第三十五話:まがい物
サフィニア視点です。
――本当に酷いものだ、と心中でつぶやくことしかできなかった。
どうやら人は、驚きや恐怖、怒りといった感情があまりに大きすぎると一蹴回って冷静になってしまうらしい、とこの時初めてサフィニアは悟った。
*****
わずかな休憩の後、サフィニアたち三人は研究所の地下空間のどこかにいるはずの敵魔術師を追って、また動き出した。今回はアマリリスの案内付きのため、当初のように出たとこ勝負というわけではない。ロドラルゴの記憶を元に、敵魔術師の潜んでいそうな場所をしらみつぶしにあたることにした。
本来なら探知の魔術等で敵魔術師を追いたい。
しかし、この地下空間では探知の魔術等の広範囲に影響を与える魔術は威力が不安定になりがちだった。まず地下空間に満ちる高濃度の魔力が、捕捉対象の存在を有耶無耶にしてしまう。探知の魔術は捕捉対象の保有魔力を元に気配を察知するものだ。この高濃度魔力の満ちた場所では、魔力をろくにもたない敵魔術師の気配は簡単に誤魔化されてしまう。
逆に膨大な魔力を持つ双子は、この地下空間内でも捕捉しやすいだろう。
その他の敵魔術の捜索に使えそうな魔術も、探知の魔術と似たような理由で扱えなかった。
だから三人は地道に自分の足で、心当たりの場所を探すしかなかった。ロドラルゴの記憶という助けを得ても、後手に回るしかない状況は覆せないようだ。
そうは言っても、本当に自分たちの足で歩くわけではない。アマリリス曰く、研究所の地下空間は厳密には本当に地中にあるわけではなく、研究所の地下部分に別の異空間を接続して創っているため、大都市並みに広いらしい。自分たちの足で端から端まで踏破するなど、正気の沙汰ではない。
だから地下空間の地図を把握できるアマリリスの転移で、一つ一つ見て回ることにした。
だが地下に行けば行くほど、サフィニアたちは戦々恐々としなくてはならなくなった。
サフィニアたちが単独で動いていた時は発見しなかったが、広大な地下空間には無数の魔物が眠りに就いていたのだ。
「なに……これ」
初めてそれを見た時、サフィニアは唖然として見上げるしかなかった。
広場のような大部屋の中、薄暗い天井部分に無数に吊り下げられた袋が見えた。人が一人入る大きさの黄土色の袋は、白い糸の束によって天井から吊るされている。よく目を凝らせば、時折中に入ったものが動くのか、ぼこぼこと袋の表面が蠢いている。
それはまるで、巨大な虫の卵のような印象を受ける袋の数々だった。
不気味だな、と隣に立つゲイルも弱冠の嫌悪を滲ませてそれらを見上げていた。
その場で平然としていたのは、地下空間に精通したアマリリスだけだった。
「こいつら、魔物の卵なんだってさ」
「魔物の卵!?」
「そ。まあ、卵って言っても入ってるのは成体で、幼体じゃないけど……。肉食で、卵から出て二週間はとにかく何でも食う奴らだよ。生まれてすぐは腹が過ぎすぎて、平気で共食いするんだけど、繁殖力は馬鹿強いから問題はないらしい。当然、人間は主食だから下手に刺激を与えたら、俺たち食われるぞ?」
「っ……詳しい説明は、いらないから!!」
思わず、頭上の卵から魔物が這い出てくる様を想像してしまい、サフィニアはぶるりと背筋を震わせる。
目の前の無数に吊り下げられた卵がすべて孵れば、サフィニアたちは意図も簡単に食い殺されるだろう。数の暴力を前に、個人の力は意味を成さない。
本気でそれを恐れたサフィニアを見て、アマリリスは苦笑して大丈夫だと首を横に振った。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だって。俺が一緒なら、たとえ卵が孵っても食い殺されたりしないからさ」
「え? どうして?」
「んー、まぁ……ロドラルゴの記憶をもらった副次効果ってやつでさ。どうも、俺の気配がロドラルゴにちょっと似通った感じになってるみたいなんだ。それは敵さんも同じなんだけど……。ある程度の簡単な命令なら、知能の低い奴は効いてくれる」
「そ、そうなんだ」
「そりゃ安心だな、おい」
あからさまに、サフィニアとゲイルはほっと安堵する。
アマリリス自身の自分の変容を複雑に捉えているらしく、どこか不機嫌そうに魔物の卵を睨んでいた。
「……ん? おい、知能の低い奴は命令を聞くってなると、敵の方から魔物をけしかけられることって、あるのか?」
「あるだろーなぁ」
ゲイルが顔をしかめて尋ねると、アマリリスも嫌そうな顔で肯定する。
サフィニアもまた、その光景を想像して青ざめた。この亜空間内にはロドラルゴの生み出した魔物が至る所に封印され、眠っている。それらを一部とは言え、使役できるなら、敵の脅威の高さは半端なものではない。敵の魔術師を見つけることさえ、難しいこの状況の中で。
(本当に、わたしたち生きて帰れるの?)
