第三十六話:背負うべきではない孤独
アマリリス視点です。
ロドラルゴの記憶を探ると嫌でも判ることがある。
*****
アマリリスは本日三度目の遭遇となる《なりそこない》を禁術で消し去り、砂塵と化したそれらを睨み付ける。
ただ生きる肉塊として生まれ、死なず在っただけの哀れな生命。害虫でさえ自力で餌を取り、何らかの影響を世界に与えるのに、《なりそこない》は朽ち果てて逝くだけの存在として生まれた。
たかが初級魔術師がロドラルゴの人格を取り込んだ結果、無様な模倣者となり、附属して《なりそこない》が生産された。
新種の魔物の創造。遺伝子操作や交配実験とは別に、根本から生命を創り出す――無から有を生む魔術を敵の魔術師は完成させようとしている。
そんな神をも恐れぬ所業を、ただの人間ができるわけがないのに。
神と称されたロドラルゴだけが可能だった。真似などできない。
しかし敵の魔術師はそんな単純な真理を学ぶことなく、延々と実験を繰り返すのだろう。一度狂った歯車は第三者に梃入れされるまで、狂いきったまま進むしかない。
「……反吐が出る」
はっとアマリリスは小さく吐き捨てる。
打ち捨てられた哀れな《なりそこない》も、中途半端にロドラルゴを模倣する敵の魔術師にも、自分の姿が重なって見えるから余計に気持ち悪い。
少し境遇が異なっていたら、アマリリスも敵の魔術師同様にロドラルゴの《なりそこない》に成り果てていただろう。元の人格を破壊され、過去の記録を中途半端に再現する生きているだけの代物に。
アマリリスは死を恐れるが、《なりそこない》と化すくらいなら死んだ方が幾分マシとさえ思えた。
「アマリー?」
アマリリスはぱっと声の方角を振り返る。
双子の片割れが幾分疲労を感じさせる無表情で、小首を傾げていた。
勘付かれたかな、と内心で少し慌てながらアマリリスは首を横に振って見せる。
「何でもない。すぐに次に……いや、休憩が先か」
「でも」
「でもは無し。さっきから顔色が酷いぞ、サフィー」
「……分かったわ、ごめんなさい」
気にするな、とアマリリスは優しく妹の頭を撫でる。
それだけでサフィニアがほっと頬を緩ませるのが目にしなくても分かった。
サフィニアに《なりそこない》の姿が精神的な打撃を与えたことは想像に難くない。適度に休ませなければ、先に精神が潰れてしまう。それだけは避けたい。
(本当はこんなもん、見せたくねーよ)
明るい陽だまりで笑っている方が、サフィニアには似合っている。間違ってもこんな陰鬱で残虐な空間は似合わないのだ。
一度や二度ならアマリリスが影で《なりそこない》を葬ることもできた。だが深層へ迫るほど、似たような光景は増えていく。そのすべてをサフィニアに隠すのは不可能に近い。
それなら先に慣れさせた方がまだマシだった。敵の魔術師を前に取り乱されるよりは。
「大丈夫、大丈夫だ。サフィー」
何かの呪文のようにアマリリスは繰り返す。
或いはそれはサフィニアへではなく、自分自身に言い聞かせる言葉だったかもしれない。
地下の暗闇に埋もれて葬り去れた《なりそこない》を視界の隅に収めると、ぞっと怖気が体を走っていく。あのようになりたくないという恐怖だ。
誰にも認められず。
何の役にも立たぬまま――死にたくない。
たった半月の命と言えども、無駄死にだけはしたくない。
敵の魔術師のように、他者の模倣品となって誰にもなれぬまま――中途半端な死を迎えたくない。
どうせ死ぬなら誇り高く、気高く……穏やかな末路を辿りたい。
それこそ、一族の犠牲の末に生き残った最後の魔術師一族・ウィンターソン家の娘として相応しい死に様でなくては、先に逝った親族に合わせる顔がない。
アマリリスは恐怖を心の奥に仕舞い込み、努めて平静な顔でゲイルを傍に呼び寄せる。そのまま転移の魔術で、手近に休憩できる場所まで飛んだ。
