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残華  作者: さーさん
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第三話:魔物



(どうして?)


 サフィニアは隣に立つ青年の思いつめた横顔を盗み見ながら、混乱していた。

 昨日の朝、サフィニアが彼の告白を断った場所に二人はまた立っている。

 朝日も昇り切らないうちにサフィニアを迎えに来たオスカーは孤児院からずっと無言で、今も二人の間にはかつてないほどの重い沈黙が流れている。

 何故彼が会いに来たのか、サフィニアには分からない。手ひどく彼を振った時から、彼とは二度と会えなくなることも覚悟していた。彼に告白された喜びと彼を傷つけた痛みを抱えて死んでいくとばかり思っていたのだ。

 オスカーに避けられることも覚悟していたのに、一日経って彼の方から会いにきた。

 長い間護ってきたサフィニアの恋心は再びオスカーと会えたことを純粋に喜んでいる。だが理性は彼と会いたくなかったと訴えている。

 真実を話すことも、受け入れてもらうことも、サフィニアにはできないのに。


(だって、諦められなくなる)


 サフィニアのあと一ヶ月で死ぬ。叶わない恋だと、オスカーへの恋心を自覚した瞬間から分かっていた。それでも、一瞬だけでもオスカーの目がサフィニアを捉えてくれたことが嬉しくて、このまま死んでも構わないと納得していた。

 初めからサフィニアはオスカーと結ばれる気はなかった。運よくオスカーに見初められても、交際の申し出を受ける気は昔からなかったのだ。 

 あるいは、オスカーの告白がもう二・三年ほど早かったなら、サフィニアの考えも違ったかもしれないが。


(私にはオスカーを幸せにできる時間がないのに)


 この国において、男女の婚姻適齢期は十六から二十二までの年齢となっている。サフィニアの少ない友人の中にも、すでに婚姻している者は何人かいる。十八という年齢で恋人関係になることは、婚姻を前提にしていると言っても過言ではない。

 もしも今、サフィニアがオスカーの申し出を受け入れたら、オスカーは初めての恋人を一ヶ月で失うことになる。その時、彼は心に大きな傷を負うだろう。恋人でさえなければ、その傷も少しは浅くできるはずだ。 

 そんな考えが、サフィニアの胸中でぐるぐると渦巻いている。

 不意にオスカーが意を決した様子でサフィニアに向き直った。


「サフィー、昨日は……ごめん」

「何を謝るの? 貴方は何も」

「熱くなりすぎたみたいだから」

「それは……」


 オスカーは申し訳なさそうに、まっすぐサフィニアを見据えてくる。彼の青味を帯びた目には沈痛な苦悩が見て取れるが、それ以上に何か強い決意を感じさせる。

 サフィニアは自分の存在が彼を苦しめていることに、心苦しくなる。しかし、隠し事があるからこそ、彼の目をまっすぐに見つめ返すことができなくて、目を伏せてしまいたくなる。 

 少しの躊躇いの後、オスカーは厳しい顔つきで尋ねてくる。


「諦めが悪いって笑ってくれてもいい。でも、教えて欲しい。君はいったいどこに行くつもりなんだ? そこは、俺と一緒には行けない場所なのか?」

「……そうね。ついてきたら恨むわ」


 サフィニアの向かう地は生者を拒む、死の世界だ。ついてくる、とはすなわち死ぬということに他ならない。オスカーに後追い自殺などされた日には、サフィニアは世界を恨んでも恨みきれないだろう。


「理由は、どうしても言えないのか?」

「――貴方に」

「俺に?」

「それを聞く、覚悟があるの?」


 泣きそうになりながらサフィニアはオスカーを睨んだ。

 オスカーが息を呑む。

 関わりの深い彼だからこそ、サフィニアは簡単に踏み込んでほしくない。浅い想いでサフィニアの事情を知れば、どちらも後悔するだけだ。“死”という別離はそれほどに重い現象である。――いっそ、出会わなければ良かったと思うほどに。

 そしてサフィニアはそんな後悔だけはしたくなかった。


「一ヵ月後には必ず、私は貴方の前から姿を消すわ。その理由を貴方は受け止めてくれるの? どんな理由であっても。その理由を知って貴方はどうするっていうの?」

「それは」

「応えられないなら、中途半端な気持ちで言うのなら、私は貴方とこれ以上一緒にいることも、会うこともできないわ」


 自分で口にした言葉が、ぐさぐさと自分の心に刺さって傷をつくる。

 オスカーに向けた自分の表情がどんなものなのか、サフィニアには分からなかった。毅然とした表情であればいいと思う。

 この時サフィニアは十八年の人生最後の分かれ目に立っている、と実感した。そしてそれを選択するのは、サフィニアではなくオスカーである。

 オスカーは厳しい詰問に、うなだれて言う。


「今までずっと一緒にいて、ずっと君を見てきた。君と一緒にいるのは楽しくて、嬉しくて……サフィーだからずっと俺の傍に、一緒にいて欲しいと思ったんだ」


 その言葉にじんと胸の奥が熱くなり、涙が込み上げてくるのをぐっと我慢する。

 サフィニアも彼と同じ想いだった。祖国を追われ、辿り着いた島国で出会って十年。アマリリス以外にサフィニアの傍に誰よりも近く居続けたのは彼で、その長い年月の間、サフィニアは彼を見つめて来た。

