第三十三話:狂人の真実
――神とは何か?
その疑問に彼が囚われたのは、十代半ばにして魔術の基礎理論を自分の中で確立させた頃だった。
彼はこの世に生誕した時から他者とは何かが違っていた。何もしなくても鋭い目つきが印象的な、そこそこ端麗な容姿をしていた。見た目ではそこまで他者と違いはなかった。だが、少し話してみれば誰もが理解せずにはいられなかった。
彼と他者は、比喩ではなく、見ているものがあまりに違いすぎる。
実際に彼の目には、他者が見ることができない世界の理の一部が見えていた。
魔術。
それは世界を構成する原子の配合を組み換え、自然を意のままに操る術である。
その術を考案し、人類にその栄光を与えた彼は世界を一つの魔術の形として捉えていた。その一部を書き換えることでほんの少し、望む幸運や事象を引き寄せる――それが彼の創った魔術だった。
魔術の術式とは、世界を構成する原子――魔素――の配合の組み合わせを指している。数式を操るようにその配合を操れば、魔術は現象として世界に顕現するのだ。
彼が他者より特別だったのは、生誕した時から当たり前のように、その魔素を視界に認識していたという一点に尽きる。
いくつもの光の粒子が、彼の視界の中で踊っていた。
それを彼は当然のように見て、触れて、その法則性を見出し――魔術と言う人類の新境地に至った。
つまり彼にとって人類史上最高の発見と言われる魔術は、発見するまでもなく、そこにあったものだった。彼が生まれた時から知っていたものが、明かされたに過ぎない。彼自身が研究して、発見した成果ではないのだ。
だから彼は、世間の人々が魔術の存在に驚愕し――いつしかその発見を讃え出しても、少しも面白くは感じていなかった。
つまらない。
ただそう感じていただけだった。
彼にとって魔術の研究とは、単なるパズル遊び程度の認識だった。魔術を偉大なる発見と称して褒め称えるのは、子どもがパズルを完成させて自慢しているような、そんな小さいものとして映っていた。
その認識は彼の長い生涯の中で一度も変わらなかったけれども。
彼が魔術に執心するようになったのは、世界の理と言える魔術を理解するよりもっと理解の難しいものを押し付けられてしまったからだった。
初めに言ったのは誰だったか。
『神さま……?』
確か、小さな女の子だったように思う。
初めて魔術を使って、獣に襲われて大怪我をした女の子を癒した時。死の淵から生還した女の子はぼんやりとした眼差しで彼を見て、そのような言葉を漏らした。
それは大怪我の直後の、単なる世迷いごとに過ぎないはずだった。
だが少女は奇跡的な生還の後、きらきらと輝く眼で彼の後をひょこひょこと付いて来るようになった。どれだけ彼が少女を疎んでも、変わらない崇拝の眼差しで、彼を『神さま』と呼んだ。
そしてそれは少女だけに留まらなかった。
彼の魔術を異端視し、恐れた者は当然のようにいたけれど。
それと同じくらい、彼を『神』と呼んで崇めた人は多く現れた。
より強き者に従う――そんな時代の流れの中で、彼は自然と人々の上へ祭り上げられていった。
あまりにも周囲が狂信的に彼を『神』として扱うから、彼は疑問に抱いてしまった。
――神とは何なのか?