*****
ゆらゆらと薄闇に紛れる黒いローブが左右に落ち着きなく揺れている。
強化した視界にしっかりとその姿を認め、アマリリスは嫌悪に顔を歪めて瞬時に飛び出していた。瞬く間に両者の距離は埋まり、黒ローブの下の干からびた男の顔を覗き見る。
アマリリスは嘲笑と共に殴り掛かった。
「一日ぶりだなぁっ、クソ野郎!!」
しかしその拳は紙一重の位置でぱしっと音を立てて何かに弾かれた。ぴりっと静電気のような痺れる感覚が手に残る。元より当たると思っていなかったアマリリスは、片足を軸に回し蹴りを入れる。やはり、ぱしっと音を立てて弾かれる。
何度か同じ攻防を繰り返して、アマリリスは一度黒ローブの男から距離を取った。
男は最初と変わらず、ゆらゆらと左右に揺れている。
「お前はここにいるだろうと思ってたよ。……ロドラルゴの真似事は楽しいか?」
アマリリスは歯を向き出しに、嘲笑混じりの獰猛な笑みを浮かべる。
それに応えるようにキシシ、と黒ローブの中から気味の悪い声が漏れ聞こえた。
そこは異空間の最下層。最期にロドラルゴが研究を行っていた場所。
そしてジャン=ピエール=ロドラルゴが、長い時の末にようやく死を求めた場所だった。
時間が経つに連れて、ロドラルゴの記憶はアマリリスに定着して来ていた。まるで俯瞰するように、アマリリスは彼の人の生涯を思い出すことができる。
ジャン=ピエール=ロドラルゴは天才だった。彼を超える才能はこの先現れないかもしれない。
しかし、彼はその才能に全ての幸運を使い果たしたように、人生で“幸せ”に恵まれなかった。物心ついた頃から笑うことも、楽しいと思うことも数少なかった。
彼の才能は世界の命運を狂わせ、人々を惑わせ――彼の人生をめちゃくちゃにした。
魔術という便利な世紀の発明を前にして、人々は彼に群がりたかり尽くした。“神”などと勝手な偶像を造り祀り上げ、あらゆる恩恵を搾り取ろうとした。中には本当に彼を信仰していた者もいたが、信者たちが彼に恩恵の対価を渡すことはなかった。
そうして、一人孤独に苦しんだ彼は世界を見捨てた。
世界に枷を失った魔物が溢れかえり、一瞬にして国々を支えた魔術文明は機能を停止して崩壊した。
いくら天才と言えども。
その才ひとつで、世界の文明を支えていたことが異常だと、どうして誰も気付かなかったのか。
誰かが気付いて阻止していれば――ロドラルゴと世界の結末は変わったかもしれないのに。
後はもう、最底辺まで転がり落ちるような人生だった。
異空間の中で目的も見失ったまま、過去の遺物にすがりつくように、彼は“神”に至るための研究に没頭し続けた。その間に多くの魔物が生まれ、異空間内に魔物による弱肉強食の生活層を造り上げて行った。
しかし、ロドラルゴは自分の創り出した生命にもはや興味を持てなかった。魔物や魔導具を用いて何かを成そうという気力は、異空間に籠る直前に捨てて来ている。
そうして――七百年が経つ。
異空間の地下深くで。
ロドラルゴはついに、これ以上なく強力無比な魔物を生み出した。多くの可能性と未来性を持つ、まだ目を覚ましたばかりのその魔物に見えた時。
すとん、と自分の人生の終わりを感じた。これ以上の研究は無駄だ――自然とそう思えた。
これだけ強大な生命を創り出してもなお、ロドラルゴは満足を得られなかった。何を以て、満足と為すかすら――自分が何を求めているかさえ、解っていなかったが。今生み出した生命でも、ロドラルゴに何も与えてくれないなら、これ以上他に研究を続けても永遠にそれは手に入らないだろう。
そう、ロドラルゴは諦めの境地に至った。
自分の生に終止符を打つと決めたら、意外なほど安堵した。ずっと、数百年間背負い続けてきた重荷をようやく降ろせたような気がした。