双子の死の期日は約半月後である。真理の渦にはそう刻まれていた。つまり双子は少なくとも、この異空間内で死ぬことはない。
そう約束されているとは言え、やはり不安が身をもたげてくる。
本当なら、たった三人でロドラルゴの遺した異空間に挑むことすら無謀の類だと言うのに。
「サフィー」
ぽんぽん、と軽く頭を撫でられた。
(あ……)
ふと目線を上げて、アマリリスの微笑に励まされる。
こんな時、サフィニアは無性に泣きそうになる。サフィニアの精神はとても弱い。自分一人では立てず、双子の片割れにすがっていなければならないほどに。
そしてアマリリスは双子の妹の不安を、絶対に見逃さないのだ。――それがアマリリスの生きる理由であるために。
「大丈夫。大丈夫よ、アマリー」
「それならいいけど」
サフィニアは込み上げる安堵のまま、笑みを浮かべる。
双子の姉にすがってしまう自分の弱さに情けなくなる。だけどそれ以上にアマリリスの与えてくれるものは甘美だった。
アマリリスは妹が精神を立て直したことを察して、にっと口の端を上げて頷いた。
「あんたら、本当に仲が良いよなぁ」
それを、やや呆れた様子でゲイルが眺めていた。
アマリリスがその眼差しを気にせず、胸を張るようにして言う。
「そりゃあ、二人だけでここまで頑張って来たんだ。仲が良くなるのは当然だろ?」
「いや……世の中、相容れない兄弟もいるもんだぜ? 俺は弟と仲良く会話したことすらなかったしなー」
「ゲイル、弟いたのか」
「ああ。いわゆる腹違いの弟ってやつ、俺が本妻の子で、あっちが妾の子。母親同士いがみ合ってるもんだから、顔合わせたって良いことなんて何もねーよ」
昔を思い出したのか、ゲイルは嫌そうに顔を歪める。
その様をサフィニアは不思議な想いで眺めていた。双子にとって、お互いは大切な半身であり、姉妹である。互いに支え合うのは当然のことだった。だからお互いを疎み合う兄弟の有様は不思議でならない。
血縁は必ずしも家族であるために必要なものではないと知っているが、やはり血縁とは分かちがたい絆でもあるのだ。
その想いが表情に現れていたのか、ゲイルが苦りきった表情で重ねて言った。
「血が繋がってるからこそ、疎ましいんだ。赤の他人なら、ここまで反目しなかっただろうよ」
「ふぅん、そんなもんか」
アマリリスもまた、よく分からないという顔で頷いている。
ゲイルもこれ以上肉親の話はしたくないらしく、そのままゲイルの身内話は有耶無耶になった。
その後、何度も転移を繰り返して徐々に三人は地下空間の深部に近づいて行った。
深部に近づくほど、眠りに就く魔物の脅威は大きくなる。力の強い魔物ほど、深部に封印されているらしい。
サフィニアたちにできるのは、転移先の気配を探って敵魔術師の痕跡を確かめ、出来る限りロドラルゴの遺した魔物を刺激しないことだった。
とは言え、サフィニアたちも生き物である以上、空腹や排泄、睡眠という生理的欲求はどうしても付き物だ。特にアウトドアに慣れないサフィニアの身体的な疲労は、魔術で補うにしても限界があった。また地下空間全域を支配する閉塞感も、ゲイルとサフィニアの精神には徐々に疲労を蓄積させた。
その点、アマリリスはロドラルゴの記憶と折り合いを付けるほどに、地下空間の環境と適合していくようだった。
「何つーか、懐かしいって感覚が一番近い。ロドラルゴはこんな場所に何百年も籠って、研究ばっかりに没頭してた。あいつは、こんな寂しい空間にいて安心できるくらいに、孤独だったみたいだ」
懐かしいと感じるのはロドラルゴの記憶で、地下空間を寂しいと感じるのはアマリリスだ。
そのあたりの意識の差を上手く、アマリリスは自分の中で折り合いを付け、受け入れているようだった。ロドラルゴの記憶に同調するほど異空間内では動きやすくなり、かと言って同調しすぎれば我を忘れて目的を失ってしまう。そんな意識上の綱渡りの均衡を保っている。
