第二十九話:つぎはぎ人形
アマリリス視点です。
燦々と降り注ぐ太陽光がまぶしい。最近はめっきり雨の気配を見せない青空の下、アマリリスは王都の中心に向かって歩いている。すっかり身も清め、昨日の大怪我の名残は見た目には現れていない。それでも、春の暑さを感じさせるほどの日差しを浴びて、まだ寒いと感じるほどには、アマリリスの身体は疲労を蓄積していた。
アマリリスの歩む速度は普段と変わらずよどみない。その表情も、多少の疲れはうかがえるものの微々たるもので、傍目には生き生きとしてさえ見えるだろう。
たとえ、その足が今にも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうなほど弱弱しい力しか残っていなくても。アマリリスはそうして虚勢を張るのだ。
立ち止まっては、いられないから。
庶民の住宅が密集する南区から、活気あふれる王都の中央へ、道は差し掛かる。年季の入った煉瓦造りの小さな橋を渡れば、地図上は王都の中央区へ足を踏み入れることになる。そこから徐々に店が増えていき、やがて王城が近くなるほど良質な店舗が増えていく。
固い石畳の感触を足裏に確かめながら、アマリリスは王城の足元に位置する工房に行く前に、王城への大通りから逸れて建物の隙間にできた小道に入った。多くの人が見逃してしまう道に、するりとアマリリスの身体は滑り込んで、太陽の日差しも遮られる。
その細さと暗さから、不気味な雰囲気を宿した裏道の先に板の看板が立てかけられた扉があった。板の看板には白い絵の具で歪んだビンが描かれ、その中にはぴんぴんと緑色の草が飛び跳ねている。これはこの国で医療院や医者を示す絵図である。しかし、医者は貴重な存在で、本来なら大通りに向けて大々的にアピールしている方が自然だ。こんな裏道に隠れるようにして店を構える者は、たとえ医者であっても後ろ暗い場所であることは容易に想像が付く。
アマリリスはその扉へ、躊躇うことなく近づいた。木製の古臭い扉の前に立ち、コンコンコンと三度ノックして心持ち大きい声で言う。
「壊れたつぎはぎ人形、手足を縫いにきた」
まったくもって唐突で意味不明な言葉だが、これは合言葉である。その証拠に、数秒の後に内側から扉は会場されて開かれた。立てかけられていた看板が扉に合わせて、ばたんと地面に倒れ込む。
のっそりと建物の中から姿を現したのは、眉間に深いしわを刻んだ老人だった。白の混ざった長い頭髪を首後ろでまとめ、薄汚れた白衣を着ている。
老人はじろじろとアマリリスを眺め、毒づくように言った。
「またお前か、つぎはぎ人形め。今度はどこに怪我をした?」
「ちょっとばかし風邪を引いてね、薬が欲しい」
「風邪だと? もっとマシな嘘を考えるんだな」
「あいにく、そんな余裕もない」
老人はふんっと鼻を鳴らし、顎をしゃくらせて部屋の奥を示す。中に入れ、という意味だろう。そのまま、くるりと背を向けて薄暗い部屋の中にさっさと引っ込んでいく。
アマリリスは苦笑を浮かべ、老人の背に付いていった。その際に倒れた立て看板を元に戻し、扉の施錠も忘れない。
窓のひとつもない部屋は薄暗く、あちこちに火を灯らせたランプはかろうじて足元を照らしている。外は晴天の真昼間なのに、その部屋だけは夜のようだった。
老人は一人、別の部屋へ入っていく。アマリリスはその場所に留まり、適当に放置された丸椅子に腰を下ろした。何度もお世話になっているから、玄関入口から入ってすぐの部屋が患者の治療所だということは分かっていた。
丸椅子に腰を下ろすと途端に全身が重石になったように感じる。治癒の魔術で怪我事態はほとんど治っていても、根底にある疲労はまるで抜け落ちていないのだ。
はぁ、と苦しげなため息が口から漏れた。
