第三十二話:聖遺物
アマリリス視点です。
雲ひとつ、星影すら見いだせないのっぺりとした灰銀色の世界では、まるで現実味が感じられない。それは普段から現実として認識している常識が、ここには何一つ通じないからだ。
文字通り、異空間。ここを自分たちが暮らしてきた世界と同じ世界だと認識してはならない。
魔力の歪からロドラルゴの造った異空間に渡ってそう時も経たないうちに、アマリリスは自然と認識を改めずにはいられなかった。
息を潜め、気配を殺して、乱立する木々の間を疾走していく。
時折、自分が通ったことを示すために、短剣で木に派手な傷を付けておく。
「またか」
アマリリスは走る速度を落とし、ぽつりと横目にとあるものを確認してつぶやく。
幼子が眠るように、身体を丸めて微動だにしない巨体の影。荒れ放題に生い茂った新緑に隠れるようにして、複数の魔物が眠りに就いていた。
異空間の内を走り廻っていれば、同じような光景を何度も見かけた。
初めはアマリリスも魔物たちを警戒して慎重に動いていたが、すぐに生半可なことでは目覚めないことが分かった。――例え、魔術で直接攻撃しても目覚めないかもしれない。
そのように、彼らは命令されているから。
ジャン=ピエール=ロドラルゴ
その偉大さと強大さは、いまだにこの異空間にまざまざと刻みつけられている。
あらかじめ、この異空間のことはテンテンから聞き出していた。その地に、いまだに眠りから覚めない魔物たちが大量に居座っていることも、事前情報にあったのだ。
(まぁ、実際に見てみると半端ないな……こりゃ)
アマリリスはざざざっと草薮を突っ切りながら、つい冷や汗を掻いてしまう。
自分たちは天才だと思っていた。
実際にそれは、客観的な事実に基づくもので誤りではない。アマリリスとサフィニアを天才と言えないなら、世の多くの魔術師は無能となるだろう。
だがロドラルゴは天才というレベルではないのだ。
あながち、ロドラルゴが神になろうとしたという説も嘘ではないかもしれない。それが可能に想えるほどには、ロドラルゴの才は常軌を逸した――鬼才だった。
『我らにとってあやつは、我らを創造せしめた父であり……神だった』
テンテンがロドラルゴを語ったその言葉が、不意に耳の奥に蘇ってきた。
その声からは確かに、生みの親への畏怖や敬意が感じられたのだ。
アマリリスには神に至らんとした偉人の考えなどさっぱり分からないが、その偉人が一から創り上げた未知の異空間の脅威だけは、はっきりとその時に感じた。
魔物騒動さえ関わっていなければ、こんな異空間にはたとえ存在を知っていても、近寄らないところである。それが身を安全には一番だ。
そのような想いがあるせいか、アマリリスは異空間に押し入ってからずっと、ざわざわと落ち着かない感覚を味わっていた。
「っと、見つけた」
アマリリスは意識の端に目的のものを察知して、大きく足元をたんっと蹴り上げた。身体強化した脚力によって、地面が抉れて土砂が伸びた雑草に掛かる。
一瞬にしてアマリリスは背の高い木の太い幹に足を付け、とんとん拍子に幹を蹴って木の頂上に上って行く。異空間に生えた木々はどれも五メルを超える身長を持った大樹ばかりだ。てっぺんまで上るのも、なかなか楽ではない。
ばさっと枝を払いのけ、アマリリスは灰銀色の空を仰ぎ見た。
「こりゃあ、役に立ちそうにねぇなあ」
その視線の先、一ヶ所だけ不自然に灰銀色の空は渦を巻くように歪んでいた。異空間の天井部にできた奇妙な渦巻きは、見入っているとつい吸い込まれてしまいそうな気分になる。
それはアマリリスたちが異空間に侵入した場所にもあったもの。――異空間にできた綻びだった。
その綻びの先に何があるのか、アマリリスでは推し量れない。アマリリスたちが侵入した岩場の綻びは、あの魔力の歪に繋がる通路として機能している。同じように他の綻びもまた、どこか別の場所に繋がっているはずだ。
その先が海であれ、どこかの上空であれ、洞窟の中であれ、アマリリスたちにとって重要なのは、とにかく別の空間に繋がっていると言う事実である。