 彼の良いところも悪いところも、全て知っている。島国で作った楽しい記憶も苦しい記憶も、多くを彼と共有した。


(ずっと、今の生活が続けばきっと幸せなのに)


 小さく、ささやかな望み。しかしそれは、サフィニアの出自と運命に阻まれる。魔術を持つ国に生まれ、追手をかけられ肉親を失った過去。膨大な魔力ゆえに身体の内側から崩壊するしかない、残酷な運命。

 サフィニアは一度運命を曲げた。双子の姉と言う唯一無二の大事な存在を取り戻すために大きな犠牲を払って未来を変えた。それによって姉は蘇生し、サフィニアの残酷な末路は予定を変えたのだ。

 だが今回ばかりは奇跡は起こらない。一度犠牲にしたものはけして戻って来ない。

 自ら掴み取った運命とは言え、特異な巡りあわせばかりだった自らの運命が恨めしい。もしサフィニアがこの島国に生まれた普通の娘だったら、オスカーと添い遂げることもできただろう。


「……サフィー、俺は君が何を抱えているのか知らないし、君に何をしてあげられるかも分からない。でも俺はサフィーだから、告白したんだ。――中途半端な気持ちじゃない」


 だから、とオスカーは必死な目でサフィニアを見つめてくる。一歩、オスカーが踏み出して二人の距離は縮まる。

 手を伸ばせば届く距離で、オスカーは手を伸ばす。


「話してくれ。俺にできることなら何でもするから、何も言わずに俺から離れて行こうとするな。……君が突然消えることが、俺には恐ろしい」

「っ……オス、カー」


 サフィニアの覚悟が揺れる。

 一ヶ月後に控える死は免れない。例えここで誤魔化しても、オスカーはいずれサフィニアの死を知り悲しむだろう。サフィニアの死は彼を傷つける。

 最後には結局オスカーを傷つけてしまうなら、今彼に一ヶ月後の死を伝えてもいいのではないか。魔術の存在は突飛すぎて伝えられなくても、その他のことならば――

 サフィニアの中で、これまで揺らがなかった断固たる想いが崩れる。気付けば、小さな声で確認していた。


「……いいの? 後悔しても、知らないよ?」

「……今、君に聞かなければ俺はきっと後悔するから。サフィー、教えて。君は何を悩んで、どこに行くつもりなんだ?」


 けして引かない彼に、サフィニアはくしゃっと顔を歪めて瞑目する。

 アマリリス以外の人間に寿命の件を打ち明けることは生涯ないと思っていた。魔術的な要因によって死を迎える双子は、病気を患ったように憔悴して死ぬわけではない。ある日、ぷつっと糸が切れた人形のように唐突に静かに死んでいくだろう。病魔の蝕まない身体はいたって健康で、病気だと言っても信じてもらえない可能性もある。

 それでも、オスカーなら何も聞かずに受け入れてくれる気がした。


「私」


 絞り出した声がかすれる。

 秘密を打ち明けることに、わずかな躊躇がまだ残っている。秘匿しなければならない出生の秘密の、一端。それを打ち明けたら、何がどう変わってしまうのか。

 あらゆる怖れがサフィニアの心を揺らがせるが、オスカーの眼差しに押されてサフィニアは告白した。


「私……、一ヶ月経ったら――死んでしまうの」


 息を詰めてオスカーを見つめる。

 オスカーは小さな声で告げられたことに、呆然と目を見開いて硬直している。何を言われたのか分からない、と混乱した顔だ。

 その顔がみるみる歪んで行くのを、サフィニアは諦観と胸痛を抱えて見守った。


――やはり、サフィニアは彼を傷つけてしまうのだ。


「っ……持病なの。私たちは長く、生きられない。理由は言えないけど……私はもう、貴方と一緒にいられない。そんなに時間は残ってない。だから、ごめんなさい……っ」


 謝罪と共に、今まで堪えていた涙が目尻から溢れ出す。涙で視界が滲んで、熱いものが頬を流れていくのを感じた。

 立ち尽くしていたオスカーは呆然とつぶやく。


私達・・……? まさか、アマリーも?」


 的確にサフィニアの言葉を捉えたオスカーに、サフィニアは無言で頷く。

 十年前に島国を訪れた双子はこの春にこの地を去る。死という逃れられない旅に出る。どれだけ望んでも、十年続いた平穏は続かない。

 ひっく、と喉を鳴らしてサフィニアは泣く。手で涙を拭っても、あとからあとから雫は溢れてきりがない。


「そんなこと……っ」


 オスカーがたまらず声を張り上げる。

 びくっとサフィニアは驚いて肩を震わせ、オスカーを窺い見た。

 オスカーは困惑と驚愕、そして悲しみと憤りの混ざった複雑な感情を青味がかった目に乗せてサフィニアを見つめていた。


「もっと、早く教えてくれれば良かったんだ」


 苦しげに、弱々しくオスカーはつぶやく。その手でサフィニアを抱き寄せて、こつんと互いの額を合わせて悲しげに笑う。


「馬鹿だな、君は……。そんなことで、俺が君から離れるはずがないんだ。ずっと、気付けなくてごめん。十年も一緒にいたのに、俺は君の悩みにも病気にも気付けなかった」


 ごめん、と間近でオスカーは囁く。

 声音に乗った後悔と懺悔の色に、サフィニアはぐっと唇を噛む。

 オスカーが謝罪する必要はなかった。サフィニアとアマリリスは誰にも気づかれないように細心の注意を以て、自らの秘密を頑なに守ってきた。彼に気付かれるようでは、他の人間にもとっくにばれていただろう。

