第三十一話:魔の生まれた地
サフィニア視点です。
ずさぁっと剥き出しの大地をえぐる音が何度も耳朶を叩く。呼吸が苦しく感じられるほど早く傍をすり抜けていく空気は、湿った森特有の匂いを孕んでいた。身体が上下に繰り返し激しく揺れ、暴れ馬でも乗りこなしているかのような感覚に陥る。
サフィニアはぎゅっと風で乾く眼を閉じ、目の前に座るアマリリスの腹に回した両腕に力を込める。
アマリリスは同じ激しい揺れの中でも平然として体勢を崩す様子はない。サフィニアより遥かに余裕のある態度で周囲の警戒に努めていた。だからすぐにサフィニアの些細な変化に気付くのだ。
ぱっと瞼を上げると、アマリリスの蒼海の瞳と視線が交差する。
「大丈夫か? 振り落とされそうなら、速度を落としてもらおう」
「ううん、まだ行けるよ」
これくらいで参るわけにはいかない。
そう、サフィニアは唇を噛み締めて首を横に振る。
アマリリスと正反対に、サフィニアは身体能力が劣っている。それは長年魔術の研究だけに没頭し、作家として執筆活動で机にべったり張り付く生活を送って来たからには当然である。サフィニアとて身体強化の魔術を自分に施せないわけではないが、アマリリスほど自分の肉体をなめらかに動かせないのだ。せいぜい力が多少強くなって、動体視力が上がるだけだろう。
ほとんど魔術に依存しているサフィニアには、純粋な運動がとても難しい。
それはただ、飛ぶように走る獣の背に座っているだけでも。
サフィニアは今、本来の巨躯を露わにしたテンテンの背に乗っていた。
その前にアマリリスが同じようにテンテンにまたがって、鋭い目つきで凄まじい速さで後方に流れていく周囲に意識を張り巡らせている。
さらにサフィニアの後ろにはゲイルの巨体まで収まり、見ることは叶わないがそちらからもぴんと張った緊迫感がひしひしと伝わってくる。
一方で、三人を背に乗せるテンテンはまるで重さなど感じていないような速さで、乱立する木々の隙間を駆け抜け、茂みに遠慮なく特攻し、一歩ごとに土砂を撒き散らしながら森を疾駆している。その身から溢れる魔力は時間と共に刺々しく変化し続け、殺気すら帯びてきている。
しかし、何よりサフィニアを圧迫しているのは彼らの放つ空気ではなく、肌にねっとりと絡み付く濃厚な魔力の気配だった。常人なら一息で窒息してしまう魔力濃度の中で、魔力酔いにならないよう意識を保つのは難しい。例え魔導具で身を護っていても、やはり息苦しいのだ。
――“魔力の歪”
王都の西区に広がる、前人未踏の森。
その奥に隠されたテンテンたち魔物の生地の入口を目指して、サフィニアたちは西区の魔の森に足を踏み入れていた。高濃度の魔力を内包する森は今にもサフィニアたちを取り込み、大地の肥やしにしてしまいかねない脅威を秘めている。
現在、魔の森でサフィニアたちの身を守っているのは、ここ三日間で作り上げた即興の魔導具である。今回はサフィニアも製作に協力したそれは、前回アマリリスが一人で魔の森に特攻した際に使ったペンダント型魔導具と同種のものだ。
その魔導具は術者の体表に結界を密着させ、内側に術者の魔力を高濃度のまま纏わせている。これは事前に魔導具に必要な魔力を込めておかなければならないため、昨日までにたっぷりと魔力を魔導具にため込んでいる。その際にゲイルが魔力切れで何度も気絶していたのは、まだ記憶に新しい。
双子にとって何てことはない魔力量も、一般平均的な魔力量しか持たないゲイルにはきつい。だが魔導具に魔力を充填しないわけにはいかず、双子の魔術で無理矢理何度もゲイルの魔力を回復させて充填させた。
白目を剥いて気絶、双子の魔術で回復、魔力の充填を計七回繰り返したところで魔導具に魔力は満たされた。一気にげっそりと頬を痩せこけさせたゲイルは、息も絶え絶えに二度とやりたくないと宣言していた。
その魔導具はきちんと役目を果たしているが、やはり凶悪な魔力は肌にぴりぴりと突き刺さってきて身を圧迫していた。
グルルルルッ
