第二十八話:終わりの気配
サフィニア視点です。
ぱちん、と泡が弾けるように揺蕩う闇は晴れた。
サフィニアたちの五感を支配していた魔術の気配は去り、急速に視界は色褪せた過去の光景から見慣れた我が家の居間に変わる。その急激な変化に意識が付いていかず、サフィニアはしばしの間呆然と変哲のない居間を眺めた。
その硬直を解いたのは、傍から聞こえた辛そうな吐息の気配だった。はっとサフィニアは我に返り、ずっと両手で支えていたオスカーに意識を向ける。
オスカーは明らかに体調の悪そうな、真っ青な顔色で荒い息を零していた。きつく目は閉じられ、眉間に深いしわが刻まれている。わざわざ説明されなくても、今までサフィニアたちが身をゆだねていたテンテンの魔術の悪影響だと分かった。もともとテンテンの放つ純度の高い魔力に当てられ、酷い魔力酔いを起こしていた。そこに高度な魔術を身に受けて、さらに身体の負担になったのだろう。心なしか、サフィニアの手に触れる彼の肌は熱を帯びている気がした。
サフィニアは慌ててオスカーの顔を覗き込み、その額に手を当てた。
「やっぱり、熱が出てる……!」
「サ、フィー?」
「大丈夫だ、なんて戯言は聞かないからね!」
「……ごめん」
怠そうにまぶたを上げ、口を開きかけたオスカーをサフィニアは咄嗟に強い口調で叱った。
もう彼とも十年の付き合いである。ことさらサフィニアに優しい彼が心配を掛けまいとして、大丈夫と無理に微笑む様は簡単に予想が付いていた。どんな状況であっても、オスカーはサフィニアの心を優先するのだ。悲しませないように、幸せであるように、そう彼が願ってくれていることをサフィニアは百も承知している。だが、過剰な気遣いが逆にサフィニアの心を痛ませることをそろそろ理解して欲しかった。
どこまでもサフィニアを優先させる点において、オスカーとアマリリスは似ている。
眉を吊り上げたサフィニアを認め、オスカーは困ったような顔で謝罪を口にした。
サフィニアは無言でオスカーの肩に腕を回し、その身体を支えて立ち上がる。当たり前だが、非力な身では支えきらずにふらっとよろめいた。
「ったく、それはサフィーの仕事じゃないだろ」
「あ……。ありがとう、アマリー」
さっと横から力強い腕が伸びてきて、オスカーごとサフィニアの崩れかけた姿勢を支えた。
アマリリスは呆れの眼差しをサフィニアに向け、オスカーの身体を受け取り、さっさとソファの方へ連れて行く。この十年間、常に魔術で身体を強化し続けてきたアマリリスにとって、この程度の力仕事は朝飯前である。オスカーをソファに寝かせた後、別の場所で同じように顔色を悪くしていたゲイルの下に行き、同じようにソファの方へ連れて行く。
揃って体調を崩した男たちを介抱し、アマリリスはサフィニアを振り返って笑う。
「こういう力仕事は俺に任せろっていつも言ってるのにさ。サフィーはすぐ、忘れるんだよなぁ」
「つい……。ごめんね?」
「いや、謝られることじゃないけど。サフィーの場合、自分ごと倒れて本末転倒になるじゃん」
「うー……」
サフィニアは悄然と肩を落とし、唸りを上げる。予想外なことが起きた時、何でも自分で解決しようとして周囲が見えなくなることは多々あり、自分でもその欠点は自覚しているつもりだった。それでも改善しきれていなのだから、返す言葉もなかった。
アマリリスは苦笑を零し、さらに促した。
「ほら、何か身体に優しい飲み物でも持って来てくれ。この魔力酔いばっかしは、俺たちに解決できないからな」
「うん。少し待ってて、温かいものを持ってくる」
「俺は毛布でも取って来るよ」
サフィニアはちらりとソファにもたれている二人を一瞥し、台所へぱたぱたと小走りに向かう。
現状において魔力酔いに良好な対処方法は安静にしている以外はない。大陸になら専門の医師がいるかもしれないが、あいにくとサフィニアたちに医療に関する知識は欠片もない。しばらく時間はかかるだろうが、ソファに寝ていてもらうしかない。