偉大なる魔術師の祖は、まるで普通の老人のように衰えた姿で、自らの仔らと共に永遠の眠りに就いた。
ロドラルゴの終生を想うと、アマリリスは哀しみと憐みで胸が痛む。
アマリリスはロドラルゴが一生涯追い求めて、そして得られなかったものを知っている。本来、普通の人間が普通に得られるはずだったもの。もしかしたら傍にあったかもしれない、極々普通の欲求だ。
――誰かに愛されたい。
――誰かを愛してみたい。
ロドラルゴは生まれた時から孤独だった。その天才性ゆえに、ロドラルゴを理解できる存在がいなかった。世界にただ一人、特別に生まれついたがゆえの悲劇だった。
孤高、なんて言葉は都合の良い他者の解釈だ。他者が理解できないものを、崇高に見せかける飾りの言葉。
あの時代、ロドラルゴの人間性を理解しようとする者も、まして一人の人間として愛してくれる存在もいなかった。ロドラルゴは人間ではなく――多くの他者の“神”だったから。
もしかしたら一人くらい、ロドラルゴを愛した存在がいたかもしれないけれど。ロドラルゴが気付かなかっただけで。それも千年以上が経った今では、詮無い推測となってしまう。
そしてアマリリスにとってロドラルゴのその渇望は、決して軽く流せる他人事ではなかった。
もしも、何か一つ異なっていたら、アマリリスも同じようになっていたかもしれないと思うのだ。
もしも双子でなかったら。
もしもサフィニアが死んでいたら。
アマリリスだって、満たされない孤独に苛まれていたかもしれない。
アマリリスとサフィニアはお互いに依存して生きてきた。たった二人で、荒波に揉まれながら苦楽を共にして十八年を生きてきた。もう、お互いの存在無しではいられない。
例え両親を、一族を、居場所を――国を追われても、唯一傍に絶対に信頼と親愛を寄せる対象がいた。それがどれだけ有り難いことだったか。だからアマリリスは、サフィニアは、本当の孤独を知らずに済んだのだ。
アマリリスにはサフィニアがあって、ロドラルゴには存在しなかった。
二人の立場の違いはその一言に尽きる。
孤独はとても恐ろしい。
独りきりで、どろっと揺蕩う闇の底へ落ちていく。引きずり込まれる。
一人では決して逃れられない悪夢だ。
真の孤独を想像する時、アマリリスは十年前に触れた死の気配を思い出す。昏い昏い深みへ、否応なく引っ張って連れて行かれかけた、あの死の淵の感触は、忘れられない。
当時、死に触れて抱いた恐怖より――ロドラルゴを喰らい尽くした孤独の闇はずっと深かった。その表現し切れない絶望を、アマリリスはその記憶を通して知っている。
あまりに恐ろしい冷たい記憶に、アマリリスの意識は我を忘れて呑み込まれそうになる。
その衝動に耐えていられるのは、一重に『真理の渦』に触れた経験則から来る慣れとサフィニアの存在があるからだった。
「……だけど、てめーは耐えられなかったんだな」
アマリリスは若干の憐みを込めて、地下の暗がりに立ち尽くす黒フードの魔術師を睨む。
ゆらゆらと前後に身体を揺らめかせながら、敵の魔術師はキシシ、キシシと耳障りな声を上げ続けている。しかし、フードに隠された生気のない頬をよく見れば、何かてらてらと反射している。
涙だ。
干からびて割れた口元は円弧を描きながら、魔術師は滂沱の涙を流していた。
まるで出来の悪いカラクリ人形のように、表情と感情が一致していない。張り付いたような笑みで、止まらない涙を流し続けている。
それは針の狂った時計のように、音を外した鐘のように、歪で気持ち悪い。
「てめーがどんな経緯でここに来て、そんな風になったかは知らん。自分に過ぎた力に手を伸ばした方が愚かなんだ。……とは言え、俺も同じ穴の貉ってやつだからな、同情くらいはお前にくれてやる」