三人は時折、地下空間の小部屋で交代で休憩を取った。
普段とあまりに異なる環境ではろく仮眠もできなかったが、横になって目を閉じるだけでもサフィニアは多少楽になれた。
ゲイルは大陸で傭兵をしていただけあって、危険地帯での野宿も慣れたものだった。まだ汚くても室内であるだけましだ、と言っていた。
逆にアマリリスは静かに瞑目して立っているだけで、体力と魔力の回復ができていた。曰く、地下空間に溢れる自然魔力を取り込んでいるらしい。
「ここはロドラルゴが創り出した異空間で、その自然魔力は元を正せばロドラルゴが空間維持のために放出していたものなんだよ。ロドラルゴの因子を持った今の俺なら、それを回収して自分のものに還元できるみたいだな」
と本人は淡々と説明していた。
本来は自然魔力を人間が身の内に取り込むことはできないが、自分の放出した魔力を回収することは不可能ではない。不可能ではないだけで、本当にそれができる術者は限られてくる。その辺りの技術も、ロドラルゴの記憶を頼りにアマリリスは自分の中に取り込んでいた。
少なくとも、敵魔術師は同じことができているはずだから。
ほとんど収穫のない単調な移動作業に変化が投じられたのは、三人が異空間に突入して丸一日が過ぎようかという時だった。それも地下空間には朝昼夜の変化はないため、三人の時間感覚に頼ったものになるが。
初めに気が付いたのはやはりアマリリスだった。壁に背を預けて瞑目していたアマリリスが、ふと目を開き、扉もない小部屋の入口の向こうに目を向ける。
「来たか」
その言葉に即座に反応したのはゲイルで、床からぱっと立ち上がって背に括り付けた獲物に手を掛ける。その厳しい眼差しは奥の暗闇に潜む魔物を暴こうとするように、アマリリスと同じ方角を鋭く凝視する。
逆に一瞬、何のことか理解できなかったサフィニアは他の二人より反応に遅れた。すぐに、前もって懸念されていた魔物の襲来だと気づき、遅れてベッドから立ち上がる。それからまだ何も見えない小部屋の向こうの暗闇を眺め、無言で周囲に魔術の灯を放った。ふんわりとした淡い光の球体が十個ばかり、現れて周囲を照らす。
地下空間はロドラルゴの都合によって造られたため、常人にとっての生き易さはまったく考慮されていない。当然、清潔感や明るさとは無縁の空間である。
すでに目も暗闇に慣れてきたとは言え、明かりがあるに越したことはない。特に魔物の気配を肌で感じる技術を持たないサフィニアにとっては、視界の不明瞭さは不安材料にしかならなかった。
「数は、二十前後か。……意外と少ないか?」
「手慣らしにはちょうどいいだろ」
三人の視線の先で徐々に魔物の群れは姿を現し出している。
暗闇に紛れてぼんやりと見える輪郭から、飛行型の虫と四足で駆る獣の二種類の魔物の姿が分かった。ぶぅぅん、と飛行型の魔物の羽が震える音が聞こえてくる。
自然とサフィニアは緊張から身体が強張るのを感じた。
「まず、俺が行く。最近はこんな大量に相手取ったことなかったからなあ」
「分かった。ここまで来た魔物は、追い払うからな」
「了解っす」
王都に出現した魔物の数はそう多くない。いつも単体で現れていたし、数少ない群れの形を取った魔物は弱い種ばかりだった。大陸で魔物の多く出現する危険地域を日々探索していたゲイルには、物足りない相手だったとしてもおかしくなかった。
好戦的な笑みを浮かべて今にも飛び出そうとするゲイルの背に、慌ててサフィニアは声を掛ける。
「ゲイル。いくつか身体に魔術を付与するわ」
「おう、頼む」
サフィニアはゲイルに身体の基礎能力を向上させる付与系の魔術をいくつか重ね掛けする。筋肉強化に、動体視力の向上、それから体力増量の効果を持った魔術だ。普段の生活ではまったく使わない魔術のため、サフィニアも使用したのはまだ大陸にいた頃に習得して以来である。