サフィニアは温かい飲み物を四つ分用意し、お盆に乗せて居間に戻る。コトッと音を立てて湯気を立てるカップをソファの間に設置したテーブルに置く。その間に家の奥からアマリリスも数枚、毛布を持ってきて二人の身体にかける。
「おい、気分はどうだ? 男ども」
「……最悪だっての」
「情けないけど、ぼくもだよ」
ゲイルとオスカーはそれぞれ、気怠そうにアマリリスを見上げて答える。
それをアマリリスはおおいに笑って、ぽんぽんと近くにいたゲイルの肩を叩いて言う。
「ははっ、話せるなら大丈夫だろ。とにかく寝てろ、そう簡単に眠れねーだろうけど」
「軽度の魔力酔いって、眠れないから厄介なのよね」
「疲れてるはずなのに何でだろうな? 逆に意識が冴えて頭痛とか、強く感じるみたいだよな」
「……本当、厄介ね」
サフィニアとアマリリスは顔を見合わせ、辛そうな男たちを見つめる。
それからサフィニアはそっと視線を居間の端に寄せた。今までオスカーとゲイルに気を取られて無視した形になっていたが、そこにテンテンはずっと大人しく座り込んでいた。冷静に双子たちの様子を眺めている。ひとまず周囲が落ち着いたのを察したようで、双子たちに視線を向けてくる。
アマリリスはそれを鋭く睨み返していたが、サフィニアは小さく嘆息する。
「まぁ、頭の痛い問題はたくさんあるが……それはまた後にしようぜ」
「ええ。もう、疲れたもの」
双子はまた視線を交わし、互いに深いため息を落とした。
サフィニアは足元をふらつかせて、ソファに身を横たえているオスカーの傍まで行く。ソファのすぐ横に崩れるように座り込んだ。
「……この臭い」
そこでサフィニアは目を瞬かせ、辺りに充満した臭いに気づいた。つん、と鼻の奥を刺激するそれは鉄を強く含んだ血液の香りである。つい数時間前まで血だらけのアマリリスが利用していたせいで、ソファは元の色が分からないほどドス黒く変色してしまっている。サフィニアはずっと血の匂いを嗅いでいたから気付くのが遅くなったが、ソファに寄ってやっと分かったのだ。
これでは余計にオスカーたちの気分が悪くなるとサフィニアはうんざりとした顔になる。
「ごめんなさい、オスカー。すぐに換気するわ」
「……気を遣わせちゃって、ごめん」
サフィニアはのろのろと立ち上がり、近くの窓を開けに行く。さぁっと涼風が外から入ってきたが、家の中の淀み切った空気を一掃するには至らない。外の綺麗な空気を胸一杯に吸い込むと家の中の空気の悪さが意識され、顔をしかめて中を振り返った。その拍子にアマリリスと目が合い、頷き合う。
アマリリスはぐるっと居間を見回して、魔術詞を唱える。
「《吹け》」
微弱な魔力が流れ、直後に不自然な風が家の中を駆け抜けた。家中を走った風は威力の強さに反して、カーテンの裾すら波立たせず、空気の淀みをすべて連れて窓から外へ追い出される。すぐに家の中の空気はとても澄んだものへ様変わりした。
それを確認して、サフィニアはほっと息を吐く。
「ありがとう、アマリー」
「いや、元は俺のせいだからな」
アマリリスは疲労の強い顔で頭を横に振り、ずるずるとその場に座り込んだ。それを見ていたサフィニアも、急に疲労を意識して同じようにそこに崩れ落ちた。
先ほどテンテンの魔術によって情報を一気に頭に詰め込みすぎた。魔力酔いこそ起こしていないが、連日の思いがけない体験の数々ですでに心身ともに疲弊しきっている。これ以上の負担は避けるべきだと判断して、まぶたを閉じる。眠れる気はまったくしなかったが、ぐってりと壁に背を押し付けて、休息を取ることにした。
五つの吐息が、静まり返った空間にひそやかに在った。
(ああ、でも)
まぶたの裏の暗闇に意識を向けながら、サフィニアは安堵と共に思った。
(これできっと、終わるんだわ)