少し普通から外れただけで人間性を否定されてしまった彼の、当然と言えば当然の疑問だった。彼は自分が他者と同じ“人間”だと知っていたから、なおさら自分に押し付けられる偶像の正体を知りたがった。
この頃、多くの人が彼を魔術の神と崇めたことよって、元から他者と隔絶されていた彼は、より一層高みに引き上げられ、孤独になっていった。
いつしか、彼は出会う人々に問うようになった。
『お前にとって、神とは何だ?』
ある人は世界を創り給うた至高の存在だと言った。
ある人は人間を救済してくれる尊い存在だと説いた。
ある人はとても無慈悲な存在だと罵った。
ある人はそんなものは存在しない、まやかしだと断言した。
ある人は絶対的に正しい存在だと語った。
ある人は何よりも強く、すべての頂点に立つ存在だと憧れていた。
ある人は世界そのものが神だと信じていた。
ある人は神を永遠不滅の存在だと夢想した。
ある人は何でも知っている万能の存在だと推測していた。
ある人は不平等を創り、平等に何もしてくれない存在だと吐き捨てた。
彼にもたらされた答えは人によって千差万別だった。
どれだけ他者の答えを聞いても、彼はそれに納得できずに――いつの間にか、疑問は目的へとすり替わる。
人々が言う『神』が何なのか、理解できないまま。
それでも刷り込みのように、彼は『神』になろうとした。
自分で自分の、人間性を否定した。
それから彼は『神』になるためにあらゆる偉業を成した。
時にその魔術で多くの人の命を救い、感謝された。
時にその魔術で新たな生命を創り出してみた。
時にその魔術で世界の真理を覗いて、知恵を得た。
時にその魔術で不老不死の存在になってみた。
いろんなことを繰り返して、実験して、もうすぐ齢四十年を迎える頃に、彼は絶えず何かを求めてくる他者たちに、ついに愛想を尽かした。
彼を盲信する信者たちは、彼に理想的な教主であることや困窮した我が身の救済を願い続けた。それは対価のない奉仕の要求だった。そうでなければ、彼の魔術の才を取り込み、利用しようとする者ばかり。
いつも彼の周りには醜い他者の欲望と我が儘が渦巻いていた。
何より、彼にはその全てを叶え得る才能と技術があったことが災いしたのだろう。それらは留まることを知らず、彼は孤独を深めて行った。
『つまらん』
そして彼は全身に巣食う倦怠感のままに、そう吐き捨てていた。
どんなに鬼才を授かり万能になっても、彼は聖人君子ではない。多少の我慢強さはあっても、あれもこれもと願望ばかり押し付けてくる他者に飽き飽きしないはずがなかった。
彼は心底から疲れ果てていたのだ。
だから彼は誰の引き留める声も聴かず、全てをあっさりと捨て去った。それはごみを汚物箱に捨てるように、侮蔑を込めた、彼なりの抗議を示した捨て去り方だった。
その日。彼が人々にもたらした恵みは、それを当たり前のように教授する人々に牙を剥いた。
それまで彼に手綱を握られて大人しかった魔物たちは、その凶暴性を活性化させて人々を襲い主食とし始めた。各国の防衛の要となっていた魔導具は効力を失い、各国に混乱を招いた。
何より、崇め奉る者を見失った人々は希望を一気に失った。
彼の力によって発展した魔術文明の大半は機能を停止し、民間の生活にまで支障が出るほどで、そこに魔物の脅威が加われば、当時在った国の数々が崩壊していくのも早かった。
三十年近い月日を注いで彼がもたらした栄光の全ては、彼の手によって一瞬で破壊の限りを尽くされたのだ。
彼は人生の中で救ってきた人々の数だけ、人々を虐殺せしめた。――ただ何もせず、自分の創った異空間に隠居を決めるというそれだけの行為で。
『あっけない。これが三十年も掛けて、人間の願望を叶え続けた結果か。本当に……くだらないではないか』
異空間から狂乱する人々の姿を目の当たりにしながら、彼の胸中に浮かび上がったのは、果てない虚無感と脱力であった。それまでの全てを台無しにされたどころか、無価値のものだったと気づいた故の空しさだった。
それから彼は異空間に引き籠り、魔術の研究を続けた。もはや彼には魔術しか、自分の時間を使う対象が残されていなかった。
神になる。彼がまだ若い頃に定めた目的は、その意味も価値も失ってもなお、彼の研究の原動力になり続けていた。