アマリリスは嘆息を一つ漏らす。
目の前の魔術師は、ロドラルゴの記憶が孕んだ孤独に耐えきれなかったのだ。人間一人分の記憶という膨大な情報量と、その記憶がもたらす絶望の二重苦にあっけなく屈した。
その結果が今の、哀れな生き人形の姿だ。
「ああ、苦しいよなあ。他人の気持ちを理解しろとはよく言うが……本当に、理解しちまったら、こっちまで潰れっちまうよ。ついでだ、すぐに楽にしてやるよ」
そう言って、アマリリスは腰に佩いた短剣の柄に手を掛けた。
目の前の哀れな魔術師は、アマリリスたちの住まう島国に魔物をもたらし被害を与えた。今後も魔術師がロドラルゴの模倣を続ければ、確実に島国は危機に陥るだろう。そんな危険分子は生かしておけない。
どの道、アマリリスは魔術師を排除しなければならないなら、一刻も早く手を下した方が、魔術師の為にもなるはずだ。
一度“死”に触れたアマリリスには抵抗のある考え方だが――今や、魔術師にとって“死”は安寧だ。この魔術師が生み出した《なりそこない》と同じように、ロドラルゴの孤独の記憶に苛まれる苦痛から解放される唯一の手段なのだ。
今、アマリリスが魔術師を殺さなければ、魔術師は永劫の苦痛の中に存在していくことになるだろう。
魔術師の苦痛など、本来アマリリスが配慮すべきものでもないが。
「これはロドラルゴの孤独。……俺たちが背負うべき感傷じゃねーんだよ」
ロドラルゴだって、嫌がるだろう。
勝手に記憶を覗いて、勝手に自宅を荒らされて、勝手に壊れていく理解者なんて欲しがる訳がない。
アマリリスは右手に引き抜いた短刀を魔術師に向け、再戦の合図を放った。
「ああ、反吐が出る有様だ。――だから、さっさと終いにしようぜっ!!」
薄暗い地下空間の床が突如、目を潰すほどの光を放った。
元から仕掛けてあった魔方陣が床でくるくると踊っている。目が慣れれば、床にきらめく数多の魔方陣から光だけでなく、何か植物の蔦のようなものが大量に召喚される様が見えたはずだ。
凶悪な棘を生やした深緑の蔦が、一瞬にして魔術師の足元に生えてその足を、腕を、胴体を、縛り付けて拘束する。魔術で生み出された蔦はその棘で魔術師を突き刺し、頑丈に対象に喰らい尽く。使用した魔力の分だけ、その凶悪度は上がる。
しかし蔦の檻は出来た時と同様に一瞬で崩された。魔術師が鬱陶しそうに払った腕の一振りで、ぼろぼろと蔦は灰に還って行く。
さらに次々と蔦が魔術師を捉えんとするが、魔術師の張った小規模結界にことごとく灰塵にされる。
アマリリスにも、そうなることは初めから判っていた。魔術の腕は非常に悪い部類とは言え、相手はロドラルゴの記憶を持っている。記憶とは経験の一種だ、腕の悪い初級魔術師を高等魔術師以上のレベルに仕立て上げることなど造作もない。
特に、魔術師はこの異空間でそれなりに長く過ごしている分、ロドラルゴの記憶や付随する技術を多少はものにしているはずだ。警戒に警戒を重ねて対応するのが最善と言える。
だから、アマリリスが欲したのは防御行動によって生まれる一瞬の隙だった。
「らぁっ!!」
しゃっと鋭く空気を裂いて、アマリリスの短剣が魔術師に襲いかかる。
バチィッと火花が上がって、魔術師の身を覆う小規模結界に短剣は何度も弾かれた。前回と同じく、アマリリスの魔導具ではロドラルゴの結界を突破できない。
だからアマリリスはぐっと、数多に展開する魔方陣に魔力を並々と注ぎ込む。
「《貫け》!!」
魔術詞によって指向性を高めた蔦が、ひとまわり太く変化して一斉に魔術師に巻き付いて行く。膨大な魔力を孕んだ蔦は魔術師の小規模結界で弾き返せず、みしみしと結界を圧迫する。
ヒヒッと不気味な笑い声が聞こえた。
アマリリスは咄嗟に魔術師から距離を取り、衝撃に構える。
