第二十七話:イル
完全に魔物視点です。
その時が訪れたのは、灰銀色の世界に侵入者が現れて数年が経った頃だった。
度重なる魔物たちの反抗によって、灰銀色の世界はゆっくりと崩壊を刻み始めている。それでも数百年は持つだろうが、千年と持たないだろう。世界の誕生した当初に比べると大幅に魔力濃度が薄くなった空気を吸い、ソレは歓喜に身をぶるりと震わせた。赤銅色の毛が逆立つ。
ソレを今まで拘束していた魔方陣の効力は、すでにほとんど機能を果たしていない。――もう、充分にソレが魔方陣を破り、この世界を脱出できるまでになっていた。
少し前から無理をすれば破れるほどに魔方陣は効力を落としていた。それでもソレが実行に移さなかったのは、慎重を期したという理由もあったが、やはり灰銀色の世界を後にすることに躊躇いがあったからだ。自らが生まれ、千年以上の年月を過ごした土地。一生涯を過ごすと信じていた土地である。あっさりとは別れを踏み出せなかった。
だが、灰銀色の世界に留まるという選択肢はもはや存在しない。
ソレはこの日、この時、灰銀色の世界から――『親』の下から、離れることにする。
(このような感傷を、お前は嘲笑うのだろう)
ソレは時の彼方に消え去った男の姿を想像する。
男にはおよそ情というものが、人間として欠陥を感じさせるほどに欠落していた。あの男は自ら生み出した魔物たちが、同胞である人間を数千単位で食い散らかしても薄ら笑いを浮かべて傍観していた。あるいは、男にとっては赤の他人の人間よりも魔物の方がよほど身近な存在だったのかもしれない。理性を持たず、衝動のまま欲望のままに生きる魔物の姿はある意味であの男の生き様とも重なる。
人間らしい哀しみや幸せを全否定するようだった男は、生誕の地を後にすることを躊躇うソレの姿を見れば、鼻で笑ったかもしれない。
『何をしている。お前は決めたのだろう。――ならば、行け。この地を振り返らず、心に残すこともなく、切り捨ててしまえ。お前にはもう、必要なかろう』
不必要なものは持つだけ無駄だ、とあの男ならそんな風に言うはずだ。
脳裏にありありと男の様を想像して、ソレはにぃと口角を上げる。そして自分の記憶が作り出した仮初の男の命令に従った。
刹那。
バチッ、バチバチバチィッ
盛大な静電気でも発生したかのような音が、辺りに響いた。
ソレは爆発的に身体から湧いてくる魔力で魔方陣を壊す魔術を練り上げる。魔物は魔術を本能で意図も簡単に扱うから、魔物と呼ばれる。そしてソレは魔物の中でも高度な知性と知識を兼ね備えていた。並の魔術師が見れば目を剥くような複雑な魔術も一瞬で組み上げることが可能だった。
数秒の間、ソレの体表で魔術同士の反発が起きる。摩擦する魔力が熱を帯びてちりちりとわずかに赤銅色の毛を焦がす。
グルルルアァッ!!
忌々しいとばかりにソレが咆哮を上げると、バチィッと最後に大きく音を弾いて魔方陣は完全に破られた。
今まで絶えずソレの全身に掛かっていた負荷が消え去る。長い間拘束されていた身体は異様に軽く感じられ、ソレの気分も高揚させた。
ぎらりと光る金色の目で辺りを睥睨する。
灰銀色の世界を借り物の力で支配する侵入者は、すぐにソレの前に現れるだろう。またロドラルゴの遺産を用いられて拘束されれば、次の脱出の機会は遠のいてしまう。すぐにでも、この灰銀色の世界を後にしなければならなかった。
ダッとソレは四肢を奮って走り出す。みるみると周囲の景色は変わり、ソレにとっては懐かしい森の中を駆け抜ける。
どこに、この世界の綻びができているのか。
ソレは感覚として、知っていた。
創造者によって完璧に保たれた世界を知っているだけに、世界の綻びは際立って分かるのだ。
ソレに限らず、この地に生まれたどの魔物でも感じ取っているはずだ。――この地を蝕む歪みを。
少し見ぬ間にさらに荒れて複雑な地形になった森を抜け、大きな岩が積み重なる岩山の前まで来るとソレは足を止める。金色の鋭い眼差しを向けた先には、不自然に景色が歪んでいる場所があった。左に渦を巻くようにして、景色が曲がっている。その中心にはぽっかりと小さな穴が開き、そこから濃厚な魔力の気配が漂ってきている。