不意に、三人を乗せて運ぶテンテンが剣呑な唸りを上げた。
それに一瞬遅れてはっとサフィニアたちも気づく。
「っ……来た!」
アマリリスがぐんぐんと距離を縮める前方を睨んで叫ぶ。
森の凝った闇の中に潜んだ、金色の双眸。薄汚れて見える毛並はテンテンと同じ赤銅色で、すらりと伸びた四肢の形までテンテンとそっくりだ。ただ一つ、その金色に灯る猛りには原始的な怒りや憎悪という欲望があるだけで、知性の色が見られないのが違いだった。
ぐっとテンテンの走る速度が上がる。
爛々と激しい殺気を帯びた目で、テンテンは一心に自身の片割れに向かっていく。
『さぁ、今こそ決着をつけようぞっ!!』
凄まじい二つの咆哮がびりびりと世界を震わせた。
同時に二体の魔物が上げた威嚇の声は、物理的な衝撃を伴って二者の中間地点でぶつかってはじけ飛ぶ。その余波が木々を倒さんばかりの勢いで、四方八方に飛んでいく。
ぐっとサフィニアは呻いて、しっかりアマリリスの腹に絡み付かせた腕が離れそうになるのを感じて戦慄する。
そのまま背の三人を忘れて特攻しようとするテンテンに、アマリリスが怒声を上げた。
「おいこらっ、俺たちを先に降ろしやがれ!!」
忌々しそうな唸り声がサフィニアの耳にかろうじて届いた瞬間。
ぶんっと物でも振り回すようにテンテンは身体をねじらせ、背の三人を空中に勢いよく投げ出した。
「っきゃああああ!」
「うわぁっ」
「っ……この、馬鹿!」
三者三様の悲鳴を上げながら、空中をつかの間滑空する。だが木々の茂った森の中を飛べば、ばさばさばさっとすぐに身体に葉や枝が当たって鞭打ったような痛みが広がる。
サフィニアは咄嗟に目を瞑り、次に続く衝撃に身を恐怖で硬直させるしかない。
だがアマリリスは宙に踊った瞬間にサフィニアの腰を片手で引き寄せ、自分と同じくらいの体重のサフィニアを軽々と横抱きにしていた。そのまま空中で体勢を整えて、ざざざぁっと地面を滑って着地する。
そのすぐ隣に、ゲイルもすとんと綺麗に着地した。
「くそっ、もっと丁寧に扱えよな!」
「いや、聞こえてなさそうだぞ……?」
アマリリスが悪態を吐き、ゲイルは呆れた風にさっそく殺し合いを始めた二体の魔物を見守る。
そこでやっとサフィニアもおそるおそる目を開き、ほっと安堵する。アマリリスに降ろしてもらって、ふらふらと心許ない動作で大地に足を踏みしめた。
王都の地面に敷き詰められた石畳と違って柔らかい土の感触が、足の裏に新鮮だった。
「サフィー、大丈夫か?」
「う、うん。ありがとう、アマリー」
「無理はするなよ? 目的地に着くまでに体力を消費してちゃあ、何もできないからな」
「まだ本当に大丈夫だから。ここから歩くでしょ?」
アマリリスは辺りの薄暗い景色を見回す。
三人は魔の森の中にあるというロドラルゴの造った異空間への入口に向かっている。そこを知るのは、前回たまたまその場所を知ったアマリリスだけである。
ゲイルも同じように周囲を見渡し、顔をしかめる。
「っとに、嫌な空気をしてやがる。急ごうぜ、これ以上無駄に魔導具の魔力を消費したくない」
「ああ、お前には死活問題だろーなぁ」
にやりとアマリリスは笑って、ゲイルはうんざりとした顔を隠さない。
ペンダント型魔導具は中に込められた魔力の分しか効果を発揮しない。定期的に魔力を補充できるならともかく、今から敵の根城に向かおうという時に、無駄に魔力を消費するのは得策ではない。
帰りの分の魔力を残しておく必要もあり、早急に魔の森を抜けなければならなかった。テンテンの言い分では、異空間の中はそれほど自然魔力も溜まっておらず、人間でも活動できる余地はあるらしい。
サフィニアはほど近い場所から届く、二体の魔物の衝突に目を向け、息を呑んだ。
(……駄目だ)
あの戦いに、サフィニアでは踏み込むことができない。
二体の魔物が衝突する度に暴風が吹き荒れて、葉や枝をめちゃめちゃに巻き上げる。身体強化の魔術が効いていても、二体の魔物を正確に細くすることはできない。唸り声ひとつで世界が震え、その鉤爪が振るわれるたびに土砂が舞う。