他者の言うとおりに『神』を演じてみても、駄目だった。彼の周りに人は集まり、尊敬や思慕を受けても、彼にとって本当に価値あるものには成り得なかったのだ。
友人と呼べる人間も、血の繋がった家族と呼ぶべき人間もいた。
だが彼らは最後まで彼の孤独に気づかず、彼と同じ視点を得ることも、理解してくれることもなかった。
そんな彼にとって最大限に皮肉なことに、彼の生涯唯一の理解者とも呼ぶべき存在は、自分本位の研究の末に生み出された存在だった。
ただ自分のためだけに、異空間の中で『神』のごとく絶対者として君臨し始めて百年と少し。
人並みの知恵を持って生まれた魔物がいた。ソレは双子の魔物の片割れで、同族嫌悪なのか、生まれた瞬間から対の魔物と争っていた。
『お前は何を“神”だと規定する?』
ある時、かつて周囲の人々に聞いて回ったように彼は知性を持ったソレに尋ねた。
数多くの人間の返答は聞き飽きるほど知っていたが、自分の生み出したものに尋ねたのは初めてのことだった。ただ単純に、今まで人間の言葉を理解して話せるほど知性に特化した魔物がいなかったからだ。
ソレは迷わず即答した。
『我らにとっての神は、まさにお前だ』
ある意味、当たり前すぎる返答だった。逆にソレがそれ以外の返答を持ち合わせていないことも、彼は理解していた。全ての魔物が、創造主の彼を『神』と崇めるのはごく当然のことだろう。
ならば、と彼はさらに問うた。
『お前らの神であるところの、わたしの神は何だ?』
これにもソレは淡々と素直な見解を述べてきた。
『お前が一番に信じるものだろう』
『それがお前の定義か。その論で行くとわたしの神はわたし、ということか』
『もしくはお前を超える者か』
『……わたしを超える!? はっ、ははははははは、面白いことを言う! わたしを超える者など、千年経とうと現れはしない!!』
本当にその見解は可笑しかった。
もしも、と彼は自虐的な考えに侵されながら思ったものだ。
もしも、彼を超える者が現れていたら、彼はずっと早くに『神』になることを諦めていた。そうすれば、また別の未来の選択肢もあったのかもしれない――と。
だが仮想の未来に意味はない。彼はすでに引き返せないところまで、正体の分からない渇望に塗れながら、突き進んできてしまった。
もう彼自身でさえ、目的を見失ってしまって、過去の妄執を引き継いでいくことしかできなくなっていた。
『……足りんな。この程度の世界を支配しただけでは――まったく足りんのだ』
だから、自分を誤魔化すためにそう言って研究に没頭するしかなかった。
ソレは他の魔物と同様に研究所の周囲の森の中で暮らしていたが、よく研究所にのっそりと現れては、彼が研究に没入する様を眺めていた。
時にソレは、独り言のように何かを尋ねてきた。
『我らが尊き創造主よ、お前はこれ以上何を望む?』
『もう、手に入れられるものは、手に入れ尽くしただろうに』
『何故、我らの同胞を創り続ける?』
『我らでは、お前の望みを叶えられぬ』
ソレは静かに彼を観察して、創造主たる存在を理解しようと努めているようだった。まるで人の子が、親に愛を請うかのように。ソレは彼から何かを引き出そうとしていた。
彼にとってソレの言葉はいちいち的を射ていて、痛いものだった。
それでも、彼をそこまで理解できた存在は長すぎる人生の中でソレだけだった。
『何を求めているか、だと……? そんなもの、わたしにも分かりはしない』
自分でも理解できない強い渇望と飢えが、ずっと彼の中には巣食っていた。全てを捨てて異空間に引き籠ってから、その渇きは強烈さを増して彼の精神を蝕んだ。その渇きを癒すために魔術に没頭し、人々の望む『神』の姿を真似てみたが、日に日に強くなっていく、何かの熱望。
彼はずっと、自分の求めるものの正体を見極めきれていなかった。だからいつも、ぎらぎらとした眼差しで何かを探していた。
そうして、数百年の月日を過ごした。
『神』になる過程で不老不死になった彼には無限の年月が残されていた。彼の肉体は最盛期であった二十代半ばの機能を保ったまま、それ以上成長することはない。ともすれば何年でも食事と排泄を忘れて生きられる、生物を超越した肉体を保持していた。