「……にしても、多い。これで八つ目だぞ?」
空間の綻びから目を離し、アマリリスは樹の上から辺りを見回す。背の高い木の上から辺りを見回すと、広い異空間の内が一気に展望できる。
四方八方、とにかく木々が連なった広大な森だった。遠くの方に鬱蒼とした山と、剥き出しの高い崖が見える以外は全て平坦に森ばかりが視界を埋め尽くす。とにかく新緑が目立ち、時折ぱっと立ちはだかる崖や山以外の起伏のない土地柄である。
だが一点だけ、ぽっかりとできた染みのように新緑のない場所があった。アマリリスから見て西の方角に、巨大な円をくりぬいたようにそこだけ自然が排除されている。
そこが、ロドラルゴの遺した研究所のある位置だとアマリリスは知っていた。
「どっちにしろ、ここからは遠すぎるから当てにはできないみたいだな」
アマリリスは目を眇めて、そうつぶやく。
この異空間に侵入してから、アマリリスは単独行動に出ている。サフィニアとゲイルは別のルートであのロドラルゴの研究所に向かっているはずだ。
若干遠回りしながらも、三人は研究所周辺の土地を用心深く調べていた。その中で特に目に留まったのが異空間のあちこちに生まれた綻びである。その綻びがどこか別の空間に繋がっているなら、いざという時の緊急脱出口にならないかと考えたのだ。
どこに繋がるか分からない、という不安は付き纏う。だが背に腹は代えられない状況に陥れば、あとさきなど考えずに飛び込むだろう。
何にしろ、大抵の状況は覆せる実力を三人は持っているから大丈夫だろうという楽観視もあった。
そして、アマリリスが異空間で見つけた綻びは今回のもので八つ目にあたる。
別の道から目的地に向かうサフィニアたちも、同じくらいの綻びを見つけているように思われた。
「取り敢えず、座標だけでも記憶しておいて……次行くか」
いつでも転移して来られるように、その場所の座標だけはきちんと確認しておく。ただ上空にある綻びを逃走経路として使うことは、優先順位的としてかなり低いだろう。
アマリリスは最後にロトラルゴの研究所跡地の方角を確認して、とんっと軽く足場となった幹から飛び降りた。がさがさっと細い枝を折りながら、軽やかに大地に着地する。
常時身体強化の魔術を発動させているから、十メルの高さからでも無事に飛び降りられる。
アマリリスはまた空間の綻びを探しつつ、ロドラルゴの研究所跡地へ歩を向けた。
******
灰銀色の空の下、森を切り開かれてぽつんとできた空白地帯に建てられた白亜の建物は、もう千年以上もそこに君臨しているのを忘れてしまいそうなほど真新しく頑丈に見えた。真新しいとは言っても、年月の中で多少薄鼠色に変色した部分もあるが、一見して数年程度の時間の経過しか感じさせない。
何より不自然なのは、きっちりと長方形に造られた研究所には窓も扉もないことだ。でん、とよく意味の理解できない近代的芸術品がこしらえてあるかのようだ。
だがテンテンから、この白亜の長方形の建造物が確かにロドラルゴの研究所であることは聞き及んでいた。
(まぁ、相手がロドラルゴと思えばおかしくも何ともないが……困った)
逃走経路の確認を終えて、サフィニアとゲイルに先んじて研究所にたどり着いたアマリリスは、眉を寄せて足元の建造物を腕組みしながら見下ろしていた。
とりあえず、到着してすぐに研究所の周囲を一周し、さらに屋上まで昇ってきてみたが、出入り口は見つからない。
ロドラルゴはわざわざ毎回魔術で研究所に出入りしていたのか。魔術の無駄遣いと思うべきか、それほど魔術を日常的に捉えていた才を買うべきか。アマリリスはほんの少し、思い悩む。
双子の家とて、地下に出入り口なしの研究所を造っているが、あれは第三者の介入を警戒しての措置である。だがロドラルゴとその創造物――魔物以外の存在を許容しないこの世界で、他者の介入を警戒する意味もはずだ。
「しかも、何だよこの結界。めちゃくちゃ強固じゃん」
その場にしゃがみこんで、こんこんと足元の素材を拳で軽く叩く。
