーに抱きしめられる。
驚いたサフィニアは成すがままの状態でドキドキ鼓動する心臓をなだめつつ赤面した。
「ど、どうしたのっ?」
「何でもない。ただ、こうしたかっただけだよ」
「そ、そうなんだ」
抱きしめられているせいでオスカーの表情は窺えず、サフィニアはいたたまれない気分になりながら視線を彷徨わせた。
今二人がいるのは孤児院のサフィニアとアマリリスに宛がわれた部屋だ。他の子どもたちと共有する場所だから、いつ誰に見られるか分かったものではない。
もしも誰かに見られたら猛烈に恥ずかしい。相手がエナだった場合、満面の笑みで祝福されるだろう。話は子どもたちにまで伝わり、散々にからかわれるのは目に見えている。
「あ、あのオスカー? ほ、他の人に見られるとちょっと恥ずかしいな~、なんて」
「それは問題ないから」
「へ? いや、何それ。どういう意味!?」
まさかすでにもうばらしたのか。
冷や汗を流すサフィニアに、オスカーはやんわり笑みだけ返してきた。
その笑みで誤魔化されてしまうのは惚れた弱みというやつだ。
結局追求できないままうつむいてしまう。
でも。
こんな穏やかで甘い時間もいい。
オスカーと一緒にいられるわずかな時間が、こんな風に幸せなら不満など一つもない。
サフィニアは口元に微笑を浮かべてまぶたを閉じた。
一度は押し込んだ眠気がまた襲ってくる。サフィニアは眠気に抵抗しないまま、オスカーの腕の中で再び穏やかな眠りについた。
******
王都全体に張られたサフィニアの魔術の網。それはいつでも王都を監視し、指定された条件に合致した異変が起きると同時にサフィニアが感知できる仕組みになっている。
影響範囲が広いため魔力の消費量が半端ないが、サフィニアの膨大な魔力の前ではその消費も微々たるものだ。何せ普通に生きていれば、サフィニアは身の内の過ぎた魔力に蝕まれ二十八歳で死ぬはずだったというのだから、年々増える魔力量はそれこそ桁違いなのだ。
――魔物が顕れた。
その“異変”は深い眠りの中にあったサフィニアを一瞬にして覚醒させた。
「っゲイル!」
飛び起きたサフィニアはほとんど反射的に魔術を発動させ、魔物退治に雇われた傭兵に魔物出現の報を届ける。事前に仕掛けていた魔術は、傭兵の名前を呼ぶだけで発動する。
パッとサフィニアの眼前に金色の火花が散って消えた。
サフィニアの思念が、突然頭の中に割り込む形になってゲイルの下に届くだろう。
「オスカー、いないの?」
ぐるっと周囲を見回して窓の外を見れば、もう十分暗くなっている。
眠りに着く時は傍にいた恋人の姿は視界の届く範囲にはない。
勝手に一人で外に出て行くのを躊躇したサフィニアは、部屋の棚から紙と羽ペンを取り出すとささっとと書き置きを残す。行き先は告げずに心配はしないでくれ、とのみ記した。
「《転移せよ》」
魔術詞をつぶやくと足元で魔方陣が閃き、サフィニアの身体は孤児院から消える。王都に張った探知の魔術が異変を捕えた座標に、一瞬の後にサフィニアは転移した。
普段なら付近の人目のない場所を指定するが、今回ばかりはそんなことに気を使えない。場合によっては、一瞬の遅れが誰かの命を奪ってしまう。
転移してすぐに目に入った景色に、サフィニアは驚きと疑念を持って叫んだ。
「またここなの!?」
サフィニアが転移した場所は、以前魔狼と鉢合わせした森に面した丘だった。
激しい既視感を覚えながら薄暗い森を丘の上から見下ろしたサフィニアは顔を引き攣らせた。爛々と暗闇に輝く貪欲な双眸とその体躯を認め、サーッと全身の血が引いていく。
「う、嘘でしょ」
サフィニアも書物の上で知識としてしか知らない生物が唸りを上げて森から姿を現す。
赤い毛皮に蝙蝠に似た翼、左右に揺れる毒針を持つ長い尾、大きく裂けた口に三列に並ぶ鋭い牙。四足で歩行し、のそっと動く巨体。
――赤獅子だ。
大陸では一匹で小国の軍が出動してようやく討伐できると言われた、稀少で凶暴な魔物。その食欲は狂気的に強く、一度目を付けた獲物は何があろうと逃がさない。過去の史実では軍隊の三分の一の人間を食し、さらに三分の一をその爪で嬲り殺したと記されている。
(こんなものが王都の街を襲ったら……!)