肉体に変化がなくても、精神は異なる。もともと疲労を蓄積していた彼の精神は、長い年月の中で確かに擦り減っていた。
だから彼が不意に自ら、その生に終止符を打ったのはごく自然なことで、むしろ遅すぎたくらいだ。
『お前も死ぬのか』
数百年、姿を見ていなかったソレは、ふらりと姿を現した彼を見て意外そうに言った。ソレの目に映る自分の姿は、肉体的に対して変わっていないはずなのに、とても老いて見えた。
『神』になろうとして、『神』になったはずの彼は、何故か普通の年老いた人間と似たような末路を辿ってきたように思えた。
『満足したか、我らが創造主よ』
『さて……どうだろうな』
満足感など彼はかつて一度も感じたことはない。
たくさんの、人間の身に余るほどの事を成してなお、渇望は癒えていない。
しかし、不意に終わりにしようと思い至った時から、何故か彼はほっと安堵に似た安らぎを覚えていた。もう何もしなくていい、そう思えば長く身体を拘束していた鎖が外れたような、開放感を抱いた。
『これが、今生の別れか』
異空間内の全ての生き物に、長い沈黙を与える封印の魔術を掛けながら、彼はソレの言葉にかすかな笑みを浮かべた。
目の前の魔物が、彼との別れを惜しんでくれていることが、とても意外で――嬉しかった。
結局、長い生涯の中でも彼を一個の人格として認めてくれたのは、ソレしかいなかったのだ。
誰もが彼を理解し得ない天才と、自ら線を引いて、彼の傍に寄ろうとしなかった。そのくせ、自らの願望ばかり押し付けて叶えてもらおうとするばかりで、嫌気が差した。
ソレだけが、彼に何も求めようとはしなかった。
『お前ならば、わたしの生む世界の先にまで届くかもしれん』
『お前の世界の先だと?』
『その目で見てくるがいい、そして刻め。――わたしが残す世界の先を』
彼はもう、ここで生を閉じる。ここから先の未来を歩むことはない。
しかし、目の前の魔物なら彼が欲しくて欲しくて、でもその正体さえ見極められなかったものを得らるかもしれないと思った。
彼が行けなかった境地まで足を伸ばすのではないかと、根拠もなく考えた。
だからソレに施した封印の魔術は意図的に綻びを作っておいた。ソレが魔術の綻びを突いて目覚めるも良し、彼と一緒に深淵の眠りに囚われて朽ちていくも良し。
ここから先の未来の道筋は、滅びゆく彼の感知するところではない。
『何故、我らを生かした?』
ソレが不思議そうに、淡々とした声音で最期に尋ねてくる。
彼は深い眠りに落ち行くソレをじっと無表情で眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
『なに、旅の道連れが欲しかっただけさ』
一人、孤独に埋もれているのに飽き飽きした。そんな想いもあったけれど――
ただ自ら生み出した“子どもたち”を、かつてのようにあっさりと捨て去れなかっただけのこと。自分の至れなかった未来へ、至って欲しいと思っただけのこと。
多くの老人が後進に後を託すように、彼も魔物たちに先の未来を託しただけなのだ。
その、何と普通な感傷であることか。
そうして彼は自ら創った異空間の研究所で、いつか訪れる死の時まで、永遠に覚めない眠りに就いたのだ。
*****
熱い。ぼんやりする。
初めに頭の隅で認識したのはそんなことだった。ぐわんぐわん、と耳元で鐘でも鳴らされた時のような酩酊感と頭痛が意識を支配している。酷い風邪をひいて、高熱にうなされて目を覚ました時のようだ。
うっすらとまぶたを開けて、霞がかった不明瞭な視界を確認する。
最近では大怪我を負うことも日常茶飯事で、体調の悪さを誤魔化すことも珍しくはない。それでも今回の気分の悪さは普通ではなく、これはまたサフィニアに怒られるなと思った。
双子の神秘と言うべきか、本当に調子が悪い時は、あの片割れにきちんと伝わってしまうものだから。
数十秒の間、アマリリスはそうして半覚醒状態でぼんやりとしていた。
しかし、不意に自分が意識を失う直前の状況を思い出して、はっと一瞬にして意識が明瞭になる。
サフィニアとゲイルの三人で、無数の魔物が眠る異空間に突入したこと。
そこに建つ、ロドラルゴの研究所に侵入し、その遺体を発見したこと。