「今回は特に酷いみたいだな」
「……あぁ、うん。さすがに俺の身体もまいってきてるよ」
「馬鹿を言え。お前の身体はとっくにずたぼろだろうが」
「そりゃそうなんだけどさ」
医療品を詰めた箱を持って戻ってきた老人の言葉に、アマリリスは困ったような弱弱しい表情を見せる。老人が近くの家具の上に医療品の箱を置くのを見て、適当に着てきた男ものの衣服に手を掛ける。その動作さえも面倒だったが、複雑な構造をした女ものの衣服よりは簡単に脱げる。
アマリリスには女としての羞恥心や意識があまりない。自分の性別が女であることは認識していても、女らしさを自分に求めたことは祖国を追われてから一度もなかった。
子どもの頃、上流階級のお嬢様としての教育を受けたことなど、誰も想像できないだろう。
一枚、長袖を脱ぐと胸にさらしを巻いた上半身が露わになる。
年齢が上がるに連れて、アマリリスの身体はサフィニアと同様に女らしい丸みを帯びたしなやかな身体に変化してきた。それはどれほどアマリリスが男らしかろうと容赦ない、自然の理である。
アマリリスも自らの性別を否定する気はないが、時に女らしい身体つきは邪魔にしか思えない。魔術で身体能力を大幅に補助できていなければ、自分がどれほど自らの性別を恨んだか、気は知れない。
老人はじっと丸椅子に座って静止するアマリリスの身体を、真剣な眼差しで診ていく。時に直に触れたり、質問を投げかけたりしたが、基本的に二人の間に流れる空気はとても静かだった。
「まったく、何をすればこうなる? こりゃ、相当強い薬を使わなきゃならんぞ」
「まぁ、覚悟はできてるって」
「愚か者め、それは覚悟とは言わん。若いうちから破滅に歩み寄って」
「そう言いながら、あんたはいつも薬をくれるんだもんなぁ」
アマリリスは小さく笑って、自分の身体を見下ろした。
西の森でテンテンの片割れの手によってできた切り傷の多くは、すでに塞がっている。今はあちこちに切り傷の跡が残るのみで、それも時間が経てば消えてしまうだろう。内臓の傷も、まだ鈍い痛みは残っているが、それもすぐ消える。
それでも、身体は直前に受けた傷を忘れていない。全身に傷のあった感覚が、もう怪我は完治していてもそこに傷があるかのように、不自然な鈍痛を訴えてくるのだ。それに発熱と疲労感が重なり、アマリリスの身体は表面上綺麗に保っているだけで、たまったものではない。
アマリリスは限界の近い、自らの身体をきちんと把握していてなお、普段と同じように振る舞っていた。痛みも苦しみも、決してないかのように。
「なぁ、ヨーデルじいさん」
また長袖を着ながら、アマリリスは明日の天気でも聞くような態度で老人に尋ねた。
ぎしぎしと自らの身体から上がる軋みを耳に、幻聴して。
「あと、どれくらい保つ?」
老人の厳しい眼光が、まずアマリリスに鋭く突き刺さる。
それでもアマリリスは無言で老人の返答を待った。
「お前のぼろぼろ具合にはほとほと呆れ返る。どんなに保っても七、八年と言ったところか。そんなに酷使してたら、そのうち病にかかるか、倒れるぞ」
「うーん……、分かってはいるんだ」
老人の毒づく言葉を右から左に聞き流して、アマリリスは少しの諦念と意外感を抱いていた。
もし寿命の問題がなければ、アマリリスの身体は七、八年の間はまともに生活できるようだ。たったの七、八年とも思われるかもしれないが、アマリリスにしてみれば、それでも長い方である。自分の身体の酷使具合からして、妥当な短さだった。
祖国を飛び出してから、ずっとアマリリスは無理と無茶を重ねてきた。そのしわ寄せが数年先に訪れると言うだけの話だ。そしてその時は訪れないし、身体の不調うんぬんの以前に寿命で死ぬだろう。