「来るぞ!!」
口を衝いた警告は、距離を保って別所に隠れているゲイルとサフィニアに向けたものだった。
その次の瞬間。バリバリッっと野太い爆音が周辺を貫いた。半瞬遅れて、全方位に向かって無差別に黄金の雷撃が飛び交う。まるで台風の中のような有様だ。
アマリリスは自分も小規模結界を張って、雷撃をやり過ごす。そこかしこから飛来する衝撃波は身体強化の魔術で充分、耐えられた。
やられてばかりではいられない、とアマリリスも魔術で反撃しようとする。
しかし、そうする必要はなかった。
どこからともなく、指向性のある魔力を乗せた超音波が放たれて、空間に波紋を広げた。その波紋はわんわんと響き、吸収するように雷撃を全て打ち消していく。雷撃だけでなく、アマリリスの身を守る小規模結界まで中和して弱めていく。
アマリリスはにっと口角を上げて、飛び出した。
身を守っていた小規模結界が弱まっているのは魔術師も同じだ。これは好機だった。
「《燃え尽くせ》」
アマリリスの魔術詞と共に、魔術師の前方の空間に魔方陣が閃く。そこから飛び出したのは、薄闇を赤々と照らす劫火だった。火炎放射器の如く、炎が魔術師の弱まった結界を炙る。
そこに身をかがめて走ったアマリリスが、魔術師の右脇に短剣を振りかぶる。ぶんっと思い切り振られた短剣がやすやすと結界を通り抜け、ぶちぃっと意図も簡単に魔術師の右腕の肘から下をもぎ取った。
凄まじい切れ味である。
「ちぃっ」
アマリリスは舌打ちする。本当はその腹を抉るつもりだったのだ。直前で避けられた。
一度失敗したからと言って動きを止めるのは愚の骨頂。アマリリスは短剣を振りかぶった勢いのまま腕を背後に回し、右手の短剣を素早く左手に持ち直す。
左手の短剣が魔術師の脇腹を今度こそえぐろうとする。
(避けられるっ!!)
突如、がくんと人形の糸が切れるように魔術師の全身が左側に倒れ込んでいく。
それを察したアマリリスは無詠唱で使い慣れた魔術を行使した。たん、と踏み込んだ片足から伝わる地面の感覚が失せる。一瞬の浮遊感と視界の暗転。
そしてアマリリスは今まさに、魔術師の身体が傾いた方向に至近距離で転移していた。そのまま、魔術師の身体に右腕でしっかり組みつき、左手の短剣を魔術師の首後ろに振り下す。
ざく、と人体に短剣が埋まり込む生々しい感触が伝わってくる。
「っく、ああああぁっ!!」
その悲鳴を上げたのは、アマリリスの方だった。
元より魔術が仕掛けられていたのだろう。魔術師の身体に触れた場所が火傷したように熱くなり、実際に皮膚の表面を無残に爛れさせていく。さらに傷口から寄生虫でも侵入してくるような、ゾクゾクとした気持ち悪さに襲われる。おそらく何がしかの虫か毒が、アマリリスの身体に入り込んだ。
途端に激痛がアマリリスの全身を襲った。ぶちぶちと内側の血管から何かが這いだしてくるような、おぞましい痛みだった。げほっと口から咳と共に血が吐き出される。
それでもアマリリスは自分の役割を忘れていなかった。
「やれっ、ゲイル!!」
それに対する応えはすぐに返って来た。
魔術師とアマリリスのすぐ近くにしゅっと何かが飛来する気配がした。ずっと闇に紛れて隠れていたゲイルが、その姿を現して神剣を突き出す。
正確にその大剣は魔術師の胴体を薙ぎ払った。
組み付き体重を乗せていた魔術師の身体が無くなり、アマリリスは地面に重力に従って倒れ伏す。
「アマリーッ!!」
「おいっ」
どこか遠くからサフィニアとゲイルの酷く焦った声が聞こえた。
ここまで来る前に立てた作戦はとても単純だった。たった三人で可能な作戦は限られている。アマリリスは囮となって魔術師の注意と動きを制限し、サフィニアは後方支援に徹する。ゲイルは最大の好機に魔術師に止めを刺すため、ぎりぎりまで近くに潜んでいる。そういう作戦だ。