アマリリスの方が慣れているように思われるが、意外と他人に魔術を付与させるのは苦手らしい。だいたい身体の基礎能力を向上させる類の魔術は、すでに自分の身体の一部のように扱っていて、逆に他人に付与させる時に必要な制御が難しいと言う。
生体に作用を及ぼす魔術は、付与する相手によって加減を調整しなければならない。誰彼かまわず最大威力で調整しようものなら、逆に相手の身体の限界を超えた威力を無理矢理引き出し、相手の身体を根本から壊してしまいかねない。
だから普通の人間は、よほど魔術師の腕を信頼しない限り、他人に魔術を付与してもらうことはない。
「っしゃ!!」
ゲイルが気合いの声を上げ、魔物の群れに突っ込んでいく。
それを双子は小部屋に立ったまま、見守った。
遠目から、ゲイルが魔物の群れに五匹ほどいた獣型とぶつかったのが確認できる。その他の飛行型の魔物はゲイルをまるきり無視して、小部屋の方へ向かってきた。
だがサフィニアは飛行型には目もくれず、ゲイルの動きだけを注視した。
サフィニアは魔物相手の戦闘に慣れていないため、一度に複数の魔物を相手取っても悪戯に翻弄されるに決まっている。そのため、ゲイルの後衛として補助にあたることだけに集中する。
その他の魔物はアマリリスがどうにでもする。
元々、アマリリスがロドラルゴから引き継いだ因子を元に追い返せばいいところを、ゲイルが戦闘の勘を取り戻すため、そしてサフィニアに戦闘経験を積ませるために、わざわざ戦闘行為に及ぼうとしている。サフィニアはこの経験をすぐに次に生かさなくてはならいのだ。
「――≪縫い止めよ≫」
ゲイルに躍りかかった獣型のうち、三体の動きをまず封じる。それは初めて王都の西区で魔狼に遭遇した際にも用いた拘束用の魔術だ。影を実体化して物を固定するそれは、薄闇に支配される地下空間では最大限に威力を発揮する。先ほど作った光の塊が余計に周囲を照らして陰影をはっきりさせるため、この場では特に使い勝手が良い。
命令通り、三匹の獣型は己の影に四肢を捕えられ、咆哮を上げながらその場に立ち止まっている。
あとの二匹はゲイルに襲い掛かっているが、ゲイルは大剣を振り回し、上手く牽制しながら相手取っていた。そこそこ強い個体のはずだが、ゲイルに焦った様子は見られない。
サフィニアは他三匹の拘束を緩めないよう、注意しながら、援護の機会を窺う。
遠距離からの魔術攻撃は可能だが、さすがにゲイルを巻き込まない攻撃手段となると格段に手法が限られてくる。サフィニアが今行うべきは、ゲイルの身の安全の確保ぐらいだった。
素人目に観ても、ゲイルの戦闘は危うげがなかった。大剣を振り回す姿は勇猛果敢だが、その動きには戦闘の一歩先二歩先を読んだ慎重さがあった。魔物を自分の思うように動かし、一匹ずつ確実に仕留めようとしている。
サフィニアが援護を行わなければならないほど、ゲイルは弱くなかった。
バキャッ
不意に、近くで何かが押し潰されるような音を耳にして、サフィニアはびくっと肩を震わせた。
それに続いて、アマリリスの呆れるような声が届く。
「あーあ、本当に気づかずに特攻してくるとか……。知能が低いんだな」
その物騒な音の正体は、わざわざ探さなくても目の前にあった。単に、サフィニアがゲイルの戦闘に注視しすぎていただけで、本来なら気づかずにはいられないほど面前に飛行型の魔物が寄って来ていた。
ただし、あらかじめサフィニアが小部屋に張っていた結界に阻まれ、勢いのままぶつかったらしく、結界の表面に張り付いている。
ぎちぎちぎち、と飛行型の魔物が口元を震わせて鳴く。眼前で見えるその虫じみた構造が視界にえぐくて、サフィニアは嫌悪感と共に目を逸らした。