サフィニアもアマリリスに寿命を分けなければ湧き出る魔力に蝕まれて八年後には死ぬ運命だったことを考えれば、双子は生まれつき短命の運を背負っているとしか思えない。
「つぎはぎ人形、どうして生き急ぐ?」
「ヨーデルじいさん?」
思いの外、真剣な響きを持った老人の問いかけに、アマリリスは軽く目を見張って驚いた。
裏通りの店で半ば隠遁生活を送るこの老人に出会ってからすでに五年近く経過しているが、老人はアマリリスがどんな怪我を負っても詮索してくることはなかった。ただ治療と罵倒を吐くだけで、怪我を負った経緯も、アマリリスの行為に忠告以上の言葉をくれることもなかったのだ。
アマリリスはしばらく目を瞬かせ、小さく笑った。
「最近、よくそう聞かれるよ」
ゲイルにも、似たようなことを言われた。それだけ今のアマリリスの姿は危うげに、他者からは捉えられるのだろう。アマリリス自身にもその自覚はあった。
老人の普段に増して鋭い視線を浴び、アマリリスはつぶやくように答えた。
「七、八年もいらないんだ。あと半月、保てばそれでいい」
「なんだと?」
アマリリスの身体が限界を迎える前に、運命という名の死が捕えにやってくる。自分の死期を知っていたからこそ、ここまで身体を痛めつける行為ができるのだ。
もはや身体の痛みか、心の痛みかも分からない痛苦を我慢して、アマリリスはにかっと軽快に笑って見せる。
「ほら、薬をくれって。俺も忙しいんだ」
「……ふん、飲む量を間違えるんじゃないぞ」
老人もそれ以上の追及は止め、また別の部屋の方へ歩いて行く。そこから戻ってきた時、老人の手には茶色の紙袋が握られていた。
アマリリスはそれを受け取り、中身を確認する。幾つもの紙に包まれた粉薬が、紙袋の中には納まっていた。
「これひとつで、どれぐらい抑えられる?」
「だいたい半日といったところか」
「そっか。ありがとよ」
老人から受け取った薬は、これまでも何度かお世話になっているものである。薬品名までは忘れてしまったが、一時的に感覚――主に苦痛を緩和させてくれる薬だ。ただの痛み止めより効果がきつく、常習性こそないものの、麻薬の一種に数えられることもある。適度な量なら薬となるが、一歩間違えれば身体には劇薬となるのだ。
あまりに酷い怪我を負った時や限界を無視して動きたい時に、何度かアマリリスは老人に処方してもらっていた。時たまにしか口にしないように心掛けていたが、いよいよ西の森の奥の異空間に居座る魔物や魔術師と相対しようという時には、万全を期しておきたい。
アマリリスは紙袋を抱えて丸椅子から立ち上がる。
「もう行くよ。いつも、世話になって悪かった」
「つぎはぎ人形」
ひらりと手を振って玄関入口まで向かっていたアマリリスは、呼び止められて振り返る。
老人は眉間のしわをぐっとより深くして、吐き捨てる。
「もう二度と来るな」
冷たい台詞に聞こえるが、それが老人なりの心配の仕方だとアマリリスは理解していた。二人が出会った時も、アマリリスは武術の訓練のしすぎでこの裏通りに座り込んでいたのだが、その時も睨みつけながら無料で手当てをしてくれた。この老人が法外な治療や医療費を取ることは、決してないのだ。
アマリリスはこれまでも幾度となく聞いた言葉にははっと笑って、入口近くの棚に懐から取り出したお金を置いておく。玄関扉に手を掛けて、去り際に返す。
「さよなら、ヨーデルじいさん。世話になったよ」
「おい、つぎはぎ人形……?」
いつもと違う切り返しに戸惑う老人の声が聞こえたが、アマリリスは足を止めない。ぱたん、と外に出てから閉じられた医療所の木扉を少しだけ振り返った。
あの老人も言ったように、アマリリスは二度とこの場所を訪れないだろう。
腕の中の紙袋の感触を意識しながら、アマリリスは大通りの方へ出て行く。
この後、本当にアマリリスと老人が生きて顔を合わせることは二度となかった。