壊滅的。いや、復興するのもやっとという悲惨な状態に見舞われるのは確実だ。何よりここは王都。王族の住まう土地。サフィニアのいる丘からも壮麗な王城が目で確認できる。もしも、あの魔物が王城を襲えば王族は逃げられるか?
――否。抵抗虚しく魔物の餌食になるだけだ。
その光景を想像し、サフィニアは震え上がった。
多くの魔術師や神聖術師を抱える大陸の一国でさえ、あの魔物が首都に顕れれば大混乱に陥るはずだ。ましてや、何も知らない無知の島国がどうなるかなど想像に難くない。
魔物から目をそらせないまま、気配を探る。
「ゲイルは」
まだ来ていない。
魔術師のサフィニアと違って彼はここまで辿り付くのに時間がかかる。
ならば今あの魔物を足止めできるのは――
「私だけ、か」
ごくりと息を呑んで事実を確認する。
ゲイルが来るまでだ、それまでこの丘に足止めできればいい。
日も完全に暮れたこの時間帯に顕れてくれたのは、不幸中の幸いだ。おかげで視認できる範囲に目撃者はいない。魔狼の時と違って、今回はサフィニアも他者を護りながら戦闘する余力はないだろう。
覚悟を決めたサフィニアが魔物を凝視すると、あちらもこちらに気が付いたようだった。
「《顕現》」
魔狼の倍の速さで迫る赤獅子を直視し、以前にも使った防御の魔術を発動させる。ただし、今回は四方を覆う結界ではなくサフィニアを中心に円形状に覆う結界を成す。
「《重複せよ》」
一つ目の結界の上にさらに三つ四つと新たな結界が上乗せ強化される。ドラゴンの息吹も防ぐ結界も、赤獅子を前にすれば一つでは心もとない。
魔物はサフィニアが魔術を行使するとほぼ同時に疾駆し、サフィニアとの短い距離をあっという間に埋めた。四つ目の結界が張られた同時に魔物の腕が振るわれ、凶悪な爪がサフィニアに襲いかかる。それによって四つ目の結界は相即破られた。
結界があるとは言え、目の前を通り過ぎる爪にたらりと嫌な汗がサフィニアの背をつたう。
腕一振りに付き、一つの結界が犠牲になる。
「《影響:自己修復に設定》《重複せよ》」
瞬時に防御の魔術が上書きされ、新たな結界が張られる。これで一つ、結界が破られる度に新たな結界が張られることになる。
赤獅子は幾度も足を振るい、その度に結界を破っては、獲物に手が届かないことに苛立って頭突きを始める。足元の地面が微震を伝え、魔物の咆哮がびりびりと空気を震わせる。
サフィニアは目の前で結界と魔物が衝突し、火花を散らすのを目撃して身体が竦むのを感じる。
「《檻よ、囲え、数多なるものを隠せ》」
魔物に圧倒されて震える声で、サフィニアは丘陵全体にさらなる結界を張る。これは人避けを目的とした防御の魔術の一種で、結界内の音や景色を外部に漏らさないように隠す効果を持つ。また周囲から一時的に結界の張られた場所を隔離し、人の意識から外すことができる。
これで異変を嗅ぎ付けた王都の人間が、この丘陵に現れることはない。ゲイルに関しては、人避けの効果を発揮できないように設定した。
「《闇よ、射止めろ》」
魔方陣が魔物の足元に閃き、夕日によって伸びた周囲の影が蠢き始める。魔物自身の影とサフィニアの影、奥に控える森の陰が一斉に魔物の身体に向かって突進し、赤獅子の動きを束縛しようとする。
魔物も暴れまわって影を振り払うが、あとからあとから湧いてくる影の鎖に少なからず足止めされる。少なくともサフィニアに突進するのは中断された。
その隙にサフィニアは詠唱を省略できない高等魔術を練り上げる。
「《我、ここに天の裁きを求めん》