その偉人の血に触れて、一瞬で意識を刈り取られたこと。
それらを把握した後のアマリリスの行動は早かった。そのまま身体は動かさずに、半目状態だった目を閉じて、周囲の気配を窺う。
そこにはあの、呼吸さえ阻害する巨大な魔力の気配はなかった。厳密には人間の生存が可能な程度には魔力濃度が下がっているようであった。
もし、あのままロドラルゴの遺体の前で倒れ伏したままだったら、いずれ魔力中毒を起こして永遠の眠りに就いていたかもしれない。
誰がアマリリスの身体を運んだのか知れないが、そこだけは感謝しなければなるまい。
(サフィー、ではないな)
一瞬、サフィニアとゲイルが助けてくれたのかと考えたが、すぐに否定する。
近くに馴染んだ気配も感覚に捉えられなかったし、何より両手を拘束する金属の感覚がそれを否定する。目を閉じているため、形状は判然とはしないが、両手を広げて吊り下げる形で拘束されているらしい。足は膝立ちの状態で投げ出されている。
これまで気絶して脱力状態だったため、両肩に掛かっている負荷がとんでもない。燃えるように両肩が熱く、また麻痺したように感覚が痺れていた。
この分では刻印式の魔術はしばらく使えないだろう。少なくとも、治癒の魔術で癒さない限りは。
そうなるとアマリリスを捕えたのはただ一人、この異空間を好き勝手にしている敵の魔術師だけだ。
(あー、失敗したなぁ)
ロドラルゴの遺体の前で倒れていたアマリリスを捕えるのは簡単だっただろう。むしろ、鎖に拘束されるだけでまだ目立った危害を加えられていないのが、不幸中の幸いだった。
アマリリスは周囲に他者の気配がないと判断し、意を決してかっと両目を開く。その口は自然と身を守るための魔術を唱えていた。
「《守護せよ》」
対魔術攻撃、対物理攻撃、どちらにも効果のある魔術を詠唱を省略して最短で練り上げる。あまり持続性はないが一瞬だけならドラゴンのブレスさえ防ぐという、一撃を防ぐのに特化した魔術だ。
さっと魔術の発動を確認して周囲に目を凝らす。ひとまず、目に見える範囲に人影は見当たらない。
「っ……ぅ」
アマリリスは俊敏に立ち上がり、その場でふらふらと強烈な眩暈に襲われてまた膝を突く。熱を帯びた両肩は脱力し、まともに動かすことはできそうにない。
思いの外、体力を消耗している自分自身の状態に、危機感を覚えた。
本来魔術師は口を塞がれれば、簡単に無力化できる存在だ。それをアマリリスは刻印式の魔術と武術を習うことで、その弱点を補ってきた。
アマリリスは魔術師の中でも際立って前衛的で、活動的なタイプと言える。逆にサフィニアは魔術技術を極め、無詠唱をすることで弱点を回避しようとした。
だが現状では刻印式の魔術は封印され、機敏に動くこともできない。まさに普通の魔術師と同じような状態に、アマリリスは陥っていた。
そのことが心許なく、アマリリスの危機感をあおるのだ。
ほとんど根気だけで立ち上がり、アマリリスはもう一度周囲を見回し、自分の腕を拘束するものを認める。
ずいぶんと錆びついた鉄の拘束具だった。どちらも鎖が近くの壁に取り付けられて、囚人が遠くまでいけない寸法になっている。
(これなら、魔術でどうにかなる……か?)
本当に不思議なのは、魔術対策というものが全然されていないことだった。魔術師相手に両手首を拘束しただけで、口元を縛ってもいない。拘束具や周囲に魔術的な仕掛けをしているわけでもなさそうだ。
本気でアマリリスを捕えておく気があるのか、不思議になるほどである。
アマリリスは内心で小首を傾げながら、魔術を紡ぐ。
「《破壊せよ》」
ぱきん、と音がしてあっけなく手枷は破壊された。からんと音を立てて地面に転がり、アマリリスの両腕は解放されて重力に従い落ちる。
もう動く気力さえ、根こそぎ奪われたような気分になるが、すぐに両肩には治癒の魔術を施した。それだけで熱は冷めてずいぶんと楽になる。
はぁ、と零れそうになる重いため息をアマリリスは必死に我慢した。
(それでここはどこ、)
「っ……!?」
ずきん、と頭に酷い痛みが走った。それは痛みに耐性のあるアマリリスが思わず息を呑んで、その場に座り込んでしまうほどの衝撃である。
ぐるぐると意識が回る。
ココ ハ ドコ ?