*****
王城の足元に位置する工房は、カンカンと鉄を打つ甲高い音を周囲に響かせ、近づくほどにむわっとした暑さを年中発している。真冬であっても、工房内では汗を掻くほどで、そこに何十人もの屈強な男が寄せ集まっていれば、むさくるしいことこの上ない。
視覚的にも、体感的にも暑苦しい場所だが、アマリリスは数日ぶりに工房を訪れて、ほっとした安心感さえ抱いていた。この工房に弟子入りしてから、工房に出入りしない日の方が珍しい。自宅以上に過ごした時間の長い工房は、たとえ住みやすい環境ではなくても、心安まる場所だった。
つい昨日、強大な魔物と殺し合いを演じたことも遠い日のように感じられるほどだ。
あちこちに乱雑に置かれた資材や道具をひょいひょいと避けながら、アマリリスは自らに割り当てられた区画の方へ歩いて行く。
「お、アスじゃねえか。久しぶり」
「よぉ、一週間ぶりくらいか」
「そんなもんか? 日にち感覚が無くなっちまってるからなぁ」
「それ、今に始まったことじゃないだろ」
「違いない」
同僚と似たような会話を繰り返し、アマリリスは自分の持ち場に着く。肩に背負っていた荷袋と薬の入った紙袋を隅に置いて、ふっと息を吐いた。
その時、ぽんぽんと肩を背後から軽く叩かれて振り返る。
「お前、何やってんの」
「ロジャー?」
ぶすくれた表情で、ロジャスティンがアマリリスの肩を掴んだまま立っている。
何をそんなに不機嫌にしているのか、とアマリリスは小首を傾げて旧友を見つめ返した。
「ここ最近、どこ行ってたんだよ? 家に行ってもいないし、街に出てもいねぇ」
「あー……いろいろ、だよ」
アマリリスの脳裏に、他人に説明できないような場所ばかり浮かび、つい目を泳がせて誤魔化す。昨日は西の森で死にかけ、その前はずっと自宅の地下に籠っていた。外に出た時もゲイルやファランシスに会うために王城にいることが多く、街中にはあまり出ていない。
ロジャスティンにアマリリスを見つけられないのも、無理はないと言えた。
その態度が気に障ったのか、ロジャスティンは眉をひそめる。
「リック爺の課題の方はできてるんだろうな?」
「そりゃあ、鋭意製作中だ。そこは心配しなくていい」
アマリリスはするりとロジャスティンの手から身体を抜け出し、肩をすくめて懸念を一蹴する。
いろいろと問題が重なって製作が遅れているとは言え、リックに提出する武具の方に問題はない。ロジャスティンとアマリリスの作品の優劣で次期頭領を決める、というリックの考えの方が、頭の痛い問題である。このままでは、必然的にロジャスティンが頭領になるに決まっているのだ。
侯爵家の後胤という肩書をいまだ手放せないロジャスティンに工房の頭領の座まで押し付けるのは、はなはだ不本意だが、それはアマリリスの死後にどうにかしてもらうしかないだろう。
「つーか、アス、すげえ顔色悪ぃじゃん。何やってたんだ、本当に」
「……そんなに悪いか?」
アマリリスは自分の顔に触れ、少し顔を曇らせる。家を出てくる時に鏡を確認したが、パッと見には誤魔化せるくらいには顔色も回復していたはずだ。現にここまで、知人に何人か逢ったが、指摘はされなかった。
だがロジャスティンはいささか呆れた表情を作り、びしっとアマリリスを指差して言った。
「あのな、何年の付き合いだと思ってんだよ? 他の誰が気づかなくても、俺が気づかないはずないだろ。三日徹夜しても、今ほど体調悪そうには見えないのに、どれだけ無理をしたんだか」
「む……、ロジャーの見る目をみくびっていたか」
確かに、ロジャスティンとの付き合いはサフィニアの次に長い。アマリリスの友人の中でも最も気が合い、長い時間を共に切磋琢磨してきた親友である。下手をしたら、サフィニアと過ごした時間よりロジャスティンと過ごした時間の方が長いかもしれなかった。