その手に伝わる感触から、長方形の研究所を覆うように内部から強固な結界が張られていることが分かる。さすがはロドラルゴと言うべきか、双子では結界を解くことはできそうにない。二人で渾身の魔力を放出して強引に結界を崩壊させれば別だが、その後魔力切れで動けなくなること請け合いだった。
ただし、幸か不幸か、研究所内部に侵入するのにそれほどの手間はかかりそうにない。どちらかと言えば、脱出する際に難儀する手合いの結界である。
(つまり研究所から出しちゃいけねーもんがあるってことだ)
「どうしたもんかねえ」
表面的に建造物を破壊するのは簡単だが、それは目立つ上に結局のところ結界が立ち塞がることに変わりはない。
とは言え、真下の研究所に魔物騒動の根源となる魔術師が出入りしていることを考えれば、どこかに抜け道は存在するのだろう。相手の魔術師が最初の予想通り初級魔術師か、高等魔術師かは相対してみるまで分からないが。
ふむ、としばしアマリリスはその場で考え込み。
「ま、取り敢えず潜入するか」
あっさりと考えることを放棄した。
今回の異空間潜入に関して、三人は綿密な計画性というものを欠いている。そもそも異空間内部の情報が皆無の状況で、何か計画を立てようにも無理がある。臨機応変、それが今回の目標にして全てだ。必死に手だてを現段階で組み立てるより、時間を大事にしたい。
無論、無茶と無謀の区別くらいはしているつもりだ。
アマリリスはすっと白色の足元に指を躍らせた。古語がそこに刻まれ、力を持つ。
《透過》
刻印式の魔術を選択したのは正確さを重視したからだ。アマリリスは異空間に潜入してから、微妙に魔術の効き目が強くなっているように感じていた。サフィニアに確認は取っていないが、ロドラルゴの造った場所だから、そのような特性を持っていてもおかしくはない。
そして、微妙な感覚の差は魔術の失敗を招きかねない要素だ。特にサフィニアほど魔術に長けていないアマリリスには、詠唱式より刻印式の方が性に合っていた。
「よっと」
ぐわん、と足元が不安定にうねり揺れる。硬い感触を足裏に伝えてきていた建造物の屋上が、波打つように一瞬たわんだのだ。
次の瞬間、すとんっとアマリリスの身体は真下に落下していた。研究所内部に張られた結界も素通りして、簡単に研究所の中に侵入を果たす。
幸いにして真下には障害物も何も無かったらしく、綺麗にアマリリスは着地を決めた。
《点火》
まず視界に入ったのは、ねっとりと淀んだ闇色だった。灰銀色の空の下は充分に暗く陰っていたが、研究所内は一寸先も見えない本物の闇が覆っていた。
素早く指を走らせ、目の前に光源を生み出す。ぽっと明々と輝く火の玉がいくつも宙に浮いて、アマリリスの身辺を照らした。
「こりゃまた、汚ねーな」
アマリリスの降り立った部屋はさほど広くないが、足の踏み場もないほどに古紙や妙な機材がばらまかれ積まれていた。まさに放置された研究所という有様で、空気も乾き埃があちこちにたまっている。
たまらず口元を手で覆い、むずむずし始めた鼻を押さえる。
ぐるりと部屋の内部を見回して、アマリリスはすぐ足元に落ちた古紙を一枚拾った。火の玉に照らして見ると、乱雑な古代語が綴られている。
いかんせん千年以上も経つと文字も変化しているため、すべては判読できない。だが千年以上前に使われていた古代語は古語と共通点もあり、部分的には解読できる。
「……これ、魔術の構造式の考察か?」
ぽつぽつと魔術の術式に関する専門用語を見つけて、首を傾げる。二、三枚同じく周囲から拾い集めた古紙も似たようなもので、魔術を生み出したロドラルゴの研究所にはふさわしいものに見えた。
アマリリスもロドラルゴの遺した資料に興味がないでもない。ロドラルゴに関する資料は他の賢者たちと比べて極端に少ない。見る者によっては、この場所はお宝の山だろう。
とっさに、目を輝かせるサフィニアの姿を脳裏に浮かべ、苦笑が漏れる。
だがアマリリスは目的を忘れるつもりも、警戒を怠るつもりもなく、あっさりと古紙を手放した。
(何だ?)