 それでも、彼の気遣いがサフィニアには少しだけ嬉しいのだ。


「オスカー」


 サフィニアは触れた額を離し、悲しげに首を横に振る。無言のうちに、貴方が気にすることではないと伝える。

 オスカーは溢れる感情を堪えるように一度目を閉じた。


「サフィー」


 再び目を開いた時、オスカーは真摯な瞳で大切な少女に二度目の告白をする。今度は彼女に告白するために適う覚悟を持って、想いを言葉に乗せる。

 オスカーは一歩下がって、サフィニアの片手を取る。


「一生で最後のお願いだ。……俺と、付き合って下さい」

「っ……!」


 誠実で、切実な二度目の告白。

 サフィニアは息を呑み、身体を震わせる。

 オスカーはけしてサフィニアを拘束していない。優しく触れる手にはささやかな力しか籠められていないのに、サフィニアはその手を振り払えない。一度目の告白の時のように拒絶を返せない。

 歓喜とも悲哀とも付かない、胸を突く熱い想いがサフィニアの全身を沸騰させる。感情が爆発する頭で、衝動的にサフィニアは頷く。


「こんな、私でいいなら……。一ヶ月しか、一緒にいられなくても、私と一緒にいてくれる……?」

「当たり前だ」


 互いに泣きそうな顔で、二人は見つめ合う。自然と二人は距離を縮め、抱き合っていた。

 サフィニアはオスカーの肩に顔をうずめ、声を殺して泣く。最高に幸せなはずの今、嬉しくて幸せなのに、何故か悲しかった。

 もっと時間があれば、と叶わない願いを抱く。死を回避できなくても、あと少しの猶予があれば、もっとオスカーを幸せにすることもできたはずだ。

 

 叶うはずのなかった恋。諦めようとして、諦めきれなかった最初で最後の恋。それが実を結び、叶ったと言うのにこんなにも苦しい。


 サフィニアは傍に愛しい人の温もりを確かに感じながら、今だけは、と思う。

 十年前の選択を後悔するわけではない。過去に戻ってもサフィニアは必ず自分の寿命を代償に、アマリリスを死の淵から生還させるだろう。それでも、サフィニアはごめんなさい、と心の中でアマリリスに謝る。


 今だけは、貴方に与えた十年間を惜しませて欲しい。





 *****





 まだまだ自分が護られていた頃。何も知らず、何も見ず、両親と姉の背中に隠れて目をつぶっていられた頃。後の人生を考えればもっとも安全で平穏な場所にいたあの頃。


 一度だけ、魔物を見たことがある。


 常に結界に覆われた屋敷とその領地の外に出ることを禁じられた双子が、十年前のあの日以前に唯一遭遇した危険。

 両親の魔術の結界の網の目をかいくぐり、双子の前に現れた大きな獣。当時、傍に居た父親が身体を張って護ってくれたおかげで双子が怪我を負うことはなかった。しかし、魔術師として最高峰と謳われた父親が命を危うくするほどの怪我を負った。

 その様を、双子はまざまざとその両目に焼き付けてしまった。


 だから、けして忘れられない。あの獣のうなり声を、その気配を、その――炎を。



 グルルルッ  グルグルッ



 爛々と輝く魔物特有の赤い瞳。全てを噛み砕く長く、鋭い鋼の牙。

 その巨体が闇の中に身を潜め、虎視眈々と獲物を口にする瞬間を狙っている。


 その存在に誰も気付かない。気付くための力を持っていないのだ。

 闇に潜んだ魔物を見つけることができるのは“魔”を孕んだ力を有した者――魔術師のみ。

 一般人には、魔物の姿を認知できても倒すことはできない。魔術という超常の力を以てして、ようやく人間は魔物に対抗する力を得られるのだ。


 魔術を持たない小さな島国で、その影に隠れた一匹の獣が空腹に身をよじらせ、食料を求めている。目の前に現れた、美味しそうな人間を口に租借することを望んでいる。



 グルルッ ルルッ



 糧になる食べ物を目にした獣は、歓喜に身を躍らせその影から飛び出した。


 その先にいるのは――



「駄目ぇえええええええっ!」

 

 絶叫し、させまいと伸ばした手が見開いた自分の目に映る。伸ばした手を凝視し、その先に何もないことを確認しすると、サフィニアはゆるゆると手を下ろした。呼吸が不自然に荒く、全身に気持ち悪いほどの汗を掻いている。  


 悪夢を見たせいだ。


 停止した脳が徐々に機能を回復し、冷静さを取り戻して自分の現状を確認する。

 サフィニアは薄い毛布を被った状態で、自分の家の居間に設置されたソファの上に座っている。記憶を辿っていくと、ここにいたるまでの経緯がおおよそ把握できた。

 オスカーに自分の寿命の秘密を打ち明けた。もちろん、全容を話すのではなく『不治の病に侵されており、余命一ヶ月だと申告された』『どこの名医をあたっても手の施しようがない』という風に伝えてある。まさか、この島国で空想の存在とされている魔術のせいだとは言えなかった。