ただでさえ残り少ない時間。その半月を魔物騒動に割いてきたが、ここに至ってようやく解決の兆しが見えていた。
もしかしたら、双子では魔物騒動を完全な終結へ導けないかもしれない。明らかになった全貌は、双子が相対するには時間も実力も不足している。それでも、もうすぐ双子を悩ませる魔物騒動に何らかの決着が訪れる予感があった。
それが幸福な結末であれ、最悪な結末であれ、ひとまずの終結を迎えるのだ。
もちろん、サフィニアも最良の結果を追い求めてはいるが、自分自身の人生を含めてすべてが終わりへと続く気配に強い安堵を感じていた。
サフィニアは憎むべき自身の死に言葉にできない何かを見出し、取り敢えずの休息に身を浸した。
*****
そっと停滞した空気が動く気配がして、サフィニアは閉じていたまぶたを上げた。背中にごつごつとした壁の感触を意識しながら、目を瞬かせる。その視線の先で、アマリリスが鈍い動作で立ち上がっていた。
アマリリスも妹の眼差しに気付き、少し困ったような顔をする。
それにサフィニアは嫌な予感を抱いて尋ねた。
「どこか、行くつもり?」
「……ちょっと、工房にな」
サフィニアは視線を鋭くして姉を睨み、固く強張っていた身体を起こす。
どれだけアマリリスが身体強化の魔術に長け、回復力を高めていると言っても、充分な休養なくして完全な回復は見込めない。まして、もう魔術で傷跡はほぼ消えていても、あれほど傷を負い、多量の出血をした後である。本当であれば、一日はベッドで安静にしているべきだ。
それでなくてもアマリリスはずっと身体に無茶を重ねている。これ以上の消耗は避けるべきだった。
「駄目だよ。……まだ、身体だって辛いでしょう」
「いや、これくらいなら問題ない。すぐ帰ってくるから」
「嘘。どうせ、また工房で徹夜するんだわ」
「……」
アマリリスは気まずげに視線を横に逸らす。
それを見て、サフィニアはあながち推測が間違っていないことを確信した。さらに強く姉を睨み付ける。
「アマリー」
「……分かってるよ」
はぁ、とアマリリスのため息が家の中に大きく響く。
二人は視線を交差させ、互いに見つめ合う。どちらにも譲る気配は見受けられないが、結局先に折れたのはサフィニアの方だった。サフィニアとて、この程度で片割れを止められるとは元より考えていなかったのだ。
「……馬鹿」
「……ごめん」
二人の間に気まずげな雰囲気が漂った。
それを払拭するように、アマリリスは話を改めた。
「――これからあの森に入る方法を考えなきゃいけねーな」
「あ、うん。わたしとアマリーはともかく、ゲイルはね」
「魔導具のひとつでも、作るか? 即興になるから大した効果のものはできないけど」
「使えればいいと思うけど」
「そうだなぁ、……無駄に凝る必要もないか。だいたい二日、かな」
アマリリスは魔導具を製作する算段を付け始める。
それを傍目に、サフィニアはかすかな頭痛と共にテンテンの魔術で見たものを思い出していた。――すべての魔物が生まれた地、ロドラルゴの没した地の記憶だ。千年以上もの間、秘匿され続けた地はあっさりと低級の魔術師に発見され、良いように扱われている。その地から逃げ出した魔物たちが、王都に迫ってきたのが今回の魔物騒動の原因だった。異空間にできた彼の地とそこを荒らす魔術師をどうにかしなければ、魔物騒動の解決は見込めない。
だが彼の地にたどり着くことが、まず問題である。何せ異空間の入口は西区の森、“魔力の歪”にあるのだ。双子だけなら何とか辿り付けるかもしれないが、何が起こるか分からない地に双子だけで挑む勇気はない。双子にはない武力、ゲイルの協力は必須だった。
その他にも、対処すべきことは山ほどあるが、おそらく万全の準備をするには至らないだろう。それだけの時間が双子にはない。
(最悪、敵の魔術師を消せれば……それでいいわ)