本当に、テンテンと敵対することがなくてよかったと心底から実感してしまった。
「サフィー、行こう」
「あ……。うん」
アマリリスに手を引かれて、はっと我に返った。
そのまま三人は二体の魔物を放置して、アマリリスを先鋒に歩き出した。誰もが無言で周囲を警戒し、闘いに備えている。
魔の森は茂った木々に頭上を完璧に覆い尽くされ、真夏でも太陽光が地面まで届かない。雨粒さえも、遠慮するようにぱらぱらとしか落ちてこないのだ。それだけ視界は不明瞭で、嗅覚はじめっとした土の匂いとくらっとくる魔力に惑われて頼りにならない。
魔の森では第六感的な直観だけが頼りだが、サフィニアにそんな直観は当てにできない。ゲイルやアマリリスには実戦経験があり、経験から気配や雰囲気で魔物が傍に来ると何となく分かるようだった。
こと魔の森での戦闘において、サフィニアはまったく役に立てなかった。
(それは悔しいけど。……役割分担なんだ)
たった三人で伝説の魔術師――ロドラルゴの遺した魔物の生地に乗り込もうと言うのだ。ここに来るまでに何度も綿密に計画を練ってきた。
三人の中でもサフィニアは実戦経験が少なく、咄嗟の判断力に劣る。それでもこと魔術においては三人の中で誰よりも抜きんでた実力を持っているのも確かだ。
あとはそれを、適格な状況下で生かせばいい。
サフィニアはきゅっと唇を噛み締めて、前だけを見据えて一歩一歩踏み出す。たとえどんな不安があっても、サフィニアは彼らに付いて行かなければならない。
「……来る」
アマリリスが足を止め、低くつぶやいた。さっとその手が腰に巻いた剣帯に伸びて、ナイフ形の魔導具を抜く。そのナイフを構えて、アマリリスはちらりと視線をゲイルに向けた。
ゲイルはすでに神剣を抜いて、アマリリスと視線を交わした瞬間に飛び出していた。
「オークね」
「うん。でもゲイルが何とかするよ」
双子の視線の先に、鬱蒼と茂る草葉に紛れる濃緑の肌をした三体の魔物が、ギャッギャッと不快な鳴き声を上げていた。そのぎらぎらと光る眼は久方ぶりに見る人間――獲物を射抜き、どすどすと鈍重な身体を操って襲い掛かろうとしている。
だが双子が何かをする前に、森の中とは思えないほど静かに疾走して近づいたゲイルが、一体目のオークの首を神剣で切り飛ばした。オークが反応を見せる前に、二体目の首も飛ぶ。三体目のオークが初めて驚きのような表情を見せ、次の瞬間には三体目のオークも首を刎ねられていた。
どさどさっとオークたちの身体が音を立てて大地に倒れ伏した。
ゲイルの抜いた、神剣の白刃は薄闇の中でも光を浴びたように輝いて見えた。
「さっすが、神剣だな。こういう場所で一番、効果的だ」
アマリリスがナイフを構えた手を下ろし、感心した顔で言う。
神剣を鞘に戻したゲイルが振り返り、にっと口角を上げた。
「そりゃあ、そのために造られた武器だからな」
遠い祖国のある大陸の一角を占める神聖帝国だけが生み出せる、神剣。その技術の詳しいところは極秘とされ、祖国でも噂に効く程度にしか伝わってこなかった。
神剣は魔を滅することに特化した剣だ。神剣に込められた力は魔力を払い、魔力を生命の根源とする魔物にとって致命傷を与える。
本来なら、あれほど簡単に魔物の首を斬り飛ばすことはできない。全ての魔物は身の内の魔力で身体を強化し、肌の表面を硬化させているからだ。
だからアマリリスの魔導具でもあれほど見事に魔物を切り伏せられない。
こと対魔物戦において最適化されたとも言える神剣だが、大陸の魔物戦でなかなか活用される機会がなかったのは、致命的な欠陥構造があるからだ。
「あとはこいつに回数制限がなければなぁ」
ゲイルが首を横に大きく振って、大げさに嘆いて見せた。
アマリリスとサフィニアも彼が腰に佩いた神剣を眺めて、同時にため息を吐く。神剣は魔物戦において心強いようで、心許ない微妙な要素として双子の目には映っていた。