ソレは世界の綻びを見咎めると一度だけ背後を振り返った。
『我は行くぞ』
別れの言葉として、ソレはぽつりとつぶやく。
次の瞬間には完全に目を世界の綻びの方へ向け、トンッと大地を蹴っていた。敏速に宙を飛んだソレは、世界の綻びの中心、小さく空いた穴に吸い込まれていく。子どもの頭程度の大きさの穴は、一瞬だけ巨大に変化してソレの身体をあっさりと飲み込む。
そうして、ソレは灰銀色の世界から完全に去った。
ぐるり、と眩暈のように視界が回る気持ちの悪い感覚に陥る。それを我慢して待つこと数秒、真っ黒に閉ざされた視界にぱっと薄暗い光が飛び込んできた。直後にとん、と四肢は柔らかな大地を踏む。
ソレはすっと大きく息を吸って、目を見張った。そこは灰銀色の世界とよく似ていた。人の手の入らない荒れた木々、そして人間では生息できなほど高密度の魔力を含む空気。まるでかつての灰銀色の世界に舞い戻ったかのような錯覚を覚えるが、そんなはずはない。暗く陰った木々の配置に覚えはないし、何より灰銀色の世界とは肌に感じる雰囲気が異なった。灰銀色の世界はまさに自然の生きる場所だった。自生する植物も、住まう魔物たちも弱肉強食の理に沿い、思うがままに全てのものが在る場所だった。しかし、この地から感じられるのはただ鬱蒼として暗く重苦しい、荒廃したものだけだった。ここではすべてのものが終わりへ導かれるような雰囲気がある。
ソレは背後を振り返り、先ほど潜り抜けてきた世界の綻びを見る。そこから追手が来る気配はないが、早々にこの場を離れた方がいいだろう。
だがソレはこの地について何も知らない。灰銀色の世界はソレの庭だったが、ここは何もかも未知の場所である。警戒するに越したことはないし、ともすれば命の危機にも陥りかねない。
ソレは五感を鋭敏に尖らさせて、のっそりと動き出す。そのまま、木々の間に足を踏み入れ、目的もなく散策し始めた。
森は意外に深いらしく、木々は延々と立ち並んで似たような景色ばかりが目に付く。
気の長いソレであっても、神経を尖らせた何が起きるか分からない状態では嫌気が差してくる。だんだんと苛々してきた頃、遠くにたくさんの生き物の気配を感じた。ソレの位置からまだまだ遠く、また小さな生き物の気配だった。ソレを害することができるとは思えないが、やけに気配の量が多い。
ソレは少しの間迷ったが、そちらに向かうことにした。何にしても、状況に変化があることは歓迎すべきだった。ソレはこのまま、やけに張りつめて暗い森に定住する気はない。あの男が最期に言ったように、世界を見てみなくては気が済まないのだ。
そうと決めれば、ソレは地を蹴って駈け出した。規則性なく現れる樹木や茂みを器用にかわして、多数の小さな生物の気配がする方向へひた走る。
やがて、だんだんと木々の隙間が大きくなり、辺りの魔力濃度が薄くなり始める。そして遠くにあった明かりが近くなり、とうとうソレは森を抜けた。ばさばさっと茂みを突破して、唐突に開けた土地に出て足を止める。
『人の地、か』
ソレの目の前には丘が広がっていた。その向こうに小さな建物がいくつも立ち並び、何やら喧噪が聞こえてくる。
そこが初めて目の当たりにする人間の住まう土地なのだと自然と理解できた。あの小さな無数の生物の気配こそ、人間の気配だったのだ。『親』であった男のそれとはずいぶんと異なったから、気づくことができなかったようだ。
ソレはしばらく人の住まう土地を眺めて立ち尽くす。
森の中にいる時はまったく気づかなかったが、時刻は昼過ぎ頃のようだった。少し曇っているが、午後の日差しが雲の合間から街へ降り注いでいる。灰銀色の世界では滅多に浴びない燦々とした太陽の輝きは、ソレにとって新鮮だった。目を細めて、一変して青々と茂る丘の様子と空模様を見つめる。
ここまで来てようやく、ソレは灰銀色の世界を抜け出たことを実感していた。森の中はずいぶんと灰銀色の世界に似た様相を呈していたから、それほど実感が湧かなかったが、開拓された人の街の光景を見ると灰銀色の世界との差が激しく認識されて、自分が灰銀色の世界にはいないことをしみじみと納得させられる。