ふと、妙な予感を覚えて視線を動かした先に気になるものを捉える。
それは火の玉に照らし出された平坦な床に刻まれた細い線だった。それが部屋を抜け、廊下の方まで続いている。
アマリリスにはそれが、魔導具に刻む古語や魔術の構造式のように見えた。あるいはゲイルがその場にいたなら、古代遺跡の魔方陣の線にそっくりだと思っただろう。
アマリリスは慎重に足元のものを踏まないように気を付けながら、その線を追って行くことにする。
他人の研究所とは厄介なもので、迂闊に何かに触れればそれがきっかけで爆発が起きたり、罠に嵌ることもある。そこは古代遺跡も同じだが、古代遺跡なら専門家の発掘家でも連れて慎重に攻略するものだろう。この場に旅の道連れとする専門家の一人や二人、いないことが残念でならなかった。
ギィと半開きの扉を手で押し開け、火の玉をぞろぞろ連れて廊下に出る。
人が三人ほど並んで歩けるほどの廊下は、すっと横に続いている。正面には薄汚れた壁が廊下に添って続いている。だが最も目を引くのは、その壁に刻まれたいくつもの線や古語を模した柄である。複雑に絡み合って一種の芸術的作品になったそれは、アマリリスに自宅を想い起こさせた。
「つまり研究所自体がひとつの魔導具になってるのか」
アマリリスには床や壁を覆う術式の効果のほどは分からない。それでも、必死に建てた自宅が幼稚に見えるくらいには、研究所の魔法陣が完璧で高度な技術の下に成り立っていることが分かった。
そっと、壁に刻まれた模様に手を伸ばす。
後から考えれば、不用心すぎたその行為はやはり、アマリリスが魔術師としてロドラルゴの才に圧倒され魅了されていた証拠なのだろう。
ばちっと伸ばした指は劇物に触れたように激しく弾かれた。
「っ……いてぇ」
引き戻した指先は、どろっと血を溢れさせ肌をただれさせていた。ぴりぴりとまだ指先に鋭く残る感覚は濃密な魔力のものである。研究所に施された術式とロドラルゴの魔力に、部外者のアマリリスは弾かれたのだ。
アマリリスは無言で治癒の魔術を使い、怪我を治す。それでもロドラルゴの魔力がしつこく指先の感覚を麻痺させていた。
とにかく、出来る限りにおいて研究所に刻まれた術式の模様には触れない方が良さそうだと判断して、廊下を歩きだす。幸いにして足元にはあまり術式も刻まれていない。
一見したところ廊下に面して、他に三つの扉があった。そのうちの二つの扉を開けて中を軽く覗いてみたが、初めに侵入した部屋と似たように資料が散乱している有様だった。
(つーか、ずいぶんと生活感のない場所だな)
この研究所にロドラルゴは何百年も引き籠っていたと言う。また少なくとも魔物騒動の主犯は、この研究所に出入りしているはずだ。それなのに人の住んでいる気配が、さっぱりと感じられない。まさに手つかずに見えた。
アマリリスは不審を募らせながらも、最後に残った扉を押し開く。火の玉で部屋の中を照らしだして、つい驚きが口を出た。
「え……?」
その部屋は拍子抜けしてしまうほどに、何もなかった。他の三つの小部屋と違い、大広間と呼んでいい開けた空間だけが存在していた。床にまき散らされた古紙や古書も、機材も家具も何もない。
だだっ広い、がらんと空虚な空間に見えた。
だがアマリリスは一歩、部屋に踏み込んだ瞬間にひゅっと息を呑んだ。
「……!!」
ずしり、と全身に伸し掛かる圧迫感に足がその場に縫いとめられる。宙に浮いたいくつもの火の玉がゆらっと不安定に揺れて、消えそうになる。
アマリリスの見開かれた両目はただ一点に注がれていた。
他のどの部屋よりも、そこの魔力は濃厚で呼吸を阻害する。あの魔力の歪並の魔力濃度の中で、いまだに魔力の歪対策に造った魔導具が発動していたことが、不幸中の幸いだった。そうでなければアマリリスでも、気絶しかねない。
ぐるぐると部屋に渦巻く魔力の中心点。真っ暗闇の中でも不思議と目が引き付けられ、何かがあることが分かった。
アマリリスはあえぐように口をぱくぱくと開閉させ、意を決してそちらへ近づく。
(っすげえ、重圧)
身体を振動させる度に、過度の重圧とびりびりとした感触が肌を刺激する。魔力に当てられた身体は一秒ごとに力を失い、さらに肌はちりちりと焼けて赤くなる。
この場所で、アマリリスは絶対に魔術を行使できなかった。身体を意のままに動かすことも難しい。魔術を使えば間違いなく暴発し、派手に動けば体力を持って行かれる。
恐怖。背筋を這う悪寒。止まらない冷や汗。
かつて『真理の渦』で自我の崩壊に追い込まれた時に匹敵する畏れが、ひしひしと身に迫っていた。それは自分より格上の存在に対する本能的な恐怖だった。
今すぐにでも逃げ出したい。
そう、思っているのに。
アマリリスの足は止まらない。