神剣には厳格な使用制限がある。神剣に宿った魔を絶つための力――神聖力が刀身に宿る限りにおいて、神剣はその圧倒的な力を発揮する。逆を言えば、神剣の神聖力が消費されてしまえば、神剣はただの剣、それも恐ろしく切れ味の悪い剣に変化してしまうのだ。
そうなってしまえば、神剣はただなまくら、鈍器にしかならない。
魔剣にも似たような制約はあり、刀身に宿った魔力が消えればただの剣に戻る。だが魔剣は常に周囲の空間に漂う自然魔力から補給し、よほどの大技を使わない限り魔剣の魔力は消耗されない。また魔力を失っても、剣としての能力は保障されているのだ。
一方で神聖力は明かされていない点が多く、神聖力がどこから補充されるのか、いまだに神聖帝国の外には知られていない。神剣も、放置していたらなまくらから元の真剣に戻っていた、という始末である。
そのような不審かつ使い勝手の悪さが目立った結果、魔物退治にどれほど有効な力を持っていても、大陸で神剣は普及しなかった。
「ゲイルは何で神剣を使うの?」
「……あれ、何かずいぶんいまさらな質問だなぁ」
「ちょっと聞きそびれていたのよね」
サフィニアが不思議そうに問いかけると、ゲイルは呆れたような顔をする。だが、大した理由じゃないぞ、と前置きをしてあっさりと双子に教えてくれた。
「単に、こいつに使い慣れっちまっただけなんだ。俺の子どもの頃の師匠が神剣使いで、帝国の出身だったもんだから、戦い方は全部神剣を使ったものばっかり教わった。俺とこの神剣の相性が良いっていう理由で、俺も師匠に武術を教えてもらってたし」
「へぇ……相性なんてあるのか?」
「あるぞ。神剣は魔剣より癖が強いからな、人によっては神剣をまったく扱えねえこともある。ことによっちゃあ、神剣でもただのなまくら同然だ。相性次第で神剣の威力も変わるんだよ」
「それで、ゲイルは相性が良かったと」
「この神剣には、だけど。他の神剣にはあんまり適正がなかったみたいだぞ」
ゲイルはとんとん、と腰に佩いた神剣の柄を軽く叩く。
鍛冶師として興味を持たずにいられないアマリリスは食い入るように神剣を凝視し、ゲイルの話に真剣に耳を傾けていた。
だが神剣の裏話を論じている状況でもないので、アマリリスは名残惜しそうに神剣を一瞥して話に区切りを打つ。ゲイルも神剣の柄から手を離さないまま、また周囲に警戒を向け始めた。
「まだ他の魔物が隠れてるかもしれないから、気を付けて行こう」
「ああ。この森は特に、魔物にとって隠れやすいだろうからなぁ」
アマリリスとゲイルが森の木陰を睨むように見回すのを確認して、サフィニアはそっと尋ねた。
「ん……、アマリー、距離はもう少し?」
「ああ。それほど離れちゃいない」
「じゃあ、急ぎましょうよ」
「そうだな。行こう」
またアマリリスを先導に、慎重な足取りで三人は森の奥へ分け入っていく。
魔力の歪は、通常より膨大な魔力を一ヶ所に溜め込んでできあがる場所だ。本来、魔物を捉える鍵となる魔物特有の魔力も、森の保有する魔力で覆い隠されてしまう。
だから三人は魔術に頼らず、純粋な気配察知のみで魔物を確認しなければならない。
そして異空間から何体の魔物が逃げ出し、森を彷徨っているのか確認できない現在、魔物と遭遇する前に目的地に到着したいところだった。
あくまでも今回の目的は、魔物たちの生地である異空間をどうにかして、そこに居座る魔術師に対処することなのだから。
それから目的地まで、幸いにも新たな魔物に遭遇することはなかった。
*****
一目見た瞬間、そこが明らかにおかしいと分かった。
視界に入る風景だけなら、今まで通り過ぎてきた森の一部であり、目立った変化もない場所である。魔術師でなければ、何も気づかずに素通りしてしまうだろう。
だが魔術師の端くれなら誰でも、その異変に気付かずにはいられない。
人間の精神を侵すほど濃密な魔力溜まり――魔力の歪の中にあって、そこの魔力の薄さは異様であった。そこだけが、ぽっかりと抉られたように残留する自然魔力が少ないのだ。