ゲイルの持つ神剣は全ての魔術を一定の条件下で無効化する。まさに魔術師殺しの剣だ。魔術師がどんな仕掛けを用意しているか予測できない以上、神剣の一撃より有効な手立てはない。
そして神剣は不用意に力を使いすぎると神聖力を失って、ただのなまくらとなりかねない。だから下手を打てば長期決戦になりかねない魔術師との戦闘には、不意を打つという意味でも、最後までゲイルを動かすことはできなかった。
(あー……まぁ、それも言い訳の一つだったんだよなぁ)
痛覚が麻痺するほどの激痛、高熱に浮かされて視界のぼやけた状態でアマリリスは益体もなく考える。
初めから、こうなることは解っていた。腐ってもロドラルゴの記憶を持った魔術師が、自分の身体に何も仕掛けをしていないはずがない。ロドラルゴ自身、いつでも自分を害した者を抹殺できる魔術の毒を身体に仕込んでいた。
だから神剣の一撃が必要だったし、囮役をゲイルに任せてはいけなかった。ただの傭兵のゲイルでは、魔術師の毒を浴びて生きていられるはずがない。
アマリリスなら、時間を掛けても毒を中和できる可能性がある。それならアマリリスが囮役になるべきだと思った。
至って合理的な考え方である。
(また、泣かせっちまうな)
何度もサフィニアを泣かせてきた。今回もきっと、サフィニアは泣くだろう。
それを心苦しく感じながらも、いつでもアマリリスは必要な時に最も合理的な選択をする。自己犠牲精神もここまで来れば立派なものだろう。
アマリリスは事前に仕込んだ治癒の魔術が体内で発動するのをかろうじて察知し、困ったように小さく笑った。
ああ。サフィニアが泣いている。
大丈夫だから。
そんなに泣かないで。
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ぱちっと目を覚ますと、目元を真っ赤に泣き腫らしたサフィニアのじっと睨み付けてくる眼差しと目が合った。ほぼ反射的にアマリリスは眉を下げる。
すまない、と謝るのは簡単だった。
だがサフィニアにとって、その言葉ほど信用ならないものはない。最近の前科を積み重ねすぎた。
詰まる所、アマリリスはぐっと謝罪を呑み込み沈黙するしかなかった。
「……心配したんだから。こんな毒受けたら、普通死ぬしかないのよ? 凄く血を吐いて……苦しかったでしょう? いつもいつも、どうしてこんな無茶ばかりするの!」
「……それが俺の役目だと思うから、かな」
「っだからって、それで死んだら意味ないじゃない! ばかぁっ」
わっとサフィニアは涙を溢れさせて、子供のように泣きじゃくる。
アマリリスは鈍い動きで片手を動かし、サフィニアのそれの上に重ねる。手の平から伝わってくる人肌の温かさが、無性に愛しかった。
ぎゅっと今の精一杯の力でサフィニアの手を握り締める。その涙を拭ってやりたかったが、上半身を起こせるほど身体が回復していなかった。
正直、指一本動かすだけで体力を消耗するほど酷い。
ただアマリリスは痛みや疲労、という身体の負荷によく慣れていた。サフィニアの目のない場所で身体を酷使し続け、すでにアマリリスの身体はぼろぼろだった。もう無理無茶を押し通すことに慣れ過ぎて、傷みや怠さ程度では怯まない。
「ごめん。……でも、絶対に置いて逝ったりしないから」
「あ、当たり前でしょ」
弱々しく何度も頷くサフィニアに、アマリリスはふっと笑いかける。それから、身体の訴える欲求のままに両まぶたを閉じて、自分の身体の状態を把握する。
どうにか魔術師から受けた毒は中和できたようだった。まだ魔術師に触れた箇所がひりひりと痛みを訴えて来るが、それも数日中に完治するだろう。問題があるとすれば、体力を消耗しすぎて丸一日はまともに動け無さそうだということのみだ。