ソレはぐるると喉を鳴らして、人の街の方へ赴こうとする。
『む……』
一歩、足を踏み出してソレは思いとどまった。
このままの姿で人の街へ出て行けば、どうなるのか思い描いたのだ。人がどんな反応をするのか、この時点ではソレにまったく想像はできなかったが、人と魔物が敵対していることは知っている。ソレは人と無暗に争う気はない。このままの巨体で街に現れて混乱を巻き起こし、人に害意を向けられるのは本意ではないのだ。
ソレは少しの間考えた後、魔術を組み立てて身体を変化させた。
しゅるしゅると人の建物を簡単に踏みつぶせる巨体を小さくさせる。それに伴って体内の魔力も抑え込んで、本当に無害な動物を装った外見に変貌した。さながら、子犬のような姿である。
(……仕方あるまい)
ソレは自分の頼りない体躯を見下ろして、零れそうになる嘆息を飲み込んだ。
まるで今にも衰弱して死に絶えそうに貧相な身体である。長いこと弱肉強食の世界で生き抜いてきた魔物としての誇りがいたく刺激される容姿であるが、これも人の街に紛れ込むためである。多少のことは我慢しなければならない。
そんな苦悩を振り切るようにして、ソレは丘を走り出す。
しかし。
『ぬぅ……!』
距離がなかなか縮まらない。
少し考えてみれば当然である。身体が小さくなったと言うことは、歩幅も身体能力も大幅に落ちていることを意味する。そこらの子犬よりは俊敏に動けるが、元の体躯の時とは比べるべくもない。かつては一瞬で駆け抜けた距離も、今の状態では長々と走り続けなければならない。
物慣れない感覚にソレはとても戸惑っていた。
だが、これは未知への困惑の始まりに過ぎなかった。
ソレは丘を抜けた先にある住宅街に慎重に紛れ込んだ。小さな体躯では普段なら見下ろせる建物も巨大で、ともすれば人にさえ蹴られてしまいそうだった。新たな視点から周囲を観察しながら、建物の影を移動し、そこに住まう人々の様子を窺う。
まず初めに感じたのは、人々の予想外な弱さだった。
ソレにとって人間の基準は『親』たる男である。絶対服従を定められた神のように強い男。彼の男と比べて街に生きる者たちはあまりにも弱すぎた。ソレが前足で一払いするだけで何十人も簡単に壊れてしまうだろう。しかも街には魔術の気配が欠片もなかった。生まれて以来魔術の気配に取り囲まれてきたソレにとっては、不自然で不可解なことだった。
とてもではないが、ソレの脅威になりそうにない弱い生き物たち。
初めて見る普通の人々の営みをソレは困惑したまま眺めていた。
「……あ、犬がいるよ!」
ふと、近くを通りかかった人の子がソレを指差して叫んだ。それから目を輝かせてソレに近づいてくる。
この時ソレは『犬』が何かさえ知らなかったが、人の子が自分に用があることだけは分かった。
だから普通に尋ねた。
『我に何用だ、人の子よ』
次の瞬間、人の子は目を丸くして呆けた顔をする。
しばしの沈黙。
まじまじとソレを見つめた人の子は、大きな口を開けて叫んだ。
「犬! 犬が今、喋ったよ! すごぉいっ、ねえ、皆、この犬が喋ったんだ!」
その言葉に触発されて、周囲の人の視線がソレに集まるのを感じた。
ソレはしまった、と自分が失態を犯したことを悟った。犬、という生き物は言葉を発してはいけないらしかった。そしてこの状態で注目されるのは、不利益にこそなれ、良いことは欠片もないように思われた。
咄嗟にソレは走り出し、ひとまずその場から逃げることにした。
「あ! 待って!」
人の子の呼びとめる声を無視し、建物の間を駆け抜けていく。
そのまま、ソレは人の視線を気にしつつやけに賑やかな通りに出てきた。能力的に圧倒的に劣るものたちをびくびくと気にしなければならない事実に少なからず憤りを覚えたが、ぐっと我慢して様変わりした周囲の様子を観察する。
大きな石畳の通りの両脇に布製の脆そうな屋根を持つぼろ小屋のようなものが立ち並んでいる。中には屋根すらなく、布だけ地面に敷いてその上に物をたくさん並べているところもある。そこにいる人々は大きな声を張り上げて、置かれた物を紹介しているようだった。大通りを行く人々は時折、それらを覗き込んでいる。