飛行型の魔物のせいでゲイルの姿が拾えなくなったため、新しく自分に透視の魔術を掛けて確認する。少し目を離した間にゲイルは一匹を仕留めていた。
「よし、サフィー、追い払うから」
「分かったわ」
一斉に飛行型の魔物が突撃したおかげで、小部屋を覆う結界は揺らいでいた。サフィニアがもっと結界の維持に専念していれば、もっと丈夫だっただろうが、片手間に維持する結界などそんなものである。
その結界を、サフィニアはアマリリスの求めに応じて一瞬で消し去った。
当然、これまで結界に阻まれていた飛行型の魔物が襲ってくる。幸い、小部屋の入口は飛行型の魔物が一体入れる程度の横幅しかないため、一斉に襲われるということはなかった。それもたった一瞬の幸運要素でしかないが。
サフィニアの下まで魔物が押し寄せる前に、アマリリスがその前に立った。
「止まれ」
アマリリスがしたことと言えば、それだけだった。
ただ魔物を見据えて、命令を下しただけ。それだけで飛行型の魔物は、金縛りにあったように空中でぴたりと停止した。アマリリスを恐れるように羽や口を震わせ、わずかに後退する素振りすら見せる。
傍目には何もしていないように見えた。
それでも、双子の繋がりゆえか、サフィニアには筆舌に尽くしがたい明確な変化を肌で感じ取った。
(っ……これが、ロドラルゴの)
全身の肌が粟立つ。
アマリリスという存在が、根本からロドラルゴという存在に塗り替えられたようだった。
サフィニアは見慣れたはずのその背に、孤高に立つ至高の魔術師だった男の姿を幻視する。
まるで存在感が違うのだ。その背は誰もが無条件に従わずにはいられない覇気に満ちている。すべての頂点に立つ者の放つ、独特な魅力がある。
かつてロドラルゴは神になる望んだと聞く。確かにこの男なら神にさえ、その身を転じることができたのではないか――そう錯覚せずにはいられなかった。
「そのまま巣に戻り、また眠りに就け。お前たちはまだ、目覚めて良いものではない」
ロドラルゴの言葉を代弁するように、アマリリスは命令する。
それに魔物は即座に従った。ぶぅうんと羽を震わせ、今まで襲い掛かろうとしていたのが嘘のように、双子に背を向けて元来た道を戻っていく。
その様子を呆然と見守り、サフィニアははっと我に返ってゲイルの様子を確認する。
アマリリスが飛行型を相手取っている間に、ゲイルは無事にもう一匹の獣型を刈り取り、ついでにサフィニアが拘束していた三匹の獣型の首を刈り取っていた。
傷ひとつ負っていなそうなゲイルの姿に、サフィニアはほっと安堵する。
「……無事に誤認してくれたみたいで、良かったな」
アマリリスが、少し複雑そうな表情でつぶやく。
すでにその姿からはロドラルゴを連想させるものは一切なかった。
そのことに、サフィニアは心底ほっとする。何とかロドラルゴの記憶と自分の意識の混同は避けられたらしい。
「いや、すげーな。何もせずに引き返してったぞ、あいつら」
獲物を背に戻したゲイルが、感心した素振りで小部屋に戻ってくる。
「俺としては、あんまり気分の良い手段じゃねーんだけどな。使えるもんは、使わなきゃもったいないし」
他人のものを横からかすめ取っているようで気分が悪い、とアマリリスは苦虫を潰したような顔をする。
しかし、ロドラルゴの記憶から得られる様々な知識と特権は、後手に回るしかないこの状況では大変有り難いものであることに変わりはないのだ。
サフィニアとて、あまりロドラルゴの記憶とアマリリスの意識が混同してしまいかねない手段を乱用したくない。それでも口に出して止めるには、三人の状況がかんばしくないのだった。
「あーあ、俺、テンテンに次会ったら問答無用で襲われるんじゃねーの」
うんざり、という風にアマリリスは頭を抱えて愚痴っている。