それは見抜かれても仕方ないかもしれない、と思い直す。
くい、と突然アマリリスはロジャスティンに腕を引かれて顔を上げる。
「ロジャー?」
「お前、ちょっと仮眠室で休憩して来い。そんな顔でうろつかれちゃあ、こっちが落ち着かねえ」
「いやいや、俺は仕事しに来たんだって!」
「うるせえ」
アマリリスは初め渋っていたが、ロジャスティンに強引に工房の奥に連れて行かれ、抵抗を諦める。サフィニアの制止を振り切ってまで工房に出てきたのが無駄になる気がしたが、ロジャスティンの手を振り払えるだけの正当な説得方法もなかった。
工房の奥は職人たちの仮眠室や簡単な調理場、集会室などの生活に必要な部屋が並んでいる。さすがにその区画まで蒸し暑い熱気や甲高い音が届くことはなく、ある程度は住みやすい環境に整備されていた。それも何代か前の頭領が、大金を掛けて住居区画の整備を行ったおかげである。それまでは、騒音と熱気でまともに仮眠も取れない場所であったようだ。
ずんずんと仮眠室の方向へ向かって行く途中、アマリリスはふと思い出して口を開ける。
「ロジャー、リック爺は?」
「ああ、リック爺は今王城に上がってる。お前もちょうど良い時に来たよな、リック爺がいたら次期頭領の引き継ぎがどうのこうのって口うるさいんだぜ」
「まだ本決まりもしてないのに、気が早くねーか?」
「……ま、ある意味仕方ねえだろ。リック爺もいい加減歳だし、とっとと引き継ぎをして安心したいんだろうよ」
「今に至るまで次期頭領になる人材が見つからなかったってのも、嫌な話だ」
そもそも、この工房に集まってくる職人たちは腕は筋金入りでも、正確に一癖も二癖もある者ばかりでいけない。一人一人を見れば頭領になれる器の者はいるが、皆何かしら頭領にはなれない事情があり、今日この日まで次期頭領の選別は引き伸ばしにされてきたのである。
侯爵家の後胤や女の身で鍛冶師に師事できるこの場所は、明らかにどこかおかしい。その異例である二人が次期頭領候補というのだからなおさらだ。
アマリリスは同僚の面々を脳裏に思い浮かべ、そっと小さく嘆息を零す。
「お、ここ空いてるぞ」
「珍しい、誰もいない」
ロジャスティンの声に意識を浮上させ、アマリリスは誰もいない仮眠室の中を覗き込む。基本的に仮眠室は床に柔らかめの布を引いて、毛布と枕を用意しただけの場所だ。正式な寝具を用意しても同僚の多くはきちんとたたみ直せないため、それで充分なのである。
仮眠室には常時、一人は誰か使っているものだが、今は珍しく誰もいない。多い時は十人近い男たちがところ狭しとごろ寝する部屋は、あちこちに簡易毛布を散乱させているものの、閑散としていた。
二人は仮眠室の中に入るとまず、床に散らばった簡易毛布と枕を一か所に集めてたたみ直す。こういう雑用はたいてい、見習いの二人の仕事だった。二人が進んで行わなければ、虫が湧いても放置されるのである。
ついでにとアマリリスは仮眠室のカーテンを全開にし、窓を解放する。仮眠室の籠った匂いはそれだけでずいぶんと一掃されるのだ。
外の温かい陽光を浴びて、ひとまず片づけを終えた満足感に浸っていると、ロジャスティンが呆れた顔になってまたアマリリスの服の端を引っ張った。
「なに晴れ晴れとした顔をしてんだ、さっさと寝ろ」
「だから、仮眠なんて取らなくても……」
「うるせえ、とっとと寝やがれ! この馬鹿!」
「うわっ!?」
ぽんっと突然肩を強く押され、アマリリスは真後ろに倒れる。反射的に受け身を取ったおかげで衝撃は少なかったが、何より驚きで跳ねた心臓がドキドキと痛い。慌てて上半身を起こしたアマリリスは、むっとした顔でロジャスティンを見上げて睨み付けた。