俗に市、と呼ばれる場所であるが、ソレには買い物や物々交換といった概念がなく、ただただ不思議な営みにしか見えなかった。
だがソレも馬鹿ではない。高度な知能を駆使して、耳を澄ませば飛び込んでくる内容からさまざまな推測を立て、時間が過ぎるごとに周囲の営みを理解していった。
やがて、空の色が茜色に変わりだし、辺りに伸びる影の濃さが増しだした頃。
ソレの目の前まで人の子が歩いてきた。くりっとした子どもらしい丸い目が印象的な男の子だった。ソレの前で足を止め、目を瞬かせて凝視してくる。
こちらを見下ろす人の子を無言で見上げ、ソレはじっとその場に座っていた。相手に害意があればすぐさま逃げただろうが、先ほどと違ってじっとしていれば人は何も手出ししてこないことを学んでいた。喋るなんて犬として非常識な真似さえしなければ、問題はないはずだった。
声に出して尋ねることはできないが、ソレは不審げに子どもを見上げる。
じっと一人と一匹は、互いを静かに見つめ合う。
「おまえもさびしいの?」
その沈黙を破ったのは、子どもの方だった。その場にしゃがみこんで、ソレの金色の目を覗き込んで子どもはぽつりと尋ねてきた。
ソレは無言のうちに不可解そうな眼差しを子どもに向ける。
(それは、お前の感情であろう)
寂しい、と感じたことは一度もない。だからソレは寂しいとはどんな感情かも、理解できない。
何を思って子どもが接触してきたか分からないまま、ソレは子どもの独白を聞いた。
「ぼくはさみしい。お母さんに、会いたいよぉ」
子どもは今にも泣きそうに顔を歪めていた。
それからぽつりぽつりと子どもは自分のことを話し出した。
ずっと、母親の調子が悪かったこと。
生まれた時から父親はいないこと。
少し前に母親が隣町の医院に入院したこと。
母親の容体はずいぶんと悪いらしく、もうずっと会えていないこと。
一人で会いに行こうと預けられている孤児院を脱走していること。
でも、すぐに捕まって孤児院に連れ戻されること。
最後まで話切った時には、子どもはうーっと唸りながらぽろぽろ涙をこぼし始めていた。
ソレは不思議な想いで子どもを眺めていた。
まず何故その話をソレに聞かせるのか。この子どもの周囲には、話ひとつ聞いてくれない者ばかりなのか。
だいたいにして、その話を聞かされるソレに子どもは何を求めているというのか。
何百年、下手をしたら千年を生きる魔物は子どもを前に困り果てていた。
「ごめんね、こんな話聞かせて」
ぐずぐずしていた子どもは一人で泣き止み、眉を下げて謝る。
その間もずっとソレは黙って座っていた。
「ぼく、もう帰らなきゃ。お前ももう帰りなよ。暗くなっちゃうよ」
ごしごしと赤くなった目元を手でこすり、子どもは無理矢理作ったように笑う。
それから子どもは立ち上がって、踵を返す前に一言。
「話、聞いてくれてありがとう」
ばいばい、と子どもは手を振って暗く影を落とし始めた大通りを去って行った。
その姿をソレはじっと見送る。
あの子どもが恋しい母の下に帰れないように。
ソレもまた、帰るべき場所がすでにないことに、気づいていた。
――これがイルと後にテンテンと呼ばれるソレの出会いであった。
これ以降、ソレは人の街の観察にしばらく時間を割くことになる。
幸いにして頑丈な魔物であるソレには定期的な食事行為や休眠はあまり必要ではなかった。当初の灰銀色の世界ほどではないにしろ、人の地の空気に含まれる魔力は多く、それらを体内に常時吸収していればわざわざ寝床や餌の確保に躍起になる必要もない。
だからソレは人の街のあちこちを小さな四駆で歩き回った。
しかし、初日から一貫してソレは昼過ぎ頃になると初めて行った市の片隅に行って、ちょこんと建物の影に座った。しばらく待てば、毎日のように例の子どもが現れて初日のように他愛無い話をしてくるのだ。
ソレは自分でも何故そうしているのか判然としないが、毎日子どもを待ってその話を聞いていた。
子どもは初日以降、母親を恋しがる言葉を吐くことはなかった。それでも寂しそうな表情をすることは多々あり、その顔はソレの心に小さな波を立てた。