ふと、アマリリスは傍に妹以外の気配を感じて眼を空ける。
「……よぉ」
「体調はどうだ? あー、良いはずがないだろうが、ここには介抱する薬品も食料も無くてな。水でも飲むか? 血も不足してるし、何か口した方がいいと思うが」
「ありがと。でも食べ物はしばらくいい、どうせ吐き出す」
「まぁ、そうだろうな。……動けそうか?」
「無理。まず数時間は起き上がれねえ」
ゲイルに心配そうに顔を覗き込まれるが、残念ながら現状休む以外の回復方法はなかった。
その様を見て顔色を曇らせたゲイルは、一つため息を吐く。
「何だか、すまん。あまり役に立てなかった」
「気にすんなって。あんたがいてくれて助かった……、背後を任せられる奴なんて、そういないからさ」
「そう言ってくれると有り難い」
間違いなく、最も体力を温存しているゲイルは申し訳なさそうにしている。
実際アマリリスとサフィニアだけでは、この異空間に赴くのは無謀過ぎた。アマリリスはともかく、サフィニアは元来荒事に向いていない。ゲイルがいたおかげで、安心してサフィニアを任せられた。傭兵業で長年稼いできたゲイルの腕を、アマリリスは高く買っている。
それで、とアマリリスは視線をゲイルの背後に向けた。薄闇の奥、サフィニアの魔術による光源にうっすらと照らされて浮かび上がる巨大なシルエットがある。
「……ああ、封印はかろうじて解けなかったみたいだな」
「……うん。良かったね」
三人の視線の先に在るのは、巨大な繭の塊だった。地下空間の半分近くを占拠するその繭の中には、例に漏れず魔物が眠っている。
それも、ロドラルゴの最後にして最高の傑作と思わせた強大な魔物だ。
魔術師と相対するにあたって、アマリリスが最も警戒したのがロドラルゴに人生の終結を決意させたこの魔物である。テンテンを除けば、ロドラルゴの記憶に強く刻み込まれた存在はこの魔物しかいなかった。だから魔術師がそこを拠点にしていることも容易に想像がついたのだ。
そして、仮に魔術師との戦闘中にこの魔物が目覚めたらどんな事態になるか――それを警戒したのだ。
生まれてすぐに繭の中で眠りについた魔物は酷く腹を空かせているはずだ。そこに、取るに足らない人間が複数いたら、食べられるに決まっている。
三人だけでは、ロドラルゴの最高傑作から逃げられない。一瞬で踏みつぶされるだけだ。
そのため、繭の中の魔物がうっかり目覚めないように手を打つ必要があった。
サフィニアが後方支援に徹したのは、単に荒事が苦手だからではなく、繭の中の魔物をアマリリスたちの戦闘の余波から守るためだった。魔物を閉じ込めるように結界を張り、さらに必要な時は魔物の封印を魔術的に強化する。
それはひたすらに魔術を研究し続けてきたサフィニアにしかできない役目だった。アマリリスではロドラルゴの記憶を持っていても、繊細な技術と集中力が必要な封印の強化を魔術で行うことは難しい。
サフィニアの努力のおかげで、繭の中の魔物は今も静かに眠りに就いている。
「ああ、終わったんだな」
ふと、アマリリスの口から安堵が零れ落ちた。
まるで数百年前にここで人生の終わりを見出したロドラルゴのように、すとんと自然にそう思った。
魔術師は亡きものにした。あとは異空間自体をどうにかして、あの島国に魔物が侵入しないように手を打つ必要がある。まだ厳密には終わっていないけれど――
「これでもう、大丈夫だ」
ふわっとアマリリスは柔らかく微笑んだ。
アマリリスの役目は無事に遂げられた。あとの魔術的処理はサフィニアに任せた方が上手くいくだろう。
ひとつ、目的を果たしてしまったからか。
ひたひたと足音を立てて近づいている、自分たちの迎える人生の終幕の日をとりわけ身近に感じた。