アマリリスとしても不本意な結果とは言え、アマリリスはテンテンの嫌悪する敵魔術師と同じ状態に陥っている。テンテンの生みの親の尊厳を、意図せずして踏み躙ってしまった結果になるのだ。
サフィニアの脳裏で、激怒する魔物の姿が容易に想像できた。あまり期待できないが、テンテンの魔物にあるまじき知性と、あるかないかの寛容さに期待するしかない。
そうアマリリスに慰めの言葉を掛けるしかなかった。
そうして、異空間で初めての対魔物戦は終了した。
この後、幾度となく三人は敵魔術師にけしかけられた魔物に遭遇し、同じことを繰り返すことになる。
*****
その光景を目の当たりにしたのは、幾度かの魔物の襲撃を受けつつ半日が過ぎる頃だった。襲い来る魔物は問題なく撃退できても、三人の精神的な疲労は蓄積されるばかりで、状況が好転することもなく、徐々に三人は追い詰められていた。
それに止めを刺すような光景だった。
転移したその瞬間から、何か言葉にできない違和感を覚えた。
周辺がかび臭く、埃だらけで薄闇に覆われているのはどこも同じだ。どこもおかしくないはずなのに、ほぼ直観的に感じ取ったものは、おそらく視線と呼ばれるもの。
見られている。
その感覚が肌を粟立たせた。
初め、サフィニアはそれを敵魔術師か、また待ち伏せしていた魔物のものと判断した。
ほとんど反射的に魔物の迎撃態勢を取る。自然に反応できるようになるくらい、サフィニアはその日、魔物と相対していた。
「……来ねえな」
「魔物じゃ、ないの?」
サフィニアと同じことを考えていたらしいゲイルが、しばらくの沈黙の後、つぶやく。
一応、探知の魔術で捜査してみるが付近に魔力反応は見られない。つまり敵魔術師はともかく、強力な魔物は傍に潜んでいないのだ。
だからと言って警戒を解けるわけもなく、三人は慎重に周囲を見渡す。
一番初めにそれを認めたのは、やはりアマリリスだった。
ちっとアマリリスが心底忌々しげに舌打ちをした。
「おい?」
隙だらけに、苛立たしげに頭を掻くアマリリスにゲイルが困惑気味に声を掛ける。
そちらを多分に鋭い眼差しで見つめ、アマリリスは大丈夫だと言うように首を横に振る。
「敵はいない。まあ、敵であってくれた方が気分的には良かったけどな」
「アマリー? どういう意味?」
アマリリスは妹の顔を見て、どこか困った様子を見せる。
「……えぐいものだから、あんまり見せたくないんだけどなぁ」
仕方ない、とアマリリスはつぶやき、薄闇の一点を指差した。
サフィニアは困惑を深めたまま、素直にそちらを凝視する。
初めはそれが何か分からなかった。何か、闇にまぎれて蠢くものがあることだけ分かった。
それを正しく認識できた瞬間、サフィニアはひゅっと息を呑み、言葉を失った。
「何てこった」
ゲイルの呻く声が、どこか遠くに聞こえた。
それを何と表現すべきか分からない。ただ分かるのはそれが――化け物としか呼べない物体であることだけ。
「……後年、ロドラルゴは魔物を生み出すことに終始していた。すでに目的も見失いかけていたのに、それだけは止めなかったんだ。それが、ロドラルゴを神たらしめる行為だと認識していたから。
だからもし、ロドラルゴの劣化版と化した奴が何をするかって考えたら、当然それは……新たに魔物を生み出すことになる。だけど、いくら知識があったって、あいつにはそこに至れるだけの技術がない。そこで出来上がったのが、こいつらってことなんだろうな」
そんなアマリリスの苦りきった説明は、異様に鮮明に耳にまで届いた。
サフィニアはただ、目に映るものを立ち尽くして凝視するしかない。頭の中は真っ白になって、自分の感情がぐるぐると迷走しているのが分かる。
きっと、今自分は酷い顔をしている。
指先をぴくりとも動かすことができなくて、表情筋だって死んだよう。
(こんなこと、あっていいというの……!!)