ロジャスティンはにやにやとからかうような顔で、まったく反省の色は見られない。
「いきなり何しやがる。怪我するだろうが!」
「お前がそんなへまするかよ」
「疲れてんだから、へまの一つ、するかもしれないぞ」
「ほぅ、疲れてるって認めるんだな」
ぐっとアマリリスが失言に気付いて口を閉ざす。
その隙にロジャスティンは近くに畳んだ毛布を拾い上げて、ばさっとアマリリスの上に投げかけた。
それを受け取り、アマリリスはようやく諦めて床に全身を投げ出した。布を敷いただけの床の硬い感触は何年も慣れ親しんだもので、いまさら眠りに邪魔になることはない。
傍らに腰を下ろしたロジャスティンに、アマリリスは抗議の眼差しで文句をつける。
「今日は嫌に、世話を焼くな?」
「んー……。そこはほら、オスカーに注意されたからさぁ」
「は? オスカー?」
まったく予想外の返答に、アマリリスは目を丸くする。だがよくよく考えれば、そう意外なことでもない。オスカーは双子以外に事情を知る唯一の協力者で、心優しい彼が恋人のサフィニアだけでなく、アマリリスの身を心配することも充分に考えられた。
そしてオスカーの選らんだ人材はまさに適役である。サフィニアの制止を振り切ることは精神的に痛手になるが、ロジャスティンを振り切るのは骨が折れる。本当にその気になった時は、あの手この手でアマリリスを嵌めようとして来るのだ。最終的には実力行使で、殴り合いになることもある。
だから、アマリリスはたいていの場合は折れて付き合うことにしているのだ。
「……何て言われたんだ?」
「お前が無理してそうだからそれとなく見張ってろって」
「なるほど」
アマリリスは苦い表情で納得したが、ロジャスティンの方が逆にいぶかしげな顔をしている。
「つーか、何で俺よりあいつの方がお前の状態に詳しいんだ? 最近、オスカーに良く会ってたのか?」
「そうだな……あいつはずっとサフィーと一緒にいるから」
「ああ。あの二人、ようやくくっついたんだもんな。友人たちの間じゃあ、結構な噂だぜ? オスカーがさっぱり実家に帰っていないって」
「うっわ、根も葉もない噂じゃないってのが、救いようがない」
きっと、どこかで知人に出くわした日には根掘り葉掘り聞かれることだろう。それに赤面して狼狽えるサフィニアの姿が、容易に想像できた。
ふっとアマリリスが想像に笑みを零しているとロジャスティンがそう言えば、と思い出したように言った。
「あの二人、結婚するんだろう? 早すぎやしねえか? しかも、式場が第一神殿って……」
「おい、それどこで聞いた」
「え? ファランシス様から協力を頼まれたんだ」
「ああ、ならいい」
もしも二人の結婚の話が噂になっているなら問題だという懸念は、あっさりと消えた。ファランシスとロジャスティンは幼馴染であり、ファランシスがロジャスティンに協力を要請しても何もおかしくはない。ファランシスも事情はある程度、ロジャスティンに話してあるだろう。
それでも、とアマリリスは釘を刺すのを忘れない。
「サフィーには、絶対そのこと話すなよ」
「そう言えば、サフィーには秘密なんだって? 何でまた当人にそんなことするんだ。だいたいあの二人、付き合い始めてまだ半月程度だろう? 結婚なんて、他人がお膳立てすることじゃない気がするけど」
「まぁ、その言い分はよく分かる。でもサフィーの場合、そうでもしないと結婚に踏み切れないさ」
「オスカーが真正面からプロポーズしたら、一発了解されるんじゃ……?」
ロジャスティンの胡乱な眼差しをアマリリスは苦笑だけで流してしまう。
サフィニアがオスカーに子どもの頃から惚れ込んでいることは、近隣では有名な話である。二人を知る誰もが了承しているし、いつオスカーがサフィニアに落ちるか、なんて賭けが行われるくらいだ。ロジャスティンの言葉は最もで、もしも寿命という期限がなければ、サフィニアは大喜びでオスカーのプロポーズを受けたに違いないのだ。