少ないとは言っても、一般人なら間違いなく魔力酔いを起こし、魔力の歪ならおかしくない程度の魔力はきちんと漂っている。
しかし、そこに足を踏み入れた途端にサフィニアは身体にかかる重圧が減ったのを肌で感じられた。すなわちそれが、他との魔力量の差を如実に表している。
アマリリスは一番自然魔力の薄い地点で足を止め、サフィニアとゲイルを振り返った。
「分かっての通り、ここが異空間との接点だ。四日前に一度、異空間への“道”が開いてるから、まだ辺りの自然魔力も回復しきってないんだろ。……まぁ、これだけ回復してる時点で驚異的だけど」
あの時は根こそぎ奪われてたからな、とアマリリスは辺りを見回しながらつぶやく。
サフィニアは話こそ事前に聞いていたものの、改めて周囲の魔力の薄まった範囲を確認して冷や汗が滲んでくるのを感じた。
異空間の発生は人類の歴史上、一つか二つの発見しかされていない稀少な自然現象だ。古い文献に数行程度の記述しか確認されていないそれは、いかなる条件でどこに出現するか、未解明のまま放置されてきた。
その未知に挑もうとしていることも、サフィニアたちにとっては非常識で、無茶苦茶なことだった。
それなのに、“道”を繋ぐだけで魔力の歪の中でも特級の力を蓄えたこの森の魔力が、一部とはいえ根こそぎ奪われるなど、想像もできないことだ。
その先にある異空間がどうなっているのかなど、想像もしたくない。
サフィニアでなくても、怖気づくのは当たり前の話であった。
(駄目、落ち着かなきゃ)
自分の中に拭い去れない恐れが凝っていることに気付き、サフィニアは深呼吸をして気を鎮める。
惑わされてはいけない。
もし、本当に無理だと信じ込んでしまったら――ここから一歩も動けなくなってしまう。
そしてそれは、サフィニアたちには許されないことだった。
「でも……良かった。まだ十分に“道”の跡は残ってるね。これなら異空間をこじ開けられるわ」
「そうだな。下手したら、座標も分からないんじゃないかと思ってたんだが……案外、はっきり見える」
双子の視線は、アマリリスが足を止めた地点の斜め頭上に向けられている。
そこは四日前に件の魔術師が異空間への“道”を開いた場所である。他と比べて一層、保有する魔力が薄く、何よりぽつぽつと糸のように細く伸びた魔力がどこか、ここではない場所に向かって伸びている。
その糸は双子が転移の魔術を使用した際にも残る、異なる空間同士を繋げた時にできる痕跡だ。その糸を辿った先に、異空間はある。そして糸の先に座標を固定すれば、双子にも充分に異空間への入口をこじ開けることはできるだろう。
普通転移の魔術の場合、その痕跡たる魔力の道筋は半刻足らずで消滅する。しかし、異空間と世界を繋げるほどの大技を使うなら、一日二日では痕跡も消滅しないだろうと、あらかじめ双子は予想していた。
結果としては、四日経った現在でも双子の予想を裏切るほどはっきりと痕跡は残っている。
「それじゃあ、“道”を繋ぐよ。二人とも、準備はいい?」
サフィニアが表情を引き締めて問う。
アマリリスとゲイルは互いに顔を見合わせて、頼もしく頷いた。
「いつでもばっちりだぞ」
「俺も。――頼むよ、サフィー」
片割れの言葉に背を押され、サフィニアは一度瞑目する。
不思議と、先ほどまで胸の隅に巣食っていた怖れは消えていた。これから自分が行うことへの過剰な気負いもなく、波紋ひとつない水面のように静かな心境だ。
それはいつも、魔術と向き合う時に身体を支配する感覚だった。どんなに失敗しても、研究が上手くいかなくても、真剣に魔術に集中している時はすべてが気にならない。
ただ魔術の術式とそれを探究する自我のみが、そこに確立されている。
「よしっ」
気合いを入れて、まぶたを上げる。
身体の内側の膨大な魔力が、サフィニアの意志に添って活性化される。頭の中には自然と、異空間と世界を繋ぐために必要な術式がすらすらと生まれてくる。
それは膨大な数式の計算であり、魔術式の組み合わせの計算である。