《影響範囲:直進に五メル》
《我が意を汲み、知らしめよ》
《響け、雷》!」
突如、茜色の空が割れて晴れ間にふさわしくない雷が轟音を響かせ、魔物の巨体を貫いた。
ぴかっと黄金色にサフィニアの視界は覆われ、地面が大揺れして魔物の壮絶な絶叫が轟く。悲鳴そのものが凶器と化したように、サフィニアの鼓膜を貫いてバランス感覚と聴覚を麻痺させる。魔術が発動した時点で目を閉じたので視界は奪われなかったが、立っていられずに芝生の上に倒れこむ。
おそるおそる目を開いて、サフィニアは今度こそ悲鳴を上げた。
赤い双眸をらんらんと濡らして、赤獅子はふらついて立っていた。ばちばちっと身体から火花を上げて、サフィニアに突進してくる。
大きく開かれた口が目の前に広がり、結界に衝突する。同時に魔物の身体から雷の名残がばちばちっと結界を揺らす。魔物の激突で一つの結界が、さらにサフィニア自身の魔術がぶつかって一つの結界が相殺される。
あまりに大きな衝撃を受けて、結界の自己修復機能が追い付いていない。
結界は残り二つしかない状況で、サフィニアはとっさに逃げの一手を打つ。
「っ……《転移せよ》!!」
使い慣れた魔術は間をおかずに発動し、サフィニアは丘陵の下に転移する。そこは人避けの結界が効力を持つ、ぎりぎりの境界である。距離を取って赤獅子を観察する。突然消えたサフィニアを魔物はまだ見つけていない。
サフィニアは緊張で息切れする呼吸をなだめて、背後の街並みを意識する。すっかり日も暮れ始めたこの時間帯、人々は帰宅して一家団欒の穏やかな時間を送っているだろう。彼らを守れるのは、現状ではサフィニアしかいない。何が何でも、ゲイルが来るまでは足止めをしなければならない。
魔物から視線をそらさずにサフィニアは口の中で小さく詠唱する。
(早く来て、ゲイル)
そもそも魔術師は近接戦を不得手とする生き物だ。役割としてはもっぱら後方援護であり、前線で命のやり取りをする役割ではない。ましてサフィニアは魔物の存在を知り、充分な知識を持っているとは言っても、圧倒的に交戦経験が足りていない。人間に手を上げた経験すらほとんどないのだ。
せめてここにアマリリスが居れば、と思う。
(もっと打撃らしいものを与えられるのに)
今の状況では自分の身を護るだけで精一杯だ。間近で見た、魔物の鋭く太い牙の数々を思い出して、サフィニアは身を震わせる。平穏な国に身をうずめてきたサフィニアには、魔物の異形の姿はとても恐ろしい。
しかしサフィニアはただ震えているだけの存在にはなりたくない。自分が強いとは思えないが、十年前のようにアマリリスの背で震えるしかできなかった弱い存在でもないのだ。
サフィニアは覚悟を決めて反撃に移る。
すでに四重の結界が身の回りに張られ、攻撃のための魔術は完成している。
「《焼け》」
かつて亡き母が最も得意とした幻術の炎が、丘陵に火の粉を散らす。本物の火力を用いなかったのは、火災で周囲を荒らしたくなかったからだ。
赤々と灯った炎は新緑の丘を一気に燃え上がらせ、轟々と魔物の身体を焼き尽くそうとしている。それでも赤獅子に決定的な負傷を与えられる威力ではないと。
「《焼け》!」
詠唱を重複し、幻術の威力を上げる。炎は天高く燃え上がり、丘陵を夕焼けよりも来い真紅に染め上げる。むわっとした熱気が広がり、炎に込められた熱は温度を徐々に上げていく。
まさに地獄絵図とも呼ぶべき光景がサフィニアの目の前に仕上がっていた。
グルルルルァアアアアアア――ッ!!