そう、命の期限さえ知らなければ。
(サフィーはきっと、受け入れられないから)
オスカーの熱意に負けて恋人にはなった。だがその先は、アマリリスたちがお膳立てしなければ絶対にありえない。アマリリスとて、オスカーから申し入れがなければ絶対にお膳立てしようとは思わなかった。――遺される者の哀しみを想うがゆえに。
オスカーのために、サフィニアが結婚まで踏み切らないことを知っている。
それでもアマリリスは、サフィニアの平凡で、けれど絶対に叶えられない夢もまた知っている。
愛する人と結婚をして。
その人の子どもを産み。
ただ穏やかに、大切な人たちと暮らしたい。
自分の死期を悟ったから、呪われた双子の生まれを知ったからこそ、その平凡で切実な願いは強くサフィニアの中に根付いたのかもしれない。
とても簡単に思える夢なのに、双子はたったそれだけを手に入れられないのだ。
まるで、数百年に一度と言われる魔術の才能と引き換えにするかのように。
「まぁ、協力は惜しまないけど……。そういうお前はどうすんだ?」
「俺? どうするって、何が」
ロジャスティンの問いに、アマリリスはきょとんとした顔になる。
続いて、友人の口から想像もしなかった質問が飛び出した。
「何って、結婚だよ。お前が誰かと一緒になるって想像は付かないぞ」
「結婚? 俺が?」
アマリリスはさらに目を丸くし、突然くっと噴出した。そのまま腹を抱えて床の上で笑い転げる。
自分が夫を持ち、子どもを産む。そんな女性らしい未来を想像したことは、アマリリスにもまったくなかった。まず柄ではないし、それを考えられる余裕も与えられていなかった。
ロジャスティンは何だよ、と少しふてくされた顔でなお言う。
「別におかしいことじゃないだろ、一応アスだって女なんだし。だいたい、先日の夜会からお前を紹介してくれって上流階級の男たちから何度も催促されてんだぜ?」
「はっ、ははっ、マジかよ! そいつら見る目がねえな!」
確かに先日の王城で開かれた夜会では、アマリリスも盛大に猫を被った自覚があるので、それも当然のことかもしれない。心身を鍛えぬいた今のアマリリスでも、異性に魅力的に映ることがあるのかと、その点だけは少々意外ではある。
しばらく発作的な笑いに耐えた後、アマリリスは感慨深い想いでつぶやいた。
「俺が結婚、ねえ」
もしも、十年前に一度死んでいなければ、そんな未来もあったのかもしれない。今ほどアマリリスは女らしさを捨てきってはいなかったのだろうか。
仮定の自分を脳裏に夢想して、アマリリスは唐突に思い出した。工房に寄る前に会ってきた、老人の声を。
『つぎはぎ人形』
今も昔も、アマリリスをそんな風に称するのはあの老人だけだ。だがそれが案外、的を射ているように思うから、アマリリスは一度もその呼び方を否定したことがない。
サフィニアが魔術の才能と引き換えに、末永く家庭を築く幸せを失ったのだとしたら。
アマリリスもまた魔術の才能と引き換えに、普通の女としての幸せを得る機会を失った。
それを決して不幸だとは思わないけれど、代償として残ったものは、医者にあと七、八年の寿命を言い渡されるぼろぼろの身体である。
つぎはぎ人形。
まさに良い得て妙である。それほどアマリリスを的確に表す名称もなかろう。
アマリリスは無意識に自虐的な笑みを唇に刻み、目を閉じた。床の硬さなど関係なく――身体の節々が悲鳴を上げていた。
「アス?」
「……寝る」
何かを察したロジャスティンの呼びかけには応じず、アマリリスは浅い眠りに意識を集中させる。
疲れ切った身体が、一時の急速に浸りこむまでそれほど時間はかからなかった。