「《我、ここに在りし時の縁を手繰り求めん》
《座標:隔絶された異空間》
《縁の欠片、縒り結びて門と成せ》
――発動、《繋げ》!!」
その場で造り上げた魔術が、形を持って現実に事象を確立させるのが感覚として分かった。細く伸びる魔術の糸を辿って、その先の異空間の座標を確かに捉える。
サフィニアの足元に直径8メルに及ぶ巨大な魔方陣が浮かび上がった。三人の視界に入る限りの周辺から、ごっそりとしか表現できないほど急激に魔力が収集され、魔方陣に全て吸収される。
充分すぎる魔力の供給を受けて、サフィニアの手繰り寄せた“道”は再び開かれる。
びきびき、と空間が真っ二つに割けた。やがてぱっくりと開いた口の奥に途方もない闇がのぞき、その暗中に向かって一本の魔力の道筋が魔術で示される。
サフィニアは魔術が安定した瞬間を狙って、叫んだ。
「今! 飛び込んでっ」
正規の方法を経ずに無理矢理こじ開けた異空間への入口は、とても不安定で長い間維持できるものではない。ある程度はサフィニアの制御で何とかなるが、それとてわずかな時間だ。
びち、と一度口を開けた闇が自然の摂理に則って今にも閉じようとし始める。
それを魔術の感触から理解して、サフィニアは自分も慌てて闇の中に身を投じた。
アマリリスとゲイルは一歩先んじて、サフィニアの叫びが響いた次の瞬間にはすでに何の躊躇いもなく闇に飛び込んでいた。
「サフィー、急げ!」
ふわっとした足場の不安定さについ、暗闇で動きを止めたサフィニアを先に待っていたアマリリスが叱咤する。ぐいっと左腕をつかまれて、弾かれたように走り出したアマリリスに必死に付いて走り出す。
魔術の示す“道”を順当にたどれば、異空間に到達できる。だがサフィニアが魔術で維持した入口が閉じる前にあちら側に到達しできなければ、三人は永遠に異空間と世界の狭間を彷徨うことになりかねない危険性があった。 魔術を維持するサフィニアには、入口がぎちぎちと急速に閉ざされていく感覚がまざまざと伝わってくる。それだけに、足は転びそうなほど速くなる。
ぱんっと柔らかい壁をぶち抜いたような、奇妙な感覚がした。
「えっ?」
「ああっ!?」
「おい、嘘だろうっ」
異空間に到達した、と理解する前に三人は驚愕にそれぞれ声を上げた。
追われるようにして全力疾走してきた三人の足元が、すかっとそれは見事に宙を切ったのだ。三人が飛び出した場所に安定した足場はなく、一歩踏み外せば転がり落ちてしまう、岩盤の崖があった。
魔術を使う暇もなく、サフィニアは唖然となったまま硬そうな巨大な岩に顔面から叩きつけられそうになる。
「くっそ、最悪だな!」
「まったくだ!」
ぐいっとテンテンに放り出された時のように、サフィニアはアマリリスに空中で抱え込まれる。アマリリスの舌打ちせんばかりの悪態が耳のすぐ側で吐かれた。
アマリリスは体勢を微妙に崩しながら、階段を数段飛ばしで降りるようにとん、とん、とん、と岩場に軽く足をつけて勢いのまま、大地に転がり下りる。あまりの勢いに、水平な地面に両足が着いてから体勢を大幅に崩し、半ば倒れ込むように地面に膝を突いた。
そんな状態でも、サフィニアだけは怪我のないように抱え込んでいるから凄い。
一方のゲイルは上手く着地を決められず、一度岩場に足を滑らせて頭を強かに打ったようだった。
「あいててて、頭が割れっちまう」
「いや、頭は割れてねえ、血もでてねえぞ。たんこぶはできてそうだけど」
さっとサフィニアを腕から降ろして立ち上がったアマリリスが、冷静にゲイルを観察して言う。
ゲイルは頭を打った割に血は出ていないようで、本人も痛がってはいるものの、大した怪我を負ったわけでもなさそうだった。
それを確認して安心すると少し余裕もできて、サフィニアは無事に足を踏み込めた異空間に目を向けた。
「ここが……魔物たちの、生地」
ごくり、とサフィニアは息を呑んでいた。
三人の頭上に、雲のひとつも星も太陽もない――灰銀色の空が広がっていた。