 サフィニアの態度である程度覚悟していたのだろう。オスカーは動揺したものの、サフィニアを拒絶することはなかった。


 だが。『余命一ヶ月』だと告げた時のオスカーの表情を忘れられない。その後、サフィニアの存在を確かめるように抱きしめられた腕の強さも。

 傷つけてしまった。苦しめてしまった。

 そして、これからもサフィニアという存在はオスカーを苦しめる。その“死”をもって、深く深くオスカーの心にサフィニアという存在は刻まれるだろう。


 その後、いろんな意味で疲れたサフィニアは徹夜明けのせいもあって、オスカーの腕の中でうとうとしてしまった。その後の記憶は曖昧だから、オスカーが家に連れてきてくれたのだろう。


「オスカー?」


 この家の中にいるのかと声を上げるが、からからに乾いたのどからは小さな声しかでない。サフィニアは緊張で強張った身体をゆっくり動かし、まずは台所によたよたと歩いて行って水をコップ一杯飲んだ。のど潤ったところで、再度声を上げるが反応はない。

 オスカーはサフィニアの家にはいないようだ。


(嫌な予感がする)


 ざわざわと胸が騒ぐのだ。急げ、急げと本能が焦っている。

 サフィニアは眠っている間に見た夢を思い出し、青ざめた。よく夢は目覚めた時には忘れているものだが、今回は細部まではっきりと内容を覚えている。


「あれは、確かに魔狼フェンリルだったわ」


 闇に輝く赤い瞳、口からのぞく凶悪な牙、空気を震わせる恐ろしげな唸り声。

 その巨躯はどれだけ闇に紛れようと見間違えられない。そして、牙を剥く魔狼フェンリルの視線の先にいたのは――


「オスカーだった」

 

 ただの悪夢であればいいと思う。神経が高ぶって見てしまった悪夢だ。そう思うのに、どうしても納得できない。

 時に魔術師は未来をも予見するという。

 魔力が自分に関係が深い未来を手繰り寄せ、幻として現れることがあると何かの書物に書かれていたような気がする。


(だとしたら)


 さっと身体から血の気が引いた。

 気がついた時にはすでに行動を起こしていた。体内の魔力が異様に昂ぶり、口は最短の魔術詞マジックフレーズを早口で唱えた。


「展開。《我が望みに応え、求める者の前へ》!」


 条件を指定したものを一定の範囲から探し出す探知の魔術と転移の魔術の混合魔術を、詠唱省略して発動させる。探知の魔術でオスカーを探し出し、そこに転移の座標を固定して目的地に飛ぶのだ。

 一瞬にしてサフィニアの足元に転移の魔方陣が浮かび上がり、カッと閃光を放つとサフィニアの姿は家の中から消え去った。


 ぱっと視界が暗転し、身体が宙を浮く。次の瞬間には足の裏に温かな大地と草の感触を感じる。目的地に転移したのだ。

 すぐに周囲へ視線を走らせたサフィニアは、その視界に見慣れた青年の背を目にする。オスカーは一人で芝生の上に座ってどこか遠くを見ていた。その背は他者を拒絶するようで、肩を落として気落ちしているのが窺える。サフィニアの告白で悩んでいるのは、すぐに察しが着いた。


「良かった」


 オスカーの安全を確認して脱力する。ここでようやくサフィニアは自分がはだしであることに気付いた。慌てていたせいで自分の格好まで気が回らなかったのだ。

 考え込んでいるオスカーにこの状態で話しかける気も起きず、サフィニアは小さく嘆息して家に戻ろうと考える。オスカーもずいぶん混乱しているはずだ。その身が無事であるなら、今は彼と一緒にいるべきではない。

 そう考え、転移の魔術を駆使しようとしたサフィニアは凍りついた。


(これは……魔力反応!?)


 魔力は生あるものに宿る自然の力だ。それは全ての人間の身に宿り、周囲の草木の中にも宿る。身の内の魔力を操り、魔術という自然に反した効果を引き起こす者を魔術師と呼ぶ。

 しかし普段から周囲に当然のようにある気配を人間はなかなか意識して肌で感じられない。だから魔術を知らないこの島国の人間には魔力を感知できないのである。

 魔力を人為的に行使した場合の波動を、魔力反応と呼ぶ。この島国で魔力を人為的に操れる者は異国から流れ着いたサフィニアやアマリリスくらいだ。

 だが今感じた魔力はアマリリスのものではない。


「何?」


 顔を強張らせ、一度は背を向けたオスカーを振り返る。

 オスカーは芝生の上に立ち上がって、とある一点に視線を向けて立ち尽くしている。その背からは、ぴりぴりとした緊張感が察知できる。

 何らかの異常が起きているのは明白だった。

 判断は一瞬。

 状況が分からないなりに、魔術師としての研ぎ澄まされた勘がサフィニアを突き動かした。


「オスカー!」


 呼ぶとオスカーがこちらを振り返り目を見開く。


「サフィー、どうしてここに」


 それほど離れていなかった二人の距離を縮め、サフィニアは厳しい表情でオスカーが先ほど注視していた方向を見る。そちらは、先ほど突如発生した魔力反応のあった方角だった。