魔物が身体を悶えさせて転げまわり、絶叫を迸らせる。その赤い体毛が黒く縮れていくところを見ると幻術は効果を発揮しているらしい。それでもなお、魔物は立ち上がる。真紅の炎に焼かれても輝きを喪わない赤い目が、サフィニアを捕えていた。
咆哮を上げて向かってくる魔物を認め、また叫ぶ。
「《転移せよ》っ」
魔物はそのまま突き進み、サフィニアを失った四重の結界に衝突した。
別の場所からその姿を確認し、サフィニアは焦りを顔に浮かべる。
「……まだなの」
ゲイルの到着が予想より遅い。
前衛職である彼がこの場にいれば、サフィニアは赤獅子を倒せる魔術を編むことができる。それだけの技量と魔力量を持っているのだ。だが、それらには長い詠唱が不可欠で、現状で無防備にそんなことをすれば魔物に食い殺される。
また防御の魔術で結界を張ったところ、魔物がサフィニアに気づく。
その貪欲な視線に息を呑み、それでもサフィニアは虚勢を張った。
「っ……さぁ、来なさい! 餌はここにいるわよ!」
高らかに宣言するとサフィニアの言葉を理解しているかのようなタイミングで、魔物は襲い掛かってくる。赤獅子の長い尾がゆらりゆらりと動いていた。その尾が大きく振られ、全長一メル以上もある毒針が二本飛来してきた。
赤獅子と毒針二本も現在の結界では受け止められない。
「《神の息吹》」
高等魔術の中でも数少ない、術式省略のできる魔術を発動させる。途端に全てを薙ぎ払うような暴風が吹いて、飛来する毒針の軌道をサフィニアからそらす。それらはサフィニアから少し離れた両脇の大地にそれぞれドスッと刺さった。毒針の刺さった大地はじわっと黒ずみ、瘴気を放ち始める。一発でも毒針を食らえば命はないと思われた。
「っ……きつい、な。
《我、ここに拒絶の門を召喚す》
《出でよ、堅牢なる盾》
《阻め》!」
疾走によって威力を増した魔物の頭突きが結界を一気に破り、残りの結界にひびを入れる。結界が完全に破られる前に、高等魔術でさらに強い防御を織りなす。サフィニアの足元に大きな魔方陣が閃き、そこから赤獅子を超える巨大な盾が出現する。
赤獅子は変わらずそこに体当たりをして、突如その巨体を吹き飛ばされる。
フギャァアアアアアアアアアアアア――――ッ
猫を思わせる悲鳴が轟き、鋼の盾の向こう側で赤獅子は呻き転がる。
防御の魔術の中でも上位の威力を秘めたこの盾は、あらゆる攻撃を防ぐと同時に受けた打撃をそのまま相手に送り返す。つまり、魔物は自分で自分に全力で体当たりされたようなものだ。
さすがと言うか、ここまで痛めつけても魔物は起き上がる。すでに幻の炎は効力を失って消え失せているが、魔物の毛皮の下は火傷と打撲でひどいことになっているだろう。それでも魔物からはらんらんと輝く闘志と食欲を感じる。
「て、《転移せよ》」
底のない食欲と怒りのこもった狂気に圧されて、サフィニアはまた逃げる。魔物の背後を取り、また街並みを背後に立つ。
確かにサフィニアは魔物を消耗させていたが、それ以上にサフィニアの精神の消耗は激しい。慣れない戦闘と魔物の狂気に充てられ、いつ緊張の糸が切れてもおかしくない状態に、サフィニアは陥っていた。
「ほ、本当に、食べられそう……っ」
つぶやく声はかすれて弱弱しい。じっとりと額には冷や汗が浮かび、汗で湿った衣服は身体に張り付いて気持ち悪い。
魔物がサフィニアを一時的に見失ったことで少しの余裕ができたが、すぐにまた見つかる。
「っ来る!
《顕現せよ》
《神の息吹》」
魔物はその場から動かずに四本の毒針を飛ばしてくる。爆風によって三本はあらぬ方向へ軌道をそらしたが、残りの一本は結界に直撃する。
サフィニアが反射的に飛び退くと目の前に毒針が突き刺さり、ぶわっと瘴気が辺りを汚染する。瘴気に直接触れていないのに、近くにいるだけで急速に気分が悪くなった。
(危なかった。瘴気にまともにあたったら動けなくなる)
サフィニアなら魔術で自己治癒できるが、それは大きな隙となる。
もし一般人がこの瘴気にあてられれば重度の昏睡状態に陥るはずだ。魔物を無事に倒せたら、丘陵全体を魔術で浄化しなければならない。