ソレは子どもを通して、人間という生き物の内面を知っていった。
あるいは、ソレ自身気づいていないだけで、独りっきりの子どもと自分を重ね合わせていたのかもしれなかった。
灰銀色の世界から脱出して数週間が過ぎた頃。
いつも通り、子どもの話に耳を傾けていたソレはぴくりと何かに反応し、石畳に下ろしていた腰を上げて西の方角を見やった。
「あれ、どうしたの?」
今までにないソレの反応に、子どもは目を丸くする。
だがソレは金色の目を細めて西の方角を睨み続ける。そちらにはソレが後にしてきた例の森が存在している。その奥にはいまだ、世界の綻びができているはずだ。――そこに、他の魔物の気配が現れていた。
(我の後に続くか、同胞たちよ)
ソレが無理矢理魔方陣を破って外の世界に脱出したように、他の魔物たちも灰銀色の世界を脱出してきたようだった。それほどには、侵入者の支配力も衰えてきているらしかった。
肌に感じる気配からして、灰銀色の世界から脱出したのは下級の魔物のようだった。何やら本能の赴くまま、森の中を放浪しているようである。
ソレは同胞たちがこの人の街にまで辿りつくことを考えた。きっと、たどり着くまでそれほど時間はかからない。
(あれらが人を食らおうが、街を壊そうが、構わぬが)
不必要に同胞たちに干渉する気はなかった。
しかし、とソレは視線を驚いた顔をしている子どもに向ける。
(これが害されるのは、気に食わん)
その感情が何なのか、親しみか、獲物に対する独占欲か、ソレにはさっぱり分からなかったが、それだけは明確に分かった。
人の中でも弱く脆い子どもだ。低級の魔物にさえ、一口で飲み込まれ咀嚼されるのが落ちである。
この子どもがそんな風に破壊されることは、ソレは望まない。
(仕方あるまい)
守ってやろう、とソレはこの時初めて思った。
人の命などどうなろうと構わない、街が壊れても、辺りに戦場さながらの血と絶叫の嵐が舞い降りようとソレの知ったことではない。
だがソレは目の前の子どもに興味があった。無知で無邪気で弱い、子ども。
この子どものどこに自分が惹かれているのか分かるまでは……その命、守っても損はないだろう。
「ねえ、君、どうしたの? お腹すいた?」
心配そうな顔で、子どもは見当違いのことを言っている。
ソレはひとまず腰を下ろして、違うと首を横に振って答えた。その動作は犬にしては知性溢れる不自然なものだったが、出会った当初から幼い子どもは気にした様子はない。子どもは黙って話を聞き、時折首を縦にふって相槌を打ったり首を横に振って否定するソレを、ごく自然に受け止めているようだった。
それでも心配そうな子どもはポケットから麩菓子を取り出してソレに差し出す。
別に必要なかったが、嗜好品として食べられないこともないので、ありがたくソレは口にしていた。
この日から時折、灰銀色の世界から魔物が脱出してくるようになった。
ソレは王都と呼ばれる街全体に自分の気配を薄く浸透させ、他の魔物を威嚇した。幸いにして、ソレより高位の魔物はおらず、ソレの気配を感じ取った低級の魔物はだいたい西区の丘の辺りまでしか出てこない。それ以上に、どこかに腕の立つ人間がいるらしく、丘まで出てきた魔物を順次退治しているようだった。
かくして、王都と言う街は目の前に魔物の脅威を晒されながら、仮初の平穏を維持していた。
ある時、子どもは小首を傾げて困った顔で提案した。
「ねえ、君に名前をつけていい? じゃないと、呼ぶ時に困るよ」
それまで子どもはソレを君、と呼んでいた。
子ども以外に呼ばれる宛のないソレは別に名前がなくても困りはしないが、あっても害にはならない。
適当な気持ちでソレは首を縦に振った。
「良いの!? うーん、どうしよう、名前……名前……」
うんうんと唸り始めた子どもを、ソレは大人しく待つ。
ずいぶんと悩んだ後に子どもはソレを指差し、大きな声で言った。
「決めた! 君の名前はテンテン! テンテンにしようっ」
輝くばかりの笑顔で宣言された名前に、ソレはしばし硬直した。それからぎょっと目を剥き、慌てていやがる素振りを見せる。