 驚くオスカーは無視して、サフィニアは顔を歪める。


「やっぱり……魔狼フェンリル!」


 二人のいる場所は緩やかな丘陵の頂上なのだが、王都の街並みとは反対の方角には薄暗い森が広がり、その奥には切り立つ山々がそびえたつ。丘陵を森側に下りた場所に、ぎらぎらと赤い目を森の薄闇に輝かせる異形の巨躯が影を現わしていた。

 狼を思わせる、巨大な漆黒の魔物。それはサフィニアの記憶にまざまざと刻まれた、過去に一度だけ見た魔物の姿だ。

 オスカーは魔物の発する禍々しい殺気に当てられて顔色を真っ青にしている。恐怖に縛られた彼は、かすかな動作もできないまま硬直して立ち尽くす。

 何も知らない一般人が魔物を目にした時の当然の反応だ。

 サフィニアも魔物と対峙した経験は少ない。しかし魔力への耐性はあり、仮にも魔術師の一人である。顔色を悪くしても、魔物に隙を見せないように睨み付ける。


 森に影をひそめていた魔物が巨体を動かし、二人に疾駆した。


 

 グルルルァアアアアアアッ


 

 辺りを震わせる咆哮が耳を打つ。 

 その瞬間にサフィニアの頭の中を占めた想いはただ一つ。オスカーを護らなければ、ということだった。

 そして、サフィニアにはそれを可能にする力がある。


「サフィー!」


 魔物の咆哮にはっと我に返ったオスカーが手を伸ばし、サフィニアをかばおうとする。立場は違っても、彼が考えたこともサフィニアと同じものだったのだろう。

 サフィニアはオスカーの腕に引き寄せられながらも、魔狼フェンリルをまっすぐに捉え、高速で魔術を行使した。


「発動。《顕現》!」


 術式をほぼ省略し、魔術を発動するための魔術詞マジックフレーズを唱える。

 それは防御の魔術。この世に現存するどの魔術よりも強固な結界を織り成す術式。

 サフィニアとオスカーの足元に魔方陣がひらめき、半透明の障壁が二人を囲むように展開する。それは突進してきた魔物と衝突する寸前の出来事だった。

 魔狼フェンリルは勢いのまま、魔術の障壁に激突する。



 ウギャンッ


 

 魔物の悲鳴が響く。障壁にぶつかった反動で魔狼フェンリルは後ろに吹き飛び、さらに丘陵を転がり落ちる。額からは紫色の血を流し、しぶとく起き上がってくる。 

 サフィニアは息を吐く暇もなく追撃する。


「《我が使役よ、駆けよ》」


 途端、サフィニアの影がぐにゃりと歪み勝手に動き始める。瞬時に影は一匹の獣の姿に変化する。大きさこそ魔狼フェンリルには及ばないが、十分に大きい漆黒の獣は形を成してすぐに魔物へ走った。

 サフィニアの影から出来上がったそれは、使役の魔術で影を実体化した、仮初の魔物。

 影の獣は魔物に飛び掛り、その身体を噛み千切ろうとするが威力が弱く致命打とはならない。


「《縫い止めよ》」


 大地がゴゴッと振動し、芝生が割れて下の土が盛り上がる。不自然に大地から掘り出された土は大きな手を作り出して暴れる魔物を捕える。だが魔狼フェンリルを捕えられるほど強力な手を作るのは容易ではなく、時間もかかる。

 だからこれは些細な足止めだ。

 その間にサフィニアは呪文詠唱を重ねる。サフィニアが詠唱を省略できるのは中級魔術までである。高等魔術もしようと思えばできるが、失敗する確率が高すぎる。


「≪我、ここに数多を焼き尽くす劫火を求めん≫

 ≪目標:前方に半径百メル≫

 ≪炎よ、揺らめき舞い上がれ≫


――発動、≪焼け≫!!」



 サフィニアが片手で魔物を指差すと、そこに魔力が集まり赤々とした光が灯る。攻撃の魔術が今まさに発動しようとする、その時――サフィニアは横合いから飛び出してくる人影を見た。


(駄目、このままだと……当たる!)


 サフィニアの最大の力を込めた攻撃の魔術を食らえば、人間など一瞬で黒焦げになって即死する。

 人影を認めた瞬間にサフィニアはひゅっと息を呑み、全力で今まさに発動しようとする魔術の解除を試みた。


「《紐解キャンセルけ》!」


 唐突に集った魔術の術式と魔力が解体されるが、全てを完璧に解体することはできず、わずかに魔術が漏れてしまう。本来なら起こらないことだが、桁違いのサフィニアの魔力が込められた魔術は一瞬では全てを分解できないのだ。