「……、……」
――“彼”は魔術に埋もれるようにして、常しえの眠りに就いていた。
いつの間にか、足元の床は変質して磨かれたダイヤモンドのように透明に、ごつごつした材質に変化していた。その透明な岩石と一体化するようにして、“彼”は両手を胸の前に交差させて眠っている。
痩せこけた頬。
雪より真っ白な肌。
深い苦悩を表す皺の数々。
濃緑の魔術師が着る立派なローブ。
そして何より、異空間によく馴染んだ化け物じみた魔力。
《魔術の始祖》ジャン=ピエール=ロドラルゴ――“彼”はかつての姿のまま、深淵の眠りに就いていた。
しばらく、驚愕のあまり死体のようにぴくりともできなかった。
呼吸さえ止めて。限界まで見開いた瞳孔に“彼”を焼き付ける。
正確には“彼”が死んでいるのか、仮死状態なのか、ただ眠っているだけなのか、アマリリスには判断できない。触れてみればまた違うだろうが、とうてい手を伸ばそうとは思えない。
“彼”と一体化した透明の岩石は、魔力結晶――あまりに純度の高い魔力に長く当てられた物体が変質してできる魔力化石の一種だ。とても貴重で、ヒトカケラに凄まじいエネルギーを蓄えている。ヒトカケラで魔力動力機関が休みなく百年は動かせるそうだ。
アマリリスは畏敬のためか、“彼”の身体から漏れる魔力の渦のためか、がくがくと震わせた膝から崩れ落ちる。
もともとテンテンから、この異空間がロドラルゴが終生を過ごした土地だと聞かされていた。ロドラルゴ自身がどこで死んだのか、そこまでは知らないが“彼”はきっと死んでいる、と。
だが研究所にその遺体――と言っていいのか分からないが――が安置されているとは思っていなかった。異空間のどこかに偉人にふさわしい墓標でも建っていると思っていた。
――聖遺物
現代の者たちがロドラルゴの遺体に名を打つなら、そう呼ぶだろう。
“彼”は魔物を生み出し大陸に血を振らせた一方で、千年以上も続く魔術文明の始祖である。しかもいまだに人類は彼一人の偉業に追いつく成果を見せていないのなら、なおさらだ。
聖人と呼ぶには気狂いすぎる研究者だ。
だが魔術を志す者なら誰でも“彼”に憧れざるを得ない。いかに魔術が高度な技術と才を必要とし、その改良や新天地を生み出すことが難しいことを知っているから。
アマリリスとて、魔術を極める者として、“彼”の姿に畏敬を抱かずにはいられないのだ。
(え?)
腰を抜かしてへたりこんだことで、アマリリスはあることに気が付いた。気付いていしまえば、もう視線は剥がせない。
“彼”の胸の前で交差した腕の手首の部分に、まだ真新しく見える傷跡があった。濃緑のローブの袖に隠れてしまいそうな、小さな引っ掻き傷のようなものだ。
しかし、もう何百年も眠っている者に血の跡があるのは何故か。
アマリリスは小首を傾げて、はっとある可能性にたどり着いた。
「ま、さか」
テンテンが妙なこと言っていたのを思い出す。
異空間に侵入した魔物騒動の主犯たる男は、その貧弱な魔力の才に似合わぬ気配を宿していたそうだ。その侵入者から創造主たるロドラルゴの魔力の気配がした、と。
だからこそ、異空間内で強制的に眠りから覚めた魔物たちは侵入者の命令に唯々諾々と従うしかなかった。
その不可解な現象とロドラルゴの傷が、結びつくならば。
(血の、命令か!)
大陸では、高等魔術師は時に自分の血を持って使い魔に命令を与えるらしい。たいていにおいて、魔術師と使い魔の距離が離れている時や他者が使い魔を使役する時に用いる詐欺的な方法だ。
つまり血には命令作用がある。
その血を以て、魔物たちが命令されたら従わずにいられないだろう。
何故ならそれは創造主の委任状を与えられたようなもの。それに逆らうことは創造主に逆らうことだ。
そう考えれば、すべてに納得がいく。ある程度の不可解な謎も簡単に解けてしまう。
アマリリスは唇を噛んで、険しく“彼”の傷を見据えた。
(あいつは怒り狂うだろうな)
今も魔力の歪で対となる魔物と生死を賭けた闘争に望んでいるだろう、テンテン。
彼の魔物は創造主のこんな姿を見れば、きっと怒り狂い、侵入者へ憎悪を燃やすことだろう。
この場所を荒らすことは、墓荒らしと何ら変わりない行為なのだ。
それを認識した上で、アマリリスは覚悟を決めてそっと手を伸ばした。みっともなく指先を小刻みに震わせながら、それでも自分たちの利己のために。
アマリリスの指先が、“彼”の血液に触れる。
バチッ、バチバチィッと凄まじい火花が脳裏を過ぎ去った。びくっと全身が衝撃に跳ね上がり、意識がガツンと殴られる。
備えもなく全ての衝撃を受け止めて。
アマリリスは意識を闇に落とす。
ただなんとなく、『真理の渦』で体験したものと同じ熱を感じた気がした。