異空間そのものをどうにかしなければ、魔物は溢れてくるだろう。けれど大半の魔物は異空間の中で永久に近い眠りに就いている。彼の魔術師に目覚めさせられた魔物さえ退治してしまえば、ひとまずの解決にはなるはずだ。それ以上の解決を求められても、双子には荷が重い。
テンテンの協力で確かに解決の方針くらいは見えていた。
(あとは実行、よね)
「じゃあ、わたしは結界の準備を先に済ませておくね。アマリーは魔導具の方に集中して」
忘れてはならないのは、魔物騒動が終結してもまだ解決すべき案件が残っていることだ。先日ようやく魔方陣の構成図を作った大結界の準備も終わっていないのである。もうすぐ魔方陣の構成図は完成し、あとは必要な下準備のためにこの国の各地域を飛び回らなければならなかった。転移の魔術があれば、普通に国中を巡るよりよほど早く準備は終わるだろう。本来ならアマリリスが行くことになっていたが、今は魔物騒動の方に全力を傾けて欲しかった。サフィニアにはアマリリスほどこなすべき仕事は溜まっていない。敢えて言うなら、本職の小説を書くことと魔物騒動に向けて魔術の策を練ることぐらいだ。
合理的な発案であったが、アマリリスは意外そうな顔をする。
「サフィーが? 結構、大掛かりな作業だから体力使わないか?」
「そこまでひ弱じゃないよ。身体を使った直接作業をするわけでもないし、全部魔術で済ませられるでしょ? どっちかと言えば、魔術はわたしの分野だわ」
「そりゃそうだが……って、ああ。まぁ、それもいいか」
「アマリー?」
初めは渋っていた姉がぽんっと片手を突いて、何やら思いついた様子を見せる。
サフィニアはそれを不思議そうに眺め、アマリリスはにやりと笑った。
「ついでにオスカーも連れて行って、旅行して来いよ」
「え? 旅行?」
「そうそう。散歩気分で言って来いよ。景色鑑賞だけでも楽しいもんだぞ? 特に王都は生の自然……海とか山とか遠くてちょっと新鮮な気分になるだろ」
「いや、でも。こんな時期に」
サフィニアはずいぶんと乗り気なアマリリスに困惑の視線を向ける。
大結界を張るにあたって赴く場所は、確かに人目の付かない自然溢れるような場所である。観光に適しているかどうかは定かではないが、行くだけでも気分転換にはなりそうだ。だが魔物騒動で一部に気も抜けず、また大結界の準備という大切な役割を持っていながら、オスカーとの思い出作りにしゃれ込むのは気が咎めた。
しかし、アマリリスは真剣な面差しになってそれを否定する。
「こんな時期だからこそ、だ。俺たちにまた今度、はないんだからな。魔物だ結界だ、ってそんなのに振り回されるのはうんざりだろう? それはそれ、これはこれ。王都には俺がいるし、何か起こったとしても事前対策何てできない。いざとなりゃ、転移ですぐお前も戻って来れるし。――ほら、何も問題ない」
「そ、そういうものかな……?」
サフィニアはしきりに首を傾げたが、アマリリスは勢いで押し切った。最終的にはそれに流される形で、サフィニアも提案に乗ることになった。あとはオスカーに確認を取るだけだが、否が返ってくることはほぼないはずである。
サフィニアが頭の中に大結界の構成図と国の地図を思い浮かべながら唸っていると、アマリリスはぐんっと背伸びをして骨をぽきぽき鳴らし、本格的に家を出る準備を始めた。取り敢えずは自分の血や汗で汚れて使い物にならない衣服を着替えるようだ。
「あ、お湯沸かすわ。身体を綺麗にして行きたいでしょ?」
「おっ、ありがと。さすがに血の匂い纏って工房に行くのはやめときたい」
あの連中、妙にそういうところ鋭いんだよなぁとアマリリスは苦笑いを零す。
それが鍛冶工房の同僚たちのことだとすぐに分かった。アマリリスの働く鍛冶工房の職人たちは、どこかしら感性がおかしい。その腕は確かなのに、人格に問題ありとして王都では有名である。寄るな、見るな、関わるな、そんな三原則を適用したい人物ばかりである。