ココ ハ …… オレ ハ …… ?
「く、そ、がぁっ!!」
ぎりっと奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締め、アマリリスはまだ怠さの残る右腕を力の限り地面に叩き付けた。がん、と地面に振動が響いて右腕に鋭い痛みが走る。
その痛覚がアマリリスの遠ざかりつつあった意識を繋ぎとめた。
「呑、まれて、たまるかっつーの!」
その感覚には覚えがあった。アマリリスの人格を押し流し、意識の端から浸蝕してしまおうとする高熱の波。それは遠くない過去にも体験したものだ。
そう、『真理の渦』で余りの情報量に発狂しそうになった時と同じ感覚だ。
ただし今回は幸いなことに、アマリリスが意識を隅に保っておけるくらいには頭に流れ込む情報量は『真理の渦』に比べて少ないものだった。
アマリリスは冷たい床に寝そべって、荒い息で根気強く耐える。
どれだけ時間が経ったか、アマリリスはごちゃごちゃに頭にぶち込まれた情報を整理し始めて、ようやく一息吐くことができた。
「あー、なる、ほど。そ……いう、仕組み、か」
かすれた声を出して、アマリリスは自分を見失わないように、自分の考えを認識する。
アマリリスの頭の中にはたくさんの情報、赤の他人の記憶が埋め込まれていた。それはかつて、ジャン=ピエール=ロドラルゴと呼ばわれた偉人の記憶の断片である。
その記憶に寄れば、ロドラルゴはその鬼才に反比例するように幸運に見放されていたようだ。彼の人生において、その功績こそ華やいだものばかりだったが、彼自身は幸せを感じたことが微塵もないようである。
深い孤独と虚無感。最期まで彼に纏わりついたそれらが、記憶を受け継いだアマリリスの心まで浸蝕してくる。
全ては、アマリリスがロドラルゴの遺体に付着した血に触れたことが原因だ。その血を媒体に、アマリリスはロドラルゴの生体情報をその記憶まで含めて読み取ってしまった。
そして今、その膨大な情報量に押しつぶされかけたというわけである。
あー、うー、とアマリリスは小さく呻きながらその場で転がり回る。そうしているうちに、ゆっくりと飽和した頭と消耗した体力が元の状態に戻っていく。
「さて、と……そろそろ行くかぁ」
大分落ち着いたところで、アマリリスは今度こそ立ち上がって次の行動に出ることにする。取り敢えず、この異空間のどこかにいるはずの敵魔術師を見つけなければならない。
できることなら無力化して――と、そこまで考えた時だった。
ぞわり、と未だかつて感じたことない強い悪寒が背筋を張った。反射的にその場で臨戦態勢を取って、気持ちの悪い気配のする方向を見る。
「っお前が……!」
いつの間に、近づいたのか。
建物の壁の影に隠れるようにして、一つの人影があった。黒色のフードを深くかぶり、ひょろっと線の細い身体をしている。アマリリスが蹴れば、それだけで死んでしまいそうな身体だ。
だがその気配は、とてもちぐはぐで印象的だった。その身から感じる魔力の気配は初級魔術師がせいぜいと言った小さな気配なのに、周囲を威圧する雰囲気はとてつもなく強大で―――ロドラルゴのそれとよく似ていた。
たった今、ロドラルゴの記憶を認識したアマリリスには、その気配が自分とよく似たものにも感じられて、とても気味が悪い。まるで自分の偽物にでも出会ったみたいだ。
アマリリスは嫌悪に顔を歪め、そのフードの男を睨み付ける。
この男こそ、アマリリスたちが倒しに来た敵魔術師に違いなかった。
にぃ、とフードから覗く乾き切った唇が弧を描くのが、見えた。