赤獅子の様子を窺うと何やら全身に毛を逆立てて体勢を建て直し、こちらを威嚇してきている。先ほどまでのように特攻してくる気配でもない。
「これは、やばいかも」
その姿にサフィニアの中で警鐘が鳴り響く。
魔物が何をするつもりなのか見当もつかず、様子をうかがうしかない。何故か、今はうかつに攻撃してはいけない気がした。
そもそも赤獅子は通常の魔物よりも優れた個体で、稀少であるがゆえに知能を持っているとか魔術を使うとか、様々な憶測が成されている魔物である。史実に残る限りでは、以前発見されたのは数百年も昔も話で、能力は未知数だ。
今まで赤獅子の攻撃は威力こそ他の魔物とは桁違いでも、攻撃の姿勢は単調だった。だがここからは違う。はっきりとそう感じる。
「あれは」
威嚇する赤獅子の周辺に異変が起こった。ぞわっと離れた位置にいるサフィニアでさえ感じる濃密な魔力の練り上げられる気配。サフィニアの魔力には及ばないが、通常の魔術師の持つ魔力の数十倍の濃さがある。魔力は一点――揺れる長い尾の先端に集まって行き、赤獅子の意に沿って指向性を持ち始めている。
目を凝らせばその魔力の性質が解読できた。
「っ……無差別攻撃術式!? それも、一点集中型の魔力砲になってるわ」
どうやら魔物はサフィニアを狩りの獲物から、明確な敵へと認識を改めたらしい。
濃厚な魔力は一種の攻撃性を帯びている。まっすぐにサフィニアに狙いを定められたそれは、放たれれば通り道に瘴気を撒き散らし、穿った場所から生態系を壊滅的に破壊するだろう、凶悪な威力を孕んだ代物だ。
例えサフィニアが回避しても、背後にある街に直撃し甚大な被害をもたらす。瘴気の汚染で異常変化した生態系は魔術でも元には戻せない。
また魔物の尾に集中する魔力は攻撃性を帯びていなくても、それ単体で周囲を圧迫する。大きすぎる魔力はそこに現れるだけで凶器になるのだ。魔力に耐性のない一般人は近づくだけで臓器をつぶされる。
いよいよ抜き差しならない状況に陥っていた。
「どうする……?」
サフィニアは必死に考える。
街の人々を、この王都のすべてを護り、被害を最小限に抑えるその方法を。
最終的に思い浮かんだ方法は、原始的で暴力的な方法だった。
「――そうね。魔力勝負と行きましょうか」
魔力には魔力で。
赤獅子の魔力砲が放たれるまであと数十秒あるか、ないかだ。高等魔術を詠唱する暇もなく、また確実に有効な魔術も分からない。
あの魔物を討伐し背後の街を守るためには、サフィニアの魔力で迎え撃って魔物の攻撃を無効化し、その上で魔物を魔力で圧死させるしかない。
(魔力を煉るなら私の方が技術は上!)
「一点集中型で影響範囲は魔物を中心に一メル。全ての魔力を充填」
いつもの詠唱の癖でつい、口に漏れる。
人避けの結界を残して、サフィニア自身を守る全ての魔術を解除する。余計な魔術に魔力を避けるほど、すでに魔力は残っていない。普段のサフィニアなら魔物を圧死させるだけの魔力量に自信があったが、今は魔術を使い過ぎて魔力量に不安が残る。
(せめて、アマリーがいてくれたら)
確実にこの魔物を消失させることができるのに。
口惜しい想いを抱きながら、右手の指で赤獅子を指し示し、その指先に全魔力を集中させる。
それは周囲の空間に歪みを作るほどの魔力量。赤獅子とサフィニアの魔力に充てられて、きしきしと辺りが嫌な音を立てている。
これだけあってもまだ足りない。
まだだ。
もう少し、魔力が必要だ。
(駄目、これが限界)
これ以上の魔力枯渇は今後の身体の機能に障害が出てくる。
赤獅子に向けて魔力を練り始めて五秒。魔物はすでに魔力を放とうとしている。
サフィニアは顔を苦痛で歪ませ不安分子を抱えたまま、魔力を放とうとした。
――刹那
「まだだ」
背後から突如、聞きなれた声が響いた。そっとサフィニアの伸ばした手に、誰かの手が添えられる。サフィニアのそれを上回る純粋な魔力が触れた場所から注ぎ込まれ、サフィニアの指先に集まっていく。
ずん、と指先の地面がへこむほどの質量を持った魔力。
「これでいい。サフィー、同時に放つぞ」
「う、ん」
寸分の狂いもなく、二つのよく似た声が重なった。
「「滅べ」」
暴力的で残虐的なまでの威力を秘めた魔力が赤獅子に向けて放射された。