サフィニアは脳裏に彼らの顔を思い浮かべ、同じように苦笑した。
確かに彼らなら、ほとんど魔術で癒えた傷の存在さえ感知してしまいそうだった。まだ骨の罅は治りきっていないはずだから、それを気づかれるかもしれない。
「……っそうだ、アマリー、工房による前に医院で診てもらって。魔術で全部、傷をなかったことにはできないんだから。微熱もあるんじゃない?」
「あー、分かった。鎮痛剤は欲しいな、鈍く響いて痛いから」
「苦しいなら相応の態度をしてよね」
サフィニアは眉を寄せて、不満を訴えるように頬を膨らませた。
まったくもって平静と変わらない態度を見せているが、その実癒えていない傷はきちんと痛覚を刺激しているのだ。それに耐え、何ら問題のないかのように動く様子は、まるで痛みがないかのようである。
魔術でも傷の痛みは軽減できない。禁術に手を出せば話も違うが、痛覚を失わせれば得より酷い損失になる。痛みなくして、人は生を実感できないし、怪我の具合も分からない。
辛いなら、安静にしていればいい。誰も咎めない。
しかしアマリリスは一秒もじっとしていられない様子だ。サフィニアの苦情にも苦い顔をするだけで、改める気配もない。
(まったく……、少しは痛がったりすればいいのに)
自分の弱った姿を見せたくないのだろう、とサフィニアは思う。いつの頃からか、アマリリスは他者の手を借りることをしなくなった。妹の前でさえ、弱音を吐くことはあまりしたくないらしい。
それが、少しだけサフィニアには寂しかった。例えその姿勢が、サフィニアと自分の身を守ろうとして自然に身に付いたものでも。
「傷の方はどう?」
サフィニアが悶々と考えながら居間の横にある浴室に湯を用意して戻ると、アマリリスが着替えを自分の部屋から持ってきたところだった。
べったりと張り付いた衣服の下の傷は、もう消えているはずだ。そうと分かっていても、心配なものは心配でつい尋ねる。
アマリリスはずたずたの衣服の腹の部分をぺらりとめくり、鍛えて割れた素肌を見せた。そこに大量の赤い血を流した傷跡は欠片もうかがえない。
「良かった。でもこれ以上、無理に動いちゃだめだからね」
「配慮はするよ」
「……嘘くさいなぁ」
「うーん、そんなこと言われてもな」
サフィニアは曖昧に笑う姉を睨み付け、次には諦めの表情で小さく嘆息した。はい、と用意したタオルを渡して早く身を清めるように促す。
双子の家の浴室は魔術によってずいぶんと多機能になっている。普通の家では井戸から引いた水で身体を洗う程度だが、双子の家は浴室に水を引いてさらに魔術で温めて湯にし、浴びれるようになっている。すべては家をほぼひとつの魔導具化した、アマリリスの刻印式魔術のおかげである。
本来なら専門の風呂屋にでも行かなければならないところを、簡易とは言え自宅で使えるのだから、ありがたいことだった。
アマリリスが浴室に籠るのを確認し、サフィニアはふっと肩から力を抜いた。何とはなしに周囲へ視線を巡らし、ソファで意識を落としているオスカーに目が行く。
どれだけ時間が経過したのか分からないが、ゲイルもオスカーも寝苦しそうな顔で眠っている。それは眠りより気絶に近い状態なのかもしれない。
「ほんと、いろいろ予想外すぎるわ」
ふらふらとオスカーの傍に座り込み、ぽつりと零す。
残り一ヶ月という時期に、何と頭の痛い問題が溢れ返っていることか。本来なら徐々に周囲と距離を置いて、死に向かう準備をして、最期の時間をゆったりと過ごすはずだった。それが魔物騒動と大結界の案件のせいで予定は大狂いしている。――予定外と言えば、オスカーと恋人関係になることもそうだった。
魔物騒動にしても、双子の予測は半分くらい間違いであったことが、先ほどテンテンの記憶から明らかになった。敵方の魔術師は王都に明確な害意を持っているわけでもないらしい。ただ将来的にどうなるか不明であり、西の森にある異空間の入口もどうにかしなければ、今後も魔物は王都に現れるだろう。