 結果、漏れでた魔術が威力を当初より落として発動する。


「っ……!」


 魔物に迫る人影に当たってしまう、サフィニアは焦ったが全ては杞憂に終わった。

 人影は腰に下げていた剣を鞘から抜くとサフィニアの魔術を剣で引き裂いたのだ。赤い光を灯す、攻撃の魔術が炎を散らして分解される。


「ええっ?」


 通常では有り得ない現象にサフィニアは思わず声を上げる。驚くサフィニアの前で、人影はすぐさま魔物に標的を変え、その剣で魔狼フェンリルの首をはねた。

 魔狼フェンリルの悲鳴が轟き、紫の血が噴出し巨体がかしいだ。

 その巨体が倒れて地面がかすかに揺れ、サフィニアははっとと我に返る。


「う、うっそ」


 たった一撃。一薙ぎで魔狼フェンリルを倒すなんて、どんな化け物だ。


 十分に化け物級の魔力を誇るサフィニアは驚きを通り越して感嘆する。しかし、人影と目が合うとすぐに顔を引き締めた。

 オスカーとサフィニアを囲んで展開する結界はいまだ存命だ。ドラゴンのブレスでさえ防ぐこの結界は魔狼フェンリルの突撃程度ではひびも入らない。


「サ、サフィー? これは……」

「オスカー」


 サフィニアを腕に抱いたオスカーが目の前で繰り広げられた光景に呆然としている。その目と目が合ってサフィニアはおおいにうろたえた。

 そうだった、オスカーが傍にいるのに魔術を使ってしまった。


(ど、どうしよう)


 戸惑って目を伏せる。とてもじゃないが、オスカーの目を直視できなかった。

 もの言いたげに口をパクパクさせて何かを言い募ろうとするが、オスカーは嘆息して小さく言った。


「サフィー」

「は、はい!」

「……説明、してもらうからね」

「う。……はい」


 こんな状態でも冷静さを取り戻すオスカーは、他と比べて肝が据わっている。数時間前にサフィニアの寿命について打ち明けられたばかりだというのに、その精神力の強さは簡単に値するだろう。

 もしかしたら、神経が麻痺して理解が追い付いていないだけかも知れないが。


「あんたら大丈夫か?」

 


 先ほど横合いから飛び出してきた人影――筋骨隆々とした逞しい男が剣を腰帯に差した鞘にしまいながら近付いてくる。短く刈り込んだ、珍しい赤い髪に丈夫そうな鎧を纏った、荒くれ者を思わせる男だった。見た目は若いが、熟した雰囲気が年齢を悟らせない。

 すぐにサフィニアは警戒心を取り戻し、慎重に返した。


「貴方こそ、魔術で怪我は負っていませんか?」

「問題ない。かすり傷ひとつないさ」

「一応聞きますけど、魔術を自ら受けに行くなんて自殺志願者ですか?」


 いくらか皮肉を混ぜて剣呑に尋ねると、男はまさか、と笑って否定した。

 

「そんな趣味はないつもりだ。これでも流れ傭兵でね。この剣は神剣だから、魔術はなんでも消去できるのさ。一応、考えて特攻したつもりなんだが」


 すまなかった、と素直に苦笑して頭を下げる姿にサフィニアの警戒心が揺らぐ。悪人には見えないが、万一を考えて結界はまだそのままにしておく。


「貴方は……大陸の、出身の方、ですよね?」


 この島国で魔術の存在を知り、さらに神剣まで所持した凄腕の傭兵。

 神剣は遥か遠い、祖国のある大陸の端に位置する帝国のみが製造方法を知る貴重な剣だ。それは彼の言うとおり、あらゆる魔術を無効にする力を持つと聞く。大陸の出身でなければ、説明がつかない。

 男はサフィニアの警戒も知らず、けろりとした顔で簡単に頷く。


「ああ、まぁ。貴方もだろう?」

「はい」

「俺はゲイル=ジャントレア。今、王家に雇われてここらの魔物退治を任されてる。少し助けるのが遅れてしまってすまない。こんな場所で君のような優秀な魔術師に会えるとは思わなかった」

「いえ。こちらこそ、助けてもらってありがとうございます」


 しばし自分も名乗るかどうか逡巡する。

 大陸において、ウィンターソン家の名は端々まで知れ渡っていた。魔術の第一人者ばかりが集い、常に強力な魔術を開発し、魔物の脅威から人々を守ってきた魔術師の系譜。傭兵をしていたなら、滅んで十年経つとは言え、ウィンターソン家の噂くらいは聞いたことがあるだろう。

 しかし名乗られたら名乗り返すのが礼儀だ。下手な偽名を言っても、オスカーの反応から何かを悟られる危険性もある。


「私はサフィニア=ウィンターソンです」

「ウィンターソン? まさか、あの名高かった魔術師一族か?」


 まさにその直系だ。サフィニアは肯定も否定もせず、じっとゲイルを凝視する。

 サフィニアとアマリリスは予言の双子だ。大陸出身の人間がそれを知れば、双子を殺そうとする可能性もおおいに有り得る。サフィニアとアマリリスは祖国を滅ぼすと言われた“予言の双子”。その存在は大陸中に広まっていることは間違いない。