敢えて表現するなら、それは肉塊だった。
何かを作ろうとして失敗した粘土のように、すべてが不恰好で、一部分だけ形を保っているから余計におぞまさしさが増す。そういう代物だ。
赤子の手のようなものが付いているのに、その腕のすぐ横にぎょろ目が八つあり、毛がぽつりぽつりと脈絡なく全体に生えているもの。ゲル状のぼこぼこした表面、その中心で心臓のようなものが、どくどく脈打つもの。三つも口を生やしながら目も鼻もなく、球体を取って転がるもの。獣の頭部を持ちながら、その胴体や四肢のあるべき場所に人間の幼児の手足や触手のようなものを生やしたもの。
とにかく、まともな形態を取ったものがいない。皆、自分で移動すらできないまがい物たち。
何よりおぞましいのは。
その一つ一つが、生き物だという事実。
それらは人間や魔物と同様に命を持ち、魂を持っている。
これほどに、それらは失敗して生まれてきているのに。
おぞましかった、気持ち悪かった、恐ろしかった。
でもそれ以上に――赦せなかった。
すべての命が祝福されて生まれてくるべきだ、なんて綺麗事は言わない。世界にはその誕生を望まれない存在だって確実に存在する。予言の双子と呼ばれるサフィニアとアマリリスだって、元を正せば一国にその誕生を憎まれた存在だ。
だがこんな風に、誰からも必要とされず、まして自立行動さえできない、まともな形すら持たずに生まれてくる哀しき存在がいていいはずがない。こんな――生者の身勝手な欲望の果てに、見向きもされず、朽ち果てて行くのを待つしかないような化け物として生まれる者がいていいはずがない。
冒涜だ。これは尊き生命への冒涜だ。
この時初めてサフィニアは、敵の魔術師を憎んだ。王都を魔物に襲撃されて被害が出た時も、怒りは抱いても憎悪までは抱かなかったというのに。
大陸で生まれた双子にとって、魔物に人間が食われることは悲劇であってもありうることだった。それは弱肉強食という自然の摂理で、怒りの対象となっても、憎悪することではなかった。仕方がない、という諦念が根底にはあったのだ。
だがこれは赦されざる行いだ。
「アマリー、殺してあげましょう」
あらゆる感情は限界を突き抜けて、逆に冷静になったサフィニアは静かにそう言った。
必ずしも死は絶望にはならない。時に救いにもなるのだということを理解した。
これはサフィニアの身勝手な偽善行為だ。決して褒められるべき、尊い行いではない。
それでも殺してあげるべきだと、それが肉塊として生まれたそれらへの最大の救いだと判断した。
「ああ、そうだな」
アマリリスは特に反論もせず、サフィニアの言葉に従ってくれた。
痛みや苦しみを、ただの一瞬でさえ感じないように、魔術を行使する。そのサフィニアの意図さえ、アマリリスは無言のうちに察してくれていた。
ほぼ同時に、まったく同じ魔術が広範囲に渡って使用された。
「「《還れ》」」
砂塵が、舞う。
それまで生きた肉塊であったものたちは、一瞬にして灰となり、そこに灰の山を築いた。
いつか、生物の亡骸は永い時を掛けて自然へと還る。その概念を元に、生物の細胞の成長を無理矢理促進させて、朽ち果てさせるという魔術だ。
あまりに簡単に滅びをもたらす術式のため、禁術指定にされて、封印された魔術だ。本来は帝国が厳重に管理する禁書にしか記述されておらず、その存在を知る者はほとんどいない。かつて帝国で最高の魔術師であった両親には、その禁書の閲覧が許されていた。
両親が何を考えていくつもの禁術を幼い双子に教えたのかは分からないが、サフィニアとてこんな場所で役に立つとは思っていなかった。
サフィニアはしばし瞑目し、たった今塵に還したものたちの冥福を祈った。
くしゃくしゃ、と不意に慣れた温もりに頭を撫でられる。
サフィニアは泣きそうに顔を歪ませて、傍らの温もりにすがった。
「たぶん、ここだけじゃない。このだだっ広い地下空間には、ああいう存在が、たくさんいるんだ」
ここにいたものたちを眠らせるだけでは、意味がないのだ。
言外にそう、告げられた。
「……ねえ、アマリー。はやく、終わらせよう」
「……そうだな」
両肩に、アマリリスの手が乗せられる。
その腕の力強さに、サフィニアはついすがってしまう。
こんな、哀しいものは見たくない。でも見てしまったからには、見ぬふりはできないのだ。
この時、サフィニアが敵の魔術師を殺す理由が、ひとつ増えた。