赤獅子もまた尾を振り、同時に溜めた魔力を放つことで迎え撃つ。
しかし。
二人の放った魔力は魔物の魔力さえあっけなく飲み込んで、赤獅子に魔力の津波となって押し迫る。
数瞬の間を挟んで、赤獅子の声にならない絶叫と魔力の衝突によって耳をつんざく轟音が響き渡った。ぐらっと地面が揺れる。
「……っ」
「サフィー!」
視線の先で無残な姿を晒した赤獅子を確認した途端、これまでの恐怖と魔力の枯渇でふらりと身体がかしぐ。
背後に立った影は慌ててサフィニアの身体を支える。
重たい頭を動かして背後の人物を見上げる。
「アマリー」
「おい。大丈夫か?」
そこにいたのは、サフィニアとまったく同じ顔に異なる表情を浮かべた姉だった。
その姿にほっと強い安堵を感じて、全身の脱力感がひどくなる。今まで制御していた緊張や恐怖は糸が緩んだことで一気にサフィニアの心に押し寄せ、身体を震わせる。涙までこみあげてきて、視界が滲んだ。
「なん、とか、ね」
「あーもう。無茶しすぎだぞ! サフィー」
「ごめんなさい」
「謝るなら次から魔物退治には俺も呼べよ」
「うん」
アマリリスは怒った風に言いながら、サフィニアを大地に座らせて傍らで支えてくれる。
慣れ親しんだ温もりにサフィニアは身体を震わせてすがった。はーっと無意識の内に大きく呼吸を繰り返し、魔術の使いすぎによる疲労を緩和しようとする。
無言で抱き着いたサフィニアを、アマリリスは背を撫でて優しくで癒めてくれた。
「アマリー、どうしてここに?」
「どうしてってそりゃ、あれだけ魔術をばかばか撃ってたら、いくら鈍い俺でも魔力を感知できる。それに原因不明の地震が立て続けに起きて、王都はちょっとした騒ぎだ」
魔術師は勘の鈍い鋭いの差こそあるが、魔術を使う際に放出される魔力を感知できる。低級、中級程度の魔術なら問題ないが、高等魔術や禁術など、大きな魔力を伴う魔術は感知されやすくなる。それでも距離が遠ければ、感知はされにくい。
今回サフィニアは中級以上の魔術を惜しみなく連発していたから、むしろアマリリスが気付かない方がおかしかった。
サフィニアは気怠い頭で納得して、とうとうこの場に現れなかったゲイルの存在を思い出す。
「ねぇ、ゲイルは?」
「あいつか? あの魔物とか魔術のせいで起きた地震で騒ぎ出した街の収集にてんてこ舞いだろうよ。街の騒ぎでなかなかここに駆けつけられなかったみたいでな、必死に走ってたところを俺が声を掛けて、ここに来るのはやめさせた。どの道、ゲイルが来ても問題解決にはなりそうになかったから、俺が行った方がいいだろうと思って」
「や、やめさせた? どうして?」
困惑した顔のサフィニアに、アマリリスは苦笑気味に説明する。
「あいつは確かに腕のいい傭兵だけど、魔物狩りに関しては神剣の威力に頼ってる部分が大きい。神剣は魔術や魔力を無効にするから魔物の天敵みたいなもんだ。でも、あれには致命的な欠点があるんだよ」
「欠点って?」
「神剣の効力を発揮する時間が決められてるんだ。神剣は、日が昇っている間しか、魔術を無効化にできない。日がないうちはただの切れ味のいい剣なのさ」
「それって……」
ほとんど役に立たないのではないか、とサフィニアはいぶかしげな顔になる。
魔術とは異なる力で鍛えられた武具、神剣。一般的に神聖術で作られた道具を神具と呼び、剣の場合は神剣と称される。
噂でしか神聖術の存在を知らないサフィニアは、神具と魔導具の違いが分からない。
アマリリスは武具という点から興味を持って調べたことがあるので、その時に知ったことを苦い顔で披露した。
「神具はさ、何らかの一定条件の下でしか力を発揮できないんだよ。魔導具の場合は製作者が付加した魔力量と発動条件によって異なるけど、神具は外部からのエネルギー補給によって成り立つ道具だから、源となるエネルギー資源がない場所では発動しない。
能力を発揮しない神剣はただの剣だろ。ゲイルの神剣は一日の半分、昼間にしか使えないらしい。
これが魔物退治に有効なのに、大陸でなかなか神具が普及しなかった理由さ」
確かに以前ゲイルが神剣で魔狼の首を刎ねた時は早朝の、日が昇った時間帯だった。