 サフィニアの内心の強い警戒にも関わらず、ゲイルはあっけらかんとしている。


「なるほど。なら、その高度な魔術にも得心が行くなぁ」


 心の底からサフィニアを賞賛していると分かるゲイルの様子に、警戒しているこちらが馬鹿な気がしてくる。ふっと脱力してサフィニアは展開していた障壁を解いた。

 同時にいまだじっと魔物の遺骸の傍にいる使役獣を呼び戻す。


「《戻れ》」


 一言で漆黒の獣はサフィニアの傍に走り、その影の中に戻っていく。あっという間に歪んでいたサフィニアの影は正常な状態に戻った。


「すごいな。使役の魔術をたった一句ワンフレーズで解くなんて」

「独自に改良しましたから」

「若いのによくやるね」


 ゲイルが目を丸くする。

 サフィニアの魔術の成果は持って生まれた才能と日々の研鑽によるものだが、そこにはサフィニアに課せられた寿命の短さも少なからず関わっている。もし寿命がもっと長かったら、あるいは自分の死期などあらかじめ知っていなければ、サフィニアの魔術は今ほどの完成度を見せていなかっただろう。

 本来ならサフィニアも魔術ばかりに没頭せず、年頃の女の子らしく友人たちと触れ合い、毎日を自然の中でのんびりと過ごしていたはずだ。


「それで、そこの君は?」


 ゲイルの視線がサフィニアの隣に向かうと、オスカーは背筋を伸ばして名乗る。今まさに未知の事態と遭遇したばかりだというのに、オスカーからは動揺も混乱も見て取れず、堂々としている。

 それをサフィニアは感心と驚き半分に見つめていた。


「オスカー=ディルモンドです」

恋人同士カップル? いいね、青春だね。楽しめよ、若者」


 ニヤッとゲイルはからかうように笑うが、オスカーもサフィニアも逆に表情を硬くする。楽しむための時間が二人にはあとわずかしかないのだと実感してしまう。

 サフィニアは胸中から湧き上がる苦い想いを振り切って話題を元に戻す。


「あの、先ほどの魔狼フェンリルは何なんです? どうして、この国に魔物がいるんですか」

 

 この島国に魔物は存在しない。少なくとも、一般市民には認知されていない。

 遠い海の向こうにのみ生息するはずの生物が、何故平和そのものの島国にいるのか。それは到底看過し得ない疑問だった。

 厳しい眼差しで問いただすと、ゲイルは苦い顔で視線を彷徨わせる。


「あー、俺も詳しいことは知らねぇ。ただ魔物がこの国に現れたのはつい最近のことでな、王家が情報規制をしてるおかげでまだ噂にもなってない。俺は王家に極秘で雇われた傭兵で、二週間前から王都を警備してる。ちなみに俺が今まで狩った魔物は今回を含めて三体目だ」

「……いいんですか? そんなに簡単に情報を漏らして」


 予想以上に多くの情報を与えられてサフィニアは驚く。仮にも王家が情報統制をしていることを、ゲイルが簡単に教えていいものなのか。

 サフィニアの不審に、ゲイルは笑って首を横に振る。


「どうせ、もうそろそろ王都に噂が流れ出すさ。いつまでも隠し通せることじゃないからな。『この頃王都で化け物が現れて人を喰うらしい』ってな感じでな」

「そうでしょうけど……」

「俺もこの島国に来て三年は経つが、魔物を見たのは初めてだ。どうも、キナ臭いよなぁ」

「一つ聞きますけど。貴方はどうやってこの国に? まさか、あちらの大陸がとうとうこの島国を見つけたんですか?」

「いや。俺の場合は……まぬけな話でさ。ちょっと古代遺跡に依頼こなしに行ったら、古い転移の魔方陣を誤って暴発させっちまってこの国に飛ばされた。君も似たようなものだろう?」

「ええ。とりあえず長距離の転移魔法を使ったらここに」

「ならまぁ、まだ大陸はこの島国を見つけていない。もし見つかったら、魔物がうようよ渡って来るだろうな」

「それは、避けたいですね。でも今回はどうして魔物が……?」


 ゲイルもまた、偶発的にこの島国に来たらしい。

 それならどうやって魔物はこの島国にたどり着いたのか。飛行できる魔物や水中に潜る魔物も中にはいるが、魔物が簡単にわたって来れるほど島国と大陸の距離は近くない。それこそ転移の魔方陣の誤作動でも起きない限り、渡っては来れないだろう。

 魔物は人間を食べ、人間の血液に潜む魔力を糧にする。もしも今後、魔物が海を渡って来ることがあれば島国はとんでもない被害をこうむるだろう。この島国には、魔物に対抗する術が一切存在しないのだ。


「ゲイルさん、あの」

「ゲイルでいいぞ」

「……ではゲイル、王家の依頼の中に魔物が現れたことの調査は含まれているのですか?」

「いや。俺にそんな能力はないからな。今は王家の人材が捜査中なんだろ」

「無理ですね。魔物に関して無知なこの国の人間が、魔物について探るのは自殺行為でしょう。これまで魔物は何体確認されてます?」

「四体だ」

「場所は?」

「とくにここら辺を中心に現れるな」

「ここらには森が点在してますからね」

「こんなことを聞いてどうするつもりだ?」


 渋い顔で質問に答えるゲイルはおそらくサフィニアの返答を予想できているはずだ。

 サフィニアはにっこりと笑みを作ると当然のように言った。


「もちろん、魔物を徹底的に排除するんですよ」

「君がそんなことをする必要は……」

「あります。私はこの国に害をなす、総じてはオスカーに害が及ぶものを放置するつもりはありません。――それにこれは魔術師の領分でしょう」


 ゲイルは反論できずに黙り込む。

 おそらくゲイルはサフィニアの年齢を鑑みて危険なことに首を突っ込ませたくないのだろう。だがサフィニアは魔物の存在を知った以上、放置することはできない。第二の故郷とも言うべき国を魔物に荒らされて黙っていることはできない。