何より、ロドラルゴの遺産が厄介だ。それを持つのが低級魔術師とは言え、それ自体厄災級の代物である。そんなものに立ち向かい、たった三人で解決しようなど、無茶を通り越して馬鹿らしい無謀さだった。
「どうして、こうなるのかなぁ」
サフィニアは目を閉じ、ソファの端に頭をもたせ掛けて途方に暮れたように言う。
この十年の間に双子は充分なほど苦労してきたはずだ。最後の瞬間まで生き抜いて、自分がこの世に生きたことを実感できる人生を必死に追及してきた。
あとはもう、定められた死を受け入れるだけのはずだったのに。
運命はかくも面倒な事態を引き起こし、最期まで双子を休める気はないらしい。この半月で双子はとても消耗していた。特にアマリリスの身体的消耗は激しい。
まるで呪われているかのようだ、と思う。
サフィニアは目だけを動かして、ソファに横たわる恋人を見つめた。
(でも、一番の被害者はオスカーね)
「ごめんなさい」
本来なら関わるべきはない危険なことに、巻き込んでしまっている。これから双子の死という重荷を背負わせようとしている。
それらすべてを含めて、サフィニアは謝罪の言葉を口にする。オスカーが決して謝罪を受け取ろうとはしないと知っているからこそ、贖罪のように、彼の意識がない時に囁くのだ。
隣の浴室から水の流れる音が聞こえてくる。ぼんやりとその音を聞き流していると浴室に続く扉が開いた。アマリリスが入浴を終えて、出てきたようだった。
「あー、さっぱりした。やっぱり、血のべたべた感は気持ち悪い」
「それはそうでしょ」
湯上りの姉の言葉を聞いて、サフィニアは白い目を向ける。
身体にこびりついた血を洗い流したアマリリスからは、普段とまったく変わった様子は見受けられない。まだ骨や内臓の損害は感知していないはずだが、まるで怪我を負った事実がなくなったかのような錯覚を持つ。
サフィニアは片手で手招きをして、不思議そうに小首を傾げたアマリリスを近くまで招きよせ、目の前に座らせた。その手からタオルを奪い取り、ため息交じりに言う。
「どうせ、髪もろくに乾かす気がないんでしょう」
「う……、だって面倒じゃねーか」
「湯冷めして風邪ひくよ? ただでさえ、体力が落ちてるのに」
「悪ぃ」
「いいから。ほら、じっとしてて」
サフィニアはタオルでしっとりと濡れた片割れの緑色の髪を丁寧に拭き始める。相変わらず、アマリリスは男装姿だが、普段頭頂でまとめた長い髪を下ろすとやはり女らしく見える。特に傍にサフィニアがいるから、傍目からは余計にそう見えるだろう。
アマリリスは大人しく、されるがままに髪を拭かれている。
自分のそれより逞しい姉の背を見つめて、サフィニアは少しだけどきっとした。
ずっと、その背を頼もしく思ってきたけれど。アマリリスが殊更男のように振る舞うから見落としがちだが、やはりその肩や首筋は年相応に細く見えた。
その細い肩に、どれだけの重荷を抱えていることか。
自分も似たようなものとは言え、運命が憎らしく思えた。
「ねえ、アマリー」
「うん?」
肩越しに振り返ったアマリリスと目を合わせ、サフィニアはくしゃっと顔を歪めて言った。
「最後まで、一緒にいようね」
「当たり前だろ」
アマリリスの迷いのない返答に、強い安堵が込み上げてくる。
何度も何度も二人の間で交わされた唯一無二の約束。
しかし、時と共にその先に続く言葉が変わってきていた。
『一緒に生きて』
かつて、そう幼き頃のサフィニアは願い。禁術に手を出した。
だが今は――
『一緒に死のう』
そう、願うのだ。
その些細だが大きな変化の、何と哀しきことか。
サフィニアはここ最近、双子に迫ってくる死の気配を濃厚に感じていた。
――すべての終わりは、近い。