人間事情に疎いソレでも、テンテンという名前は間抜けに聞こえた。少なくとも千年近く生きる魔物に名づけるものではないだろう。
必死にソレは首を横に振って訴え、子どもに鳴きついたが、子どもは意見を変えることはなかった。
かくしてソレの名前はテンテンとなったのである。
その日、はしゃぐ子どもの姿とその傍で意気消沈する子犬の姿が市の片隅で見られたと言う。
ソレが名前を得てから、子どもとソレの関係は急速に親しくなっていった。
当初から餌代わりにお菓子を持参していたりとソレの面倒を見ていた子どもは、自分の世話になる孤児院にソレを連れて行き、飼いたいと言い出した。ソレも大して子どもの言動に抵抗せず、大人しく子どもの傍にいた。森の奥にいる魔物から護衛する意味もあったが、何より子どもの傍にいることをソレは悪くないと思っていた。
自分の『親』に向けた畏敬とは別に、子どもに対して強い親愛を抱くようにはなっていた。
つまりはほだされた、ということだろう。
あいにくと経営事情で孤児院の世話になることはなかったが、ソレと子どもは寝る時を除いてほぼずっと一緒にいるようになった。
無視できない変化が現れたのは、その矢先だった。
その時、ぞわりとソレは全身の毛を逆立てて西の方角を睨んだ。
(来たか)
とうとう、生まれた時から争い合ってきた片割れ――ヤツが灰銀色の世界から解き放たれたのだ。びりびりと遠くの森から無言の威嚇がソレの下にまで届いていた。長いこと引き離されていたソレとヤツは、互いに闘争本能を刺激され、漲る欲望のままに互いを食い散らかすことを望んでいた。
ヤツが一直線にソレの下まで走り抜けてきている。
(ついに、ついに、ついに!)
ぎらぎらと金の双眸を光らせて、ソレは抑えられない歓喜に子どもの傍を離れた。
徐々に近づくヤツの気配は今までになく弱い。おそらくまだ、完全には侵入者の拘束から逃れられていないのだ。ソレとは違い、目を付けられていたヤツへの拘束は一等強く施されていたことだろう。その弱った状態でソレに挑もうなどと無謀を通り越して愚かである。
この時、初めてソレはヤツを確実に仕留められると確信した。
しかし。
ソレとヤツが再び、闘争本能の赴くままに衝突することはなかった。
迎え撃とうと王都に待機したソレの下まで、ヤツはたどり着くことができなかったのだ。
ヤツが王都に足を踏み入れ、ソレの近くまで来た時。
魔術が発動した。
灰銀色の世界を仮初の支配下に置いた侵入者のお粗末な魔術だった。それがかつてなく弱ったヤツの足止めをしていた。さらに、威力は弱くとも『親』の遺した遺産の匂いがした。帰還を促す、微かな命令。
だが、繰り返す抵抗で力をそがれたヤツは抗うことができなかったらしい。まるで逃げるように、ヤツは森の方へ戻って行った。
これを目にしたソレは激しい憤怒を露わにした。衝動のまま、咆哮することだけは我慢したが、それだけだった。
ソレとヤツの殺し合い。
幾度となく繰り返された本能的な行為を、あの程度の魔術師に邪魔されたことがわずらわしくてたまらなかった。煮えたぎった血はヤツの心の臓の赤黒い血を求めている。そこに牙を刺し、片割れの生命を完膚なきまでに吸い尽くすことを望んでいる。――それなのに、ヤツは目の前にいないのだ。
ぶつける先のない衝動をもてあまし、ソレは憎き矮小なる侵入者への憎悪を強くした。
一度は見逃そうとした。このまま、子どもの傍の平穏に浸るのもいいかもしれないと思っていた。
だが、決着は付けなくてはならないようだった。
あの男の聖域を土足で踏みにじり、ソレとヤツの死闘を邪魔した愚かなる人間を。
罰しなくては気が済まない。
ソレは怒りの咆哮を飲み込み、胸の奥で報復をさらに強く誓った。
一度は王都から逃げ帰ったヤツも言いなりになる気はないらしく、西の森の奥深くに気配は留まっている。侵入者も、これ以上はヤツに強い命令を聞かせられないようだ。
じりじりとソレは機会を窺った。決着を付けるべき、その時を。
それまでは、子どもの傍に付いていることにした。
若い人の魔術師と市で出会ったのは、その直後のことだった。