 魔物狩りは本来魔術師の領分だ。サフィニアは未熟ながらも魔術師としての自覚と誇りを持っている。

 サフィニアは微笑んだまま念を押す。


「私にも協力させてください。それと、私の存在は黙っていてくださいね」

「……分かったよ。下手に魔術師を敵に回したくない」

「御英断、感謝します」


 ゲイルは諦観の混じった様子でため息を吐く。

 言質を取り付けたサフィニアの行動は素早かった。一度周囲を見渡して、他に人目がないことを確かめると凛とした声で魔術詞マジックフレーズを響かせる。

 これから使うのは探知の魔術。魔術師の前にあらゆるものを晒すための、一種暴力的な力。


「展開。《すべての物を我が手中に》」


 一句ワンフレーズと共に一際大きな魔方陣がサフィニアを中心に足元に浮かび上がる。それは見渡すほど広い丘陵全体に及び、草土の下で淡い奇跡を複雑に描く。文様は生き物のように脈動し、続く指示を待っている。


「配置。《影響範囲:王都全域に指定》」

 

 サフィニアの身体から膨大な魔力が抜け、足元の魔方陣に吸い込まれていく。本来なら無謀な指定範囲も、サフィニアの化け物じみた魔力量さえあれば成し遂げることは簡単だ。

 自分の魔力が地面を伝って王都全体に馴染んでいくのを感じる。 


「起動。《我が意に沿わぬ全ての存在をあぶりだせ》」


 探知の魔術は指定範囲の中で一定条件を満たすものを探し出す魔術である。今回は魔物が身体から発する独特の魔力反応を探索条件に指定している。魔物は食事や臨戦態勢の時に普段は抑え込んでいる体内から魔力を放出する。それを常時探るのだ。

 これで魔物が人間を襲うために王都に足を踏み入れれば、サフィニアは察知できる。

 問題は現場に駆けつけるまで時間が掛かることと魔物が興奮状態になっていない場合、簡単に王都への侵入を許してしまうことだ。そのあたりは急ごしらえの現状では補完できないだろう。


「発動。《廻れ》」


 サフィニアは感覚で王都全体に向けて完璧に魔術が発動したことを悟る。一般人には見えない魔方陣とサフィニアの魔力は王都の地面に刻まれ、サフィニアの目となり耳となり王都の出来事を伝えてくる。ただし余計な情報まで受け取っていたら情報量の過多で脳が狂うので、意図的に探知の魔術の効果を抑える。

 これが一歩間違えると発狂しかねない危険があるのだ。指定条件の範囲が広すぎたり、魔術をきちんと自己の制御下に置けなかった場合、膨大な量の情報に脳が耐え切れなくなって意識が侵される。過去に数件、そのように身を滅ぼした者はいた。

 サフィニアは全ての工程を終えてほっと息を吐くとゲイルを見る。


「ゲイル。魔物が動き出せば、私が貴方にその場所を教えます。すぐに退治してください。できるだけ被害を出さずに」

「了解。強力に感謝するよ」


 通常なら数人がかりで行う大規模魔術をたった一人で行使したサフィニアに、ゲイルは呆れと感嘆の混じった視線を向けて頷く。

 これで彼にもサフィニアの協力が、魔物退治に関して不可欠であると分かったはずだ。もう誰にもサフィニアは止められない。

 この時、サフィニアは一時的に隣のオスカーの存在を忘れていたのだ。


「それじゃあ、俺はここらへんで。また会おう」

「はい」


 ゲイルは片手を上げて二人に別れを切り出し、背を向けて丘陵を下りていく。

 その背を見送ったサフィニアは緊急事態で強張っていた身体からすっと力を抜く。しかし、すぐに隣から声を掛けられてぎくっと身体をまた強張らせた。


「サフィー、説明、してくれるよね?」


 隣から聞こえる、不自然に平坦なオスカーの声音に、サフィニアは冷や汗を流す。魔術師として意識を切り換えた辺りから魔物のことに気を取られて、すっかりオスカーの存在を忘れていたのだ。静かに怒っている気配を敏感に察知し、サフィニアは振り返ることができない。


「あうぅ。ご、ごめんなさい。オスカー、その」

「もう秘密はなしだぞ?」

「う。……はい」


 逃げないようにしっかりと腰に手を回されて、サフィニアも観念する。もはやオスカーに魔術の存在を隠すことは無意味だった。誤魔化しきれない。


 その後、サフィニアは自分の出生から魔術のことまで洗いざらい全てを聞き出されてしまうことになる。結果的に言えば、オスカーは頭を抱えながらも全てを受け入れてくれた。まさに目の前で未知のものと遭遇してしまったこともあり、比較的簡単に信じられたようだ。

 ただし魔物の調査については、危険な行動に出る前にオスカーに一言報告すように約束を取り付けられたのだった。魔物の調査をやめろと説教されなかっただけ、充分マシだろうと思われた。





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