そう納得してサフィニアは深々と嘆息する。
「自分で自分の首を絞めたみたい」
今回のことは明らかにサフィニアの知識不足とゲイルの説明不足による失態だ。この協力関係は結ばれて日が浅い上、サフィニアはゲイルを諸事情から警戒しすぎていた。もっと互いの能力を理解し把握しておくべきだったのだ。
サフィニア自身が転移の魔術で現場に急行できることで気づいていなかったが、ゲイルには移動方法がない。自分で走ってくるしかないのだ。その点を考慮していなかったのも、悪い。
赤獅子を倒すにあたってサフィニアは魔力を使いすぎた。魔力枯渇状態で、まともに魔術が使えるようになるには三日は必要だろう。先ほど王都に張った探知の魔術は解除してしまったので、また掛け直さなければならないし、三日の間に魔物が新たに現れたら対処法もない。
何とか生き延びただけ行幸だが、先を考えると頭が痛い。
「……そうなるとゲイルがここに来れなかったのは、結果的にはよかったのかな」
「まぁ、そうなるな。いくら腕が立つとは言っても、人間だ。下手をすれば俺たちがゲイルの補佐をしなきゃいけなくなって、自滅の可能性もあったな。これが相手がもっと弱くて、魔物の対処に俺たちが慣れてるんなら話は違ったはずだけど」
「うん」
「俺たちには前衛職を後衛から完璧に補佐する技術も経験もないからなぁ」
「……本来なら必要なかったものだしね」
――人間は魔物にかなわない、それは遥か昔からの理だ。
魔物という脅威に立ち向かい、対抗する術として人間は魔術を生み出した。生身の人間がどれほど身体を鍛えても、魔物には対抗できない。それを改善するために魔術は開発されたが、それも発展途上で魔術が効力を発揮するのに時間がかかる。
そこで大陸の人々が編み出した戦略は、前衛職の人間に身体強化などの魔術を事前に施し囮になってもらい、後衛で大人数による大規模魔術を完成させ、攻撃する方法だった。手間も時間もかかる、土壇場に弱い戦略だが、そんな方法でしか強い魔物は倒せない。弱い魔物なら何とか魔術なしでも倒せるが、危険には変わりない。
「魔物は魔術か、あるいは神聖術ぐらいでしか完全には倒せない。ただの傭兵のゲイルが赤獅子と対峙していたら大怪我を負う可能性は高かった。
見ろよ。この丘の有様を」
アマリリスに促されて見回すと丘全体が見る影もない惨状になっていた。サフィニアの魔術の余韻でえぐれた大地、毒針の影響で黒ずんで汚染された土、辺りを立ち込める精神を病ませる瘴気、魔力の濃厚な気配。
この場所に普通の人間は踏み込めない。魔力に耐性があり、自ら瘴気を浄化できるだけの技術を持つ魔術師くらいしか、この場では生存できない状態だった。
「まったく無謀で無茶苦茶すぎるな。……いつもなら、それは俺の専売特許だったはずなんだけど」
痛いところを突かれてサフィニアはぐっと押し黙る。
事実、この丘陵の状態は最悪だ。ある程度は魔術で修復できるとは言っても、すべてを完璧に元に戻せるわけではない。サフィニアはもっと計画性を以て魔物退治に備えるべきだったのだろう。
自分の甘い考えに落ち込んだサフィニアにアマリリスは顔をしかめ抗議した。
「だ・か・ら! 次からはちゃんと俺を呼べ! サフィーだけで駄目でも俺が居ればなんとかなるだろ!」
やや怒って述べられた言葉にサフィニアは目を瞬かせる。
つまり、それがアマリリスの言いたかったことなのか。
ここに至ってサフィニアは、アマリリスの言いたいことに気づき苦笑した。
「――うん。ありがとね? 来てくれて」
「おう。妹を護るのは姉の役目だからな」
頬を赤く染めてそっぽを向き、照れ隠しをするアマリリスの姿に頬が緩む。
(本当に、私は幸せ者だわ)
二人、一緒に。
それは生まれた頃から決められていた、二人の約束。
一人で頑張ってもいつかは倒れてしまう。どんなに虚勢を張っても一人では何もできないから、二人で支えあうのだ。
今回も最終的にはアマリリスと力を合わせたから、乗り切れた。
こんなに互いを理解できて、無条件に頼れる存在が傍にいる。助け合って生きていける。――それは何て幸せなことなのだろう。
アマリリスの身体に自ら腕を回して抱きつき、サフィニアは嬉しそうに笑った。